4.ヘッドライトの闇
8月に入り、すっかりこの国は夏本番になった。
四宮とランチに行ってから1ヶ月経ち、あの一回以降行けていなかった。
忙しくなったのか、社内で挨拶をする程度で、家に帰ってもあちらが遅く帰宅することがほとんどであった。
ベランダに出ても、人の気配は感じられなく
やっぱり営業部のエースなのだなと改めて思う。
そんな今日は社内がどこかざわついていて、みんな心がうわついている感じがしていた。
というのも、四宮が担当していた皇居ランが趣味の社長の案件がいよいよ大詰めで、その結果が今日来ると噂で聞いたのだ。
経理部にもその関連の接待費が申請されていて、尾高さんといよいよかな、と話していたのである。
結果は、15時ジャストに来た。
長針が0になり、その数分後にすぐ近くの営業部から歓声が上がった。
いつもならその騒ぎに経理部全員、無視を決め込むのであるが、
今回はその案件が大きく、会社の財産として価値が高かったので気になってしょうがないらしかった。
部長がこちらに向かって走ってきて、勢いよくドアを開けた。
「決まったぞ!!これで今年の決算は黒字確定だ!」
部長が嬉しそうに、そして少し興奮しながら話すと経理部からも良かった、と言う声が上がった。
前期決算であまりいい成績じゃなかったから、ここで挽回できると思うとありがたい話である。
「いやー良かった。やはりすごいな、なんだっけ、営業部エースの」
部長が尾高さんの方を見ながら聞く。
「四宮くんです」
「そうそう四宮くん!あの子が商談まとめたらしくて、まだ若いのにすごいよねえ。僕の息子もあれくらいにならないかな」
全然自分の部下でもないのに、誇らしげに話す部長にみんなが苦笑しているなか、私はなんだか家族が褒められているような感覚でむず痒かった。
ただの隣人、母のことがなければ接点もなかった四宮くんだけど、ここ最近仲良くなりすぎてこう言う話を聞くとなんだかこちらまで嬉しくなるのだ。
「やだ、柊さん嬉しそうじゃない?」
尾高さんがニヤニヤしながら声をかけてきた。
どうやら目元がニヤついてたらしく、それを尾高さんに見られてとてつもなく恥ずかしくなった。
「違います!ただすごいなって言う感想ですよ」
とか平常心を保っているつもりでも、クリップを何回か掴んでも落としてしまうので、動揺は明らかだった。
「そうかなあ〜?最近四宮くん、柊さんに直接精算書持ってきちゃうしなあ〜柊さんもまんざらじゃないじゃない?」
と大きな声で言うものだから、ほかの経理部員がこちらを見てきてしまう。
「だから、そんなことないですって。偶然です!」
「いやいやそんなまじにならないでよ。でも本当、四宮くんがいればこの会社の未来明るいかも」
そう話しながら尾高さんが書類をトントンと音を立てて整理する。
それを合図に、また業務に戻るところは経理部のいいところかもしれない。
私はチラリと営業部がある方角を見る。
四宮くんが、上司らしき男性から頭をくしゃくしゃにされ、周りの社員が拍手を送り、そして事務の女性が目をキラキラさせて彼を見ていた。
まるで、この間また受付嬢のようなそんな表情だ。
世界が違うな、やはり。
経理部は四宮のことで盛り上がってもすぐに業務に戻るし、視線をキラキラさせる女性もいない。
隣人でもなかったら、本当に別世界の人だ。
今でも信じられない、四宮とランチに行ったことも、
母に線香をあげるということで部屋に来たことも、彼の前で泣いたことも。
私は一息ついて、再び大量の精算書と向き合った。
今日も四宮からの精算書は、シワひとつないレシートが丁寧に貼り付けられていた。
***
「四宮くん、今年のうちの会社の売り上げの半分以上持って行ったって、人事部でも話題」
空はすっかり暗くなり、時々焼き鳥の匂いとともに生暖かい風が吹いてくる。
周りはがやがやと人がいろんな話をしていて心地よい騒音になっている。
夏の風物詩でもあるビアガーデンでは相変わらずの賑わいを見せている。
花織はお酒が強いので、1時間もしないうちに2杯目がもう終わろうとしている。
私はどうにかちびちびとすっかり泡がなくなってぬるくなったビールを飲んでいた。
「経理部でもすっかり話題。部長が嬉しそうに話してたもん。四宮君とまともに話したことないのに」
目の前の焼き鳥をつまみながら、肘をついた。
「てか四宮君とは?どうなの」
花織は待ってましたとばかりに、ビールを飲みきりテーブルから身を乗り出した。
改めて聞かれると、なんとなく言いにくくて私はビールを飲み干し、2杯目を頼んだ。
「どうというか…とりあえず四宮君は花織の言う通り母と接点があった。昔母が勤めていた介護ヘルパーのときにお世話をしていたおばあちゃんの孫だった。それで知ってたみたい」
花織はぽかんと口を開けて、私を見ていた。
その沈黙を切り裂くように若い店員が勢いよくビールを目の前において去っていく。
なんとなく、そのビールを一口飲むと花織も我に返ったのか同じように飲む。
「なんかそれ、シンプルにすごいね。運命っていうかさ、涼香ママのファインプレーって感じ」
「ファインプレー?自分はさっさといなくなったのに?」
「いやだからそれよ。自分の代わりに四宮くんと出会わせたとか」
「そんなファンタジーないって。偶然でしょ」
「偶然の割には、四宮君は入社時時代から涼香に興味めちゃめちゃあったけどね」
「でも花織もここまでとは思わなかったでしょ」
「まあ…新入社員のときはなんか無理して周りに合わせてます、って感じも受けたけど結局営業部エースになっちゃったし、そして涼香には精算書を送るのは、新入社員のときからのクセが抜けないだけかと思ってたけど結果これだし。想像できなかった」
焼き鳥を食べながら、何かを思い出すように空を見上げた。
花織にどこまで話すべきなのか、隠し事をしているわけではないけれど進んで話をするのも恥ずかしかった。
「四宮君は確かに読めない人だよね」
「その通り。仕事もできるしあの容姿だし、コミュニケーション能力もある一定のレベルがあっていいんだけど、何を考えているかは全然分からないとも言われている」
花織は少し渋い顔をしながら、肘をついた。
「四宮君と付き合ったとか、良い感じになった女性社員ってあんまりその後話を聞かないんだよね。
辞める子も多いしね。まあ偶然かもしれないけど」
人事部に所属していると、社員の噂がたくさん集まるのは本当なんだなと感心した。
そういえば、あの受付嬢はどうなったんだろう。
「やっぱり恋愛関係が多いんだね。どこもかしこも。社内恋愛の面倒なところだ」
花織は椅子に座りなおして、内緒話を始めるかのように小声で話す。
「今は受付嬢の森本さんって子らしいよ。ほらあの肩までカールかかってていかにも女の子、って感じの子。ここの会社の若手はみんな鼻伸ばしてる。で、その高嶺の花らしき森本さんが、今狙っているのが四宮くんって話。これ結構営業部でも話題だし、そのうち涼香の耳にも入ると思うけどね」
「そっか、やはりエースはモテるね。別の世界の人みたいだ」
「そうだね。四宮君は特にそんな感じ。よく言えばミステリアス、悪く言えば人に無関心って感じ。付き合ったって聞いた社員みんな口をそろえて言うんだよね。私ではダメでしたって。なんの遺言よ」
花織が苦笑しながら、残りのビールを飲み切る。
確かにミステリアスではあるが、人に無関心には見えなかった。
それが自分の悲しみを救い上げた恩人であったとしても、その子供に当たる私にまで興味を持って両親の話を黙って聞いてくれるような人が無関心ってことはあるんだろうか。
それとも同情でここまでよくしてくれるのかなと思ったがそれはそれで手放しで喜べない。
「でもさ、花織…」
と声をかけると花織は、飲みすぎたのかテーブルに突っ伏していた。
飲みすぎると寝てしまう彼女のこの酒癖、すっかり忘れてたな。
先ほどの若い店員を呼び、水をもらった。
***
すっかり夜が更けると、まだ空気は生暖かいけれど少しばかり体感温度は下がった。
繁華街から少し歩き、小さな公園のベンチに花織を座らせた。
「ごめん、すっかり飲みすぎて」
気分は悪くなさそうだが、少し眠そうな彼女の足取りはふらふらで、もう少し夜風に当たってからがいいだろうという話になった。
「相変わらず飲みすぎると眠くなるのは変わらないんだね」
ベンチの隣に座り、二人で背もたれに寄りかかる。
「四宮君、女関係の噂よく聞くけど涼香にはわりと開いていると思うんだよね。私の見立てだけど。涼香が思ったままのイメージでいいと思うよ」
「何よ急に」
花織は首だけこちらに向けて少し目元を細めた。
「四宮君と話をするようになってから、涼香はなんか雰囲気変わったよ。もともといい人だけどさ、なんていうか温かいっていうかさ。とても今年お母さまを亡くしたようには思えないくらい落ち着いてる。何があったかは聞かなかいけどさ、それで涼香が安定するならそれで」
花織はそれだけ言うとそっと息を吐いた。
隣人であることも、飲みに行ったことも、お線香をあげてくれたこあげてくれたことも何も話していないのにすべてお見通しという感じだ。
「水、買ってくるね」
なんとなく気まずい気がしてその場を離れて近くの自販機まで歩いていく。
繁華街の光が遠くのほうに見えて、にぎやかな声が耳に届く。
近くにはビルがあり、繁華街から見ると死角で見えないが、公園からだとビルの人影が見える。
背が高い男性らしき人と、頭が2つ分くらい小さい女性が何やら向き合って話をしていた。
その距離がとても近かったので、金曜日の夜だからかなと目をそらそうとした。
すると公園とビルの間に勢いよく通り過ぎ、タクシーのヘッドライトがその二人を照らした。
少し伸びた前髪から切れ長の目と、少し寄れた白いシャツにゆるみきったネクタイが見える。
四宮だった。
でも私と話す時とは違う、少し色のない目のような気がする。
四宮が見下ろしている視線の先にはカールのかかったかわいらしい女性の森本だ。
花織の言っていたことは本当だったらしく、二人には何か親密な空気が流れているような気がした。
見てはいけないなと思いつつ、好奇心には勝てず、水のボタンを押すフリをしながらみると
暗闇に目が慣れるとヘッドライトがなくても二人が何をしているのか見えてきてしまう。
何か会話をしているようだが、四宮はあまり森本を直視していないようである。
森本が何か必死に話しかけていて、それでも話が平行線そうである。
別れ話のもつれかな、と思ったのと同時に、あのときは何の関係もないって言ってたけどやはり付き合っていたのかとどこか失望に近い感情があった。
それはなんというか、同じ世界にいると思っていたら別の世界の住人で夢からさめたような感覚。
何を考えているんだと、律しながら目をそらそうとした瞬間、再びタクシーのヘッドライトが照らす。
森本が四宮の緩んだネクタイをぐいっと思い切り下に引いたのだ、突然のできごとだったのか
それくらいの力じゃ揺るがない四宮の体が大きくバランスを崩した。
とても一瞬の出来事というか、勢いに任せ感情に流された荒いキスだった。
森本はその場から逃げるように繁華街のほうへと走り去り、四宮だけが残された。
ビルの壁に寄りかかり、右手で唇を拭った後そのまま空を見上げた。
その目がなんだか遠い何か別なものを見ているような目をした。
どこか虚無に近いような、目の色がモノクロで光がないように見えた。
この間は、あの瞳から一粒涙を流す姿が美しかったのに。
ピッと音を立てて、ガコンとと音を立てて水が落ちてくる。
考え事をしていてすっかりお金を入れていたことを忘れていた。
その音が聞こえたのか、四宮がこちらに顔を向けた。
私は慌てて水を取り出し、花織がいるベンチに走っていく。
花織はすっかり復活していて、息を切らした私を不思議そうに見ている。
「どうしたん?」
「いやそのなんか…見てはいけないものを見たっていうか」
「何それ。男女のイチャイチャとか?」
花織が鞄から財布を出してにやつきながら言う。
多分冗談だと思っている。
冗談じゃない。ただの他人であればまだしも。四宮と森本の時点で頭がついていかない。
「えっ、知り合い?」
その言葉が頭のなかで反芻し、またもや花織の勘の鋭さに身震いしてしまいそうになった。
***
帰りにコンビニに寄り、いつもは買わないビールとナッツ、それにチキンを買おうとしたけど
店員にかごを差し出す前に、冷蔵庫に筑前煮があったことを思い出してやめた。
ビニール袋をぶら下げながら、空を見ながら先ほどのことを思い出す。
男女のイチャイチャを見ること自体はどうでもいいのだが、それが知り合いのしかも四宮となると
兄弟のそういうシーンを見せられた家族の気持ちになってしまう。
たかが隣人、それだけの関係なのだから私がそのような気持ちになるのは変な話なのであるが。
部屋に戻り、適当に荷物を置き、コンビニのビニール袋と、作り置きしてあった筑前煮を持ち出す。
着替えるのも面倒でそのままベランダに出て、大きく背伸びをした。
隣の部屋からは物音ひとつしないので、おそらく四宮は帰っていない。
帰ってこられても、先ほどのことをぶり返されたら困る。
でもあんなシーンを見せられて、どうにもこうにも眠れる気もしなかった。
あの感じだと、森本は一方的に四宮のことが好きだったのだろうか。
四宮の断り方が悪いようには見えなかった。
よくあるドラマのシーンだと、四宮が変な断り方をすればキスではなくてビンタをかますほうが自然だし、そのあと走り去った彼女はおそらく泣いていたと思う。
そしてそのあと残された四宮の目が本当に暗くて、虚無で少し怖かった。
何も感じていない、感じない人の目のような気がする。
血のつながりもない人に、涙を流すような人なのにとても違和感があった。
ビールがプシュッと音を立ててる。
昨日の筑前煮もなかなか味が染みていておいしい。
隣の部屋からガタガタと音がする。
私はびくっとしながらとっさにベランダから部屋に戻ろうとするが、
筑前煮を広げてしまっているし、ビールは開いてるしで身動きが取れない。
隣人の物音は次第に大きくなって、まるでそこに私がいるのが分かっているかのように
ベランダの窓が開く音がして、四宮がやってきた。
「四宮君」
四宮は、先ほどとは違う色のついた瞳で、少し顔が赤らんでいて気分がよさそうだぅった。
「いると思った。今日は外でビールを飲みたい気分だろうと」
四宮も先ほど見たばかりの寄れた白いシャツに、ネクタイのままで手すりに寄りかかる。
「それは…そっちでしょう。顔赤いよ」
「飲みたくてどうしようもない気分だったんで」
四宮は外側に体を向けて、顔を腕にうずめてつまらなそうに街の外を見ている。
聞いてほしいのかもしれない、でも一瞬の出来事だったから私だと認識していないかもしれない。
そんな確信がないのであれば聞くことでもないだろうと思った。
「見てたでしょ。さっき」
ビールを口につけて飲もうとしたのに、そのことでむせてしまった。
「え」
「俺と森本さんの。涼香さんってすぐわかったよ」
「人違いじゃないの」
「見苦しいところみせてごめん」
「なんで謝るのよ。四宮君がどこでだれが何をしようと関係ないもの」
ふふっと笑ってこちらに顔を向ける。
「確かに。なんで俺謝ったんだろ」
「森本さんに謝ったらいいんじゃないの、彼女泣きながら帰ったけど」
「ばっちり見てるじゃん」
あ、と思って慌てて口をつぐみ、とりあえず目の前のビールを一口飲む。
「森本さんに謝ったら、それこそキスだけじゃ終わらずビンタだったかも」
「どういうこと?」
「ごめん、君じゃダメなんだと答えた。嫌いでもなければ好きでもなかったし。ほかに誰かいるわけじゃない。だけどこの子じゃないってことだけは分かる。そのまま答えた」
「それと不意打ちのキスが何か関係あるわけ?」
「付き合ってもないのにそういわれるんだぜ、ムカつかない?それなのに彼女はじゃあ最後にせめてっていって。涼香さんの見た通りのことが起きた」
「それだけ好きだったとか?」
「なんでだろうな。俺の何がよかったんだろう」
「ねえ、それ本気で言ってるの?」
聞いているうちに四宮の無自覚さと幼心がなんともイラついてきて、花織が言う女関係があまりよくない理由はこれなのかとあきれてしまう。
確かに四宮みたいのにハマるとダメになるかも、と今までの彼のために恋をしてきた女性社員に同情する。
「うん。本気だけど」
「四宮君、自分の評価低すぎない?仕事もできて営業部エース、人当たりもいい、容姿もいい。それで何がよかったのって嫌味みたいに聞こえるよ。まあ森本さんに関してはそのあれかな、別かもしれないけど」
「嫌味かあ。そうなのかなあ。でもなんか元気出た」
「なんで」
これ結構がっつり言ったつもりだったんだけど。伝わってないのかな?
怪訝そうな顔をして四宮を見ると、彼はまた無邪気に笑うのだ。
「涼香さんが、俺のことそう思ってるんだって分かって。なんか自信ついた」
「これ世間一般的な感想だと思うけど」
「涼香さんが言うから価値があるんだよ。俺に興味なかったらそれはそれでショックというか」
「私の評価いるかね?女性社員の代弁と思ってもらっていいんだけど」
彼の視線が私の手元に移っていた。
「あ、筑前煮」
「え?」
話が急に飛び、彼の視線を追いかけたると物置の上に置いた筑前煮に向いている。
「美味しそう、ちょっとくれない?」
手を差し出してくるものだからなんだか断る隙間もないからそのまま渡す。
こんにゃくをひとつお箸でとると、美味しそうにほおばる。
「おお、美味いね。涼香さん料理得意なんだ」
「これくらい君の歴代の彼女もできたでしょ」
「まあそうかもしれないけど、よく覚えてない」
そういいながら手に持っていたビールを飲み干した。
どうやら長い時間歩きながら飲んでいたらしく、残りはほとんどなかったようだった。
それくらい飲みたくてやってられない時というものが彼にもあるのだなと思う。
「俺はね、人を本当に好きになったこともないし、家に彼女を呼んだこともない。すると、彼女は最後に必ずこう言うんだ。他に女がいるんだろって。だから呼べないんだろって。そしてキレられて終わる。じゃあ別れようというと泣いてすがられて、俺はこう言う、君じゃダメなんだって」
四宮の前髪を揺らすように夜風がふっと吹いていく。
彼が右手に持つビールは力が入りすぎていて、少しばかり凹んでいる。
ー四宮くんと付き合ったって言う女性社員はみんなこう言うの私じゃダメでしたって。
花織が先ほど話してくれたことを反芻する。
あれ、本当だったんだ。
すっかりフラれた女性の言い訳に近いものかと思っていた。
「じゃあ、四宮くんはどんな人だったらダメじゃないの?」
それは単純に興味だった。
彼が言うダメじゃない女とはどんな人なのかシンプルに気になったし、私に見せる戯けた目や、母の遺影の前で一粒涙を落としたあの美しさや、森本さんに向けた冷めたような視線の使い方から、もう四宮洋平という人間がよくわからなくなってきたのだ。
ミステリアス、なのかもしれない。
でもそれとはまたちょっとだけ違う気がしてならない。
「好きとか嫌いとかよく分かってない。みんな俺のことをそう言ってくれるけど不思議なんだ。出会ってそんなに経たない人をここまで愛せるものなのかとか、そう言う類の面倒臭さが俺にはある、ような気がする。だからどんな人が良いか言葉で説明できない。多分それは突然やってくるのかもしれない」
私はその哲学的な答え方に彼の葛藤を見たか気がした。
誰かを本気に好きになったことないとか、現実にあり得るのだと思うと、人を好きになることが難しいこともあるのだと思う。
「引いた?最低だよね」
沈黙が長く、私も彼の方ではなく眼下に広がる街を見ていたせいか、四宮が少し弱々しく話してくる。
私も同じように眼下に広がる街並みを眺めた。
「いつか出会えるんじゃない。きっとどこかで四宮くんは本気で人を好きになれる人、探してるのかもね。そう探しているうちは、そんな不安になることでもないような気がするけど。私には、四宮くんが誰かを心から想えないような人には少なくとも見えないかな」
率直なイメージだった。
ただ不器用なだけなのかもしれないし、単純にタイミングが合わないだけかもしれない。
今度はあんなに話してきた四宮くんが黙る。
ちょっと踏み込みすぎたかなと、恐る恐る右側に視線を落とすと、彼はただじっと私を見ていた。
その目はとても透き通っていて、その眼差しが強すぎて吸い込まれそうなほど美しかった。
白いシャツが寄れて、ネクタイがだらしなく首にかかっていても、その佇まいに私はどうして釘付けになる。
「なんか俺、涼香さんにそう思ってもらえてるならもう良いかも。難しく考えるのやめたくなるっていうか」
「うん?それはどういうこと?」
彼はベランダのギリギリまで歩いて手すりに膝をついて長い指が、月の光に照らされてぼーっと浮かぶ。
今度の目は、どこか温かくて柔らかい優しい視線。
「肯定してくれる、その感じ本当好きだなあってことです」
そう話すと今度はにこりと笑って少年のような雰囲気を纏う。
あのビルで見た時は私よりずっと大人びたような視線でそれはむしろ冷たいと感じていた。
帰ってきた彼は、頬を赤らめて戯けて見せたし
恋愛の話をするときはどこか遠いかなたを見るような切ない目をして
私に話した後は、濁りのない真っ直ぐな目で捉えてきて。
最終的に少年のように笑ってくる。
分からない。彼のことが。
そしてその度に少しずつ心を乱される気がして落ち着かない。
「飲みすぎたんじゃない?もう寝なさいよ。私も眠いし」
彼からさらりとでた好きだなあと言う言葉、この話の後に聞くとすごく重かった。
本気で好きになったことがない人に、ほんの少し期待してしまいそうで、なんとなくそこにハマったら抜けられないのも怖くて。
私は視線を落として、コンビニの袋にゴミを入れる。
「そうですねえ。またこうやって俺の話聞いてくださいよ。
涼香さんくらいしか、話せないし。では、おやすみなさい」
彼は手すりから体を離すと、さっと翻ってベランダから消えた。
ドアの鍵を閉める音がして、先程まで賑やかだった周りの空気は一気に静かさが包んだ。
意外とあっさり帰っていくのも、なんだか不甲斐なかったけれど、あれ以上私は何を彼に求めていたんだろう。
きっと、ああいうタイプは好きになってはならない。
あの瞳に吸い込まれたら、抜け出せない。
でもどうしようもなく、四宮の言動一つ一つに心を抉られていくような気がする。
手が届きそうな、届かなそうなそんな絶妙な距離で四宮は私を見ているのだ。
母のお通夜もそう、声もかけずに走り去る車が目の前を通る大きな道路の反対側で彼は、私が出てくるかも分からないのに立ち尽くしてこちらを見ていたように。
近くの椅子に全身の力が抜けたせいか雪崩れるように座る。
このまま私は彼に踊らされるのだろうか。
でもきっと私はそう分かっていても、彼を無視することはできないし、今更こうなる前の私には戻れなかった。
ぽっかり空いた穴。
それをさっと埋めてくれたことは間違い無くて、でも時々隙間が空いて冷たい風が入っていく気がする。
何を振り回されているんだろう、私は。