8-4.限りある生命に福音を
――『魔眼』。
またの名を『邪視』、『イーヴィルアイ』、『邪眼』。
これらは全世界的に広く伝わっている民間伝承のひとつであり、主に魔女を名乗る女性に多く見られる特徴だと言われている。
その視線は様々な呪いを秘め、その眼光に触れただけで生命力を奪われ、病気にかかり、災難が降りかかり。――最終的には死に至らしめるという。
一説によれば『魔眼』は蒼い瞳に宿るとされ、その効果は異能力似て非なる能力。
つまり。――世界事象に干渉し、生命に干渉し思いのままに操ることが出来る。まさに恐怖の象徴と言えるであろう。
-----
「『魂の色彩を知覚する』なんてものはほんの力の断片だ。『対象の寿命を決定し、その死を浮かび上がらせる』。――それが『死神』の『魔眼』だ」
アルベルトの回答に、隼人とその場でうっかり聞いてしまったオリバーは2人揃ってフリーズする。
何度も言うがここは戦地の真っ只中。周囲では鳴り止まない剣戟の甲高い金属音と、それを振るう調査員たちの怒号や叫びが奏でる耳障りな狂想曲が響く。
『ケリュケイオン』所属の蓮とレグルスも、それぞれ近くで『リリン』と相対している中。
「「……チートかよ」」
長い。ながーい沈黙を経て、隼人とオリバーは全く同じ言葉を吐き出した。
オリバーとはヴァイスとはまた違った犬猿の仲だと思っていたが、今このときばかりはお互いの心境は完全に一致したといえるだろう。
すなわち。
「迷宮生物レベルの戦闘力を持って、なおかつ異能力者だってだけで十分チートだと言うのに?」
「この期に及んでまだ加わるんですか?何ですか神は二物を与えないんじゃなかったんですか?」
はー?!と二人して嫌味たらたらで、今打ち明けられた衝撃の事実を高らかに皮肉る。
当の本人はというと、居心地悪そうにいつも以上に所在無さげにさまよわせられる瑠璃の瞳。
「こいつを最初に拾った時には目に映したものを手当たり次第に呪っていくものだから、本当に手に余った。危うく『タキオン』も壊滅しかけたし。だから『制御装置』なんてつける羽目になったんだ」
あの【ノアズアーク】でさえも万全の準備をした上で攻め入り、しかし陥落できなかった『タキオン』本部の壊滅とは。
しかも。迷宮生物用の『制御装置』をつけている理由が。
「・・・・・・」
「・・・・・・そんな顔で見ないでくれないか」
たまらず向けてしまった白けた視線にヴァイスからの抗議が上がるが、自分でも情けないと思ってしまっているのかその声は弱々しい。
ともあれ。
「じゃあその『魔眼』をつかえば」
「『リリス』の魂の形を一つに限定できるというわけだ」
いかにも中二病のような『魔眼』というフレーズに多少の気恥ずかしさは感じるが、しかし隼人は確信する。
結界を破壊する術。
『リリス』の魂を一つに集約する術。
心臓に不可を与え、境界を拓く術。
異空間へ飛ぶ術。
攻略に必要な術が、ここにきてすべてそろった。
そのことに歓喜に一人身を震わせる隼人が、いつに無く弾んだ声になってしまうのも無理は無いといえるだろう。
だから。
「じゃあヴァイス、その『魔眼』とやら使ってくれっ」
いつもは二つ返事で承諾するヴァイスから。
「――嫌だ」
――拒絶されるとは思っても見なかった。
何を言われたのか咄嗟に理解できず、隼人はまたしばらく制止してしまっていた。
嫌に降りる沈黙にさすがのアルベルトとオリバーもそろって沈黙する。
「・・・・・・今なんて」
「ヴァイスの『魔眼』は危険すぎるから、『制御装置』で抑制しているんだ。使うにはハヤトが正式に契約者として契約しなければならない」
いち早く(というより最初から)状況を察したアルベルトが珍しくヴァイスに助け舟を出す。
そういえばそんなことも言っていた。われながら気がせいてしまったようだと隼人ははやる気持ちを抑え。
「じゃあ契約すればいいんだろ?そんなに時間が掛かるものなのか?」
「すぐに終わるね」
「・・・・・・あぁ」
オリバーも何が言いたいのか察したのか、口に手を当て深くうなずいている。
自分だけが理解できていないことに、若干の苛立ちを覚えながら。
「じゃあ今すぐやればいいだろ?何が不満なんだよ」
言いながら、「まぁ不満しかないよな」と思う隼人だが今は状況が状況だ。それはヴァイスも理解しているはずなのに、どうしてこうも渋るのか。
深紅の双眸を向けられたヴァイスはというと、やはり所在無さげに視線を泳がすと、やがてその視線から逃げるようにしてなぜかオリバーの影に隠れてしまう。
「・・・・・・ない」
「は?」
ぼそりとつぶやかれた言葉は周囲の喧騒に掻き消えてしまって届かないせいで、思わず素の声で聞き返す。
ヴァイスはしばらく言いよどんでいたが、やがて意を決したように。
「・・・・・・君を汚したくないんだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ここまで他人の発言を理解できなかったことがあるだろうか。
今度こそわけのわからないヴァイスの発言に、隼人は置かれた状況も忘れてただただ棒立ちになる。
――何で『契約』の話になって「汚す」ことになるんだ?
「ちょっと、さっきから何してるの?」
「作戦決まったなら早めにすることを勧めるよ~」
周囲に散っていたレグルスと蓮も静か過ぎる騒ぎを聞きつけ戻ってくる。だがしかし放心状態の隼人の耳には届いていないようで、答えることも無くただ呆然としている。
「あ~。クサナギは迷宮生物との契約方法は知っているか?」
隼人とヴァイスの間に立たされたオリバーがたまらず話題転換。隼人はフリーズする頭脳を再起動させ。
「契約者の血を飲ませるんだろ」
「なんだ知ってるじゃないか」
「そのルーツはそもそも『チ』には神格的な意味合いもあり神秘的な力を強く持つものとされている。日本神話において自然界の神の最後に多く見られそれはこの言い伝えが根強く影響されているとされているが――」
「もういいもういいそこまで聞いてないというかそこまで言ったらわかってやれ」
何が?とようやく回り始めた頭をフル回転させ、先ほどの自分の発言を思い出す。
『『チ』には神格的な意味合いもあり神秘的な力を強く持つものとされている』。
「――あ、」
「ようやく気づいたか」
隼人の気づきの声に、オリバーは辟易と肩を落とす。だがしかし隼人としては依然としてヴァイスがなぜそこまで気にするのかがわからない。
「ただ血飲んでもらうだけだろ?何がそんなにいやなんだ?」
そんな隼人の発言に、今度はオリバーが呆然と見返して。
「・・・・・・変なところでデリカシーなくすなよ」
「えー・・・・・・」
ここってそんなに重要な場面かなぁ。
とにもかくにも今の隼人の頭の中にあるのは『今用意できる最強の手札で勝負が出来る』ということだけだ。
普段は距離か近いだの男同士でうんぬんかんぬん文句をたれる隼人だが、どちらが優先度が高いかと問われれば愚問だと即答するだろう。
「今出来るべきことがあるなら試すべきだ」
その言葉を受け、隼人の周囲に集まっていたアルベルトやルークでさえも苦虫を噛み潰したようななんともいえない表情を浮かべ押し黙る。
なまじド正論な分たちが悪い、と。誰もが思っていることだろう。
まぁ。
「ここまで言っておいてなんだけど、俺はヴァイスの意見を尊重するから。本当に嫌なら別に、」
「……分かった」
ヴァイスにしては珍しくここまで言っても頑なに頷かない様子に、流石の隼人も何も思わない訳では無い。普段は振り回される方ではあるが、人にはどうしても触れたくない部分や嫌なことは誰にだってあると思うから。
と思ってせっかくはまったパズルのピースを崩しながら言うと、ヴァイスが待ったをかける。
今までのどんな局面でも見ることのなかった、一世一代の覚悟を決めたかのような、静謐な。
ヴァイスは俯きながらオリバーの影から出てくると、そのまま右手を掴んで隼人を連れ立つ。
「時間が惜しい。手早く済ませて帰ってこい」
アルベルトの言葉を背中に聴きながら、ヴァイスに連れられ少し離れた岩陰に連れ込まれる。
依然として俯いたままのヴァイスに隼人は今更ながら後ろめたい気持ちになりながら。
「……なんか、すまん」
「……」
無言が正直一番堪える。
もともとこの状況を作ったのは隼人なのだが、いかんせん彼がここまで渋るのは初めての経験なので、なんというかその。
「……怖いんだ」
ようやく口を開いたヴァイスの言葉に、隼人は静かに耳を傾ける。
「君が僕を『化け物』扱いしてしまうことが。人の血を飲んで、人を呪う『魔眼』なんて、」
そんなのは、『人間』じゃない。
ぽつりとつぶやかれた言葉はあきらめと諦観と、それよりももっと深い悲しみの色に染まっていた。
その悲しみを、隼人には理解できない。――ヴァイスから見れば正しい人間の姿をした、自分には。
それを『理解してやる』と言えない。
だから。自分にしか言えない言葉を。
「……何度も言ったかもしれないけど、」
うつ向いていた瑠璃が、ゆっくりと持ち上げられる。必然的に交わる対照的な色彩の視線。
「お前は『道具』でも『化け物』でもないよ」
それに。
「結構そう何度も言ってるつもりなんだけど、俺の言うこと信用ならないか?」
「そうじゃないけど、」
「じゃあもう気にするなよ。そもそも多分そんなに気にしているの、お前だけじゃないか」
正体を知っているオリバーも。
隼人からは言っていないが、多分もう知っているレグルスも蓮も。
――少なくとも彼らは、ヴァイスのことをそう思ってはいないだろう。
長年にわたって言い聞かせられた呪いの言葉を、こんな自分が覆せるとは思えないけど。
「そうやって自分を傷つけるのは、もうやめろ」
いつか君が言ってくれた、その言葉を返そう。
隼人の言葉に、ヴァイスははっとしたように一度見開くと、ゆっくりと目を瞬く。
「……手を出して」
その言葉にこたえはなかったが、隼人はヴァイスの言うとおりに手を差し出す。
「どうしたらいい?バッサリ切ったほうがいいのか?」
「薄く切ってもらえればそれでいい」
言われたとおりに隼人は右腰に佩いていた黒刀を引き抜くと、腕に軽く当てる。
ろくに手入れもしていないそれの切れ味は依然として健全で、それだけで皮は裂け血が薄く滲む。
湧き出る血赤の噴泉に、ヴァイスはそっと口を寄せると。
「――っ、」
腕を這う舌のこそばゆい感覚に、隼人はとっさに上がりそうになるのをかろうじて堪える。
時折響く独特の水をすする音を意識しないようにたまらず視線を逸らすが、自分でもわかってしまうほどの体の火照りはどうしようもない。
感覚にしてはずっと長く。しかし時間的には一瞬の後、ヴァイスは最後の一滴まで律儀にきれいに舐めとると。
「……ごちそうさまでした」
ソレ、なんか違う気がする。
しかし隼人としてもいまだ経験したことのない感覚に余裕はないので。
「いや、あぁ、うん」
さすがのヴァイスの気恥ずかしい気持ちがあるのか、このほの暗い空間でもうっすらと顔が紅潮しているのが見て取れる。
まるで壊れたロボットのようにぎくしゃくと何とか返事を返し。
「いけそうか?」
「少し時間がかかる。長いこと使ってないから。結界を破壊するまでには」
そういうことであれば、先に結界を破壊しその間にヴァイスの準備も進めてもらうほうが効率がいい。
早速隼人はヴァイスを伴なって岩陰から出ると、そこには各々『リリン』と対峙する戦友たちの背中。
その背中に向かって。
「準備は整った。――始めよう」
*****
鳴りやまぬ剣戟はその勢いをとどめることを知らず、その勢いはここが最後だといわんばかりにその勢いを増す。
誰もが誰かのために。
誰もがこの先の景色のために、心を震わせる。
その心象を現すかのような激しさの増す戦場で、静謐な声が二つ重なり合う。
『リリス』は感じたことのない真冬のしん、と冷え切った早朝の空気のような雰囲気に、長らく戦場を俯瞰していた紅の双眸をその空間へ向ける。
「――求めよ。そうすれば、与えられるだろう――」
「――人生は短く、苦しみは絶えない――」
青灰色の次元跳躍魔法の詠唱と、マリンブルーの大規模魔法の展開詠唱と同時。練り上げられた魔力が魔法陣を象り、それらは混ざり合い複雑に絡み合いながらも不可侵な多重立体魔方陣を形成する。
耳になれない小難しい詠唱は、しかしなぜか『リリス』の中にす、と入ってくる。
白と紫の燐光が瞬く中、詠唱は続く。
「――捜せ。そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ。そうすれば、あけてもらえるだろう――」
「――花のように咲き出ては、しおれ、影のように移ろい、永らえることはない――」
続く詠唱をトリガーに、立体魔方陣はさらにその密度を増していく。
その二色の後ろ。――陰に隠れるようにして静かにたたずむ雪白を『リリス』の深紅の双眸は確かに見止めて。
――ダメだ。
背筋を走る覚えのない悪寒に、『リリス』は身を震わせる。それを人間は『嫌な予感』と称するが、それを教えてくれるはずの両親は『リリス』にはいない。
――生まれ落ちた時にはすでに独りぼっちだった名もなき少女には。
何がダメなのかはまるでわからない。しかしあの雪白だけは近づかせたらイケナイ。
――自分が終わってしまう。
その身を震わせる理由もわからず、しかし本能の赴くままに、『リリス』は一本になった下半身を振り回す。
-----
――動いた。
そう思った時にはすでに『リリス』の巨体はルークとオリバーの目の前にあった。
ヴァイスもそれを察し動いているが、しかし一歩間に合わない。
その巨体を誰もが二人に直撃する未来を幻視して。――しかしそれは叶わない。
金属と肉塊が衝突する重低音。金属の共振音とともに空を切る鎖の金属音。
「っすまない、」
「別に謝罪とかいらないから!あんたは詠唱に集中する!」
オリバーの謝辞と謝礼を一蹴し、レグルスは正面で迎撃を続ける。
「あんたもだよ。せっかくの見せ場なんだからとらないでよね」
守備はこっちがやるから、そっちはそっちの責務を果たせ。
レグルスのひねくれたフォローの言葉に、ヴァイスは表情を曇らせながら。
「でも、」
「……あんたはオレを助けてくれた」
誰も頼れない、それでも守るものは多すぎて雁字搦めだったどうしようもない自分を。
その誰よりも小さな背中の少年は、振り向きざまに向けられる白銀の双眸には深い感謝が宿る。
「だから。少しは恩返しさせてよ」
「……」
いつもは犬猿の仲の少年からの言葉に。
「……任せる」
多くは語らず、ヴァイスは再びその瞬間に備える。
その光景を遠目に見ながら胸をなでおろす隼人に。
「……隼人も変わったよね」
「どこがだよ」
「昔は他人にこんなに関心なかったじゃない」
7年前。迷宮区を駆った同じ歳の少年は、昔を懐かしむようにここではないどこかを眺める。
同じように隼人も思い返す。
「……そうかもな」
「迷宮区にはもう来ないって隼人は言ってたね」
「よく覚えてんな」
あの時。調査団が壊滅し、自身の兄の右腕も失ったとき。隼人は自分自身を呪うように誓った。
もう二度と、輝かしい世界に夢は見ないと。
もう自分の予測の限界を、見てはいけないと。
……結局。ものの見事にあのバカ兄にしてやられ、わずか7年で戻ってくるとは思いもよらなかったけど。
「――自分に嘘は、もうつけない」
その時自分がどんな表情だったのか、隼人にはわからない。
正面に立つ旧友は黄金の散る琥珀色の双眸を一瞬だけ見開くと、いつも通りに朗らかに微笑んで。
「――じゃあ。俺も怠けてるわけにはいかないね」
そう言って突き出された拳に、合わせるように隼人も自分の拳を突き出して
「頑張って」
「任せろよ」
二人は短い言葉の応酬を終え、各々の戦場に足を向ける。
背後では狙撃銃の重低音とからの薬莢が地面をたたく軽い金属音がとどまることなく鳴り続けるが、しかし隼人は振り返ることはしなかった。
「――悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら――」
「――愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで、真理を喜ぶ――」
詠唱は佳境に入り、それに比例するかのように『リリン』と『リリス』の猛攻も激しさを増す。
魔法陣の輝きがより一層輝き、それは地底に浮かんだ太陽のようにほの暗かった最下層を照らし出す。
『いヤ。やだヤダっ。やめてえええええぇぇぇぇぇえぇぇぇえぇぇぇえぇeeeeeeeeeeeeeeeeeee!』
今まで聞いたことのない『リリス』の絶叫は、まるでこの後自分の身に何が起こるのかを察しているように、そしてそれを否定するように悲痛に響く。
『リリン』による物量攻撃も。
人間の身の丈以上の瓦礫をぶつけるのも。
一本になった下半身を振り回すも。
――その悉くを、【オベリスク】と【ナヴィガトリア】の調査員たちは最後の力をふり絞り薙ぎ払う。
ルークとオリバーの背後に、短距離走のスタートを待つ選手のように、その瞬間を静かに待つ相棒の隣に並び立って。
「頼むぞ、相棒」
「了解。ご主人様」
「――求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか――」
「――そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える――」
二人の祝詞が終わり。
赤銅色とオフゴールドの影が駆け出す。
雪白の少年は普段よりも色の濃くなった瑠璃の双眸を真っ直ぐに。
「「――主よ。我が祈りを聞き届け給え」」
二つの魔法陣はその言葉どおり、二人の祈りを聞き届けるかのように『リリス』を包み込む。
「――恩御霊の扉をここに、『現福音(バージャ コン ディオス)』!」
「――天地を穿ちて咲き誇れ、『三枝』!」
白の魔法陣が煌々と『リリス』の頭上で煌めき、紫の魔法陣が『リリス』の全体を包む。
『あ"あ"あ"あ"あ"aaaaaaaa1111111アアアアアアアアアアアア@@@@@@@@@!!!!!!!』
バキバキと水が氷になる瞬間に響く氷結音が周囲一帯に響き渡る。紫氷は『リリス』の長い尾の端から瞬く間に広がり、一瞬にして『リリス』の腹部までを一瞬で凍りつかせる。
それを詠唱の終わりと同時に駆けだした隼人は、既に半分は凍りついた『リリス』の巨体を駆け上がりながら見下ろす。
『ちょっとお貴族様っ、全然足りないじゃん!普段偉そうにしててこんなもんなの?』
『やかましいっ、少し黙っていろ!』
インカム越しに聞こえる音声は不明瞭で、近く聞こえる戦闘音が、下では熾烈極まる攻撃を受けて言うことを物語らせる。
紫氷は徐々にその面積を広げてはいるが、しかし心臓部を境にその勢いは弱くなる一方だ。
――やはり無理か?
その思考が過った瞬間、インカムからの怒声で現実に引き戻される。
『――タイミングを間違うなよ、クサナギ!』
眼下を見下ろすときらり、と幻想的な光を反射して何かが飛来する。僅かに見えたそれは、オリバーが掲げていた十字架。
それは勢いそのままに、腹部まで這い上がっていた隼人を追い抜き、『リリス』の頭上で煌めき――。
『――命中』
言葉と同時。十字架は儚げな音を立てて砕け散る。次の瞬間に目を突き刺すかのような光を発すると、それは十字架に張り付けられたキリストを縫い止める楔のように、『リリス』の脳天から大地に向けて巨大な紫氷が一直線に穿つ。
『――――――――――――――――ッっっッッッッ!!!!!』
自身の身体を丸々貫く一撃に、流石の『リリス』も言葉にならない絶叫を上げる。紫氷は貫いた境から先程下半身を凍らせた氷と挟み込むようにして侵食し。――ついに『リリス』の全身を覆う。
バキン、と一際大きい音を立て、ようやく静まった『リリス』に対し、アルベルトの一声が鋭く走る。
「――総員、攻撃を集中させろ!」
白に近い雷撃が轟くと同時、その場に居あわせる全調査員の攻撃が『リリス』に殺到する。
数多の剣閃が。
無数の弾丸が。
色とりどりの聖石を輝かせながら発動する魔法が。
その全てが1箇所に。――心臓部分を穿たんと爆発音よりも壮絶な音を轟かせながら集中し。
――ガラスが割れるような涼やかな音とともに、鉄壁を誇る【天羽々斬】の結界が崩壊した。
その時には、既に隼人は空中へ。――心臓に向かって一直線に身を躍らせている。
言うべきことは。伝えるべき指示は全て伝えてある。
ギリギリの綱渡りを、ここまで繋いでくれた戦友に報いるために。
最後のピースは、相棒が繋げてくれると信じて、その名を呼ぶ。
「――ヴァイス!!」
*****
自分を呼ぶ声が聞こえる。
自分の存在を縫い止める声が。
半年間という短い時間だけれど、それでももう何年も聞いているのではないかと思うほどに、耳に慣れたウィスパーボイス。
その声に導かれるように、瞼の裏の漆黒の中でヴァイスは呪いの言葉を紡ぐ。
――ずっと悲しげに泣く声は、迷子の幼子そのものの声で。
――だから、もうここで終わりにしよう。
「事象終息:座標固定。――その魂の色彩に、安らかなる死を」
それは祈りのような詠唱のようなもの。
自分は魔法は使えない。
魔法使いたちが口にする意味は分からない。
だからこれは。――ただの自己満足。
固く閉ざしていた瞼を開き、瑠璃の瞳を見開く。
普段よりも濃いその色彩は真っ直ぐに『リリス』の心臓を射抜き、浮かび上がる暁のような淡い紫の色彩。
それが彼女の魂の色。――カズキの紅とフジノの蒼がちょうど均等に混ざりあった、綺麗な暁。
その色彩が浮かび上がると同時、瞬く緋色の焔と剣閃と白金色の雷光が空間を裂く。
「――雷帝よ、今こそ我らの障害を打ち砕かん!」
「おらああああああああぁぁぁ!!!」
一際強い光を放ちながら荒れ狂う雷撃の中、空中に身を躍らせ、むき出しになった心臓部へハヤトは一直線に自由落下する。迷いなく振り下ろされる黒刀の軌跡はほんの一瞬だけ心臓を守らんとする最後の結界と拮抗し、しかし燃え盛る炎とそれを取り巻く紫電に押されるようにその色彩を穿つ。
何ものも浄化する『聖火』の業火に焼かれ、僅かに顔をのぞかせた宇宙のような空間を視認する前に、ヴァイスは地面を蹴っていた。
一息の間に駆け上がり、天を覆う白の魔法陣が一際強く輝く中。
目の前も何もかも真っ白で、ただただ目の前をめざして駆け抜けるヴァイスは。
「――頼んだぜ、相棒」
――緋色の焔の温かさ。
それを最後に、ヴァイスの意識は純白に塗りつぶされた。
ついにここまでたどり着きました…っ長すぎたラストバトルの伏線は全部回収したはず…!