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2.秘密の天秤(洋平)

会社から30分電車に揺られ、見覚えのある駅に着くと、先ほどまで高層ビルで埋まっていた景色から一変して、住宅が多く、落ち着いた景色に変わる。

何度か降りたことがある駅なので、少し地図を確認して慣れた足取りでお店へ向かう。

駅のロータリーを抜け、大通りを右に向かい、まっすぐ進むと、さらに右。

隠れ家のように佇むそのお店は、派手な看板はないが、お店から漏れるオレンジ色の光と

人々の笑い声がよく聞こえた温かみのあるお店だった。

こげ茶色の重厚に見えるレトロなドアを開けると、来客を告げるようにベルが鳴った。

白いシャツにジーンズのシンプルな格好をした女性店員が声をかけてきた。

「いらっしゃい、ああ洋平君」

俺の従姉妹である舞さんである。

「来てる?」

舞さんは、この店で一番奥のテーブル席を指差した。

カーテンが少し仕切られていて、その隙間から見覚えのある後ろ姿が見えた。

「珍しいじゃない、女の子連れてくるなんて」

「言ったでしょ。ばあちゃんの時にお世話になった人の娘さんだって」

ちょっと楽しそうな顔をした舞さんを嗜めると、はいはい、と言いながら厨房に下がった。

自分から誘っておいて、この入り口からその席まで行く数秒間、心臓の鼓動が早くなった。

呼んだのはいいが、怪しまれていないか、うまく話せるか、とそんなことをずっと悩んでしまう。

たどり着くと、恐らく舞さんのチョイスであろう、料理とお酒がテーブルに並んでいた。

俺の気配に気づいたのか、彼女は少し腰を浮かせて軽くお辞儀をしてきたので、同じように頭を下げた。

会社以外で会うのもなんだかむず痒く、俺は目をそらしてしまう。

するとそこに舞さんが、ビールと、ジャーマンポテトをお盆に乗せてテーブルに来て話しかけてきた。

「洋平君、何飲む?」

その明るい声に、彼女も少し緊張が溶けたのか一息ついて席に座った。

「じゃあ、同じやつお願い」

飲み物などなんでも良かったので、リュックを置きながら椅子に座る。

向かい合うと、再びなんとも言えない空気が包み込むようだった。

「すみません、お待たせしてしまって」

「あ、いやそんな待ってないですよ。先ほどの女性がお話し相手になってくれて。ここ、従妹のお店なんですってね」

そこまで知ってるのか、と舞さんのおしゃべりっぷりを痛感しながらおしぼりで手を拭きながら苦笑いをした。

「そうなんです。なんか余計な話しませんでした?」

彼女は少し左上を見ながら、何かを思い出しているみたいだった。

舞さんのことだから、きっと浮かれて会社の同僚を初めて連れてきた、みたいな話をしたんだろうなと思いながらそれを言って良いものかなやんでいる彼女の気の使い方に笑いそうになる。

彼女は何かを飲み込んだ後、にこりと笑いながら一言だけ言った。

その笑顔は、普段会社で見ないようなとても明るく、太陽のようだった。

「さあ、どうでしょう」

こうやって彼女も笑うんだなと思うと、なんだか得した気分になる。

いつも経理部の中で見かける時の厳しい表情はどこにもない。

先ほどまでのなんとも言えない空気はどこへやらと吹き飛んだので背もたれに寄りかかった。

「なんですかそれ」と苦笑いすると、舞さんがもう一個ビールを持ってきた。

グラスが2つ揃って、俺たちはとりあえずという感じで「お疲れ」と軽い乾杯をした。

いくつかのおつまみが並び、最初は互いの他愛もない話をした。そんな風に少しずつ緊張を解いていかないと目の前にいる彼女とうまく話せるか気がしなかったからだ。


***

柊 涼香を始めてみたのは、俺がこの会社に新入社員として研修に参加した帰りだった。

定期券について聞きたくて、当時の研修担当の小川花織に話を聞きに行った時だ。

柊さんは、俺たちが残っていることを予想していなかったのか、申し訳なさそうな顔をした。

そのときの俺は、彼女の顔を見てどこかで見たことがあるような、そんなデジャブに陥った。

「涼香、ちょうどよかった。四宮君が定期券の精算について聞きたいんだって」

涼香、という名前にも聞き覚えがあって俺は彼女の首から垂れ下がるIDカードを盗み見た。

柊 涼香とかかれているプレートを見て、俺は思わず彼女の方を見た。

でも、当の本人は経費の説明に夢中で俺のことなんて全く見てくれなかった。

一通り説明が終わって初めて、彼女が俺の方を見上げたのだった。

目元が、とても似ていて、それはその名前を認識したからかもしれないけれど、でも俺は、この人を知っている、そんな気がした。

「どうかしましたか?」

彼女との初めての会話はこの一言で、俺は確信が持てなくて曖昧に笑って大丈夫です、と答えた。

用事が澄んだ彼女は会議室を後にし、残った小川さんに「柊さんって方ですか」と聞いていた。

小川さんは何も疑問に思わなかったのだろう、笑顔でこう答えた。

「そう、経費で分からないことあったら全部彼女に聞いたらいいよ」

その日から、俺は柊 涼香という女性と接点を持つために必ずシワひとつない領収書とミスのない精算書をクリアファイルに入れてだすことにした。

どうせ、今俺が声をかえても新人さんね、って言われてまともに取り合ってくれない気がしたから、経理という一番遠い関係性の彼女にも届くように、営業部での存在を濃く出すことにした。

すべては、俺に「悲しみ」を教えてくれたあの人の娘さんかもしれないから、だった。

あれから4年、俺はどんなに忙しくても、経理の部署の照明が消えていても必ず提出した。

そしてあの日がきた。

経理の部署の前を通るたびに、休むことほとんどない彼女が3日間連続で席にいなかった。

その次の週、彼女の母親が亡くなったことを人事部が通達した訃報で知った

あの時の俺は、予定していた仕事を全部ずらして、早退させてくださいと部長に頭を下げたんだ。

俺との接点なんて絶対覚えてないし、急に来られても困ると分かっていても。それでもこの訃報を見て俺が行かないなんていう選択肢はなかった。

俺と同じ悲しみを、その置き場を彼女が失っていたら嫌だった。

自動ドア越しに見えた、彼女の何かを噛み締めたような虚無の空気感、佇む姿に声をかけたくてもかけられなかった。

俺は一切彼女の方は見ないで、目の前で微笑む彼女の母親のご遺体と遺影に涙した。

振り向くと、彼女は驚いた表情の中で、しっかり涙を流していた。

きっと、悲しみの置き場が迷子になってるだろうから、そうあの時の俺みたいに。

俺じゃなくていい、誰か別な人の涙でもいい、とにかく泣いてほしかった。

悲しみを受け止めて、静かに涙を流していたのを見届けたらもうそれで終わりにしようと思った。

でも最後に、雨の中式場を出てきて、反対側にいる俺を追いかけてくれた。

きっと訳がわからないはずなのだ。

こんなことが起きなかったら、俺は今日経理の部署に足を運んで話しかけるなんてこと、できなかったのだから。

そんな彼女と、今2人でビールを飲みながら話している、という現実が今でも信じられないのだ。

おつまみが半分くらいになり、互いのお酒も2杯目も終わりになる頃には、暫しの沈黙が流れていた。

今が、チャンスかもしれない。

そう思って口を開こうとすると、数秒だけ彼女の方が先だった。

「四宮くん、聞きたいことがあるの」

何かを決意したように、じっと俺の瞳を見てくる。

「何故俺が、あの時お通夜にいたのかですよね」

返事の代わりに彼女が大きくうなづいた。

その瞬間、先ほどまで聞こえていた喧騒が一気にボリュームを下げたようだった。

この話をするということが、彼女の救いになるのか、ならないのか。

その判断は俺にはできなかった。

でも、ここで話さなければ、伝えきれなかったことが蟠りになる。

一息ついて、ゆっくり口を開いて話し始めた。


********

俺の両親は、10歳の頃に他界した。

それ以降、祖父母に育てられ、中学の頃に祖父が脳梗塞で先に亡くなり俺と祖母の2人だけとなった。

祖母はとても穏やかで、優しく、いつも俺の味方でいてくれた大事な家族だった。

祖父がいなくなってからも、なんとか2人で暮らし高校を卒業、大学に入った頃に祖母に癌が発覚した。

俺は当時19歳で、祖母の身内と呼べる身内は俺しかいなかったから全ての選択権、

例えば入院や治療方法は俺に託されていた。

抗がん剤を打ち、入退院を繰り返し、俺は大学とバイトの合間に祖母の病院へ行きお見舞いをしている日々だった。

大学の友人に手を替え品を替え、様々な嘘をついては先に帰った。

ここで同情されても、俺が何も満たされないことを、もう10年前に体験している。

何にもならないのなら、何も知らないでいてくれた方が良いと思っていたからだ。

祖母は最初は気丈に振る舞い、俺の前では弱音など吐かなかったけど、時が経つにつれその抗がん剤の効果も薄れていき、ただ呻いて、痛みと闘い、孤独と隣り合わせのそばを見ることが多くなった。

苦しむ祖母を見て、何もできずに病室の冷たいパイプ椅子に座っていると、お腹が鳴った。

目の前に死を見ている祖母の横で、こうやってしっかりお腹が空く自分が嫌になった。

それでも祖母は、無理に笑ってこういうのだ。

ー良いのよ、それは健康ってことなんだから。

主治医は、その姿を見て緩和ケアに移行することを俺に提案した。

もう少し、もう少しだけど思っていたけれど、日に日に弱っていく祖母を見て居られず、せめて最期は家でとお願いして在宅医療を進めた。

その時に、担当してくれたヘルパーが、柊 奈津子という快活な女性で、毎日欠かさず来ては、祖母とくだらない会話をし、俺が帰ってくるといつも迎えてくれていた。

祖母は、在宅医療に切り替わると最初は家の中を動いたり、外に出るなどできたのだが、ちょうど亡くなる1ヶ月前から、室内を歩くことすら困難になった。

日に日に薬の量は増え、寝ていることも多くなったが、それでも奈津子さんは毎日来ては、明るく話しかけてきてくれた。

祖母を車椅子に乗せ、近くの公園に連れて行ってくれたこともあった。

俺はバイトの帰りに2人を見つけては一緒に帰っていた。

母を10年前に亡くした俺にとって、その雰囲気はどことなく似ていて、親近感が湧いたのだと思う。

そのうち、祖母が寝ることも多くなり、1人で排泄もできなくなる頃に、

俺も祖母を1人にしておけず、バイトを辞め介護に専念することにした。

祖母が食事をするときは、誤飲しないように注視し、少しでも痛みに呻けば、飛んで体をさすり、違う部屋で寝ている間に亡くなっても嫌だったから同じ部屋で寝泊りし、夜中に呻き声で起こされることもあった。

それでも祖母が心配で心配で常に気を張って、どうにかこうにか毎日を過ごしていた。

そのせいか、ご飯を食べるのも億劫になり、俺は祖母が弱っていくのと比例して体重が減っていった。

食べ物を機械的に胃に入れるものの何にも味がしない。

何を食べて、何を飲んでいるのか分からなくなった。

祖母の最期はすでにカウントダウンに入っていたし、正直素人の俺から見たってもう手の施しようがなかった。

ただ、死を待つだけ。

そして俺はそれを見ているだけしかできない。

その不甲斐なさに嫌になって、俺もだんだん食べることをやめた。

そんな折、奈津子さんが痩せた俺を見て驚いた顔をした。

「洋平くん、ちゃんと食べてるの?」

「食欲が沸かないんで、あんまり」

奈津子さんは、ため息をひとつつき優しく肩を叩いた。

「1人で頑張ろうとしないの」

そう告げると、俺を食卓に座らせ、冷蔵庫を覗き少し考えた後、あるものでオムライスを作ってくれた。

鶏肉はなかったから、ベーコンだったし、野菜もないからミックスベジタブルで代用して、コンソメも入ったライスにふんわりとした卵を上に乗せた。

「食べなさい。食べないとおばあちゃんの介護もさせないよ」

その言い方は完全に子供を嗜める母親だったし、その時の目はいつもの奈津子さんからは想像出来ないほどの強く険しい眼差しだった。

その気迫に押されてしまった俺は、食欲がなかったのに食べなければならなくなり、一息ついて無理やり一口食べた。

ゆっくり噛むと、広がる甘めのチキンライスもどきに、

ふわふわで滑らかな卵が口の中に広がった。

すごく、すごく美味しかった。

何食べても味も感触もなかったのに、ここで初めてその感覚を思い出した。

一口食べて、俺はスプーンを置き俯いた。

奈津子さんが、心配そうな顔をして俺の顔を覗き込んだ。

「無理、させちゃったかしら?」

その言葉に俺は思い切り首を左右に振った。

でも、顔はあげられなかった。

だって、俺は泣いていた。

この味は、どこか祖母が作ってくれるものと同じ気がしたからだ。

俺が小さい頃に、何度も作ってくれたあのオムライスと一緒。

洋食なんか作るの得意じゃないのに、一生懸命練習して俺を喜ばせるために作った料理だった。

俺はまたスプーンを手に持って勢いよく続きを食べた。

奈津子さんはその姿を見ながら満足そうに笑った。

祖母の介護が一通り終わり、俺が呆然と祖母を見ていると、奈津子さんが帰るというので、玄関まで送った。

「洋平くん、大丈夫かな?分かってはいると思うけど、おばあちゃんはあともって数日かもしれない。どうかな、覚悟はできてるかな」

奈津子さんはじっと俺の目を見つめて聞いてきた。

俺しかいないから。

祖母のあらゆる決定権は俺にあって、俺が1番面倒を見なくてはいけなくて、そしてしっかりしなくてはいけない。

覚悟はするしかなかった。

「…はい」

さっきの涙が見られていたかは分からないけど、もう泣いているわけにもいかなかった。

奈津子さんはふっと優しく笑って話を続けた。

「おばあちゃん、いつも洋平くんの話してる。洋平はね、英語が得意なの。とてもきれいな発音でね、頭も良くて。なのにいつも夕飯は私と食べてくれるのよ。本当に良い子で優しくて、自慢の孫って、中学生の頃の英語のスピーチコンテストの映像見せてくれてね」

「そんなこと…」

いつのまに話してたんだ。

本当にいい子で、優しくて。

英語が得意なの。

自慢の孫なの。

もうほとんど寝ていて、話すこともない祖母が俺の話を自慢げにヘルパーにしている。

恥ずかしいけど、嬉しかった。

いつもニコニコしてくれてたけどそんなこと言ってくれなかった。

その言葉を聞くと俺はその場にへたり込んだ。

壁にもたれて、初めて嗚咽を交えながら大声で泣いた。

1人にされることが本当に怖い、そしてこの先どうしたらいいかも分からない。

辛くて、でも弱音なんか吐けなかった。

俺がしっかりしないと、ダメだと思った。

「俺、怖いです。どうしたらいいか分からない」

そう言うと、奈津子さんは同じように座り込んで、目線を合わせた。

そして自分の子供にするようにゆっくり肩をさすった。

「辛いね、辛い。でもあなたのおばあちゃんは、いつも洋平くんの話をする。楽しそうに、嬉しそうに。そんな人がいなくなるなんて嫌だよね。いい、泣いていいの。あなたは、泣いていい人なの。頑張らなくていいのよ」

俺の気持ちが手に取るように分かるかのように、ゆっくり、優しくそう話してくれた。

自然と力が抜けて、すっきりしていく自分がいる。

ー泣いていい人なの、頑張らなくていいのよ。

その言葉にどれだけ救われてきたのだろう。

俺の母親が生きていたらこんな風に話してくれたのだろうか。

一頻り泣いたあと、俺は一呼吸して「ありがとうございました」と告げると

「また、来るから。辛くなったら話してね」

奈津子さんがあのいつもの快活な笑顔で帰っていった。

俺は1人じゃない、そう思えたのは奈津子さんのおかげだった。

程なくして、祖母は明け方にひっそりと眠るように亡くなった。

亡くなる前日まで、意識もあってまだ話せたから、俺は安心して実に久しぶりに自分の部屋で寝た時だ。

朝起きて、いつものように声をかけたのに、何も反応がない。

慌てて、祖母の顔の近くで耳を傾けたけど呼吸の音はしなかった。

驚くくらい穏やかで、安らかで、眠ったように生涯を閉じた。

本当に、幸せそうな良い顔だった。

泣いたけど、嗚咽を交えることはなかった。

静かに、おばあちゃんお疲れ様、と心の中で呟いた。

自分でも驚くくらいに、とても冷静にかかりつけの医者に連絡をした。

代わる代わるお悔やみの言葉を残してくれたけれど、一つも心の琴線には触れなかった。

慌ただしく葬儀の準備をし、親戚に連絡をし、全ての準備が完了してお通夜を迎えた。

朝から雨で、どんよりとした雲が覆ったその日に、奈津子さんはいつもの快活な表情は封印し、

黒いワンピースに、ヒールを履いて静かに凛とした様子で現れた。

俺は親族の席から奈津子さんを見た。

美しくお辞儀をし、まっすぐ祖母の遺影へ向かう。

丁寧に御焼香をしたあと、ゆっくり手を合わせた。

そして、一粒涙を流してくれた。

涙が落ちる音が聞こえてきそうなほど泣いてくれた。

俺はその涙を見てまた泣いた。

機械的に見ていた参列者の中で、唯一心が動いた人だった。

奈津子さんが去ろうとするので、俺は追いかけた。

「奈津子さん!」

声をかけるとこちらを振り向いて驚いた顔をする

「洋平くん」

「あ、そのありがとうございます。祖母のためにお通夜に来ていただいて。喜んでいると思います」

「おばあちゃん、結構仲良くなってしまったから。行かないわけには行かなかったし、最後に見たかったんだ。綺麗なお花に囲まれているところ。洋平くんは、大丈夫?」

「大丈夫ではないと思いますけど、絶望的ではないです。ようやく苦しみから解放されたのかと思うと、それは良かったと思います。少しずつ、前に進めば良いかなと」

「そうだね。もし、また辛かったらいつでも話に来て。私はここに勤めてるから、たまには。洋平くん、私の娘と歳が近そうだから息子できたみたいで来てくれると嬉しいから」

その時、奈津子さんに娘さんがいることを知った。

そして祖母が亡くなってもなお、話に来てといって名刺をくれたことにも大いに感謝した。

俺は名刺を受け取り、奈津子さんを見送った。

奈津子さんの背中が見えなくなるまで、俺はずっと腰から曲げてお辞儀をした。

その後、俺は大学にまた同じように通い、その間に何度か奈津子さんと話をした。

就活が始まった時に、娘さんが商社に勤めていたことが分かり、俺はそこから就活の候補に商社を入れた。

理由は、単純になりたいものもなかったから、奈津子さん経由で聞くその娘さんの仕事に興味を持っただけだ。

もともと英語が得意だったから、商社での面接はわりとスムーズに進んで、最終的に今の会社とあと数社、内定をもらった。

報告しにいくと、自分の子供の報告を聞くかのように嬉しそうにしてくれた奈津子さんの顔を今でも良く覚えている。

入社後、研修の後に偶然経費のことを聞きにいくと、そこで涼香さんにあった、苗字が珍しいからきっとこの人が娘さんだと思った。

何度か話そうと思ったが、営業部に配属された俺はあまりにも忙しくてそんな余裕はなかった。

せめてつながりは欲しいと、涼香さん宛に必ず経費精算書を出すようにし、記憶の隅にでも残ってくれることを祈った。

いつか、話せたらあなたのお母さんに、救われたと話したかったからだ。

営業部に働いたいる間、向いていたのか俺はそのまま営業成績を上げ、先輩を抜き、役員に気に入られていた。すると、根も葉もない色恋の噂を立てられるようになった。

そこには妬みや嫉みがあることを俺はわかっていた。

話そうと思った時には、俺が涼香さんと話せば変な噂が立つと思った。

だから、このまま静観し、経費だけ送ることにした。

そして今回のことが起きた。

俺はいてもいられなくなってお通夜は向かった。

そこで改めて涼香さんを見た。

黒いワンピースにヒールは、まるで祖母のお通夜に出てくれた奈津子さんのようで凛としていた。

本当に親子なんだ、と思った。

そして手を合わせる時に、あの時俺にしてくれたことを思い出していたら、いつのまにが泣いていた。

あの場に長くいたら、嗚咽が漏れそうで怖かった。

だから、その日はさっと会場を後にしたー。

きっと、彼女は俺がなぜここにいるのか聞いてくる。

そしてその時俺はこの話をしようと決めて、今日声をかけることにした。


***

一通り話終えて、彼女を見るとどこか呆然とした表情をしていた。

それもそうだろう、と頭の隅で思っていた。

いきなり、あなたのお母様は俺の祖母のヘルパーをしていて、言葉に救われたなんて

急に言われたら感動というか、そういうのを通り越して気持ち悪いと思われたかもしれない。

「柊さん?」

何か頼むから話してくれ。彼女の口がなかなか開かないから、俺は不安になってしまった。

「えっ?」

急に我に返ったのか、柊木さんの視線が俺とかち合った。

彼女の頬には涙が流れていた。

彼女自身も自分が泣いていることも気づいていないのか、全く拭う仕草を見せない。

俺はポケットから青いチェックのハンカチを出した。

目の前に差し出して、彼女は状況を理解したのか自分の頬を手で触った。

「大丈夫ですか」

少し恥ずかしそうに、止めようと必死に両頬を触る彼女は、おずおずと差し出されたハンカチを受け取った。

「ごめん、すっかり聞き入っちゃったな」

「やっぱり、話をするのには早かったですか?まだそんなに時間経っていないのに、申し訳ないです」

この話は、まだ人を亡くして日の浅い彼女には重荷だったかも、と思い立ったのはその涙を見てからだ。

それでも、ここでこの話をしなければ、彼女とは接点を持てない気もした。

きっとこれは自分のエゴである。こんな状況でも俺は自分勝手だな、と呆れた。

「違うんです!母の仕事の話、初めてよく聞けたから。母は、いつも自分のことは後回しで、困っている人とかそういうのは放っておけない人で。よく言えば世話好きなんだろうけど、悪く言えばお節介だと思ってて。でもこうやってる四宮くんの気持ちの整理がつけてたなら本当に良かったなって、嬉しくて。みんな口を揃えていうのよ、母はいい人だった、気を落とさないで。これからしっかりしないとね。そんなことしか周りは話してくれない。母のことなんて本当は誰もあ分かってなかったのよ」

きっと、あの時の俺と同じだ。

泣きたくても、泣けない人の、的外れの周りの言葉も全てあの時と全く一緒。

涙はまだ止まらないのを、奥の客もだんだん気付き始めてきていたタイミングで、ちょうど彼女が見えない位置に移動した。

「良かったです。本当にあの時俺も泣けたてとても助かったんです。ありがとうございました」

目の前の彼女に言えることは、あの時泣くきっかけをくれたことを、今は亡き奈津子さんに向けて深々とお辞儀するくらいだった。

「こちらこそ。話してくれてありがとうございました」

同じように彼女もお辞儀をすると、なんだか急にかしこまった気がして2人で同時に笑った。

初めてこの会社で彼女を見た時、とても遠くに感じたのに今はこうやって2人でお酒を飲めるようになる。

長かったな、ここまでくるの。

あの経費精算を彼女に聞いた入社のときから、俺は彼女のことを見ていた。

いつか、話したかった。あなたのお母さまに助けられたこと、そしてその雰囲気を数分の狂いもなく、目の前にいる娘の涼香さんがしっかり受け継いでいることを。

「金曜日だし、もう少し飲みますか」

俺は、メニューを開き彼女に向けて差し出した。

周りは金曜日ということも相まって、いつもより気の抜けた雰囲気が漂っていて

先ほどまでこちらを気にしていた客も、すでに俺たちのことは眼中にないようだった。

この空気に、飲まれてしまった方がいい、そう思った。

「何にしようかな」

ようやく止まった涙を眺めながら、俺は彼女と気持ちを共有できたこと、

少なくともマセガキとは思われない程度に印象が変わったことを心の奥で喜んでいた。

閉店間際になっても、楽しそうに飲む彼女はそのうち机で寝てしまった。

お客さんは俺たち以外は誰もいなかった。

「よく飲んでたもんね、この子」

水を持ってきた俺の従姉妹にあたる舞さんが柊さんを見ながら話しかけてきた。

舞さんには、彼女とどんな関係なのか話をしてあった。

どうしても、この半個室のような場所を確保しておきたかったのだ。

「すっきりしたんじゃないかな、行き場のない感情を吐き出せて」

「それはさ、洋平君の方じゃないの」

舞さんは空いている席に座りながら、いつの間にか持っていた膝掛けを彼女にかけていた。

寝息を立てている彼女の横顔を見ながら、水を一口飲んだ。

「そうかも。でも、こういう形じゃないと彼女を救えない気がした。大袈裟だけど」

「珍しい、洋平君が入れ込むなんて」

頬杖をつきながら、俺と彼女を交互に見た。

「彼女の母親は、俺の恩人だから。こんなことになるなんて俺だって想像していなかったんだ。そしたらその、居ても立っても居られなくて」

自分でもここまですぐに動けたこと自体、とても驚いていた。

「そう。いつか話せるよいいわね。洋平君自身のことも」

タクシー呼ぶね、と言い残して舞さんはキッチンに戻っていった。

俺自身のことは、これ以上彼女に話す気はなかった。

これを聞いて、変な荷物を背負わせたくなかったし、彼女の母親と俺の両親の話は天秤にかけてはならない。

彼女と違って、俺のせいで両親はこの世を去ったのだから。

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