9-1.星月夜の先へ(終章)
「――借金?あぁ、あれはカズキの指示だよ。そういえば無理やりハヤトを連れ戻せるだろうからと」
確かに金銭は生活費やらヴァイスの養育費に消えていったが、伊達に『タキオン』所属第一級調査員の資格を持つ男。その程度の出費では底は尽きない。
草薙隼人の借金返済生活は、こうしてあっけなくネタ晴らしをされた挙句に、逆に大金が入ってくるというよくわからないオチに落ち着いた。
余談だが、今まで隼人が借金返済で返金していたなけなしの金は、『タキオン』の活動資金に消費された。なんでだよ。
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「やぁ隼人。奇遇だねこんなところで」
かつては遠い昔の、しかし最近では聞きなれてしまった声に、隼人は深紅の双眸を右に移す。
そこには予想通りの琥珀色の瞳の人物が、普段通り変わらない微笑を浮かべながら立っていた。一つ違うものといえば、その手に持つささやかな花の束だろうか。
花束、というには些か以上に数が少ない。おそらくそのあたりの野原から摘んできたものだろう。
それを、隼人の眼前の隣の墓標に風で飛ばないように小石で押さえて添える。
彼の目の前の墓標には姉の名が。隼人の目の前の墓標には兄の名が。それぞれ流麗な筆記体で綴られている。
「隼人がお墓参りとか、ちょっと意外」
「失礼だなお前。とか言いながら今初めて来たけどな」
「やっぱりそうじゃないか」
軽口をたたく蓮の顔には依然として薄く傷跡が残る。まぁ、自分ほどではないかと隼人は遠目に臨む市街地を見やる。
――『リリス』討伐作戦、『聖戦』から一週間が過ぎた。
作戦参加人数の約4割と、民間人合わせて約6000人の死傷者、行方不明者を出した聖暦始まって以来最悪の討伐作戦は甚大な爪痕を残した。
多くの歴戦の調査員たちは命を落とし、外界へ被害を出しこそしなかったが、貧民街に集っていた少なくない命も失われた。
何よりも。――自分の知人が『リリン』となって殺されていた事実に、全世界は戦慄した。
『タキオン』は2年前の事件の真相を含め、全世界へ向け真実を包み隠さず公表した。
2年前に本当は何があったのか。
この2年間、『タキオン』はその脅威に対してどう立ち向かうかを考えていたこと。
そして。――犠牲になった調査員のすべての名前と、記憶改ざんについても。
もちろん、多くの非難が殺到した。特に『記憶改ざん』というプライバシーを侵害した越権行為に対しては、特に各国の首脳や民間人に至るまで。
悲しみと怨嗟と、悲愴と憤怒に彩られた声が。
しかしそれ以上に、『タキオン』が上げた成果は大きなものだった。
放っておけば35年前以上の災害が世界を襲ったのだ。それを迷宮区内部に押しとどめた成績や、今までの迷宮探索での成果物をすべて開示、提供を行うというここにきての譲歩。
「もう何も隠す必要も、そもそも隠すものもなかったのだから」と、金髪の麗人はあっけらかんと語ったという。今頃各国の首脳たちはこぞってその争奪戦に明け暮れていることだろう。
而して。――『タキオン』は大きなお咎めもなく、現状迷宮区においての最大防壁という責務を新たに活動を続けている。
ここはその『タキオン』内部に設立され、最近になってようやく解放された霊園だ。
当時弔えなかった人たちや、今回での功労者たちが静かに眠る穏やかな空間には、連日多くの遺族たちが足を運んでいる。
――この下には、何も埋まっていない者たちが多いのだけれど。
それでも、日夜人の歩みが途絶えることはない。
今日はその、ようやく時間が取れた兄の初の参拝日だった。
「怪我は?」
「俺よりも隼人のほうが重傷だったでしょ。その言葉そっくりそのままお返しします」
にやにやと皮肉に染まる朗らかな笑みに、隼人はバツが悪そうに視線を逸らす。
なんやかんやで落ちこぼれは今回も、足の骨を盛大に骨折するという大けがを負った。
とはいっても、ここは科学サイド魔術サイドからの最先端の医療設備や技術がそろってる。普通であれば何か月と完治にかかる時間も、ここでは数日とあっという間だ。よって、骨折なんてここでは軽症なのである。
……今までに比べれば全く重症ではないと、自他ともに思えてしまうことが悲しすぎるが。
ともあれ。
「もう普通に歩けるよ。お前が治療したんだから知ってるだろ」
「それは何より」
ふふふと笑う蓮の表情はまるでつきものが落ちたかのように、穏やかなものになっている。7年前に見た旧友の、懐かしい笑みに。
そうしてしばらく蓮は楽しげに笑って、不意にその笑みに影が落ちる。
「……結局。俺には何のお咎めもなし、か」
蓮が『タキオン』本部を襲撃し、『聖櫃』に封印されていた『リリス』の心臓を解放してしまった『ノアズアーク』唯一の生き残りだと知るものは、調査員たちの中では作戦の概要を説明するにあたって知らされている。
――この災厄をもたらした奴らの一員だと。
報復があると思っていたのだろう。いや、むしろ報復して欲しいと思っているのかもしれない。
愚かにも自分の欲望だけのために、多くの犠牲を生み出してしまった自分に対しての罰を、彼はきっと求めているのだろう。
だけど。
「お前たちはただ真実を知りたかっただけだ。そして協力して全員で危機を退けた。それだけの話だろ」
――生き続けるのが彼らに対する贖罪だと。隼人は心の中で思うにとどめる。言わなくていい、余計な事だ。
蓮は伏せていた琥珀色の双眸を見開いて、しかし直ぐに朗らかに眦を下げて。
「……そうだね」
蓮もそれ以上は何も言わずに、遠くを見据える。風に舞った新緑の葉の軌跡を辿れば、相変わらず口を開ける深淵の淵が見て取れる。
「ヴァイスにもオリバーにもレグルスくんにも、ちゃんとお礼言わなくちゃいけないね。特にヴァイスには、」
その先を躊躇うように1度言葉を切って、しかしちゃんと口にして言わなきゃ行けないと蓮は改めるように。
「俺の姉とその子供を弔ってくれて、ありがとうって」
その言葉に、隼人は無言で返す。そこに関しては隼人が口を出せる資格はないし、蓮自身も隼人に答えを求めている訳では無いと気づいているから。
二人の間に落ちた沈黙は一瞬で、それも夏の湿り気の多い風に攫われて空に消えていった。
「そういえば、借金の話。嘘だったんだってね」
「あぁ、本当ムカつくよな。シャレにならない嘘つきやがって」
「まぁその思い切りは、流石一樹さんって感じはするけどね」
当時を思い出しながらくすくすと笑う蓮につられて、隼人も苦笑する。
だから、静かに告げられた言葉は完全に不意打ちで。
「じゃあ、隼人はこれからどうするの?」
「……え、」
これから。
明日の話。
1年後の話。
――未来の話。
そんなこと考えたこと無かったから、蓮の問いかけに咄嗟に答えられずにぼんやりとぼやく隼人に、補足するように蓮は言葉を続ける。
「だって、ここへは一応借金返済って理由で来たわけじゃない。それもなくなって、元々迷宮区に戻ってくるつもりも理由も隼人にはなかった。だから、」
ここに居続ける理由は、無いんじゃないのかい?
草木を揺らす夏の蒸し暑い風が、頬を撫でる。ジメジメとした気温と照りつける太陽の光、世界を構成する全てがスローモーションのように遅れてくる。
――そうか。そうだった。
俺は元々ここに戻ってくるつもりはなかった。
ここに来たのは成り行きで、自分の意思じゃなくて、ただの無理やり。
しかしその理由はでっち上げの嘘で、虚像で虚飾。
だったら。――蓮の言う通り、ここに居続ける理由はない。
そう、無いはずなんだ。
――なかったんだ。
あまりに自分の中で答えが根付きすぎて、だから蓮への回答も遅れて、比較的霊園の入口に近いこの墓標のちょうど自分たちの背後でかすかに揺れた気配にも、隼人は気づけなかった。
その問いを噛み砕くようにゆっくりと解し、深紅の双眸は普段よりも穏やかな決意と静謐に満ちて。
「そうだな――」
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久しぶりの宿舎の自室に着く頃にはもう日は地平線に隠れようとするところで、太陽光の傾きによって空気中のチリに遮られて蒼は沈み、代わりに紅だけが夏の空を朱色に染め上げる。
「ただいまー」
ぎい、と軋む扉を開け放ち、なんとなく無言で入るもの嫌だなと思っての一言と共に、隼人は久方ぶりの自室の敷居を跨ぐ。
「……ってあれ」
自室の中を覗くのと、拍子抜けな声が自身の口から零れたのは、全くの同時。
春。自分が来た時と同じように部屋の奥側に変わらずある少し傷のあるデスクに椅子に、机の上には必要最低限のものだけを置いて。その背後に縦に並ぶように置かれたベッドは、宿舎の作業員がやってくれたのかシワひとつないシーツに、干されたベッドカバーがふたつに畳まれて置かれている。
もう何年も時間のだったような、しかし実際には1週間とそこらしか経っていない、見慣れた宿舎の自室なのに。
「……いない」
数ヶ月前に突然押し入ってきた同居人の姿が、とごにもない。
当時の同居人の後に来て、なおかつ元々物も多く持っている方じゃなかったから、生活感を思わせるものは一切ない。
それでも、彼がここに居たのは確かなのだ。
隼人が今日退院し、戻ってくることは知っているはずだ。一度も見舞いには来なかったが、割られた結晶核が毎晩のように置かれていたところを見ると、人が寝てる間にひそひそと様子を見に来ていたのも知っている。
同居人が帰ってくるのだ。当然相方も待つようにとアルベルトからは指示があったはずで、指示に忠実な彼がその言いつけを守らないなんて珍しい。何かあったのかもしれない、と思う程には。
「どこいったんだ……?」
せっかく自室に戻ってきたのにまた敷居を跨ぐことになるとは。
ガシガシと乱暴に赤銅色の髪を混ぜながら、隼人は宿舎を後にする。
と言っても、彼がいきそうな場所に正直心あたりは無いし、そこまで彼について知っている訳でもない。
元々対人関係は狭く浅くでドライな性格で、それで良いと思っている隼人だ。だから今になってこんなに後悔しようとは。明日からはちょっと改めてみようかとさえ思いながら、隼人は虱潰しに歩く。
宿舎を出て、隣接する学院の廊下、数ある中庭をぐるりと散策し果ては理事長室まで。そろりと中を伺ったが、連日連夜後始末や取材などで忙しく飛び回るアルベルトの姿はさすがにない。
……いない。
『タキオン』本部や病院など、自分が自由に出入りできないところに居られたら困るのだが、まぁそれなら逆に安全でいい。自分のこの捜索は全くの徒労で無意味だが。
普段彼がどこにいて何をしているのか。本当に考えたこと無かったんだなとそろそろ頭を抱えて泣きたくなってきた頃。
何気なくいつもの習慣で通り掛かった講義室の中に、探し続けた白を視界の端で捉えた。
見つけた瞬間駆けだしてすぐにでも確認したかったが、何だか意識しているようで嫌だなと瞬時に冷静になって努めて普段通りの歩幅で歩く。素直になれないこのひねくれた性格は、隼人自身は気づいていない。
然して。――ようやく見つけたヴァイスは講義室の最上段。入って奥側の一番端の窓側で、外を見るでもなく机に突っ伏していた。
普段は隼人が陣どるそこに、ヴァイスはふて寝するかのように微動だにしない。
こっちの気配はとうの昔に気づいているはずなのに。
「そんなところで何してんだよ、お前」
そのせいか、口から出た声には幾らか呆れの色が混じり、深紅の双眸を眇める。
声をかけられたヴァイスは一度ぴくりと反応したが、顔は上げない。
俺何かしたかな、と首をかしげながら考えるが、いかんせんここ数日会話もまともにしていない。単に相手が勝手にむくれているだけだと思う。思いたい。
隼人は入口にたったまま、微動打にせず仁王立ちする。まるで遊び場から出たくない子供を無言で催促する親のように、近づくことはせずに。
「蓮がお礼、言ってたぜ。弔ってくれてありがとうだって」
「……お礼を言われることはしていない」
机に伏せたままの声はくぐもって聞き取りにくいが、誰もいない深海の講義室では良く響く。ヴァイスの普段通りの少ない言葉には、やはりと言うべきか少しの不機嫌さが垣間見得る。
やっぱり何かあったのだろうか。
「僕はただ指示通りにやっただけだ」
おいおいどうしたなんでそんなにネガティブ思考になっていくんだと、思うほどにヴァイスの声はどんどんと低くなる一方だったので。
「馬鹿だな、お前は世界を救った英雄なんだぞ。バカ兄なら『もっと偉ぶっていけよ!』くらい言うと思うぜ?」
だから、何にいじけてるかは知らないけど。
「帰ろうぜ、ヴァイス」
隼人の何気ない一言に、ヴァイスは明確に反応する。先程とは別の感じにビクリと身体を震わせると。
「帰る……」
「あぁ。勝手に夜に講義室入ったなんて知られたら怒られるし」
「ハヤトは、帰るのか?」
ヴァイスの言葉のフレーズに、隼人は違和感を感じて首を傾げる。顔を伏せているからその様子は見えないはずなのに、ヴァイスはイタズラのバレた子供のようにおずおずと。
「借金の話も嘘だって知って、やることも無くなって。だからハヤトはニホンに帰るのか?」
「聞いてたのか……」
そういえばあの時、僅かに蓮の視線が動いたと思ったが。あれはヴァイスの気配に反応したのかとようやく今になって思い至ってはた、と気づく。
――不機嫌な理由って、それか?
だから部屋に居なかったのか。
だから今、目を合わせてくれないのか。
――俺がここから出ていくと、そう思って。
でもそれを素直に言ってはくれなくて。だったらこっちもやりようはある。
「……そういえば、兄貴のでっち上げの借金。お前の養育費だって聞いたぞ。金返せ」
「……お金を返せば、ハヤトは帰らないのか」
「それは俺に帰って欲しくないってこと?」
「っそれは、」
がたん、と音を立てて脊髄反射のようにヴァイスは両手を付いて立ち上がり、次の瞬間には隼人の策にまんまとはめられたのだと気づいてあ、と小さく零す。
ようやく交わった黄金の散る瑠璃の双眸は、薄く潤んで揺れている。
行かないでくれと。
自分を置いていかないでくれと縋る、子供と同じに。
隼人は真っ直ぐに見下ろされる瑠璃の瞳を、深紅のそれで見つめ返し。
「――帰らないよ」
それはもう、ふたりぼっちの約束を交わした時から決まっていた。最初は自覚はなくて、けれど最近ようやく自分で自覚した感情。
「確かに、俺がここに来た理由は無くなった。他の奴らみたく大それた責任とか義務とか探求とかも何も無い」
オリバーのような責任もない。
レグルスのような義務もない。
蓮のような探求もない。
栄光とか栄華とか。正直金銭にだって興味はない。
だけど。
「やりたいことは見つかった」
何も無かった。7年前に死んだ自分に、やりたいことを見つけさせてくれた少年に、隼人は手を伸ばす。
「迷宮区の最奥の。――お前の願いの景色を、俺は見たい。連れて行ってやるって、約束しただろ」
俺は力がないから。だからそれまではお前が守ってくれるんだって。
だからその対価として、俺がお前を望んだ場所に連れていこう。
そうあの時2人で契って、隼人自身も自分と契約した。
「お前は俺をここまで連れてきてくれた。兄貴が死んだ本当の理由に。お前は俺を肯定してくれた。俺は必要な人間なんだって。――だから俺は、ここまでたどり着けたんだ」
自信は未だ持てなくて、自分に価値などないと思っている。
それでも。こんな自分でも必要としてくれるお前がいるなら、俺はそれに応えなければ。
「だから今度は、俺の番だろ」
助けて貰ってばかりだった。
自分一人では決してたどりつけなかった今に、自分がこうして立っていられるのは、お前のおかげだから。
隼人の声に呼応するかのように、見上げる瑠璃の双眸は涙で艶やかに光る。
「ここまで連れてきてくれたお前を、今度は俺が連れていく。だから。――そんな所でいじけてないで、早く降りてこっちに来い」
来ないんだったら、俺が勝手に行ってやる。これは自分が勝手に決めて、勝手に押し付けた自己満足だから。
……欲を言えば、お前に隣にいて欲しいけど。
立ち上がったまま、ヴァイスは伸ばされた腕にとって良いのかと逡巡するように視線を泳がせるものだから、隼人は早くしろと言わんばかりにさらに突き出す。
やがて根負けしたようにヴァイスはとぼとぼと講義室の階段を降りて、俯きながら隼人の前に立って。
「……帰る」
ぐすん、と鼻をすすりながらちょこん、と伸ばした手の指を摘むように取った。
まぁこれでいいか、と隼人はくるりと踵を返して宿舎への道を辿る。半歩後ろ、居心地悪そうに追ってくる足音はいくら待っても揃えてくれないものだから、僅かに速度を落として並んでやる。
怪訝そうに僅かに見下ろしてくる瑠璃の双眸を見返して。
「そういえば、俺無人の部屋に帰ったんだけど。普通に悲しかったんだけど」
皮肉たらたらに眇める深紅の双眸にぱちぱちと瑠璃の双眸は瞬いて。そして何を望んでいるのか察したのか、強ばっていた肩の力を抜くように。
困ったようにはにかんで。
「――おかえり、ハヤト」
「――ただいま、ヴァイス」
半年前。成り行きで出会った二人はふたりぼっちの約束をして。
その一月後、感情のすれ違いで大きく衝突をした。
何度も喧嘩をして、何度も死にかけて。そしてそれよりもささやかな回数を笑いあった。
これから大人になるにつれて、どんどん付き合い方は変わってくるし、いつかは別れる時が来るかもしれない。
今まで以上の衝突も、すれ違いも絶望も。死んだ方がマシだと思うシーンに何度も直面して。
それでも。――きっとこれからは、笑い会う方が多くなるかもしれない。
どんな困難が待ち受けていようとも、二人でならきっと。
奇しくも2年前見た星月夜の下。当時よりも幾分か星の煌めきが強く感じる薄光の中で。
口には出さなかったが二人とも。――お互いにそう、理解していた。
三話終了、そして第一部これにて完結です~!ここまで長いようで短かった…とりあえず1部目標に書いてきたので達成感より肩の荷が下りた感が半端ないです…
とりあえず舞台は第二部へ移動しますが、引き続きよろしくお願いいたしますっ!