間章.戦場を選んだ平凡な理由
最初に私のことを『聖女』と呼んだのは、果たして誰だっただろうか。
「――ジャンヌ」
呼び声に、ジャンヌは面を上げる。自分がいたのは神の目前。身体すべてをステンドグラスで形成された聖母マリアの光とそれによって浮かび上がる十字架を前に、ジャンヌは紫眼をゆっくりと開く。
「ジャン」
振り返った先、マリアの極彩色の光の中一人の青年が歩み寄る。自分が身に纏う武骨な鎧姿ではなく、この場にふさわしい神父服。
ジャン・パスクレル。ノートルダム聖堂所属の聖職者にして、ジャンヌの専属司教。
彼はこの戦場においては異色である神父服を自然に着こなして、ジャンヌの真正面で立ち止まる。
「総員、準備が整ったようだ。オルレアンからドルレアン卿も到着された」
「……わかりました」
「これで本当にいいんだね」
諭すような、どこかすがるような声音だった。まるであきらめてほしいと、そう決断してほしいと言いたげな悲痛さすら感じられる声。
君が背負う必要はない。
君には別の人生がある。
それを望んでいるものもいる。
幾度となく彼からもたらされた言葉だった。あの日、最初に聞こえた神の言葉を唯一共有できる、いうなれば一心同体の別の私からの忠言。
正直、自分自身まだ迷っている。自分は本当にこれでよいのか、この道を進んでいいのかと。
何度眠れぬ夜を越えたか、最後には数えるのもやめた。
しん、と射止める群青色を、真正面から受け止めて。
「考えても、答えは出ませんでした。今もそう。ここで神に祈るどころか、自分のことを考えてしまって。薄情者ですね」
はぐらかしながらその場の空気を少しでも和ませようと、ジャンヌは無理やり笑う。今の私は、自然に笑えているでしょうか。それを知る術はジャンヌにはない。
しかしジャンの表情は変わらず、真剣なままで。
だからジャンヌもそのままの表情で。背後の極彩色の笑顔と同じそれで。
「だから決めました。どちらを選んでもいいかわからないのなら。――今の私がこれでいいのだと思う選択をしようと」
は、と。ジャンの目が見開かれる。意識の外からの攻撃をまともに食らったような、そんな顔。
だから私は、その間隙をそのまま。
「どちらも後悔するのなら。私にできることをやって、後悔することにします」
言って、ジャンの隣をすり抜ける。聖堂の外には陛下より賜った私の部隊が整列しているはずだ。
――私はもう、一人の女としての生は望まない。
ジャンヌ・ダルクは碧い髪を翻し、二度と振り返らなかった。
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幾多の戦乱を乗り越えた。
怒号が飛び交い、火器や剣戟にもまれて声は掻き消え、それでもなお張り上げる。
隣には昨晩同じ食事を共にした戦友が、巨大な岩に磔になって死んでいる。
足元には、同じ星空のしたで苦しみを語り合った戦友が、もはや原型を留めないほどにバラバラになって転がっている。
泣きたかった。
辛かった。
いっそもうここで死んでしまえたら楽なのに。
それでも私に、それは許されない。私のこの背中を追う者が、1人でもいる限り折れては行けない。
折れないと、自分で決めたはずだ。
折れるのは、その果てを見てからだ。
それは自分が選んだ道なのだから――。
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そうして、やがては捕虜となって捕まって。
『魔女』だと恐れられて、最後は火刑。
惨めには思わなかった。
それどころか胸中は驚く程に穏やかで、まるで己の身を焦がす炎が全てを浄化するかのような錯覚さえ覚えて、不謹慎にも笑みが零れる。
良かった。ここまでこれた。
後悔することなく。
憎むこともなく。
私は、私の選択で、私の人生を走りきることが出来たのだから――。
*****
「――こんなのはおかしい。何故これほどまでに清廉で純潔な聖女がこのような仕打ち…っ。こんなみすぼらしい獄卒に、手にかけた私にさえも、彼女は等く扱ってくれた。そんな彼女がなぜっ!?……悪いのは世界だ。神だ。彼女こそがこの世界には必要なんだ!!
――主よ、聖女を還せ――!!」
*****
何かがおかしいと、急に戻った意識の中でジャンヌは気づいた。
意識がある。
自我がある。
記憶もあるし、自己を認識すらできる。
これが死後の世界であれば、なるほど理解はできるかもしれない。しかしそれは所詮御伽噺の産物で、死ねば皆等く等価に魂の奔流へ還るのが真理。
死んだことなど一度しかないのに、自然とその真理を解してジャンヌは眉を寄せる。
何が起きているの――。
その答えは、直ぐに思い知ることになる。
「――まぁみて、この透けるような碧い髪。まるで貴方から聞いた聖女ジャンヌのようじゃありませんか。……バタール?」
声に引きずられて開けた視界に映ったのは、抜けるような蒼穹の青の髪と、それとは真逆の黄昏時の茜色。
――その見覚えのありすぎる色彩に、愕然と目を見開く。
ドルレアン卿。
またの名を、デュノワ伯ジャン。
――後の世に、オルレアン=ロングヴィルを立ち上げた名将。
向こうも同じ心境だったようで、バタールと呼ばれた壮年の男性はガタガタと震える手でそっと頬を撫でて。
「――ジャンヌ、どうして――」
――これが地獄の始まり。
幾度となく転生を続け、死ぬことは赦されない。
転生するタイミングは時代と共にズレていって、自我が芽生えたと同時に、先にあったはずのその意識は呆気なく消去される。
まるで私の為に用意された、私の自我が戻るまでの作られたプログラムのように呆気なくデリート。
消えていく。
私が救いたかったものが。
戦乱を越えて、平和な世界で生きる子供たちの命を。
私が――。
あぁ主よ。これが私に与えられた罰なのですか。
私の命などどうでもいい。そう思って選択したのに。
――願わくばどうか、誰かこの悲劇に終止符を――。
自分でも今回長くね?と思いながら描いてます(まだ続きます)




