115 月と星と
その日の夜、俺は眠る前にニグレドとアルベドに連れ出された。
「何だよ……すっげぇ眠いんだけど」
だいぶ眠かった俺は、目を擦りながらニグレドに手を引かれ廊下を歩く。夕飯を済ませ、シャワーを浴びて、いざ就寝って時に、俺はニグレドとアルベドに起こされた。
「今日の授業中に言ったじゃん。……覚えて無いの?」
俺の手を引くニグレドが、ウキウキとした声音で、しかし夜だからか静かにそう言った。
……今日の授業か。昼飯の後で、滅茶苦茶眠かった。授業そのものも殆ど聞いてなかったし、多分ニグレドが言った事も覚えてない。きっと、眠気を抑えるのに精一杯だったんだろう。
だが、んな事恥ずかしくて言えるワケもない。
「……知らない」
「もう、ルベドってば」
「仕方ないじゃないですかニグレド。……今日は満月の日なんですよ、ルベド」
知らんと答えた俺に呆れるニグレドを窘めたアルベドが、優しく教えてくれた。
満月……満月って、満月?
「つまり……月が綺麗な日って事か?」
「ふふ、随分ロマンチックな言い方ですね。まあそうですよ、そういう認識でオッケーです」
何故かロマンチック等と言われ、釈然としない気持ちになりながらも、一先ず認識が間違っていない事を確認した。
「月見に行くのかよ。俺、寝たいんだけど」
「まあそう言わずに、少し外に出るだけです。……それに、きっと見たらびっくりしますよ、この世界の月は」
別に月なんぞに興味はないのだが、アルベドはまあまあと窘めてくる。……そこまで言うなら、まあ見て見るか。数分外に出るくらいなら、多分我慢できる。
「分かったよ……そこまで言うなら、付き合ってやる」
「そう来なくっちゃ! きっとすっごいから、期待していいよ!」
俺が仕方なく是と頷けば、ニグレドはニッコリと笑った。そうして彼女に暫く手を引かれていると、庭への扉に辿り着く。
「じゃあ、開けるよ」
「楽しみですね」
「……どうせ大したことない」
三者三様の反応の後、ニグレドが扉を開いた。
――扉が開いた瞬間、一陣の風が吹いた。
「わぁ……」
その光景を見て、一番先頭にいたニグレドは目を輝かせた。
……確かに、これは凄い。
庭に植えられている花が、風によって花弁を僅かに散らし、カラフルな吹雪となって夜空に舞い上がる。
それにつられて天を仰ぎ見れば、全天に広がっている黒く輝く海。星々が煌びやかに輝き、宝石を大量に撒いたかのように煌々と主張する。
「これは凄い! やっぱり来てよかったですよ!」
俺の隣で、アルベドが嬉しそうに叫ぶ。いつも冷静なアルベドらしくない姿だが、無理もない。
「……あんなに、デカいのか。月って」
――天上の星すら隠すほど、大きく輝く月。蒼く輝く銀の円は、元の世界にあったそれよりずっと巨大で近くて、手を伸ばせば掴めそうほどだった。蒼褪めた光が地上の全てを照らす光景は、成程「幻想」と呼称するのが相応しい。
「きれーい……」
うっとりと呟いたニグレドは、駆け足で庭の花畑に入り、外と区切る小さな石垣に座り込んだ。
「……綺麗だな」
空の輝きはあまりにも眩しくて、だからこそ自然にその言葉が漏れた。
元の世界じゃ、どんなに空を見上げても、帰ってくる光景はどんよりとした灰色。排気ガスと核の灰で分厚く覆われた、死の棺だった。
何かから逃れるように天を仰いでも、現実を質量を込めて押し付けてくるような空に辟易としていた。
何度仰いでも、そんな空ばかりが見えていたから、俺は天を仰ぐのが嫌いだった。
でも……ここは……。
「ルベドも、こっちに来たらどうです?」
――物思いに耽っていると、いつの間にかアルベドもニグレドが座っている石垣に移動して、一緒に座っていた。
ニグレドとアルベドはこっちを向き、優しく微笑んで手招きしてくる。その姿を見て、俺は一瞬迷った後、おずおずと向かった。
「ほらおいで、ここが一番よく見えるよ」
ニグレドはそういうと、座っている場所をずらして俺に空けてくれる。俺はその場所――ニグレドとアルベドの間に座り、そして再び天を仰いだ。
「ね、綺麗でしょ?」
「………まあ、な」
ニグレドの言葉に、俺は躊躇いがちに頷いた。
「こんなに空って綺麗なんですね。……この世界には排気ガスもないから、星さえ良く見えます」
「それに月! 月、あんなに大きいんだもん!」
「ええ、元居た世界よりも、数段と大きいですね……」
やはり地球から来た影響か、空の星や月にニグレドとアルベドもインパクトを感じていた。
田舎に行けば、空が良く見えるなんて、元の世界でも言われていたっけ。多分この光景は、その比じゃないだろう。
こうして眺めるだけでも――宝物になる。
「そういえば、僕達はおんなじ世界から来たんでしたね」
「うん、ゼンセってやつ?」
「そうそう。ルベドも、そうですか?」
「……ああ」
あまり愉快な話題ではないからか、自然と声が低まってしまう。
それをどう解釈したのか、アルベドは「不躾でしたね」と謝ってから、再び天を見つめた。
「……僕は、昔――あの世界で生きていた頃、ずっと重苦しい気分でした」
……アルベドは、空を眺めたままポツリと語り出した。
「僕の家は、凄く、何というか、プレッシャーが強くて。父が政治家で……僕はその後を追える様にと、厳しく躾けられてきました」
……政治家なんて、縁遠い存在だ。世界があんな事になってからは、特に。
「何か、知らない事を学ぶのは好きでした。でも、好きなだけじゃ足りなくて……勉強勉強勉強……それに、何かが上手く出来ても、父の子供として当然の結果だと、褒められさえしませんでした」
……それはきっとキツい。アルベドの話を聞いて、俺は静かに感じた。
上手く行ったことを褒められると嬉しい、やる気が出る。
そんな当然の原理を知ったのは、この世界に来てからだった。
それが無いのは……やっぱり、あんまりよくないのだろう。
「アルベドはこんなに頭いいのに、褒めてくれないなんて酷いね!」
「アハハ……。でも、当時の僕は重苦しく感じながらも、当然と受け入れていました。そんな時、学校のバスが事故に遭って――多分その時に」
そういうと、アルベドは目を伏せて俯いた。……そうか、そうしてコイツは。
暫く沈黙だけが俺達三人の間に流れ、やがてアルベドは再び口を開く。
「……父さんと母さんは、僕がいなくなって悲しんでいるでしょうか」
「……」
俺はその独り言のような問いに、答えられなかった。答えるとすれば「絶対に否」なのだろうが、それはきっと俺の父と母で……アルベドの家族は多分、きっと、或いは――
「うん……分かんないけど、悲しんでるよ」
「そう、ですかね?」
「うん、きっとそう!」
アルベドの小さな問いに、ニグレドは儚い微笑みを浮かべて答えた。それを聞いて、アルベドは泣きそうな顔で笑った。
「……父さんと母さんの事は分かりませんが、僕はこの世界にもう一度生まれて、良かったと思います。ご飯は美味しいですし、勉強したらちゃんと褒められる。こうして……綺麗なモノも見れて、二人とも出会えた。少なくとも、後悔はしていません」
後悔はない。そう言い切ったアルベドは、俺とニグレドを見て笑った。
「ワタシもコーカイなし! ……この世界に来てから、前はできなかった事もできて、うれしい」
快活に言ったニグレドだが、一転して憂いを帯びた表情に変わる。
「……ワタシ、あの世界だと、重い病気だったみたいで。生まれてからずっと病室。走ったり遊んだりも出来なくて、学校もいけなかったし、友達もいない」
……病気か。生まれてからずっと病院暮らしは、きっと窮屈なモノがあるだろう。
「治らない病気みたいで、だからかシンセキやカゾクはみんな、ワタシを厄介者あつかい。『~が受け持ちなさいよ』とか『そちらがセキニンを持つべき』とか、いっつもそんな話ばかりしてた」
ニグレドは下手な声真似で、恐らく親や親戚連中の会話を再現して見せた。……そんな会話が聞こえるのは、かなり来るものがあるだろうな。
「……せめて聞こえないようにしてほしいですね」
「まったくだよ! ……結局ワタシは、病気で死んじゃった」
そういったニグレドは、何もかもを放り投げるように笑った。……その後、ニグレドは天を仰いでまた微笑む。
「ここならワタシは走れるしジャンプも出来る。ごはんも思い切り食べられる。外の空気だって、思う存分、好きな時に吸える。すっごく、幸せだよ」
うんうんと腕を組み、一人で頷くニグレド。
自由な身体があるという恩恵……普段は意識もしないことだが、ニグレドからすればやはり特別な事だったのだろう。
「俺は……」
何となく俺の番になったと思った俺は、僅かに震える声を出すが……続きが出てこない。
それをどう思ったのか、アルベドが俺の手を優しく握った。
「無理、しなくてもいいですよ」
「っ……別に、無理なんて」
「してる、と思いますけどね。元の世界の話題が出ると、ルベドは決まって暗い顔しますから」
そう言われた俺は、驚愕して目を見開いた。……バレてたのか。
「ああ……だからルベドは、いっつも」
アルベドの言葉を聞いたニグレドも、そう独り言のように呟く。
いつもバカにしているニグレドにも、バレてたのか……俺って、分かりやすいのかな。
「……俺、は」
何かを紡ごうとしても、続きの言葉はつっかえてしまう。自分でも纏まってない考えで、言語化も出来ない。
「これだけ話していうのもアレだけど、昔がどうとか関係ないかも」
「そうですね。僕らは結局今に生きているし、我々にとっての過去は、別の世界での出来事。思い起こす事はあっても、歴史を学んで現在に生かすように、生産性のある行為には成り得ない……」
「アルベドの言う事難しくてわかんない」
「ハハ……兎に角、僕らは今を楽しめばいいんですよ。明くる未来も、過ぎ去った過去も、僕達が憂うには、遠すぎる」
「……今、か」
俺は自分の掌を見つめ、「今」という言の葉を胸中で繰り返した。
そう、俺は現在に生きている。あの世界での過去は、もうきっと、別人のモノと言ってすら良い、遠い存在。
なら、俺は――
「何にせよ、家族が出来たのは嬉しいです。一人なら、この世界でも不安でしたでしょうし」
「うん! 三人で良かった!」
――家族。その単語が唐突に俺の脳裏を叩いた。
家族、その単語から想起するのは肉親。俺を捨てた母と、殺そうとしてきた父。そして……その父を殺した、俺。
先ほどから見つめていた掌が、唐突に血塗れに見えた気がした。……いいや、この毛並みは赤だし、瞳は血よりも深く輝いている。
俺は……他の二人とは違う。穢れているんだ。
だから俺は……俺には、二人と……一緒の……。
「……」
再び天を仰ぐと、変わらず星と月が黒い帳を背にして輝いていた。いっそ無慈悲なほど、煌々とした光を以って俺の問いを跳ね返し続けていた。




