6.秋の夜を歩く
「柊涼香さんの携帯でお間違いないでしょうか。私、柊奈津子さんが勤めていた会社の者で、藤沢と申します。実は会社に残っていたお母さまの遺品をお返ししたいのですが」
部屋の中に入ってくる日差しの量が日に日に増していく夏の朝。
そんな土曜日の朝に、滅多に鳴らない携帯が音を立てて部屋に響き渡った。
私は眠い目をこすりながら、起き上がり電話をとると、冒頭のような言葉が耳に届いた。
「母の遺品ですか」
「はい。以前にも引き取っていただいたのですが、あれからまた少し出てきましたので、事務の者に聞いて娘さんの涼香さんに連絡した次第です」
藤沢と名乗る男性はとてもはきはきしていて、礼儀正しく声が明るい人だった。
いかにも営業向きの、年は私と同じくらいか少し上か。
母の口から藤沢、という人の名前は聞いたことなかったから、ピンときていないのだが、印象は悪くない。
「なるほど、では週明けに取りに行きますが、問題ないでしょうか」
断る理由もないし、それは私の仕事だろうと考え話を進めると、意外な反応が返ってきた。
「あ、いや涼香さんの勤め先、虎ノ門ですよね。月曜日、私もそちらに営業で行くのでその時お渡しします。そんな大した荷物でもないですし、奈津子さんにはお世話になったので一言お礼を申し上げたいので」
「え、そんなご足労いただくみたいで申し訳ないのですが」
「いいんです、本当に。奈津子さん、よく涼香さんの話してましてもっと早く渡せればよかったのですが、私自身が忙しくこんな後になって遺品を渡すハメになったのは私のせいですので」
電話の向こうで、相手に見えないのに人に頭を下げていそうな腰の低い姿が目に浮かぶ。
お葬式の時に挨拶したような気がするけど、正直四宮に持ってかれていてあまりよく覚えていない。
そんな状態で会おうとする方が失礼な気がしたのだけれど、彼が引き下がらなそうだったので
就業後の17時半くらいに会社のビルのエントランスまで来てもらうことにした。
母の遺品とはどんなものかしら、と頭で考えながらもう一度寝ることにした。
***
定時の17時に長針が周ると、私は身の回りの整理をはじめ、経理部では一番早く会社を出た。
後ろから、尾高さんの「デートかな??」のヤジを無視してエントランスに続くエレベーターに乗る。
夏はいつも閑散期で、他の営業部も定時で帰ろうとするため、エレベーターが混んでしまう。
エレベーターホールで5分くらい待たされたあと、乗り込むと誰かの駆けてくる足跡が聞こえ「開」ボタンを押し続けていたのが、それに反して閉まっていくドアで「閉」を間違って押していることに気づく。
閉まりかけのドアに手が伸ばされたのと同時に、「開」ボタンを押すと今度はすっと開いていく。
そこに飛び込むかのように入ってきたのは、息をかなり切らした四宮である。
「あ…ごめん」
幸い、エレベーターは私と彼しかおらず、二人を乗せてドアが閉まっていく。
「わざとですか?」
四宮が壁に寄りかかって聞いてくるので、後ろを振り向いて手を横に振った。
「いや、まさか、見えてないし。開ボタンかと思ったら閉ボタンだったのは、そのごめん」
四宮は腕を組みながらこちらを見て、そのあと少し笑った。
「涼香さんもそんなことするですね。しっかりしてそうなのに」
「この間違いはうっかりものでも、しっかりものでも1度は失敗したことあると思うけどなあ」
次の階でもおじさんが何人か乗ってきた。
彼と私は対角線上に位置するように、立っておりおじさんが乗ってくることで話はそれ以上できなかった。
ボタンの前に立ったので、エレベーターに乗り合わせた人を先に全員出して降りると、彼がこちらを見ていた。
「ねえ、帰りでしょ?飲み行く?」
親しげに話す彼は、ここが会社だということを理解しているのだろうか。
すぐ近くにはあの一件があってもなお、受付嬢として仕事をしている森本さんがいる。
花織いわく、四宮にフラれたあとにそれでも働き続けたのは彼女だけらしいと聞いた。
「あ、今日は人との約束があって…」
とIDカードを通し、目の前の黒いソファーの近くに一人男性が立っていた。
いかにも営業マン、といった風貌でスーツもパリパリ、落ち着いた紺のネクタイをしていた。
でもその営業マンは私というよりは、隣にいた四宮に視線を合わせているようだったし、
四宮も、ただその営業マンをじっと見つめて、何か思案顔をしている。
私はその二人の間に立ちながら、恐らくどちらの視線にも入ってない何とも言えないポジションにいるハメになってしまった。
営業マンは、こちらに向かって歩き私の前まで来た。
「涼香さんですね、あとそちらは洋平君だろ?四宮のおばあちゃんの」
四宮のことを洋平君、と呼ぶ彼は懐かしい旧友呼ぶみたいに嬉しそうだ。
そして四宮もようやく合致がいったのか、顔の筋肉がほころんでいく。
「藤沢さんじゃないですか!」
藤沢さんは、四宮の格好を眺めながら肩をたたいた。それは親戚のおじさんが甥っ子に会ったような距離感である。
「洋平君、ここで働いてるんだ?いやあ驚いた。涼香さんと同じとはね」
「ええ、まあ。これも奈津子さんの縁かもしれないですけど」
二人が完全に私を置いていくものだから、間に入って二人を見た。
「ちょっと待ってください。お知り合いなんですか?」
藤沢さんは、そうかといった顔で申し訳なさそうに笑った。
「うん、奈津子さんが担当していたおばあちゃんのお孫さんだったし、介護初日に挨拶していたから。当時彼はまだ二十歳くらいだったから、子供のイメージが強くてね、まさかこんなところで働いているとは」
ということは、私のことを知ったあの例のおばあちゃんの介護のときに顔を合わせてたのか。
「今日はどうされたんですか?」
四宮が話を続けると、藤沢さんは鞄から一冊の手帳のようなものを出した。
少し誇りをかぶっているが、キャラクターのものが好きだった母が当時気に入っていた犬のものだ。
日付は去年、病気が発覚した歳のものだった。
「これは、手帳ですか?」
「そう、奈津子さんがいつだったか、手帳を棚の後ろに落としたかもしれないと話していてね。でもそれがまたなかなか動かすことのない棚だったもので、最近大掃除がてら引っ張りだしたら出てきたんだよね。仕事用の手帳みたいで、ちょっと中身見てしまったのだけれど、日記みたくなっていたから涼香さんが読むべきだと思って。途中でやめて今日持ってきました」
パラパラとめくると仕事の予定のほかに、一瞬だか心情を吐露した文章が見えた。
-今日、病気がみつかった。がんだった。
その一言で私はぱたりと手帳を閉じた。
ここは会社で、目の前には同僚であった藤沢さんと、四宮もいる。
これは一人の時に、一人でかみしめたいないような気がした。
「藤沢さん、今日は仕事もう終わりですか」
四宮が一瞬その手帳を見た後、藤沢さんに視線を向けて話題を変えてくれた気がした。
藤沢さんも手帳から視線を外して、私と四宮を見た。
「ええ、今日は直帰ですね」
「じゃあ、よかったら飲みに行きませんか?ちょうど涼香さんと行こうって話してて」
そんな約束はしていないが、なんとなく藤沢さんの話は聞いてみたい気がした。
四宮ともなぜか仲がいいみたいで、その経緯も個人的に気になったからである。
「え、いいの?二人の邪魔じゃない?」
「あ、いえいえ。藤沢さんからの母の話も聞きたいですし、ぜひ」
手帳を鞄にしまい、私も四宮の提案に乗った。
今日はこのまま帰りたくもないし、あの手帳の中身を見る前に、母の楽しい話を聞きたかった。
そんな気分であったのだ。
「では、行きましょうか。ここらへんでいい肉バルがあるんですよ。そこで」
四宮が先陣を切ってエントランスから出るので、そのあとを藤沢さんと追いかける。
なんとなく振り返ったその先には、こちらをじっと見ている森本さんが目に入った。
彼女は少し悲しそうな、悔しそうな顔をしていた。
私が見ていることに気づくと、すぐにいつもの笑顔に戻って軽く会釈をした。
なんとなく気まずくて、ぎこちなく会釈を返した。
見られていたのか、たまたま見ていたのかそれは分からなかった。
***
「2人が同じ会社だったとはね!しかも四宮くんは営業部のエースと。どちらも優秀だ」
豪快にビールの大ジョッキを美味しそうに飲みながら藤沢さんが私達を嬉しそうに見る。
「涼香さんが経理の仕事についているのは奈津子さんから聞いていたんですが、まさか四宮くんまでとは存じ上げなかった」
「僕は就職してからは祖母の家を出て都心に引っ越してしまってからは奈津子さんにも会えなかったので、今回はその…」
申し訳なさそうに四宮くんがチラリと私をみた。
藤沢さんがその微妙な空気をかき消すようにビールを飲み干した。
「奈津子さんはとっても明るくて優しい人だったよ。いつも自分より人を優先するような人でね、四宮くんのお祖母様はじめ他の方にも全力で。そんな奈津子さんが1番嫌いだったことはね」
ビールを近くの店員に追加注文しながら一息おいた。
私と四宮がお互いの顔を見合わせてその後藤沢さんに視線を合わせた。
「悲しい顔をして話題を避けること。今の四宮くんたちのことだよ」
四宮くんが、目の前のジョッキを手に取って半分ほど残っていたビールを飲み干した。
飲み込むたびに鳴らされる喉の音はCMが一本来そうなほどに美味しそうであればる。
「本当ですね。こうやって3人集まれたのも奈津子さんのおかげですし。今日は楽しまないと」
「いいねえ!!洋平くん、お酒強くて!!」
2人は酔いも手伝った肩を組み始め、仲良く追加のビールを飲んでいた。
私はその景色を眺めながら、なんだか旧知の中に会ったような、幼馴染と再会したような気分になった。
「でも涼香ちゃんが経理ってのはなんか意外だったな。ほら、奈津子さんって数字とか苦手だったろ?そう言う事務作業見たいのは苦手なイメージ」
藤沢さんが目の前の牛肉のステーキを突きながら、私に聞いてきた。
四宮くんも同じようにステーキをつまみ、視線を向けた。
「ああ、経理を目指したのは父親が高校で亡くなってからです。母は専業主婦で、パートくらいしかしたことなかったから、お金のことは父親任せで。でも、いざ父が先に逝くと、仕事を手際良く見つけて、私の学費まで出して、少ない給料でやりくりしてたんです。お金に困った記憶はないのですが、その辺りから母は保険とか、定期預金とか力入れ始めてて。自宅にフィナンシャルプランナーとか来てて、それでお金の勉強しておけば苦労がなくなって、母が片手間で経済的なこと考えなくてもいいのかな、って思ったんですよ。実際、母は天然に見えて常識はあって。だから私が専門的知識を身につけようかなって思ったんです」
2人はポカンと口を開けて、私を見ていた。
なんかまずいこと言ったかなと思うと藤沢さんがその沈黙を破るように話し始めた。
「いやあ、驚いた。奈津子さんがさ、うちの娘は私と違って賢いんですよ、理解も早くて。本当に自分の子かわからないくらいに、って苦笑してて。当時僕は涼香さんのことはよく知らなかったから親ってのは子供が1番なんやなあとか漠然と思っていたんですけど、本当にしっかりしてる。そして大手の商社の経理に入るとか素晴らしいな」
間髪入れずに四宮くんが続けて話す。
「なんか俺の志望動機甘い気がしてきた…英語好きだし食べるの好きなんで、商社でって言ってるのガキすぎ…」
「2人とも、買い被りすぎですよ。たまたま興味があっただけです。確かに母はお金に対して誠実な人でしたけど、いつも、いつも何かに追われているみたいに生き急いでました。
まるでビデオの録画を倍速で見るかのように、必ず早く、早く先に進む人でした。そのせいかな、人生を駆け抜けるのも本当に早くて。もっとゆっくりすれば良かったのに」
母が生き急いでいたのかもしれない、と最近よく考える。
録画した番組を倍速で見るのも、先の予定を決めたがるのも、いつでも死に向かって良いように、次のことを話す母に嫌になった時もあった。
私が喪服をギリギリまで買えなかったのは、母のいなくなった世界の話が、そんなに早くきてほしくなかったからだ。
でもその分、毎日毎日刺激的で、考えることがたくさんあって、それはそれで母は楽しかったのかもしれないけれど。
「人生が、とてつもなく楽しかったんでしょうかね」
四宮くんがビールをちびちび飲みながらつぶやいた。
「どういうこと?」
「いや、だってすごく楽しいことをしている時って時間経つの速くないですか?それが仕事でも、こういう飲み会でも、誰か好きな人と会っている時でも、楽しい時は時間が経つのが早いし、つまらないと遅いじゃないですか。生き急ぐ、のではなく楽しすぎて時間の感覚忘れてたんじゃないですか。それだけ奈津子さんの人生は短かったけど美しかったんですよ、多分」
光が、光が差すような感覚だ。
暗い部屋に、厚手のカーテンから覗く一筋の光。
この人は。
どうしていつも肯定してくれるのだろう。
私も母のことも。
肉親ではない人の話にそこまで光を届けられるのだろう。
「涼香さん、大丈夫?」
藤沢さんに差し出されたのは新しいおしぼりだった。
「え」
気づいて目元に手をやると、涙が流れていた。
藤沢さんはとてつもなく優しい顔で、四宮くんは少し動揺したような目で私を見ていた。
「これは!悲しいからじゃないですよ!!生き急ぐこと、悪いことだと思ってました。
でもなんか四宮くんの話聞いてたら、そんなことないんだなって思って。母の生き方可哀想だったなって同情したことが申し訳なくなって、なんかそれで」
上手く言葉が口から出てこない。でもすごく嬉しかったことだけは確かである。
「確かに、楽しいと時間が過ぎるのが早いな。奈津子さんがそういう人生だったら、同僚としてとても嬉しいよ」
四宮くんの空いたグラスに藤沢さんがビールを注ぐ。その音がずっと心地よく響いている。
「私ももらおうかな」
空いたグラスを差し出すと、藤沢さんは嬉しそうに同じように注ぐ。
藤沢さんが自分のグラスにも注ぐと、3人でただなんとなくグラスを合わせた。
言葉はそこにはなかったけれど、なんとなくそれは母に向けられたもののような気がした。
***
藤沢さんとは、帰宅方向が逆だったので駅で別れた。
会社の最寄り駅だったため、いつもなら時間をずらすのだが、終電間際だったので四宮くんと一緒に帰った。
電車はそこそこに混んでいて、金曜日も相まって座席の端っこにはうなだれるように首を垂れるように寝入っているサラリーマンが多数おり、社内はどこか酒くさかった。
「金曜日って感じ」
顔をしかめながら、思わず鼻を手で押さえる。
「そうですねえ。どうせなら歩きますか、1駅くらいなら15分くらいだし」
私たちの最寄りの駅まであと一駅であったが、なんだか酒臭さに酔ったのかその提案を受け入れた。
各駅しか止まらないが、高層マンションが駅周えりに続々建設されているため、たくさんの人が下りていく。
私たちも同じように降り、駅からすぐ見える坂道に向かって歩いて行った。
日中はまだまだ暑いが、夜は少し涼しくなり、鼻に抜ける空気は秋めいている。
「涼香さんって今月誕生日でしょ」
四宮くんが、歩きながら何でもないようなことかのように話す。
私はその言葉に驚いて四宮くんを見ると、その横顔は相変わらず暗闇の中でも分かるくらいに凛としている。
「なんでそんなこと」
「小川さんが教えてくれた」
案外あっさりした答えをされて、一気に肩の力が抜けてしまった。
何を期待したのか、というのと私が話していないのに知っている方が怖いだろという感情が行ったり来たりしている。
「だから今日はご飯を奢ろうと、帰りに声をかけたんですよ」
「日にちは違うけど」
「ああ、それは。俺が部長に呼ばれてしまいまして、話がないがしろに」
「なるほどね。花織も余計なことするなあ」
「でも、とても合致が行ったことがあるんです」
「何?」
坂が急こう配になっていて息が切れている。
そのせいか四宮くんの話はあまり頭に入ってこなかった。
「奈津子さんが、娘はこの季節にちなんだって聞いてたから。正しくは、祖母が何回もその話を俺にしたからですけど」
四宮くんは、そうこちらを見ながら笑うと、その話の続きをし始めた。
「祖母が亡くなったのは、11月でした。その2か月前の9月に祖母が何回もこの話をするようになったんです。夏の暑さが収まって、エアコンが止められるようになった夜に、俺は空気の入れ替えも兼ねて久しぶりに窓を開けたんですよ。今日みたいに涼しい日です。そしたら祖母が、奈津子さんの娘さんはね、この時期に生まれたから名前をつけたんだって。でもその肝心な名前をいつも忘れちゃってって。結局分からず仕舞だったのだけれど。俺が涼香さんの名前を見つけたのは名字が珍しかったからは本当です。でも涼香という名前を見て納得しました。今夜はとても涼しい、そして秋の香りがする。だから涼香なんだと」
「夏っぽい名前だからよく間違われるけど、その通り。母も同じことを言ってた。だからこの名前は気に入ってるの。そこまで話しちゃうのか、プライベートとはって感じだけど」
私の知らないところで、私のことを楽しそうに話す母の姿なんて、早々聞けない。
でも名前の由来まで言わなくても、と考えていたらなんだかおかしくなってきてしまった。
「四宮君は?」
「俺ですか?」
「そう、洋平、でしょ。なんかお洒落なイメージだけど」
四宮くんは左を見上げながら、何か考え事をしているように見えた。
「海外ですよ。洋平の洋にはその意味が、平は偏らないようにっていうそういう意味だって聞いたことあります」
「ああ、太平洋の洋か!そして偏りがないようにって、あれかな偏見がないようにって意味かな」
確か英語が得意で、発音が綺麗で、って言ってたなと思い出す。
島国の日本で、海外との商業的やりとりがあるのは当たり前であるところを見ると、四宮くんには天職なのかもしれない。
「どうでしょう。正解は分からないんです。両親から直接聞いたわけではないですが、小学校の授業の時に祖母に聞いたら漢字を調べてみろって言われて。その時はもういなかったので」
少し困ったような寂しそうな顔をした。
「でも、四宮くんにすごくぴったりの名前じゃない?英語も話せて、人への偏見もない。あ、違うね。四宮くんがその名前の通りに育ったんだ。ほらよく言うじゃない、子供の名前にはなってほしい姿を願いも込めてつけるって」
「そうかなあ」
「いい名前ですよ」
坂がようやく終わると、あとはなだらかな道が数分続く。
私は願いというよりは、季節を込められたけどそれはそれでいい。
「涼香さんって、いろんな人にそんな感じなの?なんていうか、ポジティブな感じに持っていくっていうか」
「そうなのかな~分からないな。でも四宮くんもなかなかに言いこという」
そう褒めあっている姿がなんだかおかしくなってきて、私はそのまま噴き出した。
それと同時に四宮くんも笑い始めた。
「俺たち、酔ってるんですかね。お互いのいい所褒めあって」
この時の四宮くんは口を開けて大笑いをしていて、普段見る凛とした姿はなかった。
少しすると、ようやくアパートが見えてきた。
2人で立ち止まり、その建物を見上げる。
1番奥から2つ分以外は部屋の明かりがまだついていた。
「時々思うんですよね、これも何かの縁かもって」
四宮くんがぽつりと呟いた。
「縁?」
「そう、俺がこうやって今涼香さんとここにいることです。祖母の時からずっと繋がってるこの不思議な縁のことです。奈津子さんが亡くなった、と聞いた時に俺は悲しみと同時にこれで涼香さんと話せるとも思ってしまったんですよ。
不謹慎ですけど。奈津子さんが話してくれる涼香さんの話は聞かば聞くほどどんな人か気になっていたから、偶然とはいえ、隣人になれたことは俺には意味があることでした。そんな人の娘さんだから、きっと良い人だろう、そう考えるくらいに奈津子さんの人生は美しかった、と思うのです。その手帳に書かれていること、辛いこともあると思いますけど、きっと楽しいことも書かれていますよ。じっくり向き合ってください」
四宮くんが一言一言丁寧に話す仕草に目と耳を奪われながら、やっぱり手帳ことを気にかけて言葉を紡いでくれたことが嬉しかった。
不器用な励まし方だけど、ずっと心のつっかえを取るような効果がある。
ちらりと横を見ると、四宮くんは私たちの部屋の方に目を向けていてこちらは見ていなかった。
見つめても、見つめても、視線は下を向かない。
そこには照れ隠しがあるような気がした。
「なんなら手帳、一緒に読んでくれても良いよ」
冗談まじりに話して初めて、四宮は私の方を見た。
驚いたような、戸惑いのような複雑な表情をして。
「むしろ、俺で良いんですか」
風が吹いた。
まるでその場の周りの時間が止まったように辺が静かさに包まれた。
その言葉の意味をその時は深く考えずに、
いつもならフランクな四宮が丁寧な言葉に話し方を変えたことにも気づかずに。
「えっ四宮くんが良ければ。まだ読まない…っていうか読めないけど、その時が来たら」
しどろもどろになりながら答えると。
また視線を上に向けて、今度は空を見上げた。
澄んだ空で、星が僅かだかが輝いていた。
「その時が来たら、必ず呼んでください」
四宮のその一言を合図に、また風が強く吹く。
とても爽やかで、清らかな、美しい音を立てて。
その月明かりに照らされた横顔は再び凛としていて
私を呑み込むくらいの力があった。
ダメだった。これは、もう戻れない。
私も同じように空を見た。
せめて同じ景色を、隣に並ぶことすら正しいか分からないわたしたちの関係に、名前をつけられたらどんなに楽だろう。
でもこの四宮の瞳に私は映るのだろうか?
映っても映らなくても私はこの人を好きになってしまった事実だけが静かな夜に横たわっていた。