表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/12

3.初夏の夕景

なんだか眩しいな、と思って目を開けたら自分家のベッドに横たわっていた。

内側から金づちでなぐられているような頭痛で起きたようなものだった。

昨日、四宮と飲んでいたことは覚えているけれど、

途中からどれだけ飲んで、どうやって家に帰って来たのか覚えていない。

ゆっくりと鉛のように重い体を起こすと、服は昨日のままで、

鞄は部屋の隅っこに申し訳なさそうに端に置いてあった。

この部屋に、私以外に人はいなさそうなので

四宮とどうにかなってしまったということはなさそうである。

ベッドの近くに置いてあるテーブルには、メモ帳の上にリモコンが重し代わりに乗っている。

メモを引っ張り出すと、相変わらず綺麗な字で鍵は閉めて、ポストに入れておきました、と

そう丁寧に記されていた。

ああ、やっぱり四宮に送ってもらったのか…

私はよろよろとベッドにもどり、スマホを取り出す。

彼からのメッセージはなかったけれど

さすがにここまでさせといてお礼を言わないのも申し訳なかった。

スマホをいじろうとするが、頭がガンガンしていてまともに画面を見ることができない。

そういえば、喉も乾いている。

部屋もなんだか暑いし、とりあえず外に出よう。

時刻はまだ朝8時である。

ベランダに続く窓には、雲ひとつない青空が朝日を浴びて照らされている。

昨日、四宮と飲んだのが嘘みたいである。

前から知っていたとはいえ、ほぼ初対面同様なのにこんな記憶をなくすまで飲むとか、

私もどうかしている。

そして彼は、泥酔したであろう私に特に手も出さずに常識的に家に帰ったのかと思うと

さらに罪悪感に襲われそうだった。

冷蔵庫から水を出し、とりあえず目を覚まそうとベランダに置いてあるつっかけに足をかけた。

今日も暑そうであるが、真夏日でも朝の風はとても涼しい。

全身に光を浴び、風を感じると少しずつ目が覚まされていくような気がする。

私はふうっと深呼吸をして、改めてスマホを見た。

なんて言おうかな…

泥酔していて記憶ないんですけど、変なこと言いませんでしたか、とか聞きたいレベルである。

あ、でもあんな完璧な営業部エースに酔い潰れたところ見られて何を今更恥じることもあるのかなとも思う。

とりあえず、昨日は申し訳ありませんでした、かしら。

と考えていると、どこからともなく煙草の香りが風になって来ている気がする。

朝から煙草かあ、粋だなあなんて頭の中で考えていると

「起きましたか」

と声がする。

私は一瞬顔を上げ、なぜベランダにいるのに声が聞こえるのか、と思わず下を見た。

下の人が、家の中にいる人に声をかけているのかもしれない、と思ったからである。

「隣ですよ、隣」

また聞こえる。私はその声の主の方ー右方向を見た。

そこには、私と同じように手すりに肘をかけ、

右手には煙が漂っている煙草を持ち、白いトレーナーにいつもよりペタッとした髪型の四宮洋平がいた。

「え」

言葉にならなかった。

まずなぜ隣にいるのか、ということ、そしてそもそも四宮くんは煙草を吸うのか、という

果てしなくどうでもいい疑問が同時にぶつかった。

完全にオフで、やる気のない感じが出ている。

そして彼は煙草を蒸しながら、時々空を見つめては、私の方をじっと見ていた。

「よく眠れたみたいで良かったです」

彼は朝から爽やかな笑顔でそんなことを言う。

いやそんなことより。

「なんで四宮くん、そこにいるの…?」

もしかして彼女の家なのか??

今彼女は寝ているのか??

いやそもそも隣人いたんだ…とますます混乱している。

「いや、ここ俺の家ですし。なんなら涼香さんより1年早く住んでますし」

1年も早いのに、私はここに至るまで隣人がいたことすら知らなかった。

いつも人の気配がないような気がしていたし空き部屋なのかなと思っていたくらいだ。

そして自然と名前で呼ばれていることにも、純粋に驚いている。

「隣人がいることすら、全然気が付かなかった」

「今、涼香さんがいる部屋は俺よりも先に押さえられていましたけどね。それこそ一度も隣人に会ったことはないの俺のほうですね」

四宮は一本煙草を吸い終えると、灰皿に押し付けて左手に持っていたのであろうペットボトルから水を一口飲んでいた。

私は自分が今、昨日の泥酔した状態のままでいることも忘れて自然とその質問に答えていた。

「ああ、それはたぶん母が、先にここを押さえていたからじゃないかな。ここに住むことなく逝ってしまったけれど」

母がなぜこのマンションを借りたのかは、最後まで分からなかった。

理由を聞くにも、もう母はいないわけで、最近までこの家の存在すら知らなかったのだから。

「だから、会社から離れたここにわざわざ引っ越してきたんですね」

「ここのほうが部屋が広くて、ちょっと静かでリセットするにはちょうど良かったから。

遠いのは難点だけど、四宮君こそ営業部のエースで帰り遅いのになんでここにしたの?」

少しずつベランダに注ぐ光が強くなっていく。

もうすぐ、眼下に見える住宅街に住む人々が、活動をするころだろうか。

なんだろうか、こんな静かで公園が多く見えるこの街で、私と四宮だけが別世界にいるようだ。

「エースだから、プライベートくらい1人でゆっくりしたいからですよ。前は都心に住んでいましたけど、なんか落ち着かなくて。騒がしくて、家にいるのに全然休まらない気がして。

ここは確かに不便ですけど、涼香さんの言う通りリセットするには最高なんですよ」

彼は手すりに肘をついて私のほうを見ながら目を細めて優しく笑った。

その姿になんだか、こちらまでホっとしてしまって穏やかな時間が流れている。

本当に、本当にどうしようもない感想であるが、四宮はやっぱりかっこいいのである。

そんな人が二日酔いでつぶれたアラサー女を家まで送り届け、紳士的に家に帰り

隣の部屋から煙草を吸いながら余裕を醸し出して話しかけているというこの状況はなんだ。

とはいえ、リセットしたいという点では激しく同意するのである。

「私たちは、リセットしたい者同士なのかもしれないね」

彼がなぜリセットしたいのか、の理由が営業部として疲れだけではないのはなんとなくだが分かっていたのだが、聞くのも変だなと黙った。

多少の沈黙が居心地が悪かったので、私は大きく背伸びをして息を吸い込んだ。

少し暖かくなった風が鼻から入り、喉を抜け、すっと体の中に溶けていく。

「昨日はありがとう。申し訳ないから、今度ランチでも奢る」

「まじっすか。楽しみにしてます」

じゃあね、と言おうと再び四宮を見ると、彼も同じように背伸びをしていた。

私はその姿を眺めてから、部屋に戻った。

何も言わなかったけど、これは他に口外することではないんだろうなと考えながら。


***

会社につき、いっきに6個も稼働しているエレベーターホールへ向かう。

数分待ったあと、ようやく乗れたエレベーターにはどうにかあと1人は入れるくらいの余裕しかない。

「今日の会議で、決まりますかねあの企画」

奥のほうで四宮君と同じくらいの男性2人が、小さい声で談笑をしているのが聞こえる。

「どうかな、でも課長は今日始発でプレゼン資料を見直してるってほどだから、営業第一課は大変だよな」

そういえば、今朝の隣人である四宮の家からは人の気配はまるで無く、水を打ったように静かだった。

営業一課は四宮の所属部署であり、その会話から補足するとやはりかなり早く会社に行っているだろうか。

階下ボタンの前で「閉」ボタンを押そうとすると

「あ!待ってください!!乗ります!!」

と声が聞こえ、慌てて「開」ボタンを押した。

閉まろうとしたエレベーターのドアから、スッと滑り込むように乗る男性。

「すみません、ありがとうございます」

彼は階下ボタンの前にいる人だけではなく、エレベーターに乗っている人全員に言っているようだった。

私はちらりと、その男性を見ると髪の毛が少し乱れ、息を整えている四宮である。

四宮は私のことをちらりと見るが、特に何も言うことがなく正面を向いた。

こんな密室の空間で、私に挨拶している四宮見られたらなんか面倒なことになりそうなことは予想がついたし、私としてもここは隣人であることを忘れてほしかった。

私より出るの遅かったのか…と考えながらエレベーターが音を立てて上がり、数字が増えていく。

四宮は、スマホを取り出し何やら打ち込んでいるようだ。

営業部のある階に止まると、四宮を先頭にぞろぞろと降りていく。

残されたのは私を含めて3人に減っていて、エレベーターはたくさんの人を営業部でおろし

そのあとはすべてを吐きだしたかのようにスーッと上に行く気がする。

私も心なしか一息ついていて、ポケットにいれたままのスマホを確認すると、メッセージが1件入っている。

こんな時間に誰なのかとメッセージをタップすると四宮からである。

-おはようございます。今日、社内にいるのでランチどうですか?

時刻はあのエレベーターに駆け込み、私のことは知らない人のように乗っていたあの時だ。

スマホを見ながら打っていたのは、これだったのか。

目的の階につき、「開」ボタンを押しほかの人を先に降ろした後、私も後に続いた。

-おはよう。そんなお昼奢られたいんですか?

と打って。ポケットにしまおうと思うと物の数秒でレスポンスが来る。

-はい。笑

そのシンプルで、素直すぎる返答にふふっと思わず笑ってしまい、慌てて他に人がいないことを確認してしまった。

四宮もこういう冗談みたいなこと言うんだと思った。

何通かのやりとりを、トイレ休憩の合間にすることになるため、普段はスマホを持ち歩かないのにこそこそと鞄から出しては入れ、の繰り返しをしてしまう。

まるで気になる人からの連絡を待っている女子高生のような行動である。

尾高さんに、何か突っ込まれやしないかと内心ひやひやしながら、どうにか時間を決めた。

お昼12時半に、ビルから少し出たところにある外のベンチで待ち合わせとなった。

尾高さんに今日は遅めにでることをつげ、彼女が先にお昼に出てから少しして、1階へ降りた。

高層ビルの中層階に位置する私の会社からでは、地下まで下りるのにも一苦労である。

受付の前を通ると、最近入ったのか見たことのない女の子が座っていた。

肩まで程よくカールがかかり、メイクは濃いが不快な感じはなく、ニコッと笑うとまん丸い目がさらに愛らしく映る、いかにも可愛いを全体で体現している女性だった。

代わる代わる、自分の会社の男性がその彼女に話しかけている。

その姿を横目に、外のベンチで腰かけていると、待ち合わせの時刻まであと5分ほどである。

なんとなく受付の女の子のことを観察しながら、さまざまな男性を嫌な顔をひとつせずさばいていく。

その波が切れたな、と思ったところに朝よりは綺麗に整っている髪の毛を揺らしながら、足早にエレベーターホールから出てくる四宮が見えた。

四宮が受付の前を通るとき、今まで座って笑っていた受付の女性が、中腰を上げて声をかけているように見えた。

四宮は足を止めて、一言二言交わした後、こちらに小走りでやってきた。

彼と話した後の受付の女性は心なしか頬が少し赤くなっている気がする。

これが、四宮の力なのか。これが恋ってやつなのかなあとぼんやり考えていると四宮が息を切らして目の前に現れた。

「すみません、少し遅れてしまいました」

受付の女性は、新たな来客の相手をしており、私と四宮のことには気づいてないようだった。

「あ、いえ。ていうかさっき受付の子に声かけられてましたね。モテますね~」

そう答えると、四宮は少し困った顔をして、歩き出した。

「違いますよ。午前中に俺の担当した取引先の方がいたから、午後もいると思いますよみたいな情報だけです」

「へえ」

あれだけ人が行ったり来たりして、1日に何十人も相手をしているのだから、四宮個人の情報を知っているのかというのと、四宮のような営業部のエースが持つ取引先の顔を覚えているなんて不可能であるし

これはもう情報だけ、の話ではないと思うが、それはとりあえず飲み込んだ。

このままのほうが、受付の女の子の恋路を邪魔しない気がしたからだ。

「どこ行きましょうか。特に決まってなければ行きたいところがあるのですが」

いつの間にか会社のビルから少し離れていて、そう尋ねられる前にもう彼の言う、

行きたいところに連れていかれている気がするが、特にこちらも希望がないのでうなづく。

会社のビルから5分歩き、少し路地裏に入ると、小さなビルがある。

その地下に続く階段は、電気があまり明るくなる、暗い印象である。

地上にあるお店は、そこそこの人の気配が感じ取れるので、どうやら地下だけ営業していないようだ。

そう思っていたら、その地下のほうへ何の抵抗もなく降りていく。

「え、四宮君。ここやってるの」

どんどん階段を下りていく四宮を追いかけながら、地下までたどり着くと

茶色の重厚なドアに、小さくOPENの看板がかかっている。

壁には、電気はついていないが、BARの看板があり、ここはどうやら夜はバーになるらしかった。

「やっているような、やっていないような店なんですよ」

そう言うと思い切りドアの部を回し、躊躇することなく店内に足を踏み入れた。

私も後に続くと、少し狭めの店内で初老の男性が食器を拭きながら、四宮のほうを見た。

「おお、四宮君。今日は1人じゃないんだね」

「たまには、誰かと食べるランチもいいかなっと、弊社の経理担当を連れてきました」

雑なのか丁寧なのか急に紹介された私は、とりあえずどうもと頭を下げた。

「いらっしゃいませ。お嬢さんにも気に入ってもらえると何よりです」

お嬢さん、とこの年で言われるというのもなかなか不思議な感覚である。

彼はいつの間にか奥のテーブルへと進んでおり、私を右手で手招きした。

「ここは、夜はバーなんですが、最近は昼のランチ営業も始めてみたらしくて。やっていけるか不安だから常連だけにこうやって試験的にランチを提供しているんです」

「四宮君、ここの常連なの?」

「ええ、まあ。あのマスター、すごい音楽好きで話が合ってしまって。そこからよく1人で来るんです」

「友人とか社内の人間とは来ないの」

「めったに来ないですね。社内の人間はこういう地味なバーは好かれませんし」

確かにな、と思いながら社内の人間の面々を思い浮かべる。

確かにここは、バーだけど女性をくどくというよりは、一人で飲みに来たい人のための避難所のような落ち着きがあるような気がする。

「ここはランチがカレーしかないんですよね。じっくり煮込んだカレーです。シンプルなんですけど本当美味しいんです。ちゃんとスパイスから作ってこだわりがすごくて」

ね、マスターというように初老の男性のほうを見ると、にこりと笑った。

「なんか光栄ですよ。こういう隠れ家みたいなところ連れてきていただいて」

と冗談めかしに話すと、彼はこちらをみてくしゃりと笑った。

「涼香さんなら連れてきてみてもいいかなと思ったんです。あまりほかにも口外することもないだろうし。信頼ですよ、信頼」

お店的には宣伝してもらったほうがいいんじゃないのか、と考えているとカレーの香ばしい匂いが鼻を衝く。

「僕的には、もう少し宣伝してほしいけどね。特に夜は。ランチは一人だからほどほどがいいんだけど」

マスターが持ってきたカレーには素揚げしたなす、じゃがいも、ニンジン、レンコンが乗り、ゆで卵がアクセントに入れてある、野菜たっぷりのカレーだった。

「今日は野菜ですか」

「そう。今日は野菜が安かったから。ちなみに僕の気まぐれでカツとかコロッケみたいな時もあれば、シンプルな具材だけで作るときもあるので、よかったらこれからも来てくださいな」

一口食べてみると、辛さはそこまでなく深味があって、とても美味しかった。

目の前で食べている四宮もスプーンを進めるペースは早いので、どうやら美味しいらしい。

「最近営業1課忙しいの?」

ランチに誘ったのは、この間お酒に付き合わせたお礼だったから話題がないことに気づいてしまった。

まるで今日は天気がいいですね、みたいな陳腐な内容になってしまった気がする。

「ああ、今は1つプロジェクト進行中なんで忙しいかもしれないですね」

「でも、今日ぎりぎりだったよね、エレベーターも駆け込みだったし」

「取引先の社長が、毎朝皇居ランしているんですよ。それに付き合って、モーニングして、そして今朝の駆け込みです」

「え、まじ?」

「はい。そのプロジェクトの責任者俺なので。俺が頑張らないとダメなんですよ」

ああ、それならあの棚にありますね、みたいな軽いノリでさらりと話を進める。

この自然さが鼻につく人と、飄々としていてクールでかっこいいと思う人もいるんだろう。

「やっぱりすごいんだね…さすが営業部のエース」

「それやめてくださいよ。僕はただの営業部1課の社員の一人です。しかも柊さんの隣人」

「まさかエースと隣人になるとはね」

「だからエースはやめてくださいって。柊さんにとって俺が営業部のエースかどうかなんて興味ないところがいいんですから」

そういうと、少し笑ってまた黙々とカレーを食べる。

確かに、四宮君がエースかどうかは興味はないけれど、これはからかわれているのではとも思う。

「まあ確かに」

私もそう答えて目の前のカレーを再び食べ始める。

食べているときも、変わらずまつ毛は長いし、おそらく社内にいる時よりもフランクのはずなのにこの人は本当に何をしていても絵になる。

「そういえば、奈津子さんの納骨はいつなんですか」

「えっと…来月の12日です」

180度も変わる質問が来て、一瞬にして現実に引き戻された感じである。

四宮はスマホを出して、カレンダーを見ている。

「晴れるといいですね。あの時は雨だったから」

あの時は、間違いなくお通夜のことであろう。

つくづく、この人は私の母への思いが強い。笑ってしまうくらいに。

「そうだねえ。でも暑いかも。そっちのほうが心配かな」

「雨で暑いよりよくないですか?せめて青空で」

同情されるから社内では話題にすら出さない。

けど、四宮の前であればあまりそういうことを考えなくていい。

「隣人パワーで頼むよ」

「それこそ関係ありますかね、隣人かどうかって」

と言いながらまた少し笑う。そういえば、四宮くんの笑顔はあまり社内では見たことなかった。

何気なく時計を見ると、お昼の時間終了まであと10分しかなかった。

「あ、そろそろ戻らないと!」

私がそう声をかけると、四宮君もスマホの画面を確認した。

残り一口ずつ残ったカレーを二人でかき込み、会社まで走って戻ることになってしまった。


***

納骨当日は、四宮くんが願ってくれた通り、暑かったけれど、青空が広がっていた。

喪服の生地が張り付いて、蝉の鳴き声が聞こえるけれど時々風が吹いてくるのである。

お墓の下には、すでに先に他界した父親の骨が眠っており、石屋さんが、どうせなら久しぶりにお会いしませんか、とお骨の蓋を開けてくれた。

まさかこんなに早く再会するとはね、と不思議な感覚だった。

ぼーっとお経を聞き流しながら、時々空を見た。

親戚はまだ泣いてくれていた。

私は、やっぱり今回も泣けずにただその儀式が終わるのを待った。

それをみんか両親を亡くしているのにとても気丈だと元気付けるつもりなのか口を揃えて言ってきた。

決して気丈なのではない。

まだ現実味がないだけだし、受け入れる余裕もなかった。

でも法要は必ず日毎にやってきて、それを仕切ることができるのは娘の私しかいなかった。

ただそれだけ。

私は未だに悲しみの置き場がなくて、とても困惑しているだけだ。

のべ1時間の法要が終わると、午後からにしたので早々と解散にしてもらった。

その後の食事など考える余裕がなかったのである。

そのまま疲れた身体に、やたらと増えた線香の香りがまとわりつく紙袋を持ちながらどうにかマンション前まで来たけれど、如何にもこうにも疲れてしまい、ひとまず近くの花壇に腰をかけた。

夕方になったら少しは気温が下がり、いくぶんか過ごしやすくなっていた。

今日は、ベランダでビールでも飲もうかな、なんで考えながら少しだけ目を閉じた。

「涼香さん、おかえりなさい」

その声に目を開けると、目の前に何かのバンドのTシャツとにジーンズを合わせた四宮くんがコンビニ袋を下げて立っていた。

完全にオフなのか、髪の毛はペタッとしていてどことなく寝癖もついている気がする。

「ああ、四宮くん」

ただいま、というのもおかしいし、だからと言って適当な話題も疲れていて思いつかなかった。

四宮くんは私のことをじっと見ると、紙袋を持った。

「持ちますから、お家帰りましょう。その分だと疲れて力尽きたみたいですし」

そう言うと右手を差し伸べてきた。

なんとなく流れで手を取ると、ぐいと引っ張ってくれて立ち上がらせてくれた。

「なんかごめん」

「いいっす、いいっす。隣だし。そこで力尽きてる人置いていけないですよ」

ようやく立ち上がり、エレベーターまで這うように向かい、

自分の家まで着くと、どっと疲れがやってきた気がした。

鍵を回して、家に入るとほんのり朝に上げた線香の香りがする。

玄関まで入ると、四宮くんがこちらをじっと見ている。

「あ、そうか。いいよ、入って。お茶くらい入れるし、あと母のお位牌も今日魂入れしてるし、線香あげてほしい」

そう話すと、四宮くんは小さい声でお邪魔します、と呟き、靴を揃えてそっと家の中に足を踏み入れた。

お位牌を、取り出し仏壇に飾る。

なんとなくようやく収まった感がある、仏壇を眺めながら線香を一本あげて、キッチンへ向かう。

四宮くんもそれに倣い、紙袋を部屋の隅に置くと仏壇の前に座った。

今日もまた綺麗で長い指で、ゆっくりと線香をとりあげる。

ライターは心なしか火を灯すのに慣れているのかスムーズで私が立てた隣に少し間を空けて立てると

一息つき、静かに目を閉じて合掌をした。

やはり、あのお通夜の時と同じで横顔が綺麗で何をしても様になるような仕草である。

こうどうしても彼の行動が気になって、いつも最後まで見てしまう。

目をゆっくり開けた四宮くんは、もう一度じっくり仏壇を見た。

私は慌ててお茶を用意し、さも見ていなかったように振る舞った。

「お茶、良かったら」

緑茶を差し出すと、四宮くんは立ち上がりダイニングテーブルの椅子に、私と向かい合うように座った。

「疲れているのに、すみません。すぐ帰りますね」

そう謝りながら一口飲む。

後輩でもある若手社員を自分の家に呼んで、線香をあげてもらうとかよく考えたら、先輩という立場と、納骨帰りという精神状態に便乗したみたいでなんだかもうしわけないなと思いつつ、

ここまで自分の家族でもない人に涙を流してくれている人には聞いてほしいこともあった、

「お願いがある」

私がそう言うと、ちょっとびっくりしたような怪訝そうな顔をした。

危ないことを考えていると勘違いされても困るので慌ててその後を続ける。

「少しだけ両親の話を聞いてくれるかな」

そう話すと、強張っていた肩から力が抜けていく気がした。

それは四宮も同じらしく、少し背もたれに寄りかかる。

「隣にいるのはやはり父親だったんですね」

仏壇には、母の位牌のほかに父親の位牌もある。

2人して、さっさと私を置いていってしまったものである。

実質、天涯孤独の私にとって、この状況で誰とも話さないとなると、それはそれで良からぬことをしそうで嫌だった。

死にたくはないけれど、生きているのが辛い時はある。

こんなに早く独りにされるとは夢にも思わなかったからだ。

だから、四宮がここに来てくれた時、とても有難かった。

蒸し暑いこの部屋に、1人取り残された私は一体何を考えて今日を過ごしたのか、想像するだけ怖かった。

「うん、父は10年前くらいね。2人はとても仲が良かったから、きっとあっちだと楽しいのかもしれないけど」

私は、そう初めてぽつりぽつりと話し始めた。

父は穏やかで、滅多に怒ることはなく、いつも優しいイメージだし、母はその逆で、元気で溌剌していて、喜怒哀楽もしっかり出る人だった。

まあお互いのちょうど足りない部分を補ったと言う夫婦だったであろう。

四宮にしたように、母は困っている人を放っておかない人だ。

それが自分の働いているヘルパー先の孫だろうがしっかり寄り添ってしまい、自分のことは後回し。

いつも人の心配ばかりしていた。

だから四宮を始め、親戚や友人、同僚は口を揃えてこういった。

「頼りがいのある、姐さんみたいな人だった、って。四宮くんもそう思う?」

話の途中で母のイメージを聞くと、四宮くんは困ったように笑った。

「姐さんって感じよりは母さん、って感じだったような気がしますけどね。俺の母だって生きていれば、奈津子さんと同じくらいだと思うし。まあでも分からないことないですけど」

四宮くんに、なぜ両親の話をしたかったか。

それは私が今から独りになりたくなかったことと、なんとなく彼には知って欲しいと思ってしまった。

母は、この人の悲しみを掬い上げて、泣かせて前を向かせた功績がある。

そしてそれはきっと彼にも影響があるはずでそうでなかったら私とここにいないと思う。

「姐さんだから、いつも自分のことは後回しなの。体調が悪くなってもずーっとヘルパー先のお客さんのこと心配するし、私の進退気にしてるし。自分の方がよっぽど時間も、体力もなかったのに」

涙がひとつ、腕に落ちた。

一度落ちたら、止まらなかった。

もっと、自分自身のことを第一に考えて欲しかった。

そういうなんとも言えない後悔は今日まで続いている。

四宮くんは黙って私の話を聞いた。

しばらく泣くと、だんだん涙が引いてきた。

彼はその間、一言も発せずただただ泣か終わるのを待っていた。

「ごめん、重かったよね」

「いや。美しかったです、その涙」

ただ一言そう言って、私の前にティッシュを一枚差し出す。

「俺もそう泣けたら、良かったのに」

その一言に違和感を覚えたものの、ふと見た横顔がどこか悲しそうで、

人を寄せ付けない脅威があった気がしてその先を聞いていいのか分からない。

「ねえ、四宮君のお母さまってどんな人だった?」

身内でもないただの他人のお通夜であんなに泣ける人なのだ、すごく優しい人なのは分かっている。

でも彼は一人で育ったわけではない、誰かの後押しと守りがあって今がある。

「優しい人でしたよ、たぶん。怒られた記憶ないから。奈津子さんとは性格が正反対なんじゃないかな」

表情は笑顔なのだが、その先にあり黒い瞳の奥に滲む仄暗さを私は見過ごすことができない。

懐かしむというよりは、無理やり思い出してどうにか言語化したような悲痛な表情に見える。

それ以上は聞くことができずに、私も作り笑いでそっか、としか答えられなかった。

踏み込んではいけない領域だったんだなとその時悟ったのである。

少し話せただけ、ただ母を知っていただけ、それだけなんだからこれ以上関わるのは迷惑だろう。

夕方のオレンジ色の光だけが、私たちの間に線を引くように差し込んでいた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ