プロローグ:雨と呼吸
雨に濡れた黒い前髪から、切れ長の瞳が見えている。
黒い瞳から漏れる凛とした視線を私に向けながら、その人はただ静かに、そしてたおやかに息をした。
鋭いような、でもどこか脆そうな目を決して離すことを許さない眼差しを受け止めた瞬間、私はその場から動けなくなった。
ノイズキャンセリングのように、全ての雑音がシャットダウンされ、その世界にはまるで私たちその人しか存在しないような感覚に陥った。
何に惹きつけられて、私はあなたを見たのでしょうか。
そしてなぜ、あなたは私を捉えて離さないのでしょうか。
****
「あの日」の空は、水蒸気を多く含んだ雲がぐっと自分の体を押し付けてくるようなほど暗くて澱んでいた。
6月の初旬、梅雨もそろそろ顔を出すという頃に、私は少しじめっとする空気の中ずっしりと重くのしかかる喪服に袖を通していた。
3日前にネットで慌てて見繕った喪服。
ネットで購入したから、サイズは完全に勘で選んでいて、実際に着るまでは私にフィットするかどうかも怪しかった代物だ。
どこにでもある黒いシンプルなワンピースだったけれど、安い割には意外と縫製がしっかりしていて、サイズも特に問題はなかった。
足元は、たまたま去年買っていた黒いヒールを合わせた。しとしと降る雨の中履くのは抵抗があったけれども、それしか喪服に合う靴を持っていなかった。
去年はこのヒールを結婚式に履いて人の幸せを願っていたのに、今度はお葬式であの世に見送らなければならない。
あのとき友人が分けてくれた幸せは、この一年で見事に散った。
幸せのお裾分け、なんて碌なことがないと思ってしまったくらいに、私の心は荒んでいた。
生前、いつこうなるか分からないから喪服は買っておくのよと母に言われていたのに、私はすぐには行動しなかった。
買ったら、買ってしまったら、母の死期が早まるようで怖かったから。
結局私の勝手に考えたジンクスは掠りもせず、この日を迎えた。
不幸中の幸いがあるとした、試着もしなかった急拵えのわりには年相応に見えるし、形も良いので、喪主らしく振る舞えるところくらいだ。
お通夜は家族と親戚だけしか来ないだろうと、あまり身構えてなかったのだけれども、結局私の予想を超えて近所の方や、母のパート先の社員さんがぞくぞくやってきた。
参列する人たちが、泣きながらご焼香を上げていく姿を見て母は意外と人脈が広かったのだなと感心する。
すでに悲しみを通り越した私は、母の遺影に向かって手を合わせる人たちの関係性を勝手に想像しながら、ただ呆然と一連の流れを見つめていたのだ。
母の快活に笑う遺影に視線を移すたびに、ああ、この人はもういないんだなという現実が重くのしかかる。
一人娘である私を差し置いて、参列者はおめおめと泣くその姿そのものが逆に私の心を冷ましていく。
自分でも驚くくらい、涙は出てこなかった。
虚無とは、こういうことなのかもしれない。
軍隊のように右から左に流れを、何の感情もなく機械的に見ている。
そして何もない、何も感じない、何もする気になれない気持ちがぐっと胸を締め付けてその悲しみをいとも簡単に通り越してしまう。
泣いている人が、なんでそんなに泣けるのか分からない。
泣きたいのは私で、泣いていいのは私なのに、なぜ私は涙が出てこないのか。
ブラックホールのような大きな穴が、私自身を飲み込もうとしている。
受け止めるには、あまりにも大きな穴だった。
心の中には何も残らず、ただ空っぽになった私がいる。
ぼーっと視線を宙に彷徨わせながら、なんとか正気を保とうとしている最中、ふと、会場の自動ドアが開く音が気になった。
人の出入りは多く、それまでにはすでに何度も開閉していた自動ドアが、急に視界にぐっと入り込んできたのだ。
そこに現れたのは、1人の男性だった。
男性はビニール傘を丁寧に折りたたみ、ついた水滴を軽く振り落とした。
背はスラリと高く、仕立ての良い喪服に身を包んでいる。
喪服であるのに、あまり重苦しさも感じさせず、美しくその体に纏われていた。
その姿に思わず私以外の人たちが見入ってしまっている。この湿った空気ですら巻き込んで惹きつけるような存在感を放つ。
ビニール傘を傘立てに置き、少し乱れた前髪を手でほぐしながら入り口横の受付にゆっくりとした歩調で向かってきた。
さらさらと、芳名帳に記帳を済ませる。
その後、まっすぐと母の遺影に視線を向けてコツコツと、音を立てて近づく。
その人は、私の前に立つと、奥二重のスッとした目元を長めの前髪から覗かせながら、ゆっくりとお辞儀をした。
その姿があまりにも美しくて、一体私は誰に今見られているのだろうかと混乱してしまったいた。
顔を上げ一息つくと、今度は母の遺影に向かいもう一度深くお辞儀をする。
お焼香をつかむ2本の指はとても長く、白く綺麗で全ての動作に上品さが滲み出ていた。
そっと手を合わせて、さほど大きくないけれどきりっとした瞳が閉じられる。
少し長めのまつ毛が。また儚げだなと思いきや、その瞬間、ほんの一粒だけ涙を流した。
涙が重力に逆らえずゆっくりと頬に沿い、首元に堕ちていく。
信じられないほど、美しく泣く人だった。
その一粒の涙が儚くて、脆く、静かに私の胸に落ちていくような感覚。
それが起爆スイッチのように私の両目から涙が伝っていく。
その日初めて「悲しみ」を思い起こし、泣けた瞬間だった。
その人が再度、私に向かって深くお辞儀をしたときには、すでに凛とした表情に戻っていた。
きりっとしたその黒い瞳だけが、私を捉えていた。
踵を返し、コツコツとまた音を立てて会場を出ていく。
ああ、私はこの人を知っている。
知っているけど、母とは無関係のはずだ。
でも目を離すことができなかったのだ。
母のためにこんなに心から、悲しみを涙にこめられる人がいてくれる。
ほんの少しこころが温かくなったところで、我に帰ると、すでに自動ドアが開いており、その人は、ビニール傘を手に取っていた。
数秒もしないうちに、あっという間に姿が見えなくなった。
思わず立ち上がり、出入り口へと小走りで向かう。
参列者が不思議そうな顔をして見つめていても、気にならない。
彼のことを、私が知らないわけがない。
というか、私の会社に勤めていたら知らないもののほうが珍しい。
でも、確信がない。
受付に立ってくれていた叔母さんのもとへまっすぐ向かっていくと、私の必死な形相をみて驚いている。
「あの!さっき記帳して行った私くらいの年の男性誰だかわかりますか?」
勢いよく話を続けたので、叔母さんもその気迫に圧倒されて言われるがままに芳名帳を探す。
「えっと…この方かな?若い男性だったから珍しいなって思ったんだけど会社の方?」
その指さされた芳名帳の先には私の予像通りの名前が綺麗な字で書かれていた。
四宮洋平。
営業部におきトップ成績を持ち、誰とでも打ち解けられるコミュニケーション能力を武器に、成績を伸ばしている若きエース。
確実に出世されると噂されている、将来有望な人材である。
そして、いつも、いつも。
「領収書が綺麗で、丁寧な人だ」
いつもなぜか私宛にシワひとつない領収書と精算書を持ってくるその人こそが、四宮洋平だった。
叔母さんが不思議そうな顔をして、私をのぞき込む。
「涼香ちゃん?大丈夫?」
私は叔母さんの言葉にハッとし、遅いと分かっていたが自動ドアのほうに駆け出した。
すると、道路の向こうにすでに帰ったと思っていた四宮が、傘を差しながらこちらを見つめていた。
数秒が、数分なのか、分からない。
周りの音が少しずつ無くなって、何も聞こえなくなる。
私と四宮の間には二車線の大きな道路が横たわっていて、何度も車が通り過ぎていく。
ようやく走り去る車が途切れたときには、雨が強くなっていて、彼の肩雨に濡れていた。
それでも彼はその場を動かないのだ。
私はその佇まいと、視線に囚われてしまって、足が棒になったように動かない。
何か、何か言葉をかけなければならない。
彼を、引き止めなければならない。
漠然とそんな予感はするのに、足が動かない。
私は、彼になんて言えばいいの?
急に音が戻ってきたのか、雨音がやけに耳に届く。
再び車が左右に水しぶきを上げて走り去っていき、隙間から彼がようやく見えるくらいだ。
彼のつま先が、少し動いた瞬間、大きく息を吸い込んで叫んだ。
「四宮さん!」
そう声をようやく振り絞ったのに、大型トラックが通り過ぎて声はかき消され、その数秒後には、もう彼はいなくて、追いかけることはできなかった。
「なんでなの…」
急に足の力が抜けていく感覚に落ちていった。
誰かに強く腕を支えられて、後ろを振り向くと叔母さんが心配そうに私を見ていた。
「涼香ちゃん、大丈夫?休む?」
叔母さんは私の肩を少しずつ抱いて、一緒に立ち上がりそっと背中をさすった。
雨の中の来訪者は、私に確かな存在の色を残して去っていってしまった。
お通夜の間、私の頭の中は突然現れた四宮のことでいっぱいだった。
あの数秒、数分は永遠に近いくらいに長く感じた。
手を伸ばしたら届きそうで、でも届いたところで、彼に何を聞くつもりだったのか。
それは分からないけれど、ひとつ、言えたことがあるとすれば彼のあのまっすぐな瞳から逃れる術はなかったということだ。
会場にいた参列者を見送ったと、私は一人母の遺影に向き直った。
まだ線香の匂いが漂う会場の中、私は目の前のパイプ椅子に座り込み四宮のことを考えてみた。
私はしがない経理部で、四宮は営業部のエースだ。
接点があるとすれば、あの綺麗な領収書と丁寧な字で書かれている経費書類。
いつも、いつもなぜか私宛にその書類は社内便で届いていた。
特に話したこともなければ、もちろん経理部に自ら持ってくることもない。
母の遺影を見る。
そう、四宮が私のために母のお通夜に来る理由はない。
となると、私ではなく母と関係があったことになる。
でもどこで、母と四宮が会うことがあるのだろう。
あの時一粒だけ流したその涙は、慕っていて、親しみのある人への感情表現だった。
仕草一つ一つが上品で、儚くて惹きつけられた。
初めて参列した人の涙を見て、泣きたくなった。
それくらい美しく、清く正しかった。
まるで、触れたら壊れそうなそんな危うさも持ち合わせてるように見えたことが、頭からずっと焼き付いて離れなかった。
私はこのときのシーンを、何度も何度も、繰り返して思い出すことになるとは、その時は想像していなかったと思う。