1.青天の霹靂
目の前には母が私に遺した終活ノートが大きく開かれている。
表紙はたくさんの犬のシールで埋まっていて、綺麗に装飾されているのに、肝心な中身はほとんど何も書かれていなかった。
母のこれまでの人生とか、想いとか、そういうものは一切遺さず、相続や、保険、葬式の項目ばかり埋まっていて、私は思わず苦笑した。
本当にきれいさっぱり、過去のことは振り返らず、逝ってしまったようだった。
そうやって母のちょっと変わった性格を笑えるようになったのは、ここ数日だった。
それまでは何を見ても、食べても、聞いても何も感じなかった。
文字通り空っぽだった。
しかも私の心は底が大きく抜けたバケツみたいで、何かの感情が生まれても、溜まることなく流れていってしまった。
どうにか息をして、味のしないご飯を食べて、それでも過ぎて行く時間をだだ消化していた。
少し線香の匂いが残り、部屋には1週間前に着ていた白いトレーナーとジーンズが脱ぎ捨てられている。
床には戸籍謄本、保険関係、社保関係が散らばっており、その真ん中にどうにか置いた真っ白いクッションの上で膝を組んでいる。
せめて気分を変えようと、重い腰を上げて引っ越したが、まだ開けられていない段ボールが部屋の隅っこに転がっている。
手には、3つの銀行の通帳が握られていた。
普通の主婦が、1人で貯められる範囲を優に超えているその記録を見ながら私はため息をついた。
テーブルの下には、財務諸表分析に関する資料とか、フィナンシャルプランナーになる為の教材もこちらを見ている。
職場で見慣れているはずでも、プライベートで見る額じゃない。
中には私が知らないうちに積み立てられてきた預金通帳もあって、母にとって私はいつまでも子供だったんだなと感じる。
もともと、お金に厳しくしっかりしていた人だったけれど、こごまでとは。
「一生お金に困らない、って占いで言われ続けた顛末これかあ」
誰も返事もしない、一人暮らしの部屋で思わず声に出したくなる。
生前から、何かあったらここから使いなさいよと言われて幾らかは先に贈与されていたけれど
いざ、母がいなくなった今私の手元にある遺産は
おそらく普通の家庭で暮らしてきた妻の収入の範囲を超えていた。
そしてこの家も。母が遺した財産のひとつであった。
会社から通勤するのに1時間。
都心からも離れたこの街の景色は静かで、穏やかな時間が流れているのででとても好きだ。
通勤するのには、前の家の近くにはカラオケも、居酒屋もカフェもあってとても活気のある町だったけれど、ここはここで少し安めのスーパーがあって、温かいお惣菜が食べられるお弁当屋さんがあって、ジャズが流れている静かな喫茶店もある。
事務手続きをしている今は、お葬式が終わった後、会社からは2週間のお休みをもらっている最中だった。
相続やら、戸籍の整理やら、やることは山ほどあるのだけれど事務的に各所に電話をする度。どこか心が削られていく感じがする。
クレジットカードを止め、保険会社に死亡を伝え、母が入っていた会員系のサイトも退会し、ひとつひとつ母が生きていたころの証がなくなっていくような気がした。
その度に担当者に、悲しみとも同情とも取れないトーンの声で「お悔やみ申し上げます」と言われ、毎度ため息が出た。
母が亡くなってできた保険金は、私には喪失感しか感じさせなかった。
こんなお金なんか、もらってもちっとも嬉しくない。
6月の梅雨の合間の晴れ間には青空が見えている。
時刻は午後2時、暑いくらいの太陽の光が部屋に差し込んできた。
床に放り投げていたスマホをのろのろと腕を伸ばしてタップすると、
Yahoo!JAPANのトップの画像のままになっていた。
左上の更新ボタンの押すとニュースが更新され、九州地方で昨晩起きた大地震の被害報告、有名な俳優の薬物依存、オリンピックの金メダル最多更新、など様々なジャンルのニュースが並ぶ。
そのなかでも速報というよりは、特集扱いされていたのは18年前に起きた小学校の立てこもり事件の話題である。あの時の死刑囚が、まだ拘置所でその刑が執行されるのを待っているというものだった。
いつもなら特に気にならないのに、なぜかその時は目に入ったのだ。
こんなところにも「死」を感じる部分があることに、私は初めて気づいたのかもしれない。
約2週間前、母はガンと闘って、闘ってそしてこの世を去った。
この事実は、私の死生観を大きく変えた。
その「死」が罪を抱えた上でのことでと、気になるほどに。
きっと昔の私だったらもうあのニュースからそんなに経つのねとか、そんなに日本強いっけ?とか考えていたかもしれない。
人の死は突然日常生活を変え、心の奥底に入り込み、今まで見てきた世界が色を変える。
再びスマホをベットの方に放り投げて、前の家より広くなったベランダの窓を開けて、外に出る。
広がるその目の前の世界には、スカイツリーのようなシンボルがあるわけじゃない。
鏡面加工のされた綺麗なビルが回りを囲んで夜景の一部になっているわけでもない。
眼下に広がるのは、背の低い一軒家がたくさん連なって、ときどき見える窪みには公園が見える。
ちょっと遠くに視線を追いやれば、この澄み切った空では山が見えるくらいだ。
手すりに肘をかけもたれかかるようにして目を閉じ空気と音を感じる。
空気は少し湿っているけど、真夏のようなうだる暑さはまだ感じない。
音は、遠くのほうで自動車のエンジン音だけ。
時々聞こえてくるのは、子供たちの笑い声くらいだろうか。
久しぶりに、こんな静かなところで目を閉じた。
こういう時は音楽を聴いたりとか、本を読んだりとか、そういうことをすればいいのだけれど
そんな趣味をこんな心の状態でまともに行える気はしなかった。
ただ、目を閉じて時々自分と対話をして、リセットをする。
目を閉じていると、どうしても母のことも思い出す。
未だに信じられない現実を思い出しては、泣くことは減ることはない。
でもそれと同時に思い出されるのは、四宮が流したあの一粒の涙だ。
頬を伝って流れ、喉元を通り越し、白いシャツの中にしみ込んだあの瞬間。
来週から会社に復帰する。
復帰したら、四宮に理由を聞いてみようか。
なぜ、母のお通夜にきたのか。
あの時なぜ泣いたのか。
でも四宮とどこでコンタクトをとればいいのだろう。
いきなり社内メールをしてみるのも、気が引ける。
まるで、四宮に何かをアピールしているようで、なんとなく恥ずかしさもある。
すーっと何かが抜ける感覚。
涙は同じような速度で引いていき、心が落ち着くと目を開けた。
来週出社したら四宮が、何を考えているのかやっぱり聞いてみよう。
そうでなければ、私はきっと母のことだけをゆっくり思い出すことはできない。
***
久しぶりに出社すると、想像以上のお悔やみの言葉を聞くこととなった。
経理部は相変わらず忙しそうではあったが、極めて明るく接してくれているためとても助かる。
「ある程度、処理しておいたんだけど終わらないだろうから手伝うね」
私の席の隣に座る2つ上の先輩である、尾高さんが声をかけてきてくれた。
「すみません、ご迷惑をかけてしまって」
「何言ってるの、大変なのは柊さんのほうよ。私も母を亡くした時大変だったから分かるわよ。書類とかの提出で休みたかったらいつでも言って」
尾高さんも実は去年、私と同じように母親を亡くしていた。
この年になると、こういう話も珍しくないだろうとそう頭では理解しているのだけれど、いざ自分の番になると受け止めるまでには時間がかかる。
そして私の机の上には多くの社内便に交じりながら、書類がクリアファイルに挟まっていた。
貼られた付箋には四宮からの綺麗な字でよろしくお願いいたします、と書かれていた。
「これ、昨日届きましたか?」
四宮からの社内便を指さすと、尾高さんがちらりと見て
「ああ、これ。昨日四宮君が自ら持ってきたんだよね。柊さんいますかって。休みだってこと伝えたら、これを渡しておいてくださいって」」
「直接?」
今まで社内便だけで、自ら足をここに運ぶなんてありえないことだった。
「そう。珍しいよね。急ぎならやるけどって伝えたら、いえって言われて。とりあえず受け取っておいておいたんだけど、四宮君とそんな仲良かったっけ?」
「いや、そんなことは。経費精算するくらいです」
母のお通夜に四宮が訪ねたことは、ここでは言わないことにした。
尾高さんは、書類をまとめていた手を止めて
「なんか、あれは柊さんを探しにきたみたいだったな。お悔やみでもいいか来たのかしら。一応人事部から訃報として通達出てたしね。あ、でもそこまでする理由ないか…」
尾高さんは書類をトントンと整えながら、時々天井を見る。
「まさか」
くるりと体ごとこちらに向けて、ちょっと、と私をグッと近づけさせる。
言われるがまま顔を近づける。
「そういう関係とか…?」
私はサッと距離を置いて、じっと尾高さんを見る。
彼女は少しニヤニヤした顔をして、悪戯な視線でこちらを見る。
「そんなわけないじゃないですか!相手はあのうちの会社のエースですよ!?」
尾高さんは、ははっと笑ったあと、目をゆっくり細めた。
「良かった、いつもの柊さんに戻って。四宮くんと何かあってもなくても私は別に何も言わないよ。今回は完全に後者だと思ってたし。でも、四宮くんは分からないな。わざわざ経費持ってくる時点で何か話したかったんだろうなとは思うし、何か理由があるのは確かっぽいしね」
部長に呼ばれた尾高さんが、書類を端っこに寄せて席を立つ。
私は、再び四宮からのファイルを眺める。
今日もシワひとつない、綺麗な領収書がホチキスで閉じてある。
「失礼します」
経理部のドアがたたかれ、視線を移すとそこには人事部の小川花織が立っていた。
手元には財布と携帯が入るくらいの小さなバックである。
「花織」
人事部に所属する小川花織は、私の同期であり親友である。
今回のお葬式にも会社を代表して参列してもらい、法要も手伝ってくれた。
花織は周りを見ながら私のデスクの前までゆっくり歩いてきた。
「ランチ、どうかなって」
時計を見ると、もうお昼を回ろうとしている時間になっていた。
いつの間にか戻った尾高さんが、「お先どうぞ」と言ってくれたので、少し早めではあるが外に出ることにした。
会社を出て右に向かい、5分ほど歩き路地裏に入る。
そしてすぐ見える小さなビルの1階に、いつも花織と行くパスタ屋がある。
こじんまりとしているのであるが、カルボナーラがとてもクリーミーで美味しいので、
会社に長く勤めた人ほど知っている、隠れた名店である。
赤と白のチェックのテーブルクロスが引かれた机が4つほどと、カウンターが4席しかなく、奥のテーブルのみ偶然にも空いていた。
そこに腰を落ち着け、いつものようにカルボナーラのランチを頼む。
「よかった、思ったより元気そうで」
テーブルに水が運ばれ、一息ついていると花織が開口一番に告げた。
私は姿勢を正して、軽くお辞儀をしながら「法要のときはお世話になりました」と恭しく返すと
花織は、やめてよと言いながら笑った。
「あの時の涼香、本当目が虚ろでさ、電話しても出てくれなくて本当心配だった。でも今は割と落ち着いてるね」
あの時、と聞くとやはりあの雨の中のお通夜に現れた四宮がフラッシュバックしていく。
花織に、話してみたほうがいいだろう。
人事部経由であれば何か情報があるかもしれないし、もしかしたらコンタクトがとれるかもしれない。
「あのさ、お通夜の時ちょっと予想しない人が参列に来たんだ」
そう話し始めるのと同時に2つカルボナーラが運ばれてきて、クリームの香りが鼻孔をついた。
黒コショウが香るここのカルボナーラの香りに負けて、話をする前に一口食べた。
同じように花織も食べながら、話の続きを促してきた。
「予想しない人?」
「そう、営業部の四宮くんなんだけど」
花織がフォークにパスタを巻き付けていた手を止め、怪訝そうな顔をした。
「四宮って、四宮洋平?あの営業部の?」
「そう。芳名帳も確認したから間違いない」
パスタを食べながら、四宮と遭遇したあのお通夜の日を丁寧に説明する。
まずは一通りの行動だけ、事実をタイムラインに沿って話をした。
「なるほどね…。人事部として訃報を出したから涼香のお母さんが亡くなったことと、式場はわかると思うけど、四宮くんがわざわざ来る理由はあんまり思いつかないね。涼香とは、もちろん関係ないもんね」
「まあ、あるとすれば経費の精算くらいかな」
「経費の精算?それと四宮君どう関係あるの」
「いつも、名指しで柊さん、よろしくお願いいたします。ってシワひとつない領収書と一緒に社内便で届くの」
「ええ?経費の精算ってかなりの量なのに、涼香宛にわざわざ?」
「それもよくわからないんだけど、もうずっと4年間そうだから」
このことがあるまで、四宮君の領収書の件は気にも留めていなかった。
ただ、四宮君が営業部に配属された4年前からずっと私宛に届くのは、新卒の時に精算の方法のままで、その後も変える理由がないからだと思っていた。
お互いのパスタは話が盛り上がっても順調に半分まで減っている。
やっぱり美味しいと思って安心した。
疲れすぎて精神的に来てしまって味が分からないというところまでにならなくてよかったと思う。
「なるほど、確かにその感じだと新卒の時最初に担当してもらったからそのままっていうのはあるかも。ミスとかしても、聞きやすい感じあるし、そういうタイプは結構いるよね」
パスタがすべて無くなったあと、温かい紅茶が運ばれてきた。
花織が、何か考え事をしながらずっと視線が宙を泳いでいる。
「あ、涼香さ、四宮君がまだ配属される前に一度会ってるね」
私はその言葉を聞いて熱々のはずの紅茶を勢いよくすすってしまった。
下にピリッとした熱さが体全身を通っていった。
「そうだっけ?経費の精算は研修だけは人事部が一括してるはずだし」
「四宮君ってさ、入社当時は結構元気で同期に囲まれていたから派手な子なのかなーって思っていたんだけど、研修が終わったあとに経費のこと聞きたいんですけどって尋ねてきたんだよね。
研修の時と違って、とても落ち着いて、静かにここにきてね。
定期券のことを聞きに来たんだよ。そしたら偶然、涼香がここに来てて。丁寧に説明してくれたの」
そんなことはあったかなとぼんやり思い返すがあまりよく覚えていない。
「そのあとにもう一度、訪ねてきて先ほど経理の方は誰ですかって聞いてきて、涼香のことを話した。その時何度も柊さん、かってずっと言ってたから気になってはいたのだけれど」
花織の話を聞いても、あまりしっくりこない。
経理部が新卒社員の面倒を見ることはそれはもう至極当然にある。
そして、今回の四宮君のように、私のことを担当だと思って経費書類を送り続けることもある。
名前を聞いてきたのは、担当者を知っておいたほうが聞けると思ったのだろうし
柊、という苗字が絶妙に流通していないのも相まって、覚えられやすいのもある。
「でも、それと母のお通夜に参列することは関係がない」
紅茶を飲み切った花織が、私のほうをじっと見て
「それじゃない?」
「それ?」
「そう、涼香じゃなくて、お母さんが四宮君と接点があるんじゃない?」
「どこで??」
四宮と母に接点があるなら、娘の私にもあって当然だし
会社の話をしていたとしたらなおのこと、私ももう少し彼のことを分かっていただろう。
でも生前、母から四宮君の話は聞いたことがないし、私もしたことがない。
彼が、わが柊家の話題に上ることは確立としてとても低い。
「それは、分からないけれど。でも分かる人がいるじゃない」
花織はじっとこちらを見つめる。
「四宮洋平本人に、直接聞けばいい。あれだったら私がコンタクトとるけど」
やはり、四宮洋平本人から話を聞く以外は解決策が今のところない。
だからといって放置しておくのにも、どうしても気になってしまって先に進まない。
私と四宮君ではなく、母と四宮君にどんな関係があったのかそれだけでも知りたい。
なぜ、母が四宮君の話をしなかったのかも、とても気になる。
「お願いできる?」
そう告げると、花織はいたずらに笑うと「了解、人事部の腕の見せ所だね」と言った。
四宮本人と話せる。
それはとてつもなくいい機会のような気がした。
母のことはもちろんだけれど、ついでに領収書の件も併せて聞いてみたいと思った。
***
17時を回った。
お昼に花織と話していたことを反芻していると、いつもより作業が遅くなってしまった。
他の社員が片付けを始める仲、私は一人もくもくと仕事を片付けていた。
「柊さん、もうその辺にしたら?明日でも経費の精算間に合うから大丈夫よ」
尾高さんが荷物を片付けながら、そう声をかけた。
「あ、いえ。ちょっと終わらせたい作業もあるし、少し残ります。不在の間も皆様にはご迷惑おかけしていたのに、仕事まで先延ばしにできません」
「そんな気にすることないのに」
「…というのは言い訳ですね。帰っても特にやりたいことないし、虚しくなるのが嫌なので、仕事をしていたほうが幾分か心が楽なんです」
帰っても、誰もいない。
母の遺骨があるだけだし、線香の香りが漂うだけだ。
「そう…、無理しないでね」
尾高さんは困ったような、悲しいような表情をしてから部屋を出て行った
一人残されたこの部屋で、今日の花織との話を整理する。
彼が、私宛に領収書を名指しで提出したのは、営業部に配属された4年前からだ。
この4年間、彼の成績の伸び方は尋常じゃなく、先輩いとも簡単に越し、役員を味方につけ最終的に噂の下流になりがちの経理までその活躍は聞こえてきた。
会社で見かける彼は、4年前の新入社員のときとは見違えるほどの自信で溢れていて、その成績にルックスも相まって、恋の噂も絶えない人になっていた。
彼と付き合った、とされた女性社員はみな辞めるか、休職するかをよく選び、これはみんな四宮が捨てたせいだとやっかみもあった。
それでも彼は、成績を落とすことなくやっかみを向けた相手に真っ向から勝負していった。
無論、話す機会などなく、というか話そうという気にもなれず、ただ彼の活躍を定期的に提出される精算書の内容から把握し、順調であることを経理部内で共有する、それだけの接点で、この4年間働いてきた。
でもそんな彼が、私の母のお通夜に参列し、一粒の涙を流し去っていく姿とどうにもイコールにならない。
母と関係があるとして、それは一体全体どういうことなのか。
コンコンと曇りガラスになっているドアがたたかれた音がした。
私はハッとして、その曇りガラスに映る人影を確認する。
大柄で、おそらく男性。定時は1時間を過ぎ、この時間に経理部を訪ねる理由がある人はいない。
急ぎの案件で課長か、部長だろうか。
「はい」
私は返事をし、ドアのほうに歩いていきゆっくりと開けると、目の前に男の人が立っていた。
スラっとした脚、程よく筋肉のついたがっちりした体、重めの前髪、そしてその間から除く
奥二重のきりっとした目元から放たれる視線。
あの時と、同じように立っているだけで様になるその雰囲気。
「え」
「お疲れ様です。営業部の四宮です。先日は、そのご愁傷様でした」
四宮洋平が、右手にまたクリアファイルを持って丁寧にお辞儀をした。
「四宮君」
廊下から、誰かの話声が聞こえてくる。
甲高い女性の笑い声だ。
彼はそれを聞いた途端私を部屋に押しのけて経理部のドアを閉め、ドアの近くにあった部屋のスイッチを切る。
私はその一連の動作をただ茫然と眺めている。
彼は私の腕をつかむとぐっと強く床に向けて引っ張り、同時にしゃがみ込むような体制をとった。
「どうしたの」
と声をかけると、口元に人差し指を置かれ静かに、とジェスチャーをされた。
訳も分からず黙ると、すぐそこの廊下をあの笑い声のもととなる女性と、男性が3人で去っていく。
1,2分くらいだろうか、暗い部屋で四宮君としゃがみ込んで、完全に3人の声が聞こえなくなるまでじっと見を縮ませて待った。
長い、長い時間だった。
窓から漏れるわずかな都会の光だけが差し込んで、その横には申し訳なさそうに輝く月が見える。
月の光は多くの高層ビルに埋もれており、かろうじて半月の形だけが確認できた。
目の前には耳を澄ませている四宮の、鼻筋の通った美しい横顔が見える。
確かに、この人は綺麗な顔をしている。涙があの時美しく見えたのはこのせいだろうか。
掴まれていた手の力が緩み、私はその反動で床にお尻をついてしまった。
「あ、すみません。大丈夫ですか」
立ち上がった四宮がすらりとした右手を差し伸べてくる。
私はさし伸ばされた手に何の抵抗もなく掴んでおり、ぐっと彼の力で立ち上がらせてもらった。
「あ、うん。でもなんで隠れたんですか」
「その、面倒なんですよ。俺が絡むと大体いろんなことが。さっき横を通った女性、俺と同じ部署で営業成績争ってて。こういうことを誇大広告みたいにして言いふらすの趣味みたいなやつなんで、隠れたほうが柊さんに迷惑かからないかなって」
再びスイッチをつけると、先ほどまで入ってきた月の光は
科学の文明の光に負けてスッと消えていった。
「なんだか、大変なんですね」
理由が四宮らしいと言えばらしいし、そんなことで人を蹴落とすようなことをするのが私と同じくらいの女性というのもなんとなくいい気持ちがしなかったので
彼のこの理由にはなんだか笑ってしまった。
「全くですよ」
四宮がスッと目を細めて笑うと、くしゃっとした感じになるのが彼が男女共に好かれる理由なのかしら、とぼんやり考えていると、目の前にクリアファイルを差し出した。
受け取ると、締め切りまで日付がある精算書が渡された。
「これ、明日以降でも良かったものですけど」
「柊さん、本当は俺に聞きたいことがあるんでしょう。
そして俺も話しておきたいことがありましたので、これはここを訪れる口実です」
四宮がクリアファイルを指差しながらそう言った。
あ、そうか。
すっかりさっきのことで私がつい数分前までどうやって四宮と話そうか考えていたことを忘れてしまっていた。
「あ、そっか、そのこの間のことなんだけど」
話を遮るように、右手をスッと目の前に出す。
「この後予定ありますか」
「えっと…ないです」
そう咄嗟に応えると、近くにあったメモとボールペンを掴みさらさらと何やら書き物をした。
渡されたメモにはお店の名前と、最寄駅とおそらく四宮の連絡先が書いてある。
こんな短時間で書いたのに、相変わらず四宮の字はとても綺麗である。
お店の名前はいいとして、最寄駅がここからかなり遠く30分ほど電車でかかる。
私としては帰り道の途中なので問題のであるが、四宮は遠くないのだろうか。
「こんなに遠くて四宮くん大丈夫ですか?」
「すみません、あまり社内の人間に遭遇するのは好きではないので。実は俺もこっちのほうに自宅あるので帰り道ですし、今日は金曜日だから問題ないです」
「あ、そうなんですね」
同じ方向に自宅があるらしいことと、やたらと社内の人間とは関わりを不要に持ちたいタイプではないらしいことだけがわかる。
私の場合は、のっぴきならない事情、というタイプの例外なのかもしれないらしかった。
「俺は少し部署に戻って片付けをしたら向かいます。先に向かっていたけますか。あと少し資料の整理をしないと帰れなくて。俺の連絡先はそのIDになるので、後で追加しておいてください」
場所をスマホに打ち込むと、すぐに地図と概要が出てきた。
最寄駅からは徒歩5分らしいし、降りたこともある駅だから迷うことはなさそうである。
「分かりました。気をつけていらしてください。私は好き勝手に飲んでますから」
冗談っぽく告げると、四宮はまた柔らかく笑った。
「はい。早めに切り上げますので、後ほど」
そう言い残すと、足早に部屋を出て行き、先程の女性社員が歩いていったほうに向かっていった。
手元には、また綺麗に用意されている精算書と、四宮の連絡先が書いてあるメモである。
IDを打ち込み検索するとアイコンが綺麗な茜空の空が写っていた。
自宅から撮ったのだろうか、それとも旅先かな。
そんなことを考えながら追加を押し、挨拶がわりにスタンプを送る。
数秒後、既読になり似たようなスタンプが返ってきた。
そして私の連絡先に四宮の名前が増えた。
結構あっさりとコンタクトが取れてしまった。
四宮は、先程の女性社員みたいに疎まれることも多いだろうけど、逆にあのルックスで恋焦がれられることも多いのだろう。
きっとこの会社にはそんな女性がかなりの数いるはずで
私のような経理の平凡な社員の連絡先に名前が載ること自体奇跡みたいなもんだ。
四宮のことをそう考えたくはないが、やはり営業部期待のエース、あのカッコよさを、併せ持つ彼の連絡先を手に入れることは少しばかりの優越感である。
母のこととは言え、こんなトントンに進むこともあるのだなと、なんだか夢みがちな気分である。
デスクの上に散らばる経費の精算書や、文房具を、いつもの定位置に収めた後、先程の「都合よく」使われた四宮くんの精算書を私は明日するべきファイルの1番上に置いた。
鞄に荷物を詰めて、一息ついてから洋服のシワを伸ばす。
こんなことになるなら、もう少しいい洋服を着れば良かったなと、わずかに後悔をした。