3-1.開戦の布告
身体が、満たされていくのを感じる。空っぽだったグラスに芳しい液体が注がれるように芳醇に。
例えばそれは、家族との時間。
例えばそれは、唯一無二の友人との時間。
例えばそれは、最愛の人との時間。
どれも違った味わいで、それぞれに別の味わいがある。どれが一番と優劣をつけることは難しい、確立した味わい。
――ただし、格別の味わいもあるのだけれど。
「――グローグ」
呼び声に、浸っていた心酔の海から引きずり上げられる。誰だって好きなことに浸っているところに無遠慮に声をかけられれば、不機嫌にもなるだろう。
それは人間特有の、人間しかおよそ当てはまらない『感情』に起因するものだということに、シエナは気づかない。
振り返った先、そこには見知ったマリンブルーの影が庭園の入り口の回廊の柱の陰にひっそりと立っている。今月から手足のように使われるを良しとした、聖女の器。
「何かしら」
無意識に、直前の愉悦を邪魔された不穏な空気が言葉に混じる。普段よりもワントーンも低くなった声音にも彼は特に動じるでもなく淡々と。
「あちらの動きがどうにもきな臭い。そろそろ撤収したほうがよさそうだが」
「あら、何もしてこないじゃない」
二人の最大の障害、悲願の成就の邪魔になりうる存在だと危惧していたハヤトは、シエナの言葉通りこの数日何もしかけてこない。あの道具の雪白の少年を奪ったときの狼狽えようはそれは見ものだったがそれも一瞬で、それ以降の不審な動きは一切ない。
だからオリバーの忠告が不可思議で、シエナは更に眉を顰めるが、しかしオリバーは冷徹に冷えた紫の双眸にそれを映して。
「何もないから不審なんだ」
「……?」
「あれがここまで何もしてこないなんてありえない。それこそ大一番に備えて何かしら裏で策を弄しているに違いない。油断していると、本気で足をすくわれるぞ」
「妙にハヤトに肩入れするのね。貴方たちって仲が悪いんじゃなかったかしら」
ひょい、と肩をすくめてオリバーはその言葉を肯定する。同時に。
「だからこそだ。あれはああ見えても結構粘着質だぞ」
「……ふ~ん」
これが人間独特の関係性ということだろうか。嫌っているのにまるで信用しているみたいで、それはかなりいびつにシエナの灰色の瞳には映る。
……まぁ、思ったところで何というわけでもないのだけれど。
しかし彼の忠告はひとまず聞いておこう。自分としてもここまで来て台無しにされるなんてたまったものじゃない。
――ようやく、自由になれるというのに。
シエナは庭園の中心から身をひるがえし、オリバーの隣をするりと抜ける。
「それじゃあ、最後の仕上げといきましょうか。『女王』陛下にも、手土産をもって。――盛大な前夜祭と行きましょう」
「……約束は忘れていないな」
きょとん、と。すれ違いざまに言われて隣を見やる。冷え切って感情がいまいち読み切れない紫を、無邪気な灰色が見上げて嗤う。
「――えぇ。もちろんよ」
黒檀の軌跡を残して、二人はある場所を目指して進む。
その先にあるのは全調査団の頂点に君臨り続ける精鋭調査団の詰所。――『タキオン』総本部。
*****
「「トリックオアトリート!お菓子くれなきゃいたずらするぞっ♪」」
「……まだ少し早くないか?」
季節は少し巡って、ハロウィーンを目前とした晩秋。
ハロウィーン。またの名を『収穫祭』。起源は古代ケルト人が秋にの豊穣を祝う祭りだが、それに古代ローマ文化やキリスト教の宗教的な意味合いの強い三つの文化が融合して生まれたハイブリット祭だ。
現代では特に若者を中心に広まっているイベントは、【ノストラダムスの大予言】後の崩壊した世界でも受け継がれている。
登校早々、隼人は目の前を白い布に身を包んだ前期生の生徒が行く手を阻む形で、脇の茂みから飛び出してきて眉をひそめてた。白い布に気持ち程度に顔っぽい何かが書かれていることろを見ると、多分仮装だろう。
「というかお前らそんなに仲よかったんだな」
「ハヤトさん至上主義ってところで意気投合したんですよ」
「……へぇ」
キラキラと瞳を輝かせる白い物体、もとい幽霊の仮装をした晧月とレグルスを見下ろしながら、半目で隼人はアデルの説明に耳を傾ける。そこで意気投合されても困るんだが。
「ちなみにいたずらは何をする予定なんだ?」
「「ハヤト先輩の自室での生写真をばらまきます!」」
「おいちょっと待てソレいたずらの限度越えてるだろってかいつ撮ったそんなの?!」
ずらっと二人の両手にブロマイドサイズの写真を奪い取ろうとするも、あっけなくひらりとかわされる。
「ふふふ、自室だからと油断しないことですねハヤト先輩っ」
「ぼ、僕は止めたんですよっでもレグルスくんが無理やり…っ」
「きれいにファイリングまでしてるくせに何を言うか」
「なぁ?!」
なぜそれを?!という悲痛な晧月の嘆きをレグルスはこちらもひらりとかわし、そのまま目の前で開催される追いかけっこをまじまじと見つめて。
「まぁ、仲良くなったんならいいけどさ」
ここ最近見かけなくなってしまった雪白の少年を思い出す。
あれからヴァイスはリュカオンの言う通り彼の寝所に押し入って、オリバーと同室を決め込んでいる。だから帰っても見慣れた白い影はなくて、代わりに行き場を失ったリュカオンがその場所に収まっている。
リュカオンとは今回の件もそうだが普通の会話もする。いいところの従者でもあるからそれなりに教養もあって、夜な夜な読みふける論文を読んでは討論したり。
およそ高校生がするトークではない自覚はあるので、ちゃんとそれなりの話もするにはする。女生徒は誰が人気だの誰がタイプだの。そう考える時点でなにか間違ってはいるのだけど。
ちなみに先日『夜会』のスカウトを受けたユーナとは依然として交流があり、学院で会えばちょくちょく会話をしている。女性にはとんと興味のない隼人のざっくばらんな性格が彼女には合っているのか、はたまた逆に隼人が彼女の雰囲気を好いているのかはわからないが、適度な距離感で付き合えている。まぁ、会話を始めれば周囲の視線が集まってしまって、すぐに解散となってしまうが。
それに関して根掘り葉掘り聞かれはしたが、正直うんざりしている。
閑話休題。
とにかくこのやかましい追いかけっこをどうにかして止めなければ、と隼人は鞄の中をまさぐって。
「……ほら、菓子やるからおとなしくしてろ」
「「わ~い!!」」
一瞬で隼人の手元に鳩のように群がって、晧月とレグルスは手のひらに載せた飴玉をふんだくる。
「隼人って、いつもそういうの持ち歩いてるの…?」
「え、まさか学外でもそんなことを…」
「おい何変な解釈してんだ。ただの糖分摂取だよ」
背後でざわつく蓮とアデルに変な濡れ衣を着せられる前に厳重に釘を刺しておく。これ以上の妙な噂は勘弁してほしい。
二人も本気で思っているわけではなくただの冗談なので、へらへらと朗らかに笑ってから、自然にひそめた声で。
「何もしかけてこないねぇ」
「ハヤトさんが予測した日はまだですけど」
「俺が予測できてるってことは相手もわかってるはずだ。あてにするな」
庭園での密会から数日。特に目立った動きを隼人たちは起こしていない。アルベルトの言葉を借りるわけではないが、あちらから何もしてこない以上こちらとしては表立って行動するのは避けたい。
……ヴァイスを奪われた時点で、隼人個人としてはいら立ってしょうがないのだが。
しかしただ黙していたわけではさすがにない。調べられることは調べ上げ、推測に推論を重ね策を考えてきた。
――ハロウィーンは『収穫祭』のほかにも意味を持つ。
その第二の意味合いから隼人が弾き出した日時が。――10月31日。
なんの根拠はない、ただの机上の空論。誰かがそういったわけでも、ましてやヒントらしいヒントもないから鼻で一蹴されてもおかしくはない。
だけど隼人は確信していた。――このままで終わるはずはないのだと。
「――あれ、」
ふいに、目の前で楽し気にくるくる回っていたはずの晧月が立つ尽くす。呆然とした表情できょろきょろと周囲を見回して、まるで知らない土地にでも迷い込んでしまったかのような表情。
「何いきなり、どうしたの?」
「……僕、どうしてここにいるんでしたっけ」
「はい?」
いきなりの同級生の豹変っぷりに、レグルスはあきれ半分といったように肩をすくめながら。
「何言ってるのさ。ちょっと早いけどハロウィンしようって愛しのハヤト先輩のところに来たんでしょ?」
「……ハヤト先輩?」
振り返って、晧月と視線がかち合う。その瞳はやっぱり不安げに震えていて、隼人は気づく。
――来た。
「あれ、私こんなところで何を、」
「うわっお前誰だ?!」
「お母さんどこーっ?!」
晧月の豹変をきっかけに、同じく登校中だった学院性たちの波から上がる悲鳴。全員が一様に晧月と同じく、訳が分からないといったように半狂乱しながら頭を抱えている。
一斉の記憶喪失。しかもこれまでとは比べられないほどの規模の。
この場だけでも約半数がそういった生徒で埋め尽くされ、現場は一転阿鼻叫喚の渦に巻かれる。
「え、何どうなってるんですか…っ」
「晧月っ、どこまで覚えてる?!」
がっと肩をつかまれ、泳いでいた視線がレグルスに固定される。自信なさげに宙をさまよった後に抹茶色の双眸を上げて。
「えっと、ここって聖グリエルモ学院、だよね?」
「……二か月」
ここがどこだかわかっていないということは、レグルスのつぶやき通りに最低でも二か月間の記憶がなくなったということだろう。周囲の様子を見るに、他の生徒たちも同じような感じだろう。
「隼人」
普段からは想像もつかないほどに落ち着き払った聞きなれた声に、隼人は振り返る。冷徹に冷えた琥珀色と白銀の双眸を、深紅のそれで見返して。
「あぁ。――奴が迷宮区に逃げ込む前に、けりをつけてやる」
*****
主の命令は絶対だ。そこに不信感や不安といった感情はないし、持つこともあってはならない。
だけど、今回ばかりは。
「何をするの」
「そこの妖精が地底に退却するので、それを援護する」
「なぜ?」
『タキオン』総本部深部、門の間。空間転移魔法の使い手ルーク・イグレシアスによって紡がれた数多の転移魔方陣が集約された、一般人は決して足を踏み入れる事のできない秘密の部屋。
ここまでの道中、邪魔者を排除するのは容易かった。いや、排除する必要性すらない。
『タキオン(ここ)』は自分のホーム。拾われてからこっち、そのほとんどをここで過ごした自分に知らない場所や道はなく、隠し通路を使ってオリバーと同伴していた女を引き入れるのは、日ごろ迷宮生物との死闘を繰り広げているヴァイスにとってはなんの苦労にも入らない。
そこまで考えて、ふと気づく。
拾われたって、誰にだっけ。
いや、覚えている。煌々と燃え盛る『あかいろ』を、忘れられるはずはない。
それなのに、顔だけがはっきりと思い出せない。名前はそう、『カズキ』。
ここから遥か遠くの島国の出身で、フジノとアルベルトと当時の副団長だったオスカーと『タキオン』を立ち上げた創設者のひとり。
でもなぜか、ファミリーネームが思い出せない。
普段から呼んでなかったから妥当か。いや、それにしてもおかしい。アルベルトもフジノもオスカーも、ほかの全員は思い出せるのに、彼のファミリーネームだけがひどくあいまいだ。
『――ヴァイス』
「――つ、」
突き刺すような痛みが脳裏を走る。別に身体のどこかが悪いわけではないはずなのに、その痛みに思わず上がる苦悶の声。
「どうした」
「……あぁ、問題ない。それで、なぜあの女の援護をするんだ」
元々の質問をどうにか思い出して再び返す。オリバーはあぁ、と煮え切らない返事をして横目に背後の女を確認する。
一緒に来た黒髪の女は、数ある門の一つの、最深部に到達できる唯一の入り口の前に立ち、なにやら文言を唱えている。それはルークやアルベルトが魔法行使の前に唱える呪文のようにも聞こえるが、どこの国の言葉でもない。
彼がなぜ、こんな女の手助けをするのか。甚だ疑問でならない。
「私の願いを聞いてくれるそうでね」
「オリバーには何か願いがあるのか」
「君にもあるだろう?」
だったら自分が手伝うのに、と続けようとした言葉はオリバーの言葉で遮られて内にとどまる。まさか返されるとは思わなかったから、はぐらかされたことにヴァイスは気づけない。
どう答えようか逡巡し、その間隙を正確にオリバーは突いて。
「君は、自分の足で辿りつけよ」
「それは――、」
言いかけて、接近する気配にヴァイスは反射的に腰の拳銃嚢から得物を引き抜く。今までの習慣で身にこびり付いた習性。
姿は見えない。しかし確かに高速で近づいてくる――。
狙撃。
「還り咲け。――艶葉木」
気づいた直後に唱えられた詠唱は足元に魔法陣を描き、直後に咲き乱れる氷結の徒花。それらは天高く咲き乱れると、内と外を隔絶する。
文字通り氷の砕ける沙羅、という音が一帯に響き渡る。耳を突くほどの甲高い音からしてかなりの威力で破壊されたようだが、放たれた魔弾は目標に到達することは無かった。
「……来たな」
砕けた氷結結界の向こう。綺羅と破片が舞う中、オリバーの声を待っていたかのように彼らは自然と姿を現す。
赤銅色に、深紅の双眸。
「よぉ。お礼参りに来てやったぜ、貴族様」
「君ごときに果たしてそれが出来るかな、落ちこぼれ」
以前見た不安げに揺れる影はなく、ハヤトは強気な笑みで啖呵を切って見せた。