その1.追想:預言者と執行人
第二部開始!…の前にちょっとだけ寄り道させてください!かきたいな~と思っているうちの一本だったりしますので、ぜひお立ち寄りくださいませっ
ひと目見た時から、俺はあいつが気に入らなかった。
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「――お前。なにか俺に言いたいことでもあるのか」
大勢が闊歩する迷宮区の最表層に位置する露店街。そのひとつの店頭で品物を見定める少年に向かってアルベルトは言い放つ。
言わずとしてた迷宮区『サンクチュアリ』。その最表層は貧民街としても有名だ。世界のどの国の管理下に置かれていないこの場所は、当時の大災害で行き場をなくしたもの、元々路頭に迷っていたもの、犯罪者。そうした『現世に居場所のない』亡霊たちが集まるにはうってつけの終着点。
ほとんどは治安が悪く歩けた場所でもないが、しかしこうしてごく一部だけは、外からの入国者も多く、それなりに繁盛している。
そんな露店街の一角。声音には意図して殺気を含め、テノールの声をさらに低くして放たれた言葉に、声をかけられた少年はゆっくりと振り返る。
どこか達観した瞳の、東洋人の男だ。
西洋人のアルベルトにとっては、正直いって東洋人は顔が似ていて分別がつかない。見た目が比較的幼く見られることの多い人種でもあり、年齢も不確かだが自分よりは幾分か年下だろう。身長もまだ成長しきっていないのか、アルベルトの頭1つ分は低い。
そして。――空虚に風になびく空の右袖が、暗にその内側にはあるべきものがないのだと告げる。
赤銅色の前髪の下の、黄金の散った紅の双眸を翡翠のそれで見下ろしながら。
「なんの事だよ」
「先程雑踏の中から見ていただろう。文句があるのなら聞くが?」
「いきなり話しかけてきたかと思えば……」
少年は辟易とした様子でため息をこぼすと、雑に手を振る。あっちにいけとでも言うような仕草だ。
「生憎あんたなんか知らないよ。俺はこれから昼飯なんだ、あんたの方こそこれ以外用がないってんならどっかいってくれ」
「お、おい一輝……っ」
その慌てたような声でようやく、少年の隣にはもう1人同行者がいた事にアルベルトは気づく。ちょうど少年の影になってしまっていて気づかなかった、まるでアルベルトから庇うような位置に立つ少女。
華美なドレスが映えそうな、秀麗な女性だった。
濡れ羽色の髪は毛先まで手入れが行き届き、まさに大和撫子と呼ぶにふさわしい風貌だ。普段であれば賛辞のひとつふたつくらい送るところだが、しかし今はそれどころでは無い。
「……今なんと言った?」
「だーかーらー。俺はこれから昼飯なのでどっかいってくれ」
少年が品定めしていた店は露店街でよく見る類の食べ物屋の露店だ。歩きながらでも問題ないように片手で食べられる様に包装されたそれを、少年はどうやらパンに挟まれた具材の種類で悩んでいるようだった。
しかし、それもアルベルトには関係ない。
腰に佩いていた剣を鞘ごと抜き去ると、アルベルトは勢いそのままに、露店のカウンターに突き立てる。
文字通りガラスの割れる高い音が響き、割れたそれがカウンターと地面に転がって日光を乱反射させる。
カウンターに出されていた目録はもちろんのこと、客が自分でカスタムできるように出されていたケチャップなどの調味料や看板なども例外ではない。
決して小さくはないその音に、尋常ではないと反射的に外野が振り返る沈黙の中心で。
「俺の事をコケにするのも大概にしろ。叩き斬るぞ」
今度こそ隠す気のない殺気に、カウンターの内側に立っていた店主が足をもつれさせながら奇声を上げて転がり逃げる。
が、当の本人は。
「ったく。それが人にものを聞く態度かよ」
飄然と肩を竦めながら、まるで子供が散らかした玩具を片付けるように、地面に転がった物品を拾い集めてカウンターへと戻す。
「まるで絵に描いたようなチンピラだな。親の顔が見て見たいぜ」
「貴様っどの口で言うか!?」
「この人を誰だと思ってる!」
「誰ですかこの人」
売り言葉に買い言葉とはまさにこのことだろう。あくまでも上げ足をとってくるカズキと少女に呼ばれていた少年に向って、背後に控えていた(勝手について回っていた)取り巻きが威圧的に怒鳴り散らす。
「この方は貴族階級ではないのに五大元素外の魔法を扱うことができる、唯一のお方だぞ!」
「近い将来貴族へ召し上げられる素晴らしいお方だ。聖歴始まって初となる快挙だぞ」
興奮してやまない取り巻き立ちに対し、カズキは変わらず興味がないとばかりにふーんと生返事を返し。
「だからそんなに態度がでかいのか」
得心が言ったというようにうなずいた。
「なんだと」
「一流の貴族は自分の権威をひけらかさないし、何より顕著だからな。お前とは違って」
その時、確かに己の内で聞こえた気がした。――何かが切れる音が。
そのあとのことは覚えていない。ただ己の内に膨れ上がった衝動に従って右腰の鞘から権を引き抜いたところまではどうにか感覚が残っていた。
しかし。――気づいた時には、その手から剣は忽然と姿を消していた。
キンッという甲高い金属音がどこか遠くで鳴り響いた後、地面に何かが突き刺さる音。
そして。――いつの間にか首筋に突き付けられている自分が持つ剣とは違う様式の片刃の剣。
確か、『カタナ』というのだったか。と、どこか他人事のように無意識にアルベルトは考えて。
「――まだやるかよ、三流貴族」
低く鋭い声音は、それ自体にすら斬られそうなほどの殺気を孕む。
これ以上やるのなら容赦はしない、という彼の心象がありありと伝わってきて、それでようやく気付く。――勢い任せに振られた剣は、目の前のいけ好かない少年によっていともたやすくはねのけられたのだ、と。
「逆上して切りかかってくるとか。お前見た目によらず本当直情的だよな」
そういうカズキの声音には先ほどまでの殺気は消え失せ、一番最初に声をかけた時と同じように気だるげな自然体に戻っている。左手に握った刀を緩く振るうと、そのまま器用に片手で無造作に鞘に仕舞われる漆黒の刀身。
いつの間にか取り囲んでいたやじ馬でさえ、今何が起こったのか分かったものはいないだろう。現に誰一人といて声を上げるどころかぽかん、と大口を開けている始末。
ただ一人。彼の後ろに立っていた連れ合いの女性だけが、やっちまったなと言いたげに顔を覆ってうなだれていた。
たっぷり数瞬の時間をおいて、我に返ったアルベルトが声を出す前に、遮る形で控えていた取り巻きが声を荒げる。
「き、貴様っ!こんなことをしてただで済むと思っているのか?!」
「先に手を出してきたのはそっちだろ」
「問答無用だ――」
声と同時に振り下ろされる剣に、アルベルトの静止が入る余地はなかった。
先ほど少しだけ見えた刀よりも太い無骨な剣は、吸い込まれるようにしてカズキの脳天めがけて振り下ろされ。
「――一体これはなんの騒ぎですか」
アルベルトにとって聞きなれた、涼やかな声が凛と通る。その声に取り巻きまでもが動きを止め、その場の全員が声のした方角を振り返る。
全員が全員おびえたような表情の中、騒ぎの中心にいるアルベルトとカズキ、少女だけは各々別の表情で、言い換えれば緊張感のかけらもない顔で同じように見遣る中、振りかぶったままの剣もそのままに取り巻きがうわごとのようにつぶやく。
「お、オスカー様…」
「そんなにおびえられるとさすがに傷つきますよ。まだ何もしていないのに」
そういう青年の表情には傷ついたという言葉の欠片もない。怪訝そうに眇められたシトリンの双眸は違うことなく取り巻きの。――その振りかぶられた剣を射抜き。
「それで。こんな雑踏の中で剣を抜くということは、それなりの理由があるということで問題はありませんね?ワグナー家次期当主筆頭殿」
「……っ」
ワグナーと呼ばれた取り巻きは気圧されるように口をつぐむ。家名を出されたということは、それは一族の存続にかかわるということを彼自身が知っているからだ。――それほどの権力を、目の前の華奢な青年が有しているという証明に他ならない。
どう答えても後がなくなったワグナーが言葉を探す重い沈黙の中。
「いや、俺がその剣を見たいって話したら快く見せてくれたんだよ」
またしても声を上げたのはカズキだった。
気負うことのない、あくまで自然体なその声音は、どこかこうなることを見たかのような絶妙なタイミングで両者の間に割って入る。
「そうだよな藤野」
「……そうだね。見事な装飾だったからしょうがないね」
しょうがない、という言葉が一体どこにかかっているのかはさておき、フジノと呼ばれた少女は辟易とため息をこぼしながらカズキの言葉を肯定する。
カズキとフジノの両者を品定めするようにシトリンの瞳は撫で。
「あなた方は」
「初めましてになるよな。バーナードの旦那のところに世話になっている者さ」
「……ということはあの」
青年は何かに気づいたように双眸を見開くと、その先は口の中で言うにとどめて手を伸ばす。
「挨拶が遅れました。オスカー・アンダーソンと申します。以後何かとよろしくお願いいたします」
「いやいや、一流貴族様が言うようなセリフじゃないだろ」
「尊敬に値する人物にはそれ相応の態度を示さなければ、それこそ貴族の名折れですよ」
試合後の選手がお互いをたたえあうかのように握手する、紅とシトリンの双眸は全く同時にアルベルトに向き直ると。
「だってさ三流」
「それに比べて貴方という人は」
「……」
二人の見下しとあきれの視線にアルベルトは何も言い返すことができずに口をつぐむ。正確に言えば言い返せばそれ以上の罵倒が返ってくると知っているから何も言いたくないのである。
と、その無言の圧力から逃げるようにして剣を拾いに行こうとしたが。
「はい。近くで見るとやっぱりきれいな剣だね」
中性的な言葉遣いとともにに差し出された剣を見下ろして、頭一つ分下の相貌を見下ろす。
言葉を返すようだが、そういう本人のほうこそ美しい、とアルベルトは素直に思う。
西洋では見かけない真っ黒な髪は絹ののように滑らかに腰を流れ、その下の何年もの歳月を経てきた思慮深い琥珀色の双眸は、確固たる意志を秘めているかのように一切揺れることがない。
「まぁああは言っているが聞き流してくれ。カズキはああして人の上げ足をとるのが好きなんだ」
「誰彼構わずしてるわけじゃないぞ」
「尚たちが悪いじゃないかそれ」
若干不機嫌に低くなったカズキの声と対照的に、楽し気に笑うフジノの声は小鳥のさえずりのようにからからと周囲の空気を和ませる。張りつめていた空気が一転して柔らかなものとなり、やじ馬たちも次第に普段と変わらない日常へ戻っていく。
その様子を見て、カズキはしてやられたと言いたげな表情でフジノに向き直り。
「俺をダシに使うなよ」
「君がこの空気を作り出したんじゃないか」
「これは僕も手間が省けました。アルベルトに曲芸でもやらせようかと思いましたが」
「やめてくれ」
付き合い始めてからだいぶ経つが、だからこそオスカーが言うと本当にやってきそうでシャレになっていない。
「どの口でそんなことを言いますか、しかもこんな重要な日に。少しは後先考えてから行動してください」
「今日は何かあるのか?」
カズキの問いかけにアルベルトが逡巡していると、代弁するようにオスカーが答える。
「今日はサリヴァン家が正式に貴族の地位を戴冠される日です。僕は推薦人ですので付き添いで」
「ってことはまだ貴族じゃないじゃん。三流でもないじゃん」
「うるさいな」
本当のことだし、100%自分が悪いからこそいたたまれず、しかし素直に謝罪する気にもなれなくて、結局負け惜しみのような返答しかできない。
「なんだってそんな日におとなしくできませんかね、貴方は。この話をなかったことにされたいのですか」
「……」
眇められるシトリンの双眸には、その言葉が嘘ではないという怒りが宿っている。
しかし。アルベルトは無言で翡翠の双眸をオスカーではなくカズキへと向けた。
黄金が炯々と輝く、紅の瞳。
「そんなに気に入らないようなこと、俺した覚えないんだけど」
殺気すら感じられるその視線を受ける本人は、辟易とわずかな心配で肩を落としながら自身を指さして言う。
正直に言うと、この少年のことは今この瞬間に初めて認識したアルベルトである。
自分よりも力を持っていそうなもの。ツテがありそうなもの。利用できそうなもの。そういった『利用価値のある人間』以外には、アルベルトは自分から積極的にコミュニケーションをとろうとは思えない。だからいつの間にかいなくなった背後に控えていた取り巻きのことも名前すらしならない。
だから、自分でも少し驚いている。
右腕がないこと以外は、なんの変哲もない東洋人の少年。腕は立つようだがツテはなさそうだし、身長もおそらく年齢もアルベルトよりも下のくせに、敬いのうの字もない生意気な態度(アルベルトが言えた義理ではないが)。
だけど。
「……いや」
黄金に塗りつぶされた、その紅の双眸が。――理由もなく苛立って仕方がないのだ。
「いやって。じゃあ完全にとばっちりじゃん俺」
「お前の存在そのものが気に入らないんだよ」
「えぇ~……。初対面の人間に向かって失礼過ぎない?」
「貴方のそのけんかっ早い性格、そろそろ直して頂きたいものですが。そろそろ時間です」
二人の間に割ってい入って来るオスカーに、アルベルトも「あぁ」と端的に返す。先ほど彼も言っていた通り、今日は自分にとって最上に重大な日だ。
それこそ。――今日のために俺はここまでずる賢く生きてきたのだから。
「それではな、東洋人」
もう二度と会うことはないだろう、と。アルベルトはなんの感慨も名残惜しさもなく振り返って。
――その直後だった。
貧民街の露店街からそう遠くない距離で、派手な爆発音とともに粉塵が巻き上がった。
「何?爆発?」
「またか。どこの馬鹿だよ全く」
もうもうと立ち込める爆発による煙を遠くに臨みながら、しかし露店街を歩く民衆は関心が薄い。貧民街において爆発や銃撃戦などといった現実においての非日常は、ここでは当たり前の日常風景になりつつある。
当たり前の爆発に、今日もどこかのギャングがバカ騒ぎを起こしているのだろうと、民衆は誰一人として警察機構に連絡することなく、普段通りに自分たちの日常へと戻っていく。
ただ一人、その方角を見て固まる人物がいることにすら気づかずに。
「あちらの方角は確か、」
「……っ」
そういうオスカーの相貌には先ほどまでにはなかった緊張の色が宿り、声にもこわばりが聞き取れた。しかしいまだ煙が立ち上る方角を凍り付いたように固まってくぎ付けになってしまっているアルベルトはそれどころではなく、彼の表情の変化にも気づけない。
オスカーの言葉通り、あの方角には――。
「……行くぞ」
「……貴方はそれでいいのですか」
「時間がないんじゃなかったのか」
問いかけに問いかけを上書きして、一度止めた足を踏み出そうとして。
背後から強引にひかれた腕につられて、アルベルトは二度振り返る。
「――お前はそれでいいのかよ」
頭一つ分下の紅の瞳は鋭く、しかし先ほどの殺意とは違った色を宿して翡翠のそれを見上げてくる。
計らずともオスカーと同じ言葉通りに。『これでいいのか』と是非を問う、懸念の。
手のひらを返したような、こちらを窺うようなその視線に、アルベルトは一瞬だけ口を噤み。
「……お前には関係ないだろう」
乱暴に、つかまれた腕を払いのけて。
努めて沈着な視線で見下ろして、しかしカズキは一歩も引くことなく払われた手を握り締めて、絞り出したようにきしむ声は怨嗟の声のように。
「あぁそうかい。お前って本当に意地っ張りだな…っ」
「何が言いたい」
「お前は、」
カズキは一度言葉を切ると。訴えるようにうつ向いていた顔を跳ね上げて。
「お前はこうならないために、今までやってきたんだろうが!」
吐き捨てるようにそれだけ言って、カズキはそれ以降振り向かずに駆け出した。
向かった先はまっすぐに、爆発のあった地点だ。
「っおい一樹!」
慌てて後を追いかけるフジノのことも呆然と見送って、取り残されたアルベルトはこの騒ぎの中でも静かに佇む案内人に向かって。
「……いつの間にしゃべったんだ」
「僕は何も言っていませんよ。ただ、あの人には隠し事も先読みも通用しませんよ」
どこか達観したようなオスカーの言葉に胡乱げに振り向く翡翠の双眸に、まるでいたずらが成功したような表情で微笑するシトリンの瞳。
「彼の。――『未来視』の異能の前ではね」
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爆発地点に駆けつけた時には、戦国時代の合戦かと言いたげなくらいの乱戦模様だった。といっても、相手はサムライではなく予想していた通りのギャングたちだったが。
おおよそ庶民(俺)の貴族入りが気に入らないどこぞの馬の骨に言いくるめられた有象無象だろう。こういうことは今まで何度もあったから、アルベルトとしては見慣れた光景になってしまったし今更何も驚かない。
ここまでの道中ではすでに、自分たちの何十倍はいたはずのギャングたちが死屍累々の屍のように気を失って地面の上に転がって動かない。
これを作り上げたのは、立った二人の少年少女。
彼らは依然として襲撃者の中心で、踊るように背中合わせでギャングたちをたたき伏せる。
それはさながら、舞踏会の中心でワルツを踊るように。
「これで、最後かっ?」
目の前の一人を黒刀の峰で切り伏せたカズキのその一瞬の隙をついて、地面に伏せてやり過ごしていたギャングの一人が跳ね起きる。
「調子に乗ってんじゃねぇぞくそがきがぁっ?!」
怒声とともに振り下ろされた金属パイプはしかし、カズキに当たる前に耳をつんざぐ雷鳴とともにその先を見失う。
遠方から放たれた雷撃をパイプ越しに体内へ流され、大きく身を震わせるとなんの受け身も取れずに地面へと沈む巨漢。
「何が最後だ。まだいたことをお前は知っていただろう」
その巨漢を見ることなく横切りながら、アルベルトは紫電がまとわりつく剣をひっさげながら悠々とカズキに歩み寄る。
「お前がくるって知ってたからな」
「それは私を利用したということか?」
「なんでそう誤解を生みそうな悪い方向にしか言葉を選べないかなぁ」
言外にカズキの異能の話を聞いたことをほのめかしてみたが、それももう預言者にとっては些末なことなのだろう。アルベルトのその言外の言葉に気づいていながらスルーして、う~んと黒刀を仕舞いながら低くうなりを上げて。
「俺はただ、お前を信頼してるだけなんだけどなぁ」
「初対面の人間にそこまで信頼できるのは理解できないね」
人間はどこまでも合理的で、自分に都合の良い未来をつかむために手段は選ばない。
そのためだったらたとえ相手が地獄に落ちようとも、自分には関係ないからと切り捨てる。
そういう世界で生きてきたし、実際自分もそう思う。
しかし目の前の少年は。
「だってお前は、根は真面目でお人好しだから」
だから、信頼するのだと。
たったそれだけで、この男は初対面の人間さえ信頼してみせるのだという。
それでようやく合点がいく。――あぁ、だから。
「お前が嫌いな理由がわかったよ」
「え」
「お前のその達観している態度が気にくわないんだ」
本当は。そう簡単に他人を信頼できることが。――うらやましいのだという気持ちはかくして。
アルベルトの言葉が予想外だったのか、紅の瞳をぱちぱちを大きく瞬いて。
「……それは、よく言われるな」
困ったように眉毛を下げて、苦笑する少年は。
ようやく見えた、等身大の彼の姿だった。
「――お兄様っ」
爆心地に近い家屋から、聞きなれた呼び声が聞こえてアルベルトは顔を上げる。
視線の先ではアルベルトの容姿からはおよそ想像もつかないような古い家屋の二階のベランダから、こちらの様子を窺うように一人の少女が手すりから転がり落ちそうな勢いで身を乗り出している。
その固く閉ざされた瞼の下の瞳を夢想して。
「よかったな。妹さんも家族もみんな無事みたいじゃないか」
「……そうだな」
「目が見えなくなっちまった妹のために、お前は貴族の『犬』になることを選んだんじゃないか」
自分よりも5つも年下の妹が、力を求めて研究に没頭したアルベルトの魔法の獲得の代償のように、失明してしまった理由も。
その謎を解くために。彼女の視力を元に戻すために今よりも財力が。何よりも最先端の医療技術や研究を得るために貴族になりたかったことも。
そのために、アンダーソン家に取り入って、その下で働き蟻のような使命を課されることになることを取引したことも。
全て、共犯者であるオスカーにしか話していないことなのに。
「お前は、どこまで知ってるんだ」
「過去のことは何も。ただお前のこれからを見越して頼みたいことがあるのさ」
過去はあくまで未来からの推測で、ただのおまけだと。
そしてカズキのそのセリフで、アルベルトはようやく理解する。
――やっぱりこいつは、本当にいけ好かない。
「それがお前の狙いだったか」
わざと気づけるように視線を送ってきたり。
スルー出来るにも関わらず、声をかけてきたアルベルトに突っかかったのも。
そのすべてが。――預言者のシナリオ通りに。
「お前の気に入らないって勘、あたりだったな」
「自分で言うかそれを」
アルベルトの辟易とした返しに、カズキは先ほどのオスカーと同じようにいたずらの成功した意地汚い笑みを満面に浮かべる。
それは達観のかけらもない、年相応の屈託のない少年の笑み。
そんな顔で笑われたんじゃ、こちらももう怒る気にもなれない。
つられるようにアルベルトも笑う。これが彼に向けて初めて笑いかけた笑顔だったことを、今更ながら気づきながら。
「いいだろう。――お前の手のひらで踊ってやるよ」
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そんな二人を見守るように、少し遠くから見守る影が二つ分。
「また厄介な二人が組んだものです」
「とか言いながら。楽しそうに声が弾んでいるじゃないか」
「これは失敬」
と言いながら、いまだ含み笑いを隠せずにいるオスカーに対して、藤野も同じような笑みを返しながら。
「あのまま彼が家族を見捨てて自分のことを優先するようなら、どうするつもりだったんだい?」
「それはもちろん。僕が彼を殺していましたよ」
「わーそれは怖い」
「その程度の人間であれば、こちらから願い下げです」
あのアンダーソン家次期当主の推薦ともなれば、どんな高名な貴族でさえも正面切って露骨に文句を言うことができないほどのVIP券だ。庶民はもちろんのこと、中小貴族でさえも欲しいその特権を、あの少年は獲得したのだ。
それは同時に。――どんな失敗も許されないという縛り。
彼一人のミスは、アンダーソン家の直結するのだから。
だから。――その程度の人間であれば、ここで死んだほうが彼のためだと。若き次期当主筆頭様はにべもなくそう言う。
「苦労するね」
「えぇ。僕も貴女も」
数えるのも億劫になるほどのギャングの山の中。佇む二人の背中を、そうして少女と青年は高をすくめながら無言で見守るのだった。
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「っ畜生、何だってんだ。たかだかひと家族つぶすだけなのにっ」
目の前に映った惨状を見て、一瞬のうちに元来た道を引き返したワグナーは、近くにうち捨てられていたゴミ箱を蹴り上げる。
隣同士で物の貸し借りを、窓を開けるだけで行えそうなほどに建物の間が狭い路地裏だ。当然反響音も大きく派手な音を立ててゴミ箱が転がるが、しかしそんな音で今更騒ぎ立てるような人間もここにはいない。
そんなことよりも。
「あんな庶民ごときが貴族の地位を獲得するなど……っ!」
そんな屈辱があってたまるか。
アルベルトの貴族昇進に不満を抱くものは少なくなく、むしろ歓迎する者のほうが稀有だろう。
庶民がなんの功績もなく、アンダーソンの庇護を受けるなど、前代未聞だ。
それもそうだが。何よりも。
貴族という肩書に誇りを持つ者にとって、ぽっと出のどこの馬の骨ともわからないみすぼらしい庶民なんぞにへりくだるなど――!
「なぜあんな野良犬をアンダーソンは、」
「――それは犬にしかできないことがあるからだ。キール・ワグナー」
背後からの声に、ワグナーがその声の主を視認する前に、地面に倒れこむ。
心臓の鼓動とともに波紋のように広がる背中の痛みで、背後から派手に切り付けられたのだと遅ればせながらにワグナーは気づく。
気づいたところで、何をどうしようもないのだが。
「アルベルト・サリヴァン…っ!こんなことをしてただで済むと思っているのか…?!」
「いるとも。俺にはアンダーソン家の後ろ盾があるのだから」
その言葉を聞いて、ワグナーは今度こそ青ざめる。――それは言外に、アンダーソン家の指示だということに気づいてしまったから。
「貴族の地位を得るために、こうしてこんな迷宮区(無法地帯)の掃除をまかされてしまったのだが。いや存外に悪くないかもしれないね」
ゆっくりと。まるで忍び寄る死神のようにひそやかに歩み寄る死の足音に、ワグナーは恐る恐る顔を上げ。
「俺の家族に手を出したやつに。――こうして直接お礼参りができるのだからね」
その時の凄惨な麗人の笑みは誰に届くこともなく、『執行人』の最初の犠牲者とともに迷宮区の深淵へと沈む。