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8.今宵の月は(洋平)

会社の本決算を揺るがす営業部の取引先が終えたのは、もう12月に入ってしまったころだった。

俺は、涼香さんより早く家を出て、涼香さんより遅く帰ってくる生活をしていた。

彼女を見かけるのは、会社の経理部の様子を遠巻きに見ることしかできなかった。

この会社に入社してから、たぶん一番忙殺されていた年だったので、

俺はすっかり、楠本先生の元へ通うこともままならなかった。

世の中の動きは全く入ってこなかったので、世間がクリスマスに向けて浮かれていることも、この時ばかりは忘れることができていた。

ようやく楠本先生の元へ行けたのは、12月23日だった。

最後に訪れたのは、多分10月頃だから2か月経過していた。

何度か、少しでもいいから来てくださいと言われていたが、仕事が忙しすぎて断っていたので

なんとなくクリニックの前まで来ると足がすくんでしまっていた。

5分くらいうろうろしていると、さすがに道行く人に変な目で見られるので俺は意を決して足を踏み入れた。

植物は冬支度をしていて、秋まで綺麗だった庭は殺風景であった。

でもクリニックの中は、相変わらず穏やかな空気感を纏っていた。

「あら、四宮君。ようやく来てくれた」

受付で手続きをしていると、偶然診察室から出てきた楠本先生が顔を出した。

俺は頭を下げて、挨拶をすると、楠本先生は満足そうに笑ってすぐに部屋に引っ込んでっしまった。

ほどなくして、名前が呼ばれ診察室に足を踏み入れた。

楠本先生は、回転式の白い椅子に座ってこちらを見た。

「最近忙しかった?顔がやつれてるみたいね」

楠本先生は、目の前にある白い椅子を俺に勧めた。

「営業部の案件が佳境でして、あまり寝てなくて」

「そう、でもこうやって今日来れたってことは、一回落ち着いたのかしら」

「ええ、まあそうですね」

楠本先生のデスクには、折り紙であったサンタクロースが置いてあった。

デスクの上のカレンダーは12/23だった。

「まだ、クリスマスは怖い?」

「もう、そんな時期でしたか」

クリスマスは、毎年必ずやってくる。

そしてまたこの時期には、誰か隣にいるようにしていた。

長く続かない、その1日だけの安心を得るために、

「すっかり、忘れてました。街はその色に染まろうとしてるのに、見ないフリでもなく、本当に気づかなかった」

「良い傾向ね。何か吹っ切れるきっかけがあったのかしら」

「楠本先生、前言ってたでしょう。失う怖さと、独りの虚無を知っている人が、俺を受け止めてくれるだろうって。俺はその人に、勝手に救われてるだけなんですけど」

クリスマスが近づいているのは分かっていた。

マスターなバーにも何度か顔を出したけど、どうしても涼香さんが散らついてしまって、気分が乗らなかった。

そしてマンションに帰宅すると、自分の隣の部屋に暖かみのあるオレンジの光が灯っていると安心した。

今日もなんとなく、俺の近くにいてくれる気がしたからだ。

「どんな方なの?良かったら聞かせて」

楠本先生は、背もたれに寄りかかりお腹のあたりで手を組んだ。

俺はぽつりぽつりと涼香さんの話をした。

彼女の母親に祖母がお世話になったこと、泣けなかった俺に素直に泣けるようにしてくれたこと、

最近その方が亡くなって、お通夜に行き、娘の涼香さんの佇まいを見て昔の自分を思い出したこと。

それがきっかけで、話ができたこと、偶然隣に住んでいること。そのおかげで、早く家に帰るようになったこと。

「まあ、全部俺が勝手に救われてて、勝手に拠り所はしているんですけど。こんな俺にそう思われても、彼女には迷惑かもしれないですけど」

「迷惑かどうかなんて分からないじゃない。現に四宮くんと今でもお話ししたら、会えたりしてるんでしょう」

「でも俺の過去なんか聞いたら、きっと引きますよ」

何度か、両親の話を彼女に聞かれたことがあったが

その度にぼやかして誤魔化してきた。

これを知ったら、彼女がすぐ目の前から消えてしまうような気がしたのだ。

また何かを失う予感が、いつまでもこびりついてしまう。

「それは、その彼女だって同じだったんじゃないかしら」

「えっ?」

「大切な人を亡くした事がある人は、同情されるのも、かわいそうだなって言われるのも嫌なのよ。だってそう思われたってその人が戻ってくるわけじゃない。それでも日々は続いていって、生きて行かなきゃいけない。生きている人の時間の方が、長いのよ」

楠本先生はデスクに置いてあったサンタクロースの折り紙を手に取ってゆっくり眺めた。

「四宮くんも、そうでしょう」

楠本先生の言葉は、じっくりと体中を駆け巡った。

俺がなんで奈津子さんにも、涼香さんにも救われた気がしたその理由が。

俺のことを可哀想とか、同情の目なんかしない。

ただそこにある悲しみをそっと掬い上げて、ゆっくり消化するその過程を見守ってくれるような、そういうことをしてくれた人だった。

1番辛い人が、ちゃんと辛いと言える。

泣きたいときに泣ける、そんな心の余白を作ってくれた人だった。

他の人はその僅かな隙間に塩を塗ってくるのに。

「俺は、彼女が俺を救ってくれた分、返せますかね」

「それは、四宮くん次第」


***

楠本先生の元から帰宅する頃にはすっかり日は落ちていた。

なんだかまっすぐ帰る気にもなれず、適当な安居酒屋で夕飯を済ませて戻ってくる頃には、冬のピークを迎えたこの季節の空は漆黒である。

駅から家に向かうまでの道に家から漏れる光と、時折鼻腔をくすぐる夕食の匂いが漂ってきた。

最寄りのコンビニにより、マカロニサラダと、唐揚げ、ナッツとビールを買い込み、誰も待っていない部屋に帰る。

マンションの目の前にたち、何気なく上を見上げると

涼香さんの部屋から灯りが漏れており、カラカラと窓を開ける音がした。

彼女は何か手に取ってベランダに出てきたのだ。

ずっと夜空を見上げているため、俺が下にいることには気づいてないようだった。

今、ベランダを開けたら彼女はと話せる、そう思ったら俺は駆け足で自分の部屋に向かった。

慌ただしくドアの鍵を開け、コンビニで買った白いビニール袋だけを持って、窓を開けてサンダルを履いて外に出た。

勢い余ってベランダの手すりにぶつかると、ビールの缶が柵に当たって甲高い音を鳴らした。

俺はそれも気にせず、右隣の部屋を見た。

涼香さんは驚いたように目を見開き、俺のことを頭から足の先まで見ていた。

「四宮くん?」

久しぶりに聞く彼女の声だった。

彼女の手には、湯気がたった赤ワインが白い透明なカップが見えた。

暖かそうな薄いブルーのセーターに、チェック柄のストールを肩に巻きつけていた。

「久しぶり、ですね」

俺の息は乱れていて、白い息がよく見えた。

ダウンを着たままなので、とても暑い。

涼香さんは俺の姿を見ると、急に吹き出した。

「こんな真冬なのに汗かいてる。走ってきたの?」

そう言われて、左手で額を触ると確かに汗をかいていた。

まさかベランダ涼香さんが出てきたから走ってきました、なんで言えるわけもなく俺はなんとなく誤魔化した。

「電車が暑かっただけです」

そうなんだ、と言いながらゆっくり一口飲み物を飲んだ。

「こんな寒いのに、涼香さんこそなんで外にいるんですか?」

話題を逸らして、なんとか自分の話にならないように持っていった。

「ああ、今夜はフルムーンだってニュースでいうから。12月の満月はコールドムーンって言うんだって」

ほら、と指さした先には煌々と光る月明かりと、丸い満月が見えていた。

月なんて、何年かぶりに見た気がした。

この時期の空は星が綺麗だけれど、クリスマスが近づくその空気に耐えられず、まっすぐ家に帰るか、月の見えない、窓のないホテルとかに泊まっていたから、こうやって見上げるのは久しぶりだった。

いつもは見える星も、今夜ばかりは月明かりの強さに負けているようで、全く見えなかった。

「綺麗だ」

思わず漏れ出たてしまい、慌てて彼女を見ると、

俺と同じように月を見上げていた。

「月明かりだけで過ごせそうな夜、すごく好きなんだよね。なんか落ち着くって言うか。時々こうやって天体観測みたいのしたくなる時があって」

「意外とロマンチストですね」

「意外は余計でしょ」

すぐ嗜められて俺は肩をすくめた。

でもこの人にはこうやって夜空の月や星をゆっくり眺められるようなそんな心の余白があるのだと思うと

やはり俺と違って強いんだな、とも思う。

プシュっとビール缶を開けると、少し中身が吹き出して急いで口につけた。

「さっきの衝撃のせい?」

「たぶん」

一通り泡が落ち着くと、俺は手すりに寄りかかった。

彼女はまだ、満月を見ている。

「涼香さん、乾杯しましょう。この綺麗な月に」

そう声をかけると、また彼女は吹き出した。

「四宮くんの方がよっぽどロマンチストじゃん」

そう言いながらも、俺の方を向いて、グラスをあげてくれた。

俺たちは空中で、月明かりをバックに乾杯をした。

ビールを飲みながら、時々彼女の方を盗み見ては、そらすを繰り返してしまい落ち着かなかった。

楠本先生と話したあの時間が、何か俺に気づかせてしまったのか、今までの感情とはまた違うベクトルで俺の心をざわつかせている。

理解してもらいたい、分かって欲しいなんて、

今の今まで誰にも思わなかったのに、今はどうしようもなく彼女に全てを話したくなる衝動と闘っている。

もし、今この話をしたらこの穏やかな夜が音を立てて崩れてしまうような気がしてならなかった。

「母はね、月がすごい好きだったの。月の満ち欠けって人々にもいろんな影響を受けるって聞いたことない?月が満ちるときは子供がよく生まれるとか、そう言う話」

「あれって本当なんですか?都市伝説みたいなのかと思ってましたけど」

「さあ?でも間違いでもないんじゃない?こうやって満月を見ていると不思議な気持ちになるもの。何も変わらないのにずっと見てしまうそんな心を掴んで離さないみたいな感じ。母なんて月の満ち欠けばっかり気にして、毎日月の動きがわかるカレンダーとか毎年買ってたもん」

奈津子さんのイメージから、月が好きだと言うことは想像できなかった。

都市伝説のような、ちょっとしたスピリチュアルのような雰囲気を纏う話には興味がないと思っていたからだ。

「全然想像できないなあ。俺が記憶している奈津子さんはそう言うの信じないタイプに見えてた」

「信じたかったのかもね、そういう人が抗えない運命とか宿命とか、タイミングみたいなものを、太古からある月の満ち欠けになぞれば、何か乗り越えられる気がしたのかも」

「涼香さんは信じてるの?」

彼女はゆっくり首を横は振った。

「全然。でも月が綺麗なのは認めるし、見ているのは好き。私はどちらかと言うと、月にはウサギが餅つきしてるって言うのを信じたくなる方。今でもいないと分かってても探しちゃう。ある意味希望なのかも。そういうウサギが本当にいたら夢があるのにっていう類いの」

照れ隠すように、まだワインを一口飲む。

この月を見て、綺麗だと思う、でも同時に浮かぶ感情もある。

「月は綺麗だけど、俺は同時に孤独を感じる。満月になると光が強くて、いつもなら見えるはずのたくさんの星が見えなくなるだろ。なんか1人だけにされたみたいな気分になるよ。どんなに明るくても、周りで光る星は自分には見えない。それでも探したくて、1人光り続けてるみたいでさ」

まるで俺のようだ。

きっと、俺の周りにはたくさん手を差し伸べてくれてた人もいたはずだ。

それでも俺は全然見えてなくて、自分を強く見せることに必死で、過去なんかなかったことにしたくて、何度も光ってやり直そうとした。

それが年を追うごとに雑になって、誰でも良くなって、俺はまた1人孤独の道を選ぼうとしてる。

多分これはきっと、ずっと続くことなのだと諦めている。

なにかを無くすくらいなら、1人の方がどれだけ楽だろうと考えてしまうのだ。

「でも、とても見つけやすいよ。それだけ光ってくれれば、目に入るもの。確かに孤独かもしれないけど、別に自らがどこかに隠れているわけじゃない。私に取ってこの満月は孤独じゃなくて光、周りの人が集まるための大事な灯火のような気がするけど」

音が消えた。

さっきまで聞こえていたサイレンも、車の排気の音も。

まるでこの空間に俺と涼香さんしかいないみたいに。

彼女はまだゆっくりとワインを飲んでいる。

俺は彼女の言葉の真意がわからずに、ただただ動揺していた。

持っていたビールを飲むのを忘れるくらいに、俺は彼女の言葉にひどく心を乱されていた。

「四宮くんが、母のお通夜に来てくれたあの日、私にとっては何か違う光が入ってきたように思った。重苦しい空気を一変するような、凛としたあの感じ、私はよく覚えてる。その時、母のために流してくれた涙の一粒も、私には光って見えた。あまりにも、四宮くんが綺麗に泣くから、私もつられて泣いたんだもの」

言葉が頭の中を反芻していく。

彼女の視線は、いつのまにか俺に向けられていた。

部屋から漏れる光に照らされて、影が長く伸びている。

かすかに風が吹いて、俺と彼女の前髪を揺らす。

「四宮くんも、きっと誰かの光になってるよ。少なくとも、私にとっては、ちゃんと悲しみを掬い上げてくれた人だもの」

一粒だけ、左目から涙が流れた。

俺は拭うこともできずにただただ彼女を見た。

どうしてこんな俺にそんな言葉をかけてくれるんだろう。

先に助けてもらったのは、勝手に救われた気になったのは、いつだって俺だと思っていたのに。

「それはこっちのセリフだよ」

光だったのはいつだって涼香さんだ。

俺はそれにただしがみついただけ。

「涼香さんの方がよっぽどその言葉がふさわしいよ。

俺はそこにただぶら下がっただけ、これを機に涼香さんと話してみたかっただけの、ずるいやつだよ。悲しみがわかるフリして、近づいたそんなレベルだよ」

ビール缶を少し握りつぶす。

俺はそんな男じゃない。

いまだに過去と向き合えていない、ただ弱いだけの男だ。

「悲しみがわからない人が、あんな綺麗に泣くわけないじゃない。母のこと、いつまでも覚えててくれるわけないじゃない。こうやって、私の悲しみに寄り添うこともできなかったと思う。同情も憐憫もない、ただそこにあるだけな悲しみをそっと置いておく。見守ってくれる人なんてそういないよ」

その言葉で俺はようやく顔を上げた。

何か言おうにも、言葉が喉をつっかえて出てこなかった。

何を言っても、その言葉以上の美しさを、表現できる気がしなかった。

いつも俺が考えるその一歩先を彼女は行く。

どうしたら追いつけるのだろう。

どうしたら、そばにいてくれるのだろう。

どうしたら、救ってくれた分を返せるのだろう。

今すぐにでも、彼女の目の前に行きたい。

もっと近くでその言葉を聞きたい。

俺はもうきっと戻れないところまで来てしまっているのだろう。

できるだけ近くにやりたくて、ベランダの端まで歩く。

彼女は不思議そうな顔をしてこちらを見ている。

「涼香さん」

呼びかけると、彼女もベランダの端まで来てくれた。

彼女のそばにいたいなら、

俺のことをわかって欲しいなら、

まずは俺自身が過去と向き合わなきゃならない。

彼女のまま悲しみも全部受け止められるくらい、心の余白を作らなきゃならない。

「そういう全肯定してくれるところ、奈津子さんにそっくり。なんか元気出た」

とだけ答えた。

彼女の少しばかり緊張した感じもその一言でほぐれたのか、

少し笑顔を見せてくれた。

「そりゃあ、親子ですから」

彼女に気持ちを伝えるのはその時はやめた。

どつしても、彼女とのことを考えると、

これから先も一緒にいるそんな未来を想像する。

でもその未来を手に入れるためには、まず俺が過去を受け入れなければならない。

前に進むために、誰かと一緒に生きる選択をする前に、

自分の中でピリオドを打たなければならない。

「もう、寒いから中に入りましょう。風邪ひいたら笑えないですし」

そう声をかけると、彼女は大きくうなづいた。

「また明日」

左手でからになったグラスを持ちながら、部屋に戻った彼女を見送ってから、すっかりぬるくなったビールを飲み干した。

あの時間が起きてから、明日で18年目を迎える。

ずっと、ハガキは来ては読む勇気もないくせに、捨てることもできずに置いてある被害者の会のお知らせが机の上にある。

もう二度と行かないと決めたあの場に、俺は別な人生を歩むために向かう。

そんなことを決めた夜だった。

月はまだ綺麗に出ていて、月明かりが夜の街を照らしていた。

変われる気がした。

涼香さんとなら、絶対にいい未来が歩めると思った。

だから、重い扉を開けて、過去と向き合うことにした。

これからも重く、両肩にぶら下がり続けるであろう罪悪感を抱えながらでも、自分が自分らしく生きられるような人生を、想像していた。

でも、そんな気持ちは翌日の朝にすっかり跡形も消えてなくなってしまった。

俺はもぬけの殻のようになって、昨日までの決意なんてなかったかのように心が荒れた。

気持ちよく晴れたその朝に流れてきた、速報を見るまでは。


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