3-6.邂逅と再会
――一面に花が咲き乱れたとても穏やかな場所に、ヴァイスはいつの間にか立っていた。
図鑑で見た地上に咲いているものとは全く違う、見たことも無い花だ。向こう側が透けて見えるものや、風の揺らぎで音を奏でるものもある。
見たことも無いはずなのに。――懐かしいと思うのは何故だろう。
ふと、自分の頬が湿っていることに気づいて、片手で撫でる。手を見ればやっぱりしめっていて、それはどうやら眦から流れ出ているものらしい。
どうして。
「泣いているの……?」
自分のことなのに、その涙の理由がわからなくて、ヴァイスはおもわず声を出す。しかしその問いに答えてくれるものは誰もいない。
「――ほらこっちよ、あなた」
不意に、背後から声が上がる。その声が予想外に至近距離から聞こえて、思わず身構えて振り返る。
――純白の髪と、オパールの瞳の少女。
『聖戦』の後、アデルからもたらされた地底世界でカズキが目撃したという少女と、全く同じ情報の女だ。しかしそれを上回る驚愕に、ヴァイスは喉を詰まらせる。
その話を聞いた時も、少し感じた。だけどここに来て実際に見て、その直感が正しいものだと理解していてしまう。
――自分と同じだ。
ヴァイスと同じ色彩の少女は、しかし何故かこんな広い空間で一人立つヴァイスに気づいていないのか、その横をするりと抜けて花畑の中心へ駆ける。
そこには、見知った黒檀の髪と灰色の双眸を持った、人間のようなものが転がっていた。
人間のような、と定義したが、果たしてそれが本当に人間なのかヴァイスには分からない。分からないほどにその色彩は朧気で、正直真正面から見るのも辛い程にボロボロだ。
そんな物体に、しかし臆することなく少女は駆け寄って。
「こんなにボロボロになってしまって。急いで形を作ってあげる必要があるわ」
「わかった。急ぎ宮殿へ運び入れよう。グリンブルスティ」
第二の声が背後から上がる。目の前の少女からはあくまで警戒をそらさずに、ヴァイスは振り返り。
――その色彩に、またしても驚愕に目を瞠る。
漆黒の髪に、唐紅の瞳。自分の主とほとんどおなじ色彩を持つ、その男に。
どことなく顔つきも似ていて、それがなおのこと混乱に拍車をかける。
癖のある髪も。
強気そうな達観した瞳も。
どうしてそんなに、ハヤトに似ている――。
しかしその男もヴァイスの存在に気づいていないのか、呼び声に応じてどこからともなく出現した巨大な猪を携えて。
「お前も一緒に行ってくれ。私はもう少し周辺を見て回ってみよう」
「わかったわ。早く帰ってきてちょうだいね」
「あぁ、わかっている」
そうして淡いキスを交わして、物体と少女を乗せた金色の巨猪はその図体に似合わないほど静かに、そして速度でその場を離れる。
何を見ているのか、ヴァイスは自分が今見ている光景を信じられずに立ち尽くす。
これはなんの映像だ。
過去のものなのか。
現在なのか。
はたまた未来なのか、それすらも分からない。
分からないことだらけなのに。――どうして懐かしいと思うのか。それが一番分からない。
「……さて、ここもそろそろ忙しなくなってきたな」
「対岸の湖畔は見てきた。特にはぐれたものは居ないようだ」
「さすが仕事が早いな」
「おだてても何も出ないぞ」
少女と青年が出てきた森の入口からは反対側から歩み寄る、金髪の青年騎士。その外見の特徴も聞いていたから、ヴァイスはすでに知っている。
カズキが最期に見た、黎明の剣の保持者。
「おだてている訳では無い。さすが我が友と褒めたのだスキールニル」
「それをおだてているというんだ」
「賛辞は素直に受け取っておけ」
「そうやって調子に乗ったお前からの無茶振りは、もう勘弁したいものだ」
黒髪の青年の方が良い身なりをしているから、スキールニルが仕えている主なのだろうとは思うが、2人の掛け合いはとても主従とは程遠くて、むしろ言葉通り友人同士の方が合っている。
「何も問題がないなら早く帰るべきだ。いつまた癇癪を起こされるかわかったものじゃない」
「そういう女心が分からないから、いつまで経っても独り身なのだぞ?」
「我はお前に忠誠を誓った身。全てはお前のものだ」
「相変わらず頭が固いな」
ふう、と息を着いて黒髪の青年は呆れながらヴァイスの隣をすり抜けるスキールニルを見返して。
――ふと、その唐紅と視線が合った気がした。
青年はその瞬間、僅かに唐紅の双眸を見開いて。そして全てを悟ったかのような、そんな笑みを小さく浮かべて。
ヴァイスにしか聞こえない声で、こういった。
「――お前ももう還れ。お前の還りを待つものが、心配しているぞ」
「っ待て、君は一体――!」
その瞬間、見えない何かににかれるようにして、急速に世界が流れ始める。その流れに自分はついていけずに、徐々にその世界とずれていく。
濁流に飲まれる直前、ハヤトにそっくりの青年は最後にこう呟いた。
「大丈夫。お前はきっと、答えに辿り着くだろう。なんたって私の――」
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「――お、起きたね。大丈夫?」
瞼を開くと、見慣れた天井と聞きなれた声が同時にかけられる。ごつごつとしたむき出しの岩肌ではないから、そこでは無い。
とりあえず起き上がって隣を見ると、レンがガンケースに治癒用の聖石や狙撃銃やらをしまい込んでいる。
寝起きだからだろうか、何故かすごく頭がぼうっとして、動き出してくれない。
その様子を敏感に感じ取って、振り返って向けられる黄金の散った琥珀色。
「一通り診て治療もしたけど、他にどこか異常があれば言って?」
「……頭がぼうっとする」
「あぁ〜……。ヴァイスを気絶させるときに思いっきりぶん殴ってたから、そのせいかなぁ」
その時の痛みを思い出して、レンは自分の頭を摩る。痛覚共有の異能力は、自分が受けた痛みをきっちりかっきりレンへ届けてしまったらしい。
それよりも。
「……なんでこんな所にいるの?」
「え、もしかして覚えてない?というかどこから覚えてるの?」
質問の意図が分からずに、ヴァイスは思考が回らない頭で首を傾げる。どこからとは?
レンはそんなヴァイスをみて少し引いた表情をして、医師が患者にするように丁寧な審問を開始。
「う〜ん、じゃあヴァイスの主人は誰かな」
「ハヤト」
「隼人と最初にあった時のことは?」
「春先の話でしょ」
「今日は何日?」
「……10月初め」
「なんでここにいるのかは?」
「……」
改めて周囲を見回して、どうやらここは『タキオン』総本部の最奥部に位置する門の間だと気づく。何度かここから迷宮区へ潜っているから間違いない。
間違いはないが。何故、と理由を聞かれたら、全く覚えがない。
なぜ自分はここにいるのか。それが分からずに返答に困っていると、レンは納得したように頷いて。
「OK。とりあえず状況把握は後にしよう。まだ状況は終わってないからね」
道具をしまい終えたガンケースを背負い直して、レンは手のひらを伸ばして。
「隼人が先に行ってる。追うよ」
「……わかった」
知らない間に、また厄介事に巻き込まれているのか。差し伸べられた手を掴んで、ヴァイスな上体を起こす。
反動を付けて引き上げると、レンはハヤトが入ったのであろう門へと走る。その背中を追いながら。
夢というものは、起きた時にはほとんど覚えていない幻のはずなのに。
それなのに、どうしてこんなにも鮮明に覚えているんだ――。
胸をざわつかせるその要因を話せずに、ヴァイスもレンと同じく最深部へ続く門をくぐった。
*****
やった。
やった、やったやった――!
「ようやく手に入れた……。あたしの身体……!」
背中に具象した翅で飛びながら、シエナは歓喜の声を上げる。
吹き飛ばされた左手と、あの生意気な死にかけの青年に開けられた胸からかなりの記憶(生気)を流してしまったが、まだ形は保てる。しばらく安静にしていれば、これ以上の崩壊はない。
ようやくだ。
ここまで長かった。長すぎて時間の概念すらあやふやで、もういつから希ったのか分からない程に。
それでもようやく手に入れた。
「やっと、やっとよっ。これであたしはここから出られる……!人間の身体で、外を自由に――!」
「それは無理な相談だ」
背筋がすくみ上がるほどの殺気。しかしそれを感じた時にはすでに遅く、刹那肉薄した影によって地面に叩き落とされる。
地面に激突すると同時に轟音。決して小さくないその音は空気を震撼させ、地面には数多のひびが走る。
「いえ〜いすとらいーく!」
迷宮区の点在している大空洞の中心。激痛を堪えてどうにか上体を起こすと、楽しげに笑う女の姿。場違いなあの歓声は、どうやらこの女のようで、シエナは殺意をみなぎらせる。
「っ何するのよ、クソ女!」
「わぁ、ひっど〜い。そういう君の方こそ身だしなみに気をつけた方がいいんじゃないかな?」
「……っ、」
錫色の短い髪の女はどこまでも楽しげに、しかし退路を断つように立ち塞がっている。他に出口はないかと素早く視線を走らせた先で、反対側からも別の影が歩み寄っている事に気づく。
金色の髪をオールバックに上げた男。
「そいつに女だなんだと説く方が愚かだ」
「こんなスレンダーボディを見て何を言うか!」
「逆にそれがお前の趣味かと思うと少々考えるところがあるぞ」
「あたしを無視して雑談してんじゃないわよっ!あたしの願いを邪魔するなら容赦しないわよ!」
「――人間から記憶、生命力を奪って人間の身体を手に入れて、お前が外に出るということは禁忌に値する」
迷宮区の地面を軍靴が鳴る。その音と声にシエナは戦慄して、先程の勢いも削がれてその音の方角へ視線を向ける。
純然たる恐怖と畏怖。その感情に全身を震わせながら。
ダークブラウンの髪と新緑の翠。見慣れた学生服に身を包んだその少年に見覚えはないが、しかしその中身を見間違うはずはない。
「――す、スキールニル様……」
赤の裏地の聖グリエルモ学院の制服に身を包んだ少年は、見た目の年齢からはかけ離れた冷徹に沈んだ殺気を身にまといながら、真っ直ぐに歩みでる。
彼がその場に現れた瞬間、錫色と金色の男女はその場に跪き、頭を垂れる。
「我のことを忘れた訳ではないようだな、バンシー。死を告げる女」
「っ、」
真名を、自分を縛り付けるその名を呼ばれて、シエナ。――バンシーという名の妖精は凍てついたように固まる。
声を発するだけで。
その視線を向けられただけで。
それだけで、心臓をそのまま握られたような感覚に陥って、呼吸すら満足にできない。
それでも。――それすらも覚悟して、自分はこの願いを遂げるためにここまで来たのだ。
「っどうして地上へ、アルフヘイムの外へ出ては行けないの!?幸福を望んではいけないの!?あたしはただっ、人間と同じように人生を――」
「お前のその人生はとうに終わっているのだと、主は告げたはずだが」
「……それは、」
「主の言葉は絶対だ。そして主が決めた規律も。その規律に、禁忌に違反したお前はここで消えてもらう」
少年は無感動に吐き捨てて、左腰に佩いた鞘から剣を引き抜く。普段中身が持ち歩いてある黎明の剣ではなく、おそらくは皮の少年の所有物。
その切っ先が、真っ直ぐにこちらを捉えて。
――いやだ。
こんなところで。
こんな事であたしは死にたくない――!
「……ぅ、うわぁああああああああぁぁぁっ!!」
がむしゃらに描いた魔法陣から、浮かび上がった土塊の礫が少年に殺到する。
およそ人間の目で視認できる速度を優に超えたそれらを、しかし少年は全て見切り、その歩みが止まることは無い。
ふ、と目の前からその少年の姿が消える。
どこに。そう考えて視線を走らせようとした瞬間、目の前に突然出現する翠。
「――っ!」
咄嗟に右手に持っていたものを思い出して、シエナはどうにか相手の間に紫黒の剣を滑り込ませる。しかし相手の技量の方が圧倒的で、為す術なく弾き飛ばされ。
がら空きになったその胸に、音もなく少年の剣は突き立てられた。
先程死に損ないに刺された場所とは違う、こちらの結晶核を正確に抉る一閃。前に貰った二撃も合わせて、完全な致命傷。
その傷に声をあげることすら出来ずに、シエナは突き立てられた剣とその剣をもつ腕を掻きむしる。
――いやだ。
――どうして。
――人間と生きたいと思うことが、どうしてそんなにもいけないの。
傷口から、かき集めた記憶がこぼれていくのが分かる。それと比例して遠ざかっていく、肉体との感覚。
「お前は大人しく、ここでの生活を穏やかに過ごせばよかったんだ」
一息に抜き去って、少年は剣を払う。もう全身という全身に力が入らないシエナは、たったそれだけの動作で紙くず同然に地面に放り出される。
あぁ、消える。『あたし』という概念がこの世から。
無意識に頬を流れる雫が、虚空を彩る。
「――セオ?」
その景色と声を最期に、シエナはこの世から消失した。
*****
「――少年よ。人の子よ。貴殿の言葉を果たす時が来た」
それはどういう意味だろうか。咄嗟に理解できなくて、セオは小首を傾げる。
それも、次の瞬間には吹き飛んだ。
「――セオ?」
自分を呼ぶ声に、急速に意識が浮上する。
ピントがイマイチ合わない視界を回復させるようにぱちぱちと瞳を瞬いて、声がした方を振り返る。
赤銅色の髪はぼさぼさで、その下の深紅の双眸は驚愕に見開かれて。
それでもセオは、その少年のことを知っている。
「――ハヤト」
自分を呼ぶ声に、ハヤトは大きく肩を震わせる。目の前の現実を信じられないように瞳を瞠りながら。
「お前、本当にセオなのか……?死んだはずじゃ、」
言ってしまって、ハヤトはしまったと口をとざす。それだけでセオにとっては十分すぎる情報。
あぁ。自分はやっぱり死んだんだなと。
死んでいるなら、それでいい。ただ最期に思った心残りだけ確かめたい。そう思って口を開こうとして。
「っクサナギ!」
背後から上がる声にハヤトが振り向く。そこには赤に近い金の髪をした少年が、切羽詰まったように駆け寄っていく。
同じクラスではなかったはずだけど、どことなく見覚えがある。たしかブルームフィールドの従者だと言っていた少年。
「リュカオンっお前オリバーは、」
「それはいいっ。それよりもあまり不用意に近づくな。あれは確かお前と同室の、死んだって言ってた」
ハヤトを庇うようにしてセオとの間に立ったリュカオンは、ハヤトと同じ狼狽と、そこから来る得体の知れない畏怖から緊張に顔を強ばらせている。
彼はきっと直感している。――自分がもう人間ではないということに。
でも、そうか。なんの心配もなかったな。
場違いに口を緩めて、セオは笑う。確かめたかったことが、こんな結果で帰ってきた事に嬉しさを感じて。
「――ハヤト」
名前に反応して、ハヤトがリュカオンの背後から身を乗り出す。まるで親に置いていかれた子供のような必死さ。
その表情や行動さえも、何もかもが安心して、セオは穏やかに笑って。
「安心したよ。キミは今、独りじゃないんだね」
衝撃を受けたように、見開かれる深紅。そんなにショックを受けられると、少しこそばゆい。
友人なんだから、少しは気にしてもいいじゃないか。
言いたいことは言えた。
見たいものは見た。
――もう、心残りはない。
「キミは本当は寂しがり屋なんだから、誰かと一緒に居ないと。それだけが心残りだったから、これで安心して逝ける」
「っ何言ってんだよお前っ!1人で納得してんじゃ、」
「ハヤト」
心残りはない。だけどこれだけは伝えておこうと、セオはハヤトの言葉に被せるように続ける。
自分の最期の願いを律儀に聞いてくれたあの人を、勘違いさせたくないから。
「ハヤトならきっと、迷宮区の謎もしがらみも全部解放してくれる。だから、この人のことを、悪く思わないでほしい」
その言葉を最期に、急速に意識が消えていく。最期の願いを遂げたことで、この世界と結びつけるものが何も無くなったから。
――ありがとう。地底世界の騎士。あなたのおかげで、良い人生になった。
「――セオっ!」
必死そうなハヤトの声が、耳を突く。そんな悲しげな声をあげないで欲しい。ただ死人が死ぬだけなんだから。
「――ありがとうハヤト。最期にキミに会えて良かった」
果たしてこの時、自分は笑えていただろうか。
それを確認するすべも無いまま、セオ・ターナーは肉体をもうひとつの魂へと譲渡した。
*****
「――セオっ!」
セオが消える。根拠もなくそう思って瞬間、隼人はリュカオンを押しのけて駆け出していた。
死んだと思っていた。
事実、自分はもう死んだかのような先程のセオの存在感のなさ。
どうしてここにいるのか、最初に尋ねるべきそんなことも何もかもどうでもいい。ただ、彼に伝えたいことがあったのだ。
――ありがとうなんて。そのセリフ、そっくりそのままお前に返すべきなのに――!
手が届きそうなまで接近して、ふらつくセオの肩に手を伸ばして。
「っセオ!」
「――それ以上は踏み込まない方が懸命だ、ヒトの子」
その言葉と同時、横から飛来した雷撃が二人の間の地面を穿つ。
咄嗟に足を止めたおかげで直撃は免れたが、雷撃の熱量と弾かれた土塊が隼人を襲い、たたらを踏んで後退。
「っ何だ、」
「ようやく会えたな、地底世界の住民」
降りかかる声に表をあげる。空けた空間の上層部、そこだけ丘のように盛り上がった先に立つのは『タキオン』総団長、アルベルト・サリヴァン。
アルベルトはオフゴールドの長髪をなびかせながら、未だ紫電のほとばしる剣の切っ先をセオに向ける。
「って危ないだろ!」
「これは失礼。お前が直情的に向かっていくものだからついね」
「だってこいつは俺の、」
「それはお前の友人ではもうない。お前も分かっているだろう」
「左様。この身体の持ち主は現時点でこの世から消えている」
目の前のセオが口をひらく。先程まで確かにセオだと思っていたその少年は、しかし彼とはかけ離れた冷気を身にまとい、真っ直ぐに向けられた新緑の翠も、冷徹に冷えきっている。
「っ主、」
「動くな。動いたらこいつの焦げあとを作ることになるぞ」
今まで跪いて微動打にしなかった錫色と金色の動きを、その一言だけでアルベルトはねじ伏せる。まるで一国の王のようなプレッシャーに、思わず2人はびたりと止まり、恨めしげにフローズは唸る。
「……図に乗るなよ人間」
「図に乗っているのはどちらだ、化け物。私がお前らの正体に気づかず学院に置いているとでも思っていたのか、グリンブルスティにブローズグホーヴィだったか?」
真名を告げられても、ステイとフローズ。――グリンブルスティとブローズグホーヴィはピクリとも動かず敵意に満ちた視線でアルベルトを見上げる。
永遠に感じられた刹那。その膠着状態を破ったのは、意外にもセオだった。
「止めておけグリンブルスティ、ブローズグホーヴィ。我らの任務は彼らと敵対することではない」
「ほぅ。これだけのことをしておきながらよく言うな」
「今回の件は我らにとっても不測の事態。故にこうして我らが処理を行った。他になにか求むのであれば聞くだけは聞こう、ヒトの王よ」
「貴方はこの迷宮区、いえアルフヘイムの住民で間違いはありませんか。スキールニル」
第三者の声に、セオは片眉を上げる。アルベルトの背後から出てきたのは頭上に輪環を輝かせ、片目を黄金に光らせた少年。
アデルのその様相にセオは初めて反射的に反応したように目を瞠り、そして悟ったようにため息をこぼす。
「……そうか。あの時預言者と通じていたのはお前か。ヒトの賢者よ」
「はい。貴方の事はカズキさんを通して視て、そしてハヤトさんが暴きました」
「ハヤト……、」
ふ、と。視線が戻される。その翠からの重圧に、隼人は耐えきれずに固まる。
視線だけで人を威圧することの出来る、圧倒的な力を察知して。
しかし先程の言葉通りこちらとはことを構える気は無いのか、セオはそれ以上は何をすることも無くアルベルトに視線を戻して。
「その通りだ賢者よ。お前の言葉通り、我の真名はスキールニル。この地底世界、アルフヘイムを任された身」
「貴方たちは迷宮区なんてものを作って、何をするつもりですか」
「それは違うぞ賢者よ。作ったのではない。元々アルフヘイムはここにあったのだ」
その言葉の意味をいち早く理解したのは隼人だった。隼人は右手を口に当てて熟考する。
「……そうか、宇宙論」
「中々に聡いようだなヒトの子。左様。この世界には九つの世界が存在し、それらは世界樹によって繋がれる。それ即ち同じ大地に九つの世界は存在している」
「なっ、それはおかしいだろ!?今までヴァチカンの下にこんなもんがあるなんて知られていなかったはずだ!」
「いや、違う。ただレイヤーが違っただけ。違う次元にあったんだ」
声を荒らげて反論するリュカオンに対して、隼人はどこまでも冷静に分析する。そもそも次元という概念の違いは、人間はとうに越えている。
紙に書かれた点が一次元。
点と点を結べば線となり二次元になり、線が集まれば三次元になる。
それらは同じ世界にあっても、お互いに干渉することはできない。それぞれがそれぞれの境界を越えることはできない。
つまり。
「迷宮区は、元からこの場所にあったんだ」
お互いが絶対不干渉の次元が、何かの拍子にその境界が崩れ、結果として突如発生したかのように迷宮区は出現した。
それが、35年前の迷宮区発生の真実。
隼人のうわ言のようなつぶやきに、セオ。――スキールニルは頷いて。
「我らとしても、この件に関しては解決策をどうしたら良いものか悩ましいところだ。ここでの死人も、我らとしては心を痛める。迷宮生物と呼ばれる彼らも生きているのだから」
本当に心を痛めているのか、僅かに翠の双眸を歪めてスキールニルは呟く。
「出来ればここでの荒事は避けていただきたい。そして願わくば、ここへは踏み込んでこないで欲しい。我らは静かに暮らしていたいだけなのだ」
「……静かに暮らしていたいだけ、だと?」
怨霊のような呟きと同時、虚空より落ちた雷撃がスキールニルを穿つ。その一瞬前にスキールニルは跳んで回避していたため、直前まで立っていた地面だけが弾け飛ぶ。
跳んだ向こうで、再び翠の双眸は睥睨する翡翠色を見上げる。
憤怒に満ちた、その瞳を。
「それだけのために、我が友を殺したとのたまうのか、貴様は」
「……それ以上感情に呑まれるな。悲劇を生むことになるぞ、ヒトの王よ」
「貴様を殺せるのなら、どうなろうがどうでもいいのだよ私は」
今まで見た事もないアルベルトの表情に、その場の全員が息を飲む。
いつもの冷静沈着で、あの『聖戦』のときですら荒げなかったその声が、今は怒りと劇場で震えてしまって。
まるで、憤慨する子供のような。
「貴殿が我を殺す前に、我はこのヒトの子を殺せるぞ」
「その後に殺せばなんの問題もない」
「っちょ!?」
冗談だろ!?と思って見上げるが、どうやら本気のようで、視線で殺すかのようにスキールニルを射抜く翡翠色。
その本気さをスキールニルも察したように、わざとらしく肩でため息をして。
「……穴埋めという訳では無いが、貴殿らに敵意がないことを証明しよう。お前が救おうとした混ざりものの子供と消えかけの魂の無事を保証しよう」
なんのことを言っているのか理解して、隼人は反射的に視線をスキールニルに戻す。そこには先程までと変わらない、無感動な新緑の翠。
――そこに、どこかあの雪白の少年と同じ不器用さを感じて。
「それと記憶を奪われた全員にそれを正しく返還しよう。それで今日のところは見逃して欲しい」
「この私から逃げられるとでも?」
「雷の魔法、か。しかし我が配下が雷ごときに速度で負けるとでも思うか?」
「っお義父さま!」
警告と同時。今まで直立していたステイとフローズの姿が掻き消える。その一瞬後に目の前で巻き上がる嵐。
その土煙に紛れて、目の前の影も消える。
「っち!」
舌打ちと同時に轟音。アルベルトが嵐の中心に雷撃を打ち込むと、それに巻取られるかのように掻き消える暴風。
まるでストームのように突然巻あがった風は、なんの痕跡も残さず消え去って。
――そこにいたはずの三人の影すらも掠め取って言ってしまった。