2-4.落ちこぼれの実力(ⅰ)
はた、とまるで夢から醒めたように唐突にオリバーは歩みを止めた。
直前まで鬼神の如く前を歩いていたオリバーの唐突の静止に、後ろを着いてきていた取り巻き4人も足を止め身構える。あぁ、八つ当たりされるのだろうと。
ややあって、マリンブルーの鬼が振り返る。
「…私はどうしてこんな所にいるんだ?」
予想外すぎるその発言に、取り巻き達も咄嗟に返事をすることが出来ずに硬直。数瞬後何とか立ち直った1人が苦笑しながら先程までの経緯を説明する。
「え、やだなオリバーさん、貴方があの『死神』と落ちこぼれに話があるとかでここまで来たんじゃないですか」
「……そう、なのか」
まるで分からないと絞り出すように呻くオリバーの掌は無意識のうちに自身の顔を覆い隠していた。その指の間から覗くのは、己の理解の及ばない恐怖に、大きく揺れる紫眼。
「昼休憩…そうだ、昼の中庭での出来事までは確かに覚えているんだ…」
それなのに、それ以降の記憶がまるでない。気がつけば仄暗い迷宮区に立っていた。
そのオリバーの姿を見兼ねてか、取り巻きの1人が気を取り直すように陽気な声を上げる。
「ま、まぁオリバーさんの気も晴れたなら早く帰りましょうっ。どうせならなにか狩っておきたいけど、命には変えられないでしょ」
「そう言えば、ここは第何層なんだ?」
「?81階層です」
取り巻きの言葉に、オリバーは耳を疑う。81?
「中層手前じゃないか…!?」
現在把握されている迷宮区『サンクチュアリ』の全容は第666階層。そのうち第100層までを最上層域と呼称され、それ以下の中層域へは学生は上級調査員同伴でなくては足を踏み入れることは出来ない決まりだ。
しかし、学生のみのパーティではせいぜい進行できても第2.30層までである。単純に学生だけでは対応困難になる為であり、学生の内からわざわざ死亡するリスクを冒してまで無茶な進軍を行わないのが暗黙のルールとなっている。――それなのに。
「こんな所まで潜って、もし迷宮生物にでも襲われでもしたらどうするんだ!?」
「お、オリバーさんが連れてきたんでしょうっ?その、色んな抜け道とか迷宮生物避けのアイテムとか使って、」
「そんなものは知らないぞっ」
言って、全員が絶句する。――自分たちが今立たされている最悪すぎる現状を思い知ったから。
オリバー達は聖グリエルモ学院高等科2学年の中では、優れた成績をおさめているチームである。その事に彼らは自信を持っているが、しかしいくら知識や模擬戦闘で好成績を残していても、所詮迷宮区へ足を踏み入れてから1年も経たない最低ランクの第5級調査員。最高踏破層は第12層までである。
それが今は、遥か下層にいる。
それはすなわち、自分たちの生存率が限りなく零に近いという、事実。
誰もがその事実に直面し硬直する中、チームのお調子者である1人が、苦し紛れに空々と声を上げる。
「…ま、まぁ言ってもここまで1度も迷宮生物に遭遇してないし、帰る時だって出てきませんって!もう外は夜になりますし、案外迷宮生物も家に帰る時間じゃないですか?」
絞り出した冗談に、一同は一瞬間を空けたあと引き攣りながらも笑いを伝播させる。
「そ、そうだよっ。だいたい遠足なんて行きより帰りの方が楽だったりするし」
「そもそもオレ達のチームなら、心配することなんかないよなっ」
取り巻き達の不器用な励ましに、チームリーダーであるオリバーは答えねばなるまい。
ふっ、と短く息を吐き出すと、努めていつも通りの不敵な笑みを浮かべ、激を飛ばす。
「普段通りのフォーメーションで行こう。私の都合で君たちにはこんな所まで連れてきてしまい申し訳ないが、もう少しだけ付き合ってもらいたい」
先程までの絶望を振り払うかのように、全員が声高らかに「了解」と返し、各々が自分の役割を確認する。
「これで帰ったら、オレら歴代の学生の中でも1番の記録を持つことになるんでしょうね」
先頭を切りながら、お調子者の1人が冗談交じりに「そしたらオレら教科書に名を刻みますね!」と言う。その風景がいつも通り過ぎて、オリバーは一人小さく安堵する。
――一拍置いて、目の前の人間だったものの首から上がなくなっても、すぐには気づかないほどに。
「…え、」
自分でも間抜けだと思うほどに、気の抜けた声が滑り落ちる。
首から上を無くした肉塊は数度大きく痙攣すると、べりゃりと音を立てて自身の血潮の中に沈み、波打ちながらオリバーの足元を濡らす。
それが、なんとか正気を取り戻した。
「っ全員警戒しろ!なにか――」
言いながら背後を振り返るが、眼前に在る地獄に凍りつく。
全部で3人分。その場には焼け焦げた人間だった黒ずみだけが迷宮区の地面を汚していた。――それが、声もあげることなく絶命した3人のできた最後の抵抗とばかりに。
一人残されたオリバーは地面を這う重音に、震えながらもなんとか正面へ向き直る。
――地獄の具現が、見開かれた紫眼に姿を現す。
優にオリバーの倍はあろうかという高みから見下ろす鳥類の頭。しかしその背にあるのは爬虫類の鱗に覆われた鋭い翼。そしてその尾からは影が蠢いて――。
確認できたのは、そこまで。
鳥類とは思えない、肉食獣のように獰猛に細められた瞳孔と、紫眼がかちあう。
途端にヂリ、と瞳の裏側が焼けるような錯覚に、――いや、実際に焼けていたのだろう、肉がやける臭いがオリバーの鼻腔をくすぐる。
逃げなければ。
思考ではそう理解出来る。しかし身体は石になったかのように指一本さえも動かない。
刹那。オリバーの背後から純白の風が前へと躍り出る。
庇うように迷宮生物の間に飛び出したヴァイスはその頭部に3発発砲。正確に頭を撃ち抜いた銃弾は蒼い血潮を撒き散らしながら背後の壁へとめり込む。
普段ならばそれで戦闘は終了。のはずだが。
戦闘の結果を見守ることは出来ず、代わりに後ろから勢いよく腕をひかれ、オリバーは背後を振り返る。
「よぉ、どうやらあんた悪運強いようだな」
痛む紫眼に映る深紅の双眸は、そう言って皮肉に染まっていた。
お互いに、と言いたげに。
*****
未だ混乱のただ中にあるオリバーの腕を引きずって、先程の鍾乳洞まで隼人は後退する。
ひとまず目の前の驚異から離れられたことに安堵し、次いでマリンブルーの頭部を見下ろす。鍾乳洞へ着いた途端、崩れ落ちるようにオリバーがへたりこんだからである。
「せっかく正気に戻してやったってのに、とんだ災難だなあんたも」
「…正気に、戻した?」
項垂れていた顔を怪訝そうに上げる。まだ気づいていないのか。
「ウムドレビっていう、幻覚作用の強い毒草の群生地が迷宮区内部にはあるんだよ。迷宮生物相手にも効くから、錯乱用とかトラップ用に携帯している調査員は多くいる」
勿論、人間相手にだってその効果は絶大だ。調合を間違えれば廃人一直線コース。
「本来ならその実が薬になるんだが、軽い幻覚程度ならその辺のポーションでも事足りる」
ショックにならないようにもあえて言葉を隠した言い方をした。しかし隼人の言わんとしていることを察し、オリバーは雷に打たれたように目を見開く。
脳裏に閃くのは、身に覚えのない光景だ。4人を連れ迷宮区へ向かう足。楽しそうに高らかに笑う声。手にした見覚えのある白銀の拳銃を握る手。
全く身に覚えのない記憶だった。しかし、生々しく掌に残る拳銃の反動が、それが現実だと突きつけてくる。
「…私は、操られていたということか…?」
気付かされ、無意識にオリバーはその掌で顔を覆う。
あぁ、知っている。とその様をみて隼人は思う。その絶望は、俺もよく知っている。
自分のせいで誰かが犠牲になった、現実という絶望を。
ガラガラと、岩が崩れる大きな騒音で現実に引き戻された。手筈通りにヴァイスが入口を崩したのだろう。大した時間稼ぎにはならないだろうが。
次いでじゃり、と地面を踏みしだく音に視線を向けると、当のヴァイスが鍾乳洞へ入ってきた所だった。
「どうだった?」
隼人の主語のない問いかけにもヴァイスは聡く察し、そしてふるふると首を左右に振った。
「ダメだな。やはり同時に結晶核を潰さない限り再生する」
「…そういえば、あれは何なんだ」
憔悴しきった表情で、オリバーは2人を見上げる。
こんな時冗談のひとつでも言えれば少しはこの重苦しい雰囲気も打開できるのだろうが、生憎とそんな気を回せるほど、現状は芳しくない。
かの名は。
「コカトリス――」
「…冗談。表層域に中層域下層に棲息しているコカトリスがいる訳ないだろう」
「目に映る全てを燃やし落とす蛇の魔物。雄鶏の頭、竜の胴、蛇の尾。これだけ揃って違うってんなら、俺らは新種の迷宮生物を発見したわけだ」
は、と短く荒く言葉と共に息を吐き出す。そのまま何故この状況に陥ったのかお気楽な貴族様に教えて差し上げてやる。
「大体、こうなったのはあんたのせいだぞ貴族様。迷宮生物の血液には迷宮生物を呼び寄せる効果があることを忘れたのか」
人間対手には効果はないが、迷宮生物の蒼い血液には迷宮生物を呼び寄せる何かが含まれていることは学生といえど周知の通りだ。
何か、と言うあやふやな例えなのはそれが匂いなのか、血液組織なのかハッキリと解明されていないためであり、寄ってくる理由も同族を命の危機から救うためなのか、死にかけを捕食して己の力にするためなのかはわからない。
しかし、凶悪な迷宮生物を呼び寄せることは紛れもない事実。あれだけ派手にヴァイスを流血させれば、寄ってくるのは必然だろう。
…とはいえまさか、コカトリスが釣れるとは思わなかったが。
思わぬ大物が釣れたので、腹いせに大いに皮肉ってやったのだ。「悪運強いな」と。
だのにこの貴族はなおも身に覚えがてんでない、と混乱した表情で訴えてくるものだから、ここまで来るとむしろ可哀想だ。
「エリート様に風穴空けたの、あんただぞ」
5つも。
隼人の言葉に、オリバーは露骨にぎょっとした表情でヴァイスを見る。
「エリート様、返してやれよ。そのくらいの報いは受けて当然だと思うぞ?」
「別に。気にしてないし弾が勿体ないからやらない」
その言葉とは裏腹に、今にも噛みつきそうなジト目でヴァイスはオリバーを見下ろす。操られていたとはいえ身体に5発も銃弾をぶち込まれて、気にしてない訳がない。だから復讐の機会を与えてやったのだが。
「君も悪い人だな」
「何が?」
「顔がニヤついてる」
そいつは失敬。つい日頃の鬱憤が顔ににじみでてしまったようだ。
「ところで、さっきの発言は言い得て妙だった」
この話は終わりとばかりに、ヴァイスは目下の懸案事項についての話題へ切り替える。
「というと?」
「新種という発言について。コカトリスは通常雄鶏の頭ひとつ、胴の竜ひとつ、尾の蛇も一体の核が3つのはずだ。だけどさっきのやつは、――蛇が5体いた」
ヴァイスの言葉で、世界の音が消えた。
蛇の尾が、5つ。
瞬間、蘇るのは7年前。初めてこの地に足を踏み入れた今よりも視界が低い記憶。
出遅れた弱小島国が、当時の最前線を駆け抜け全人類の注目を一心に受けていた過去。
前人未到のその果てで、彼らの輝かしい記録は『団員2名を除き全滅』という無惨な結果で打ち止めとなる。
兄の背と、あったはずの右腕の虚空から飛び散るモノトーンの世界によく映える、鮮血の散る視界で隼人は確かにそれ見た。
「5体?錯覚とか見間違いでは?」
「1体をどうやったら間違える?君じゃあるまいし」
「…本当に済まない私が全面的に悪いから今はそこを掘り返さないでくれ」
似るなり焼くなり好きにして構わないから今は帰るのが先決だ、となんやかんやで喧嘩仲間くらいには親しそうに言葉を応酬しあう2人を他所に。
亡霊のように、昏く呟いた。
「…あいつだ」
本人ですら怖気付く程の幽鬼めいた緊張感に、2人は無言で先を促す。
震えそうになる声をどうにか堪え、隼人は言葉の続きを口にする。――何度その姿を悪夢の中で見た、その姿と共に。
迷宮区中層域下層、第499層で日本国立調査団『大和桜花調査団』50人あまりを処刑した階層主――。
「兄貴の腕を、持っていったやつだ」
あの時しかとその双眸に焼き付けた、自らの罪の形を。