5.ジグソーパズル(洋平)
入社したその年に、俺は都内にある学童に当時の先輩と行ったことがある。
商社として海外の貧困に貢献しよう、という会社のコンセプトがあり、「TABLE FOR TWO」というキャンペーンに参加しようという案件があった。
その案件は、ヘルシーな食材や栄養バランスを考えた食材と、果汁100%に特化したジュースを売り、それを学童に提供しようという内容だった。
俺はその対象となる学校に出向き、その説明をしにきていたのだ。
その日はとても寒くて、朝の天気予報では雨から雪に変わるかもしれないとはしゃいだ声を出していた。
生徒たちが下校したあとの教室をいくつか使い、夜は20時まで預かってくれるという制度が人気を得ており、実験的に取り入れるにはとても都合がいいところだ。
「ちょっと教室をのぞいてみませんか」
と、グレーのツイードジャケットを羽織った少しふくよかな女性がにこにこしながら商談の終わった俺たちに話しかけてきた。
隣で先輩が「いいですね」と相槌を打ったので、俺たちは学童の教室を見せてもらったのだ。
白く無機質な廊下は俺が小学生のころとは変わらず、その色合いがまた冬の寒さをかたどっているような気がした。
廊下の大きな窓には、夕暮れでできた影が様々な形をいろどり、時折照らしている。
一番奥の部屋から人工的な白い光がさしているのが見えた。
どうやらここが学童らしく、俺たちはこの教室の中に入った。
壁には、万国旗がぶら下がり、黒板にMerry X'mas!と色とりどりのチョークで書かれていた。
子供たちは思い思いに紙で作ったようなパーティー帽をそれぞれかぶりながら
あるものは、折り紙を切り刻み張り付ける「貼り絵」でサンタクロースをトナカイを描き、
ちがうものは、半透明のセロファンを透明な箱かなにかに張り付けていた。
教室の隅に置かれた黒いCDラジカセからは、「赤鼻のトナカイ」が流れていて
子供たちは楽しそうに歌いながらそれぞれ準備を進めていた。
「今日は、このあとクリスマス会をするのです。世間はクリスマスでも、平日であれば関係ありませんので、こういうときこそ寂しさを感じないように企画するんですよ」
女性はまたにこにこしながら教室を見渡してそう説明した。
先輩が「なるほど、確かに大人には関係ないですもんねクリスマス。子供のためにと思ってもなかなか」
と話を合わせられているのは、この先輩にも子供がいるからだ。
今日は早く帰りたいな、と先ほど話していたことも思い出した。
CDラジカセとちょうど対角線においてある机にはプレゼントが重ねておいてある。
これ、なんか見覚えがあるな。
懐かしさをそこはかとなく感じながら、ゆっくりと教室を見まわす。
すると、窓に一番近いところでセロファンでなにやら作っていた男の子が、その半透明な紙を不思議そうに眺め、時々窓に向けたり、教室の蛍光灯に透かして見せている。
手のひらを置けば、赤く見えるし、緑にも見えることが面白いらしく、きゃっきゃと遊んでいる。
その様子を見ながら、俺は心が温まるような気がしていたが、喉に魚の小骨がささっているような違和感が抜けなかった。
それでもその男の子を見つめてると、彼は何かを思いついたのか、目を大きく見開いて近くのテーブルに置いてあった懐中電灯を引っ張り出してきた。
そしてレンズの上にそのセロファンをふわっとかぶせた。
赤いライトが教室に浮かぶ、彼の背中には夕日が顔を出した際にできた影が伸びた。
そして先ほどまで小さかった「真っ赤なお花のトナカイさん」の曲が急に頭にガンガン響く。
息が、苦しい。
上手く息ができない、俺は胸のあたりを押さえながらゆっくりとしゃがみこんだ。
落ち着け、落ち着け。なんで息ができないんだ。
大きく息を吸えば吸うほど、肺にためたはずの空気が、風船に穴があいているように抜けていくヒューっという音に変わりながら抜けていく気がする。
もっと大きく、息を。だんだん額のあたりから冷や汗をかき始めた。
目がどんどんかすんでいく、なんだか頭もぼーっとする。
「四宮くん!しの…」
誰かが俺の名前を呼んでいる、目の前の男の子がこちらを唖然としてみている。
夕日がまぶしい、何も考えられない、息を吸って吐くことができない。
なんだ、何が起きてるんだ、俺はどうしたんだ。そのまま俺はふっと意識を失った。
***
目が覚めると、白く、無機質な天井が見えている。
少しずつ視界が鮮明になっていくと、腕には点滴が刺さり、俺は硬いベッドの上で寝ていた。
「四宮君!」
呼ばれた方を向くと、先輩が心配そうな顔をして俺を見ていた。
「あれ、俺はどう…したんでしょうか」
先輩は一気に肩の力が抜けたのか椅子に座りなおして、大きく一息ついた。
「ここは病院。急に学童の教室で倒れるから焦ったー。過呼吸起こしてそのまま意識を失うから慌てたよ…ストレスと疲れだろうって医者は言うから、明日金曜日だし休みとって安静しとけ」
あ、俺意識を失ったのか。なんでだっけ、あの男の子が何かをしたところを見て、俺はそのまま倒れた。
「すみません…あ!先輩クリスマス」
「いいよ、本番は明日だろ。今日はサンタになるだけなんだから」
先輩は苦笑いしながら、頭をかくが、自分の腕時計を見るともう19時を回っていた。
「あ、四宮さん起きましたか」
看護師が部屋に入ってきて、俺の顔を見て先輩の顔を見た。
「意識戻りましたし、大丈夫ですね。付き添いの方はもうお帰りいただいて結構ですよ。
いちおう明日まで入院できますので、今日のところは」
看護師さんが俺の点滴をチェックしながら、そう話すと、先輩はそそくさと病室をでていった。
ああは言っていたが、今日は早く帰りたいなって言ってたのに申し訳なかったな。
ふと窓の外を見ると、どうやら雨が降っているのか水滴がついていた。
「夜更け過ぎには雪に変わるらしいですよ。ほら、あの有名な歌みたいに」
看護師さんが俺が窓の外を見ていたのに気づいたのかそう話をつづけた。
「へえ、ホワイトクリスマスか」
「四宮さん、意外とロマンチックですね」
と看護師さんがくすくすを笑いながら言うものだから急に恥ずかしくなった。
「いや!決してそんなわけでは」
「分かってますよ。あ、そうだ四宮さん。この後先生が様子見に来ますのでこのまま起きててください」
そういうと、彼女はよし、と言いながら部屋を出ていった。
先生が俺にする話とは一体なんなんだろう。
変な病気になっているとかじゃないよな、と頭の隅で考えたが疲れとストレスだという見解はあながち間違っていないように思えた。
ほどなくして病室のドアが開き、スラリとした女性が白衣をなびかせて入ってきた。
歳は30くらいの、長い黒髪を後ろでまとめただけの簡単なものなのにとても凛としている。
その顔に見覚えがあり、俺は思わず目を見開いた。
「四宮さん、お体どうですか」
「えっ橘先生、どうして」
橘先生は、近くにあった椅子をすっと引き寄せ音もなくカルテらしきものを持ちながら座る。
「ご気分はどうです?」
「今は、その落ち着きました」
この部屋は大部屋らしいが、俺以外は誰もいない。
橘先生とは何度かお会いしたことがあった。
まだ俺が被害者の会に顔を出していたころに、ボランティアで訪れてくれていたのだ。
当時学生だった俺は、今よりも荒れていて、橘先生にかなり手を焼かせてしまっていた。
その後、俺たちが望むような形にはなかなかなれず、俺はその傷の舐めあいのような湿っぽさに嫌気がさし、被害者の会は脱退した。
それ以来の再開となるので、こうやって顔をあわせたのは実に10年以上ぶりである。
「久しぶりね。たまに非常勤でここに来ているの。今日は偶然だけど」
「先生はお変わりなさそうですね」
「四宮君は、ずいぶん立派になられたのね。上司の方が何かあったらと置いて行ってくれた名刺が有名な商社だったから」
「立派だなんて。俺はまだまだですよ」
雪は強く降り続いていた。
世間はホワイトクリスマスだと、今頃盛り上がっているのだろうか。
「では、早速だけど。今日みたいな症状が出たことは今まであった?」
「いえ、初めてです」
「そうですか…。前触れはありましたか、例えば急に不安になったとか」
「えっと…あ、急に音楽が頭の中でボリュームを上げました、そのあと…何かを見て息がしにくくなって」
あれ、何を俺は見たんだっけ?
気を失うほんの数分、というより教室に向かう白く長い無機質な廊下を歩いていたことは覚えていた。
でもそのあと、俺が何をして、こうなったのかさつぱろ思い出せない。
ただ鮮明に残っているのが、急に耳の中でボリュームをあげた音楽と、
まぶしくて目が開けられないほどの大きなオレンジの光が廊下にさしていたことだけだ。
先生は、カルテになにか書き映し挟んである黒いファイルを閉じた。
「四宮くん、今度お時間ありましたら私のクリニック来ていただけますか。少しお話したいことがあります」
そう言って彼女は内ポケットから名刺を取り出した。
差し出されたまま受け取ると、そこには楠本メンタルクリニックと書いてある。
俺はその名刺を呼んで目を見開いて彼女を見た。
「現時点で言えるのは、四宮くんはパニック障害だということ。何を見たかきっと今は覚えておられないと思いますが、無自覚ですとこれからも突然起こるかもしれません。パニック障害は、ある条件がトラウマと重なると心的負担がかかって症状として現れます。今回のようなこともこれからありえることです」
パニック障害?俺が?過去のトラウマとか、そんなこと今言われてもと頭の中では思うが
心当たりがあるのは間違いなかった。
あのクリスマス会の準備はやはりあの時と酷似していた、それは思っていたからだ。
でも信じたくない。俺がそんな精神的にやられているかもしれないなんて。
「すぐにとは言いません。心の整理ができたら来ていただけますか」
楠本先生はそう、俺をなだめるように30分くらい話していた。
会話の内容は覚えていない。俺は右手に名刺を握りしめたままただ左から右へとその話を通過させていた。
俺は、いつからそんなことで倒れるようになったんだろう、とぼんやり考えながら。
***
楠本メンタルクリニックは、都心から少し外れた街にあった。
駅の出口からまっすぐと伸びる道は、緩やかな上り坂となっている。
その道の両脇に桜並木が並び、今か今かとつぼみわ膨らませていた。
そしてその間を埋めるように一軒家が並んで建っており、
都会の喧騒とは程遠い世界であった。
時々触れる風が鼻につくと、肌寒さの裏側に小春日和の暖かい空気が肌なまとわりついた。
気持ちがいい、駅に降り立った瞬間からこの街が好きになるか気がした。
今俺が住んでいる街に比べて、百貨店はもちろんないし、安い居酒屋ですら見当たらなかった。
住でいる対象は家族、いわゆるベッドタウンである。
10分ほど歩くと、住居とクリニックを一緒にした白い屋根の家が見える。
玄関は開け放たれていて、中に飾ってある花が時々揺れている。
周りには色とりどりの花が植えられており、とても穏やかな風景だ。
一歩踏み入れると、受付の女性がこちらを見てにこりと笑った。
「こんにちは、もしかしたら四宮洋平さんですか?楠本先生が奥の部屋でお待ちですよ」
待合室の人はまばらで、心なしかどの人も穏やかな雰囲気で各々本を読んだり、絵を描いたりしている。
その横を通り抜け、奥の部屋に向かうと楠本先生が、窓際の花に水をあげながら背伸びをしていた。
「こんにちは。四宮くん。どうぞ座って」
楠本先生がジョウロの水を流しに捨て、目の前の椅子に座るその一連の動きに無駄はなく、翻る白衣が眩しい。
年上で、凛としていて、自分をしっかり持っていそうな彼女みたいなタイプと対峙するとさすがに緊張する。
俺は言われるがままにおずおずとふかふかしていそうな椅子に腰かけた。
座ったことを確認すると、彼女は小さなメモ用紙とボールペンを持った。
「まずは、四宮くんの自己紹介をお願いできる?」
「自己紹介ですか」
「そう。簡単でいいのよ。四宮くんがどんな性格していて、好きなものは何かを知っておくことも必要なのよ」
自己紹介なんて、新入社員の研修以来だ。
自分のことを誰かに話すのは、たとえ趣味とか特技とか出身地であっても得意じゃない。
しかも初対面でもないから変に緊張しながら、俺はゆっくりと自己紹介をした。
「では、次にあなたが倒れた日のこと、少しずつ話してください。できれば詳細に、誰と、どこで、どんな風に。その時思った感情も入れ込んでいい。ロジックとか無視して思いついたまま話してみて」
俺はゆっくり目を閉じて、倒れた日のことを思い起こした。
また前みたいにパニックを起こして、過呼吸を併発するのは避けたかった。
大きく息を吸い込み、少しずつ話し始めた。
「あの日は、クリスマスでした。会社でやっている商品のキャンペーンとしてとある学童を訪れたんです。先輩と二人で。入社の時から一緒に仕事をしてきた兄貴的な人で。尋ねたら夕方で、学校は夕日に照らされたいました。ふくよかな女性が出てきて、商品の話を進めていたんですが、予想以上に打ち合わせが早く終わってしまいました。そしたら女性が、学童を見て帰らないかって。会社から離れていた学校だったから直帰予定だったし、除くくらいなら短時間だしってことで向かったんです」
ロジックに話さなくてもいい、と言われると俺の話し方はあっちへ行ったりこっちへ着たりと全く定まらなかった。
それでも、あのときのことを話し始めるためにはゆっくり、言葉を吐き出すことにエネルギーを使うからそこまで考える余裕なんてなかったのである。
先生は、俺の目をまっすぐ見つめながら、時折「そう、」「なるほど」「それで」と相槌を打っていた。
話を聞いてくれている人がいるだけでも、その時はとても安心したのだった。
「教室に向かうと、クリスマスパーティーの準備中でした。生徒は10人くらい、先生は2人。黒板にはメリークリスマス、とチョークで書かれていて、懐かしく感じたことを覚えています」
ふう、っと知らぬ間に息を大きくはいていた。
教室のシーンになると、肺に空気が入る速度が遅くなっていくように感じた。
「奥には、机の上にプレゼントが平積みされていて、その横で男の子がセロファンを手にかざして遊んでいました。赤や緑や黄色とカラフルで俺も昔あんなことしていたなって考えていたら、急に息がそのしにくくなって。疲れたのかなって背伸びをしようとしたら、その男の子がどこからともなく持ってきた懐中電灯の電源を入れてセロファンをかぶせたんです。遠くから「赤鼻のトナカイ」の曲が流れていて、俺は目の前が少しずつ歪んでいくような…感覚になって…そしたら」
息ができなくなりそうだ。
あと少しでこの状況説明が終わるのに、その先を声を出して言いたいのに、言えない。
肺からようやく押し出された空気が出ていくだけで、言葉が空を切った。
パンッ。
目の前で先生が手を一度だけたたいた。
いつの間にか俯いていたらしく、視線は木目の目立つ明るいフローリング。
顔を上げると先生がこちらをみて穏やかに微笑んでいて、手をすっとドアに向けてあげるとぱたぱたの足音が聞こえてきた。
「カモミールティー、お願いできる?あ、四宮くん飲めるわよね?」
俺はよく状況が分からないまま、息を整えながら首を縦に振った。
息は、少しずつだけれど落ち着いて吐き出せるようになった。
「ありがとう。もう十分よ」
そう告げると、先生は窓の外に向かい大きく背伸びをした。
「今日は本当に小春日和ねえ。年の暮れはあんなに寒くて忙しないのに、年が明けて数日たつと何事もなかったように世界は動き出すわね。そして春になるためのこういう暖かい日差しが降り注ぐまでに1か月もかからないなんて」
脈絡のない話だったが、気負いせずに聞ける話だった。
ほどなくしてカモミールティーが湯気を立てて目の前に運ばれてきた。
一口飲むと、すっと心の奥から温まっていく感じがして背もたれに寄りかかった。
「結果から言うと、君にはパニック障害を発動するトリガーがあって、それがすべて重なりあったり、強く印象に残ると、過呼吸の症状はこれからも出る可能性があるわ。そのトリガーは、クリスマス、赤鼻のトナカイ、セロファンが光を得るときの3つよ」
「なんですか、それ」
「四宮くんには何かそれに関することで封じ込めたい記憶がある。それを思い出すときの心理的ストレスは尋常じゃない負荷よ」
「でも待ってください。俺、クリスマスなんて毎年平和に暮らしましたよ。どうして今になって」
クリスマスは数えきれないくらいあった。
それはもちろん嫌な記憶につながることは知っていたから、手放しでは迎えられなかったけど、こんな症状が出たのはあの時が初めてだった。
「運がよかったのね、と言ってもしっくりこないだろうから無理やり論理的に話すのなら、この3つが同時に重なる場にいることは大人になってからではほとんど不可能じゃないかしら。クリスマスは分かる、でも街に流れているのは「赤鼻のトナカイ」じゃなくて「ジングルベル」か「サイレンナイト」だし、セロファンなんて小学校ぐらいまでしか触れる機会なんてないわ。よっぽどアーティスティックで、クリエイティブに必要ならそれを小道具として使うときはあるかもしれないけれど。でもsこれはあくまでも社会人の話。小学校時代とか、同じ目に遭わなかったのは奇跡」
その話を聞きながら、俺の胸の奥はじりじりと締め付けられるように痛くなった。
クリスマスを小学校の時楽しめなかったのはもちろんであるが、他にも理由は会った。
「僕は、祖母に育てられたんです。両親をその…亡くして。小学校3年生の時です。僕は帰国子女で帰ってきたばっかりで、日本語なんか碌に話せなかった。周りには異国の人間だと距離を置かれたり、からかわれたりしていました。当然、近所に友達なんかできるはずもなく、子供会が企画するイベントには一個も参加しなかったんです。だから、あの時見た学童のクリスマス会の準備は懐かしくて。懐かしかったのに悲しくて、そのうち苦しくなったのは、そういう理由なんですね」
先生はじっと俺を見ていた。
何か腑に落ちたような表情から、少し悲しげなでも優しい目をした。
俺は、絶対大丈夫だと思っていた。
実際は吹いたら飛んでいきそうなくらい、俺の心はすぐに宙を舞う。
そんな覚悟と強さしか持ち合わせてなかったのだ。
「いつか、現れるといいですね」
「え?」
「あなたが今吐き出したこと、受け止めてくれる人」
「いませんよ、そんな人。こんなの面倒でしょ」
俺はこの話を今までの彼女には話したことがない。
過去のことを調べられるようなことー今回のような出来事は一切起きなかったからだ。
それでも俺は時々、話してしまいたい時があって、毎年クリスマスにその相手がいれば切り出そうとするけど、結局目の前で笑って、綺麗で広い部屋で、必要以上に肌を触れ合わせてくる彼女を見るたびに、違うもので覆っては、逃げてきた。
ベッドの上だけは、良くも悪くも何も考えられないでいられるし、決まってそれは彼女の部屋だった。
俺は自分の家に、そういう物事を持ち込まれるのが嫌いだった。
理屈を突き詰めると全く論理的ではないけれど、プライベートな空間に一歩でも踏み込まれると
灰色した思い何かがスライムのように踏み入れた足からどんどん近づくように感じたからだ。
もしかしたら、俺は無意識にこういうことを思い出すのかもしれない。
ここで受け入れて、大切な存在になったら消えた後が怖い、と。
そしていつも朝日が顔をだすころには、ある程度満たされているのに、
どうしても最後のピースがいつも見つからなかった。
終わりのないジグソーパズルがずっと俺の頭の中に張り付いている。
「面倒なことでも、受け入れてくれる人って稀にいるのよ。その人は失う怖さと、独りの虚無を知っている人。そういう人はね、大体一生懸命笑って、冷静を保って、耐えてるの。その人も一緒なのよ。誰かに言いたいけど、言えない。辛いけど泣けない。そんな人がいたら話してみるといい。きっといい変化をもたらすわ」
そんな人いるのかよ、と心の中で笑いながらどこかでいてほしいと願う。
その人に出会えた時は、何か合図があるのだろうか。
今この部屋で風が俺と先生の間を吹き抜けるような、そんなものが。
俺は、分かるのだろうか。
***
国の中心に聳え立つ鏡面加工のビルが無用な圧迫感を生んでいた。
目の前の穏やかな空気に包まれた日比谷公園とはちょうど相反するようだ。
夏が近づき、汗ばむ季節と緑あふれる公園を見るとそこまで気にならない。
過呼吸を起こしたあの冬から、5年の月日が経過していた。
幸い、トリガーが3つ重なることはなく俺はあの日以来過呼吸は起こしていない。
毎年クリスマスになると僅かながら喉に小骨が引っかかったような感覚には陥るが、
これも情けないことに、必ず俺を好きだという女性がいてくれて、一緒に寝てくれたので
それを理由に忘れることができていた。
俺は、本当にひどい男だなと思う。
会社に流れているあの悪評は、ムカつくが的を得ている。
だからこそ、涼香さんだけはその寂しさを埋めるための人にはしたくなかったし
これは俺の勝手な思いであって、彼女には関係のないことだとも思う。
でも、風が吹いたんだ。
初めて彼女を、見たあの時から抱いたことない気持ちがずっと、ずっと心の奥にベールのようにかかっていた。
涼香さんを新入社員の研修で見かけて、少しだけ話した、立ったあの数分間だけで。
それが楠本先生がいう「同じ悲しみを知る人」になるとはその時は想像しなかった。
ただ、お世話になったヘルパーさんの大事な、娘さんだからそう思っただけだと思っていた。
目の前には、大きくて荘厳で、反射する光が美しいビルが聳え立っていた。
そのビルをなんとなく見つめていると、ここで働いている人たちのことを想像する。
俺の会社のビルもきっとこれくらいだけど、ここはなんだか異様な気がした。
俺の開いた鞄の中には、くしゃくしゃになった1枚のはがきが見えていたからかもしれない。
吸い寄せられるようにここに降り立った時、すぐ立ち去りたいという気持ちと
もう少しここにいて考えたいという気持ちが対立していた。
ただ、友人の家に向かう途中の駅だったのに、なぜか足が勝手に向いていた。
このビルに併設されているホールにはもう何年も足を踏み入れていない。
少なくとも社会人になってからは。
時計を見ると、そろそろ地下鉄に乗らないといけない時間だった。
鉛がついたように重い足を地下鉄に続く入口へと向けたとき、後ろから声をかけられた。
「洋平」
振り向くと、そこには涼しそうな水色のワンピースを身にまとった森本結衣が立っていた。
森本とは、この間4年ぶりに会社の受付で再会した。
彼女をここでみかけた春、俺は息をのんだと思う。
本社は、俺が就職したときには今の最寄りより3つほど離れていて、移転の話は会社のHPをこまめにチェックしない限りは分からないはずだった。
それなのに、ここで再会する意味とは、と考えたのだった。
「結衣か」
「珍しいね、ここに来るなんて」
彼女は鞄から少し端が折れ曲がったはがきを1枚抜き取り、俺のほうに見せた。
「今日はここで被害者の会がある。だから来たの?」
俺も彼女が今手荷物はがきが鞄に入っている。
「違う」
「そう、もしかしたらと思ったんだけど」
「俺はもう行かないって前話したろ。今日は、たまたま近くで用事があったから。結衣こそなんでこんな時間に?」
結衣とここで遭遇するとは想定していなかった。
ここで被害者の会は確かにある、というか毎回ここだし、時間も13時から。
俺の時計はだ10時半で、絶対に誰とも会わないと確信していたのに。
「図書館に用があったの。調べ物で。それで今から行こうかなと思ってたら洋平がいるから驚いちゃった」
彼女は日比谷公園の中にある図書館の建物を指さした。
俺と彼女の会話はひどくぎこちなかった。
この間の夜のこともあったし、あの光景を涼香さんに見られていることもだ。
俺は結衣のことは、できるだけ思い出さないようにしていた。
彼女は悪くないが、俺の中でいつも結衣に重荷をかけている気がして苦しくなるからだった。
「そっか。じゃあ調べもの頑張って。俺行くわ」
その場から早く逃げ出したかった。
結衣と話すのにだって体力がいる。
彼女は真面目だから被害者の会も定期的に顔を出していて、それはトラウマで過呼吸を起こしてしまうくらいのメンタルの俺からでは非常に遠い存在だ。
「この間の」
彼女が少し声を張って話始めるので、俺は思わず足を止めて振り返った。
水色のワンピースのスカートを右手で握りしめながら、彼女はこちらを見ていた。
彼女の表情は儚げで、光の反射で見える顔は、どこか不安な濡れた瞳が存在感を放っていた。
「本当…ごめんなさい。あの時のキス、忘れてほしいの」
周りには日曜日の朝の早い時間も手伝って、俺たち以外が誰もいない。
官公庁で囲われているこの国の中心ではごく当たり前の光景だ。
二人だけしか、分からない空気感のなかあの時のキスを思い出した。
蒸し暑い夜の、タクシーのヘッドライトがまぶしかったあの時間。
「私、また助けられると思っちゃった。一回失敗してるのに図々しいよね。偶然洋平と再会できたから浮かれてたのかも」
彼女はうつむいたまま、何も答えない俺の表情を見ずに話し始めた。
風が吹き抜け、俺の前髪と彼女のスカートの裾を揺らした。
「失敗はしてない」
彼女が顔をようやく上げて、俺の目をしっかりとらえた。
予想していない答えがきたことで戸惑っているのかもしれない。
「結衣といた時間って、俺の中では幸せだった。でも、それは見たくないもの見なかっただけ、それに俺は甘えていたんだと思う。結衣といればお互い私たち可哀そう、だから二人で頑張ろうって言って一見よく見えるけど堕ちていくだけだったろ。それは俺が弱いからだったから。結衣は失敗していない。もししているならそれは、俺が自爆しただけ」
結衣とは、20歳のころから俺が過呼吸で倒れた12月まで付き合った。
最近の短すぎる俺の恋愛の中では長い方で、後にも先にもここまで続いたのは彼女が初めてだ。
でも過呼吸になったあの日、正確には楠本先生にパニック障害を疑われたあたりから、いつも前向きで明るい彼女の重荷になるのがつらくなっていった。
このままでは、俺だけではなく彼女にまで影響が出る、そう思って別れた。
あの時のキスは、彼女にこの被害者の会の話を持ち出されたからだ。
お酒を飲んでいた俺は、酔いの勢いも手伝い感情が崩壊した。
あの時と同じように過呼吸気味になる寸前に外に出て、心を落ち着かせた時だ。
トリガーがなければ発動しないなんて、そんな都合のいい展開はなかった。
いつでも心理的負荷がかかれば、思い出す程に弱くなっ得ていた。
そして追いかけてきた結衣に不安をぶちまけた後、冷静になりあの事件が起きた。
我に返って唇を拭うと、ガコンッと何かが落ちるに鈍い音がして上を向くと、向かいの公園でこちらを見ていた人影に気づいた。
それが涼香さんだ。
案の定、ベランダに行くと彼女は困惑した様子でビールを飲んでおり、その場で適当にデタラメを話して、その場を収めた。
俺がこんなことで過呼吸に悩まされ、突然不安に襲われることを、奈津子さんを亡くして日の浅い涼香さんには見せたくなかった。
きっと彼女は、俺のことを心配して同じように泣くだろうと思ったからだった。
笑っている顔が隣で見たかった、それが恋人ではなくとも。
「ううん、私は洋平を救えなかった。救ったのは柊さんでしょ?」
結衣の口から涼香さんの名前が出て、俺は正直焦った。
まるで俺の心の中を読んだかのように思えた。
「勝手に、俺が救われた気になってるだけだよ」
そう言って、俺は一気に地下鉄へ続く階段を駆け下りた。
涼香さんは、俺の過去を知らない。
結衣とのことはもちろんだけど、それ以前の俺の生涯を。
両親の話をしていた時の彼女の涙はとても美しかった。
俺が何十年、何百年かけても流せない涙を見たときに、この話はできないと思った。
ただ、何の偏見もなくベランダ越しでもいいから隣にいたかったのだった。
俺らしくない、そう思った。
いつまでもリフレインするのは、お通夜の時に見た彼女の涙ばかりだ。
まるで何かの魔法にかかったみたいに、ただ何となく続いていた日々に色がついた。
ただ、それだけだったのに。