2-5.反抗者たち
「ハヤト~?アタシのハヤト~?」
黒曜石の長髪をなびかせて、シエナはもう授業が始まっているはずの学院内を平然と歩いていた。
編入初日はあれほど出席態度を気にしていた彼女だが、今はそれよりも興味のあることが生まれてしまって、正直それどころではない。
ハヤト・クサナギ、という名前らしい。あの彼の人の現身は。
初めて見たときはそれは驚いた。だってもう何千年と過ぎ去った時の果てに、まさかもう一度相まみえるとはだれが思おうか。
しかし、彼は生まれ変わりではなく、まして血族でもないのだという。
本当にそうか?とは少しは疑ったが、遠い島国にあの人は縁もゆかりもないはずだから納得した。
他人でも、ドッペルゲンガーのように似ることはあるのだな。
「――随分と悠長だな」
曲がり角の先、差し込む陽光の陰に潜むように立つマリンブルーからの声掛けに、シエナは驚くこともなく立ち止まる。
「何がかしら」
「君は自分の正体を明かしているんだ。もう少し慎重になるべきじゃないか?」
心の底からの疑問だと気付いて、オリバーは半ば呆れながら肩を落とす。なんだ、そんなことかと返答を聞いたシエナは真逆に楽し気に笑う。
所詮人間はいつの世も、どの種族よりも非力で軟弱なのが決まっている哀れな生き物なんだから。
「何も心配することじゃないじゃない」
「君は人間を、あの落ちこぼれを甘く見すぎだ」
というと?という意味合いの視線を向けると、紫の双眸はその視線とは合わせることなく告げる。事実をありのままに、ただ淡々と。
「あれはもうすでに君の正体に気づいているだろう。もしかしたら、君の望みも」
その言葉にシエナは灰色の瞳をわずかに見開いて、しかしそれもすぐに先ほどまでの笑顔に戻る。
正体に気づいたところで、まして自分の目的を知ったところで彼にどうすることもできないのだから。
しかし、オリバーの助言は些か疑問がある。
「じゃあ聞くけど、どうしてあの子を自由にさせているのかしら?アタシの行動よりもまずあの子をどうにかするのが先じゃないかしら?」
ハヤトと真逆に、まるで『女王』の現身の異分子。シエナがここにきて初めて感じた脅威をシエナは真っ先に消そうとして、目の前の人間に止められた。
消すより利用したほうが価値がある。そういって記憶だけ奪って手元において、だけど自由にさせている理由がとんと理解できない。
「不自然に消えたほうがかえって不信感をあおる。ヴァイスには普通に登校してもらったほうがいい」
「ふ~ん」
「それよりヴァイスの記憶はどうするんだ。大事そうに持っているみたいだが」
ほかの人間の記憶はもらったその日に食べてしまってるから、手元には残らない。しかし彼の記憶は食べる以上に面白いことに使えそうだと、シエナは懐に隠したそれを制服の上からそ、と撫でて。
「これは『女王』様に献上するの。きっと最高に面白いことになるわよ」
「……その油断に後悔しなければいいが」
くすくすを笑う傍ら、オリバーはわずかに眉を顰める。思考と推測に揺れる紫の双眸。
「全く、そこまで固執する理由が私には分からないね」
「ハヤトのこと?」
「まあそちらも気にはなるが、私としてはそっちではないな」
「何?アタシの言ったことまだ信じてないの?」
なんて不器用な人間なのだろう、と他人からもたらされた情報を安易に信じないオリバーの慎重さをシエナは嗤う。そこがかわいらしいのだけれど。
一歩オリバーに近づいて、ぶつかりそうなほど顔と顔を接近させて。
前にも言ったじゃない。
「あの子が、――――だからって」
*****
――すべてを聞いた。
ジャンヌとそれにまつわるロングヴィル家の凄惨な運命を。
30人もの犠牲者と、今代の存在を。
レグルスの『魔狼』のことを。
その場には隼人と蓮、リュカオンに加えて話を持ち込んだレグルス、それに同伴したアデルとジャネットの6人が集まっているが、話が終わった今でも誰一人として口を開けずにいた。
軽率に口を開くには、あまりにも大事過ぎた。
沈黙を最初に破ったのは、予想外にもリュカオンだった。
「……ジャネット様。ご当主様にあれほどしゃべるなと言われていたじゃないですか」
「リュカだって、本当は言いたいことの一つや二つはあるでしょう」
「そらまぁ、さすがに十字架使ったと聞いたときはぶん殴りたくなりましたけど」
「ピアスのことか?」
出会った当初からオリバーの両耳で揺れていたピアスを思い出して、隼人は問いかける。『聖戦』で砕いてしまって今は片方しかない、金の十字架。
リュカオンは余計な事言っちまった、とバツが悪そうにガシガシと後ろ髪をかき混ぜて。
「あれは封印具なんだよ。要はヴァイスの制御装置と一緒で、オリバーは今までの30人分の魔力を継承している。だけどそれだけの魔力量、人間一人では到底扱いきれないだろ?だからあれに余剰分は封印しているんだ」
思い出すのは夏の『聖戦』の情景。オリバーはそれを使っておよそ迷宮区三階層分の高さを持った『リリス』を一柱の氷をもって縫い留めた。――たった一人の力でだ。
魔法適性がなく『魔法』というものを使えない隼人にとっては、ただの知識しかなく実感があまり湧かなかったが。――見るものが見れば、それがいかにすごいことなのかを肌で感じたことだろう。
正直、当時隼人はそれが誰かの遺品なのかと思っていた。彼がそれを外している姿を見たことがなかったし、何より大事そうにしていたような気がしたから。
だからあの後隼人は謝罪と一緒に尋ねて、しかしオリバーはあっけらかんと言い放った。
『別に気にしなくていい。そういった品ではないのだから』
「……ふざけんなよ」
こぼれた言葉は無意識で、風に掻き消えて誰にも届かない。誰のも届かなくてもいいと、歯を軋ませながら思う。
最初から、いけ好かない奴だとは思っていた。ヴァイスとは違うベクトルで、あわないと思ったから。それはきっと身分からくるものもあったんだろう。
貴族と平民。
守るものと守られるもの。
近代国家において、そんな風習は廃れて久しい。日々進化する社会はそんな時代遅れなしきたりは早々に切り捨ててしまって顧みずもしない。
それでも捨てきれない人間もいて、少なくともオリバー・ブルームフィールドという人間は捨てなかった。
「受け入れた、諦めたってオリバーは言ってた。だけどそれとは反対に、まだあきらめきれないと思ってることを俺は知ってた」
俺だけは知っていた。
砕けんばかりに握りしめたこぶしを震わせながら、それまで抑え込んでいた劣情をリュカオンは吐露する。
「ここにきてからもずっと、あいつはその方法を探してた。絶対に生き残ってやるんだって。誰にも言わなかったけど、そんなの態度を見てればわかる」
気苦労をかけないように、表面は取り繕って。渦巻く反抗心を氷に閉ざして誰にも見せなかった。
その生きざまは高潔で、同時にとてつもない儚さと脆さを内包していたことに、彼は果たして気づいていたのだろうか。
「だから俺は十字架を手放したあいつをぶん殴った。なんで使ったんだって。なんで自分から生き残るための手段を手放したんだって。そしたらあいつなんて言ったと思う」
回答が欲しくての問いかけではないことは、その場の全員が瞬時に理解して。だからリュカオンのそのあとの言葉も早かった。
「――これでいいんだって、笑いやがったよ」
今までしがみついて、誰もがあきらめて自分すらも偽って。それでも手放さなかったものを、オリバーはあの時自ら手放して。
――きっと十字架を使わせてしまったと謝罪する、俺にした時と同じような笑顔だったに違いない。
そう思った瞬間に、隼人の中で激情が渦巻く。なんと言い表したらいいのかわからないが、強いて例えるなら――。
「……あのさ。この中で俺が一番外野だと思うんだけど、ちょっと不謹慎なこと言ってもいいかな」
「なんだよ」
本人の言う通り今回の件で一番遠いのは蓮で、だからさっきからずっと聞き手に回っていた本人からの声かけに、隼人は断るでもなく先を促した。
きっと、彼も同じ気持ちなんだろう、と普段の彼からは想像もつかないような殺気をひしひしと感じながら。
「いい加減。ものすごくむかつくんだけど」
「奇遇だな、俺もそう思っていたことろだ」
ふつふつと湧き上がってきた感情は、悲しみでも諦観でもなく。――純然な怒りだった。
それはたぶん見当違いな感情のはずなのに、話を聞くごとに収まるどころかむしろどんどん湧き上がってきて。
正直今すぐにでもぶん殴りに行きたい。
「えっ怒りですかっ?」
同じことを思ったのか、ジャネットはわからないとばかりにあたふたとその場の全員を見回して、この場において最高年齢二人の圧が怖すぎて最終的に従者であるリュカオンに助けを乞うが。
「すみませんジャネット様。こればっかりはオリバーのせいです」
「えぇっ」
擁護ではなく肯定に、ジャネットはさらに混乱したように目を白黒させる。
多分彼女にはわからないだろう。――これは闘争心が強い、男という性別による起因もあるかもしれないだろうから。
「ジャネットさん、ハヤトさんたちはこう思ってるんですよ」
助け舟を出したのは隣で聞いていたアデルで、半泣きになって潤んだラベンダーの瞳を白銀のそれで見返して、あっけらかんと答える。
「――どこまでコケにすれば気が済むんだって」
何も話されなかった。
何も手助けもできなかった。
話す必要がないからと、自分だけの問題だからと。
それはつまり。――俺たちはあいつにとってどこまでも庶民で、どこまでも『守るべき存在』だと思われているということだ。
これが黙っていられるか、と隼人は思う。同時に自分の中にも最低限残っていたのかと少し驚いた。
久しく忘れていた、ちっぽけなプライドを。
「……それを聞いて、少し安心しました」
珍しく黙っていたレグルスがぽつりとつぶやく。ずっとうつ向いていたから見えていなかった表情が、言葉と同時に浮上した相貌が露になる。
――普段と何も変わらない、強気で不敵な笑み。
その笑みを見て、つられて隼人もにや、と口の端を吊り上げて。
「お前もだろ?」
「正直悩みまくりましたけど。一周回って全部むかついてきました」
「レグルス様までっ?!」
まさかのレグルスの裏切りに、悲痛に満ちた声を上げてしまったジャネットを無視して会議は踊る。
「正直最初からオレは好きじゃなかったし」
「俺も俺も」
「そこは擁護しろよ従者」
「いけ好かないもんはしょうがない」
「みんなしてひどいね~」
誰彼構わず愚痴の暴露大会へ発展する。みんなどうやら思うところは同じらしい。
隼人は一同を見回して、最後にレグルスを見下ろして。
「本当は止めるべきだし、絶対そうならないようにするけど。――最後はお前に預ける」
もう彼は決めているのだろうと。義弟の心境を汲み取っていって、レグルスは驚いたように一瞬だけ目を見開いて、やがて深くうなずいた。
信じて、託してくれた。――隼人にとっては些細なことだったけど、それはレグルスにとっては何よりも嬉しい言葉だったことを、やはり隼人は気づかないまま。
見届けて、隼人は開いた手のひらに逆の拳をぶつけて、
「この俺に喧嘩を吹っかけてきたこと、後悔させてやるぜ――」
まるで悪の首魁のごとくほの暗い笑顔で、宣戦布告した。
*****
「……こんなところで何をしてるの」
「見ての通り、お宅の調査団の最深部攻略の資料集めだけど」
無遠慮に声をかけられてから、数日が過ぎた。
見知しらずのどこの誰とも知れない赤銅色の髪に深紅の瞳。名前は確かハヤト・クサナギ。
声をかけられたときは、赤の他人である自分ですら心配になるほどに驚愕に揺れていたが、今は静謐に沈んで見る影もない。
引っ掛かりがあってふらと立ち寄った図書館に、講義中にもかかわらずその影は堂々と椅子に腰かけていて、邪魔者がいないいい機会だからとヴァイスは近づいて。
「今は授業中だけど」
「それを言うならお前もだろ」
「……何で君が最深部攻略の資料集めをしているの」
「お宅の総団長様にでも聞いてみろよ」
突き放した言い方に、ヴァイスはわずかに柳眉を寄せる。これが苛立ちという感情から湧き出た表情の動きだということに、本人だけが気づかない。
しかし明らかにこちらをけん制する態度に気づかないヴァイスではない。また一歩ハヤトに近づいて、広げていた資料の脇に音を立てて手をつく。
「何を考えてる」
「というと」
「君は危険だ。アルベルトと同じ匂いがする」
表面では笑みを絶やさず表情の一切を隠して、その裏で巡らす策略と陰謀。まるで叢から忍び寄る蛇のように、一度つかまれば瞬間絡みとられてもう抜け出せない、そんな危険な匂い。
彼から感じた印象はそれで、同時に1番の引っかかり。その牙が主に向けられると言うならば、黙っていられるはずもない。
ハヤトは言われたことがいまいち理解できなかったのか、深紅の瞳をぱちぱちと瞬いて。
「……ふ、」
「何がおかしい」
「いや、懐かしいなと思って。最初は俺たち、こうやっていがみあってたよな」
そんな記憶はヴァイスの中にはない。彼とは数日前に会ったばかりだし、話したのだって今日とその日を除けばほとんどない。
だけど目の前の少年はそんなことを感じさせないほどに、本当にそんな記憶があったかのように楽し気に笑う。
――その笑顔が、なぜかうれしく思うのはなぜだろうか。
そんなはずはない、と頭を振って否定する。知らない他人の表情で一喜一憂なんてあり得ない。
あり得るなら。――自分の主である彼だけのはずなのに。
がたん、と音を立てて目の前に座っていたハヤトが席を立つ。考え事をしていて反応が遅れたヴァイスは、反射的に一歩後ろにたじろぐ。
――その一歩を、ハヤトは踏み込んで埋めて。
「こっちはこっちで好き勝手にやらせてもらう。――後で泣いて謝っても遅いからな」
数日前とは真逆な、年相応な無邪気で強気な笑み。
――やっぱり、彼にはこの表情が良く似合う。
それと同時に煌々と燃える『あか』色を瑠璃に浮かぶ黄金に視て、ヴァイスは無意識化の深層心理でそう思った。