136 流れる水のように
イルシアが帝都に出立した日。
その日の昼には戻る。そういったイルシアだが、彼女が昼前に戻る事は無く、じき夕方になりそうな頃――。
「先生、遅いねー」
ニグレドが足をプラプラさせながら、不満げに呟いた。彼女が座っているのは食卓の椅子――組となるテーブルには、手の付けられていない食事が並べられている。
「だな、おせぇなアイツ」
昼前には帰る、そういったから食事も用意した。
全員で喰おうと待機していたが、既に飯が冷めそうになるくらいは、時が経ち過ぎていたのだ。
苛立ちも露わに腕を組む俺だが、胸中には妙な焦りがあった。
胸騒ぎ……虫の知らせ、とでも言おうか。
ここの所のイルシアは様子が変だった。
最初は――迷っているのだと思った。
殺せと命じられた俺達を匿い続ける事に。
故にこそ、俺は覚悟していた。
やっぱり死んでほしいと言われても、決して彼女に失望や怒りを見せることなく、笑顔で十三段目を昇る事を。
あの腐った世界より救われて、二度目と家族を与えた造物主に出来る唯一の恩返しだと、俺は信じ切っていた。
二人は――どうだろう。その話をするのは情けない事に怖かった。
けれど処分を決めたイルシアから逃げるのは、彼女の都合も悪くなる事は俺にも分かる。
二人には生きて欲しいし、イルシアにも未来があってほしい。
そんなアンビバレンツを成す為、例え死ねと言われても俺一人が妥協案的に軍部に身を差し出せば、他二人が逃げてもイルシアが受ける処分は、少なくとも命数に関わる事は無いんじゃないか……。
益体も無い、希望的観測もいい所な、愚かな思考。
けれど俺の迷いは、奇しくもイルシアの表情が優れ出した昨日から消えてくれた。
あの――良く晴れた日の花畑。記憶に新しい、四人での散歩。
或いはその日の陽光より尚暖かな思い出は、イルシアの抱いていた想いに、何らかの解を出したらしい。
いつもより晴れた横顔。いつになく快活な食事。
食事の折、口から漏れる笑みと言の葉の節々に、俺たちを慮る感情が乗っていた。
嬉しかった。
イルシアは、俺たちを選んでくれたのだと。
だからこその、焦燥。
イルシアが、小さな約束を破る事は多々あった。
けれどそれは、児戯や冗談で済む程度。
何故か今回だけは、「そうではない」ような気がしてならない。
「二人共落ち着いてください。きっとすぐに戻ってきますよ」
俺たちを窘めるアルベドの声が、いつになく虚ろな食卓に木霊した。
その時――邸宅の扉が開き、リビングへと何者かが入ってくる物音がした。
獣人種を素体とする魔人兵、その身体能力からすれば聞き分けの利く僅かな差異。
――イルシアの、あの女錬金術師の足音ではない。
「――やあ、皆さん。お久しぶりですね」
入ってきたのは、陰険そうな錬金術師の男。
俺は知っている、その男の名を。
「ホーエンハイム――さん。お久しぶりですね」
思わぬ客人の登場に目を丸くしていたアルベドが、俺の思考を続けるように名を口にした。
ノストラム・ホーエンハイム、イルシアの同僚にして天才とされる彼女に、或いは並べる程やもしれぬと、当の才媛に言わしめる程の錬金術師。
ホーエンハイムは俺たちを見回すと、その暗い顔に不吉を予感させる笑みを浮かべた。
「いやなに、今日は――」
――ホーエンハイムがその笑みより何事かを続けるよりも速く、俺は席を蹴立てていた。
「……ルベド?」
成り行きを見守っていたニグレドが、当惑も露わに俺の名を呼ぶ。
それに頓着せず俺はホーエンハイムを鋭く睨みつけていた。
「何でここにいる」
「……」
俺の声は震えていた。何故震えていたのか、自分でも分からない。
イルシアは言っていた。
魔人兵たる俺たちを匿う事は、ホーエンハイムにしか告げていないと。俺たちを匿う為には、彼女一人では成せない事もあり、その協力を仰ぐためには説明が必要であったと。
……俺の問いかけに黙りこくるホーエンハイムへ、続ける。
「イルシアはアンタに会いに、帝都へ出立した。当のアンタが何でここにいる? いや、そもそもここに何をしに来た」
ホーエンハイムの言の葉、その表情――或いは香るハズのない予感さえ、ルベドは感じ取っていた。
それは、魔人兵として血風を駆けて来た故に得た本能か、それとも第三次世界大戦で荒廃した世界、薄汚く生きる内に得た、悪意を嗅ぎ分ける能力か。
ともかくとして俺の中にあった騒めきは、ホーエンハイムを前にしていよいよ抑えが効かなくなるほどに高鳴っていた。鼓動を刻むのとは似ても似つかない、サイレンのように。
俺の問いかけを聞いてアルベドははっと目を見開き、ニグレドは表情を怪訝なモノに変えてホーエンハイムを見つめる。
「……」
問われて尚、ホーエンハイムは沈黙していた。よりにもよって、その不気味な微笑みだけは崩さずに。
それはもう、答えも同義である。
「……ちっ」
続くのは俺の舌打ち。脳裏が負の感情で動かなくなるより先に、その小さな所作を引き金にしたかの如く精緻に術式を演算する。
掌の中で煌めく魔力が、ホーエンハイムの身を戒める術を解き放つよりも前に――
「――動くな」
――当のホーエンハイムの言葉が、まるで鎖のように絡みついた。
「……っ、っ?!」
動、かない。
腕が、足が、指先が、口と舌さえも。
脳の思考が肉体に起こった異常にのみ終止し、そのような混乱の極致にあっては当然のように、紡ぎあげた術式さえ瓦解する。
パリンと、展開した術式陣がガラスのように砕ける光景の奥、ホーエンハイムはただ不気味な笑みを湛えたまま、俺たちを見据えていた。
――その手に、黒く小さな水晶を握って。
「まさか首輪をつけていないと、思っていたワケではないでしょう?」
唯一動く視線だけで周囲を見れば、アルベドもニグレドも驚愕の表情を張り付けたまま、彫像のように硬直している。
俺たち三人にだけ、この現象は発動している。だが魔力の発露も術式の気配も無かった。
得意そうな顔をしたホーエンハイムが、集る羽虫を想起させる胡乱な声音で続ける。
「何せ、魔人兵は“兵器”なんですから。暴れられたら一溜りもない。こうして一語で服従させ、時には死さえ与えるよう、安全装置を搭載する――」
得意げなホーエンハイムの言葉で、全て理解する。
言われた通り、考えても見れば当たり前の話だ。
何処の世界に、安全を担保する機能の無い兵器を信頼する者がいるだろうか。
俺たちが兵器として造られた以上、使い手を守るための機能の一つや二つ、あって然るべきだった。
「うっ……っ」
裏切者。
そう罵ってやりたかった。
だが口を衝くのは無意味な呻きだけで、きっと血走った目だけがせめてもの抵抗にと、ホーエンハイムを見据えている。
イルシアは、ホーエンハイムを信じた。
友であるというホーエンハイムを。
それを全て意味のないモノにした事が、許せなかった。
何より――イルシアの心を傷つけた事が、折角晴れたあの横顔がまた曇るのが、嫌だった。
「裏切り者、とでも言いたいのですか?」
俺の言葉を拾ってつなぐように、ホーエンハイムは口を開く。
「見当違いも甚だしい。先に裏切ったのは、パラケルスス女史でしょうに」
芝居がかった大袈裟な手振りで首を振る陰険な錬金術師。ムカつく所作だが、今の俺たちにはただそれを眺めている事しか出来ない。
「軍部の命令への叛逆。現大帝国では、手の込んだ自殺です。私は付き合えないし、付き合わない。ともすれば己の身を危険に晒す行為に、首を頷くハズも在りません」
正論だ。もっとしおらしくしていれば、或いは納得もしよう。
だが目の前の男には確かに滲んでいた。下位者を甚振る上位者の、正視に堪えぬ悦が。
「聞くに堪えぬ愚行を、滔々と垂れ流されたのです。報奨の一つは無いと話になりません。だから――」
ホーエンハイムはうっそりと顔を上げ、ギラギラと輝く狂気的な目を俺たちへ向けた。
「――話を持ち掛けられた時に、すぐ軍部へ報告しました。これを手土産に、私が局長の後釜に座る。そうすればもう、彼女の後塵を拝す事も無い」
僅かに滲んだ劣等感を掻き消すように、ホーエンハイムは両の手をバサリと広げた。
「貴方達を確保するのに、これほどの時間をかけた理由を教えましょう。――見えますか、皆さん」
言って、ホーエンハイムは手に携えた黒い水晶を、少女が人形に喋られる児戯の如く揺らして見せた。
「これは、貴方達を従える制御装置です。魔人兵を監視する役目の者に元々配っていたのですがね、念には念をと、この数週間で複製し、帝都を守る大抵の兵士は装備しております」
――すべては、愚かなしくじりを遠ざけるために。
爛々と輝く錬金術師の眼光は、石化したように動かない俺たちを違わずに貫いた。
「……では、往きましょう。愛しのパラケルススが、待っていますよ?」
怒りと絶望に悶える俺に、俺たちを何ら斟酌することなくホーエンハイムが一歩的に告げる。
向かう先は帝都ロイヴァ。この運命が、終着する場所である。




