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アノニマス||カタグラフィ  作者: 和泉宗谷
Page.3(下):救世の祈り
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8-2.我が手に引き金を

「――なぁ。お前そんなところで1人何してるんだ?」


米国ニューヨーク州。その南端の唯一の海岸線との接地点。ロングアイランド島を見通せる海辺に設けられた公園。

言わずと知れた、ギャングと硝煙の匂いがいまだ濃い、摩天楼の夜の国。

蓮の背後から声がかけられたのは、その公園の柵越しに水平線に沈みかける夕陽を眺めていた時だった。

血のように真っ赤に染まりあがった太陽の、昼と夜が曖昧になる時刻。

ただぼう、と眺めていた蓮は、その声への反応に些か遅れてしまう。

「……え?」

「え、じゃなくて。こんな所で1人でなにしてるんだって話。気の抜けた顔で棒立ちしてたら、財布なんかスられ放題だぞ」

振り返った先、陽光に立ち向かうかのように赤に染め上がった影は、自分と何ら変わらない年齢の少年だった。

夕陽の赤に負けないような赤茶の髪に、強気そうな銀の双眸。

その少年はおもむろにふ、と手を振ると、同時に投げてよこされたものを危なげなくキャッチする。

掴んだものを見下ろせば、そこには見なれた2つ折りの財布。

「返してくれるの?律儀だね」

「バッカ。オレは取られたもんを取り返してやったんだぞ?感謝しろよ」

「そうなの?」

ぱちぱちと瞬いて、蓮はこてんと小首をかしげる。確かに彼の言う通りなら、お礼を言うのは当たり前なのだが。

「わざわざ見し知らずの俺の財布を取り戻してくれるなんて。俺、君に何かしたかな?」

「初対面だよ」

「じゃあ何故?」

渡米してから3年ほどの月日が流れたが、この短時間の間でもこの魔都のルールは理解しているつもりだ。――弱肉強食。それがこの都のたった一つのルール。

元々争い事が苦手な上にこんな様相だ。スリや脅しの対象には良くされるし、正直蓮も慣れてしまっていた。

だから今この少年が取り返してくれた財布はブラフ。少量の金銭しか元々入れていない。

だからこそ。この少年の行動は引っかかる。

目の前の少年はう〜んと唸りながらぽりぽりと頬をかいて。

「目の前で現場を見せられちゃ、寝覚めが悪いだろ」

そのつっけんどんでお人好しな言葉に、蓮はかつての友の影を見た。――彼より黒みの強い赤銅色と、深紅の瞳の。

だがそれも一瞬で、気がついたら蓮は口元を抑えてくつくつと笑ってしまう。目の前の少年の気配があからさまに不機嫌になるのを気配で感じながら。

「君っ、変な人だね」

「はぁ?お前の方が変人だろ東洋人がっ」

精一杯の罵声なのか、少年はだんだんと地団駄を踏みながらやっぱりどこかおかしい文句を浴びせてくる。

それも含めて蓮はひとしきり笑うとす、と右手を差し出す。考えてのことではなく、ただ自然に腕が伸びたのだ。

その右手を少年はぱちぱちと見返して。

「財布、ありがとう。俺はレン・ココノエ。君の名前は?」

蓮の謝辞と挨拶を聞いて、少年はようやく合点が言ったかのようにあぁ、と頷いて、伸ばされた右手を掴みとる。

2人の少年のそんな些細な出会いを祝福するかのように、一際穏やかな海風が若苗色と赤茶色の髪を踊らせた。


「アイザック。アイザック・リーだ。お前とは、長い付き合いになりそうだ」


-----


「――命中ヒット

スコープ越しに爆散した生き物だったものと、右手に残る確かな感触を端的に表現して、蓮はただ淡々と宣言する。

しかしその宣言とは裏腹に、右手は2年の間で培った動作を機械のように実行する。不要になった空の薬莢を排出(リジェクト)。よどみのない動作で新たな弾丸を薬室に送り込むころには、遠くはじき出された先の薬莢が地面にようやく衝突し、乾いた音を奏でる。

覗いたスコープの端にかろうじて映るパッと見人間のようで、それでいて端々が歪に歪んだ異形の『リリン』の群れは、一瞬遅れて一斉に行動を停止する。自らの母であり守るべき主君が自らの内からあふれ出た蒼い血液の海に沈んでいることを、ようやく理解して。

一瞬前までの喧騒とは打って変わった、夜の帳のような静寂の中、今まさにこの状況を作り上げた射手は、油断なくスコープ越しのただ一点を見つめる。

手ごたえはあった。人一人、幼い子供の頭蓋を打ち砕く感触。スコープの先ではじけて飛んで上半身すらなくなった無残な残骸。

ピクリとも動かない様子に、普通であれば一つ安心する場面のはずなのに。――収まるどころか次第に膨らみ続ける悪寒はなんだ。

「ヴァイスくん、どう」

「…いや、」

『魂の色彩をとらえる』彼の異能であれば、自分がいま見えている以外の情報を得られるかもしれない。そう思って隣に立った観測手に確認を行うが、当人の歯切れは今まで以上に悪い。

「まだだ」

『――きゃハ、』

ヴァイスのひきつった否定と、場違いな幼い少女の微笑が響いたのは、全くの同時。その愉しげな笑い声は小鳥のさえずりのようなささやかなものから、次第にオペラ座の観客の大歓声のように甲高いものに変化していく。

『痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいイタイイタイイタイiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii!!!』

きゃはきゃはと笑いながら、痛みを主張する。その相反する彼女の反応が、彼女のいびつさをより際立たせる。

何よりも不気味なのが。

「……どこから聞こえてるんだ」

蓮は一瞬たりともスコープから目を離していない。そしてその小窓の先では依然として、『リリス』は上半身が欠如した状態で、蒼い海に沈んだまま微動だにしていない。

それなのに。――声だけが一帯に響き渡っていた。

ひとしきり笑い声は笑って満足したのか、不意にその声が前触れもなく止まる。

そして。


『まタ遊びにキテクレタんだね♬』


その一言が合図。直後に感じたのは、今自分たちが踏みしめている大地の激震、その振動はまるで地中を巨大な蛇が這いずるかのように、徐々に勢いを増していき――。

ついには、肉眼で確認できるほどの瓦礫を伴って、地面が逆流する。


『ツギはドンナことして遊んでクレルノ?』


土石流に紛れて『ソレ』が姿を現したのは、ほぼ同時だった。


吹き飛んだはずの少女の上半身は傷一つなく修復され、下半身は爬虫類の鱗に覆われ一本にねじれている。その下半身だけでも樹齢1000年は下らない樹木の太さを有していたが、何よりも蓮とヴァイスが驚愕したのは。

「――なんだ、あれは」

上半身は人間。下半身は大蛇。――その異形の全長は人間のそれとは比べ物にならないほど巨大なものだった。

かわいらしい顔は迷宮区の三フロア分の吹き抜けのこの広間においてもなお大きく、頭は天井すれすれだ。下半身に至っては全部が出きっていないのか、窮屈そうに身体に巻き付いている。

その高みから睥睨する顔を見て。

「……姉さん、」

濡れ羽色の髪に、紅の瞳。瞳の色こそ違えど、その巨大な少女の顔には藤野の面影があるようにも見える。

――あの薄桃色の少年が言った通り。彼女は本当に藤野と一樹の間に願われた生命だったのだ。

それを蓮はついに目の当たりにした。自分が求め続けた2年前の真実を。

それがこんな悲劇でなければと。すべてを聞いた後にも意地汚く思っていたけれど。

不意に、その高みからの視線がまっすぐにこちらを向く。明確な意思を持って。

「来るぞ。――レンはアルベルトに報告を」

「っ了解」

ヴァイスがそう言いながら二丁の自動拳銃を引き抜くのと、『リリス』の視線に導かれように『リリン』がこちらに殺到したのは全くの同時。

あるものは鎌のような腕を振り上げ。

あるものは大樹のように太い尾を振り回し。

またあるものは顔の半分はあろうかという大口を開けながら、蓮たちを。――人間を捕食しようと押し寄せてくる。

もはやそれらが一個の生命体と錯覚しそうなほどの数の『リリン』を、しかし死神は異能を駆使して一撃で屠り続ける。

絶え間ない射撃音の中蓮はインカムを起動させ、向こう側の相手へ声を張り上げる。

「こちら【ロンギヌス】。適正個体『リリス』の留飲に成功。……撃破には至りませんでした」

『【オベリスク】了解。もともと撃破不可は想定内だ。――ソフィア』

『すでに迎撃を開始していますわ。新たな『リリン』の排出を確認。そちらへも向っております』

『了解。現地到着まで180秒。――いけるな』

『もちろん。お気をつけて、わが君』

インカム越しでは目まぐるしく変化する戦況の中、二人の大隊長の冷徹な指示が飛ぶ。その間にも目の前に築かれる残骸の山は高く積み上がり、しかしその勢いは止まらない。

『【ロンギヌス】も予定通り迎撃を開始しろ』

「……了解」

『狙撃手としては不本意かもだろうけど、切り替えろよ』

【オベリスク】――攻略本隊大隊長であるアルベルトとの回線に割って入ってきたのは隼人だ。彼はこの作戦の中核を担う人物として、特例で全大隊長及び【ケリュケイオン】所属の4人との回線権を有している。

こんな状況でもこちらを気遣うような声音の隼人に、だからこそ蓮は一人歯噛みする。

自分の狙撃はあくまで作戦の第一段階。失敗する前提の狙撃だ。

でも、自分の狙撃が成功していたなら。――すべてはそれで終わっていたのに。

それを悟っての隼人の言葉で、だからこそ蓮は口惜しい。

『それに戦果もゼロだったわけじゃない。頭を破壊しても意味はないということが分かったし』

「それ、何のフォローにもなってないじゃん」

『フォローじゃなく事実だろ』

そんな軽口をたたいている間にも、インカムの向こう側の騒音は激しさを増していく。どうやら先遣隊【ナヴィガトリア】大隊長であるソフィアの注意喚起通り、あふれ出た『リリン』の群れが押し寄せてきているのだろう。

金属が激突する音。薬莢が地面をたたく音。――誰ともわからない悲鳴。

バックにそれらの演奏を流しながら。

『――頼むぞ』

端的でいて、簡潔な言葉。必要最低限の言葉の裏に込められた言外の言葉をくみ取って。

「頼まれた」

攻略第一段階【ロンギヌスの槍】の終了とともに発動される第二段階【トリノの聖骸布】。その展開までの180秒。――先遣隊に本隊が合流するまでの3分間を死守することが、【ロンギヌスの槍】の後にめいじられた先遣隊の役割だ。

隼人と同じく蓮も同様に短く返すと、手早くインカムを操作して、別回線を開く。蓮が愛銃を構えなおすころには、目の前に迫っていた『リリン』の群れは一掃されている。

「遅くなりました。これより援護射撃を開始します」

『間違って味方を撃たないでくださいましね』

「問題ありません。――ヴァイスくんの目がありますから」

ソフィアの皮肉を受け流し、蓮は今度こそインカムを切る。離していたスコープを再びのぞき込むと、その先では【ナヴィガトリア】の隊員と『リリン』たちが激突している。

「ヴァイスくん、お願いします」

「一時の方向。俯角30°」

淡々と告げられた言葉通りに銃口を向け、蓮はスコープに映った物体に向けてためらいなく引き金を絞る。不可視の弾丸は敵味方入り乱れる戦場を滑空し、過たず戦場に一つの残骸を作り上げる。

それをスコープ越しに確認して。

命中(ヒット)

「次。11時の方向」

ヴァイスはまた迫りくる『リリン』の群れを相手取りながら、的確な観測結果を蓮に告げる。

魂の色を見ることができるヴァイスと、蓮の精密な射撃によって繰り出される援護射撃はただの一発も味方に当たることなく『リリン』を排除していく。

二人でしかなしえない、混戦時の遠距離射撃だ。

その二人の援護に後押しされるように、【ナヴィガトリア】の隊員たちも次々に『リリン』を屠っていく。

このままいけば、3分後到着する本隊とも合流できる。――誰となしに抱き始めた、そんな淡い期待は。

『――決めたワ』

「――ぎゃあああああああああああああああっっ!!!!」

突如響き渡る『リリン』のものではない悲鳴。

その悲鳴が上がった先にスコープを移すと、そこでは地面や壁から生えた無数の腕が一人の調査員をわしづかみにしている。

『こんなニお相手がイルンだもん。次はみんなでォ人形遊びをしましょう♪』

言いながら、つかんだ調査員ごと手のひらは握り占める。圧縮される激痛からもたらされる耳を覆いたくなるほどの悲鳴はぼきん、という耳障りな音とともに唐突に途切れる。

握り占められた拳の指の隙間からは赤黒い粘着質な液体とともに、内臓や骨といった『人間を構成していたもの』がこぼれて水たまりを作る。

『あㇾ?動かなくなっちゃった』

しん、と静まりかえる空間に、場違いなささやきだけがむなしく響く。

『ほら、ミンナも遊びまシょう?』

『リリス』のその言葉がきっかけ。まるで女王の命令かのように、『リリン』たちはその言葉を聞いた瞬間にいっせいに趣向を変えた。

つまり。――人間で人形遊びに興じるという、人間の尊厳を踏みにじる遊戯。

それまではただ人間を殺すように蹂躙していた『リリン』たちは、奇妙に歪んだ腕や足を伸ばして人間を捕まえようと躍起になる。

髪の毛1本でも掴まれたら最後。

「いやぁああああああああぁぁぁだめっ無理無理無理痛い痛い痛い痛いaaAAaaAAa――っ!!」

「俺の腕っ!?俺の腕があああああああああ!?」

「あれ、おかしい腹から足が生えてるぞ…アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ――っ」

先程までの優勢から一転。真逆の阿鼻叫喚に包まれる地獄を、狙撃点として身を潜めていた高みから見下ろして。

「――っ」

先日の自分の発言を蓮は思い出す。『戦場は地獄だ』と。

それは違った。認識の誤りだ。

戦場には相反する正義があった。一方的な殺戮や暴力はあったものの、そこには意思があり、最低限の尊厳が守られていた。

ただ引っ張れそうだったら、引っ張った結果引き抜かれる腕や足や首。

ただ突き刺せそうだったから、無造作に人体を突き立てられる腹や頭。

こんな、正義も何も無い。一方的に愉しみながら人間をゴミクズのように殺していく。――ただの虐殺。

今この場所以外に。――地獄と呼べる場所があるだろうか。

しかし事態をより深刻化させた要因は別にあった。

「お、おいマリー!お前は味方だろ!?…く、来るな……来るなぁあぁああああ!?」

「嫌……どうして……私はあなたを殺せない……殺したくない……っ!?」

なんの尊厳もなく『リリン』に殺されたついさっきまで人間だったものが、次の瞬間には『リリン』となって歪んで蘇る。

近しい知人が、仲間が。手のひらを返してうち果たさなければならない敵になる。

いくら見た目が人間に酷似していようとも相手は『化けリリン』。――そう割り切っていたからこそ調査員たちは武器をとることが出来た。

――そんな脆い決意を嘲笑うかのような、『リリン』たちの所業。

「――くっ、」

「レンっ、なにを――」

反射的に銃口を『リリス』に向ける蓮に、ヴァイスの疑問が鋭くかかる。その問に答える暇すら惜しく、蓮は答える間もなく引き金を絞る。

照準は天高くそびえる摩天楼のように巨大な『リリス』の心臓一点。

消音器から吐き出された魔弾は視界に映ることなく、しかし確実に心臓を捉える。――が。

ガアンッ!という甲高い衝突音と、何かに阻まれるように空中に広がる波紋。

弾丸はその壁を打ち砕かんと暫く火花を散らすも、その尽力も虚しく完全に相殺され、やがて虚しく響く地面を叩く軽い音。

眼下で繰り広げられる惨劇も、元凶が排除されれば終わると思っての本能的な射撃だったのだが。

『お兄チャンは本とゥにやんちゃネ。でも駄目よ、今は人形遊びをしているのだから』

決死の一射をはじかれフリーズする蓮に、紅の双眸はその愚か者を見下ろして。

『――イケないコにはお仕置きシナクちゃ』

「――え、」

蓮が反応するころには、目の前には巨木のような『リリス』の下半身が迫っていた。

まるで鞭のようにしなりのきいたそれは勢いよく振り上げられ、空を切る音だけを残して疾走する。

そう頭の隅で場違いに分析をしていた蓮の右から衝撃が走ったのはその時だった。強い衝撃を感じた瞬間には蓮は地面を転がり、結果として『リリス』の下半身の動線から外れる。

『リリス』の一撃はそこそこの大きさのあった二つの大岩もろともに地面を粉砕し、蓮とヴァイスは瓦礫とともに眼下へ落下。

高さ10mはあろうかという高さからの備えのない自由落下は全身に激痛を走らせるが、幸いにも大きな怪我はないようだ。痛む身体のひきづって、蓮は声を上げる。

「…っヴァイス君、大丈夫?」

あのヴァイスがたかがかこの程度でやられるとは想像しずらいが、あれだけの崩落で無傷だとも思えない。それを裏付けるかのように、腹部に感じる不快な激痛。

「……っ」

答えはすぐに返ってきたが、その声はひどく弱々しい。戦場の騒音に掻き消えそうなほどのか細い声をたどっていくと、ひときわ大きな瓦礫の上にヴァイスは転がっていた。

瓦礫に挟まれなくてよかったとこの場合喜ぶべきだろうが、しかし依然として残留する腹部の痛みとヴァイスのゆがんだ表情がそれを許容できない。

蓮はそのままヴァイスに駆け寄り、素早く視線を走らせる。擦り傷や打撲などはあるもののさほど大きな外傷はない。となれば――。

「ぐ、」

「動かないで。多分内臓がやられてる」

それを裏付けるかのように、言葉を発しながら不自然に口からあふれ出る蒼い血潮を見て、蓮は手早く治癒術式を展開し、ヴァイスの腹部内部の損傷を修復する。

徐々に和らいでいく腹部の鈍痛にほ、としながら。

「ヴァイス君がまだ捨てないでくれててよかった。すぐに治せるだろうけど、少し動かないで」

「……別にこの程度問題には、」

蓮の忠告を無視して起き上がろうとするヴァイスを、蓮は肩を押し込んで制して。

「少しの間。安静に。動くな」

「……はい」

その時の顔は蓮自身にはわからなかったが、普段のヴァイスからは想像もつかないような引きつった表情を見るあたり、結構お見せできないものだったのだろう。

ちなみに。普段温厚な彼だがケガをした上にその身体で無茶をしようものならかなり容赦はなく、その威圧感は狙撃手としての彼を超え、その威圧感を『怒らせたら一番やばいやつ』と評価されアイザックたちの間でささやかれていたことを本人は知らない。

言葉の裏に込められた殺気ともいえる威圧感を本能的に感じ取ったヴァイスは、蓮の言葉を素直に受け入れることにしたらしい。蓮は一つ大きくため息をついて。

「君はこの作戦の要なんだから、ここで脱落されても困るでしょ」

「このくらいの損傷、すぐに治る」

ヴァイスの言葉通り、腹部の痛みはすでになく、チクリと刺す程度にまで落ち着いている。いくら治癒魔法をかけているとはいえ、やはり人間のソレよりも治りは早いように感じる。

でも。

「痛みっていうのは知らない間に積み重なっていくものだよ。君のように痛みに鈍感な子ほど」

『痛い』と感じる暇さえなく、傷が修復されていく。

今は『痛い』と感じても、我慢できない痛みではない。

『痛覚』というのは人体が発する貴重な危険信号だ。それを押さえつけてしまっては、蓄積された無意識の痛みでやがて本体すらも崩壊する。

それは、治療師として蓮が一番危惧するところだ。そしてそうなる前に治療するのが治療師としての矜持。

本当であれば十分に休息をとらせたいところだが、あいにくとここは依然として戦場の真っただ中だ。こうしている間にもあちこちで悲鳴が上がり、戦線の状態は最悪だ。

――自分に今できることは。

「大隊長」

『なにかしら』

「殺されそうな人たちは俺が引き受けます。大隊長たちは可能な限り『リリン』の排除をお願いします」

『それは――っ、』

「今ここで新たな『リリン』の増加は避けるべき事案です。これができるのは、俺しかいません」

ソフィアの懸念の声に、ねじ伏せるようにして蓮は意見を具申する。

『リリン』に殺され、『リリン』に成り代わってしまう前に排除する。――究極的に言ってしまえば、人殺し。

だからこそ歴戦の調査員たちは逃げまどい、大隊長であるソフィアさえも渋り、そしてそれらを踏まえて蓮は言い募る。

今この場でできる、自分にしかできないこと。

『……承知いたしました。宜しくお願い致します』

「ありがとうございます」

『――ごめんなさい』

あなたのような子供に、こんなひどい仕打ちをさせてしまって。

ぽそりとインカムからこぼれた言葉は聞かなかったふりをして、蓮は一人苦笑する。

「それと、ヴァイス君が負傷しました。一度どこか安全そうな場所に、」

直後感じたうすら寒さに、蓮は反射的に腰に差していた拳銃を引き抜いて振り向きざまに照準を定める。

視線の先では一体の『リリン』が、切り立つ剣山のような瓦礫の山を乗り越えようとしていた。

膨張し関節が不自然に折れ曲がった腕で瓦礫を砕きながら進むその『リリン』は、左半分だけ不自然に膨張した頭があいまって、他の『リリン』よりも生理的嫌悪感を掻き立てる。

相手はまだ一体だ。瓦礫が邪魔で攻めあぐねている前に――。

「ヴァイスくん、」

「――あれは僕がやる」

『リリン』の結晶核は個体によって位置がばらけてしまっている。そのため魂の色彩の――目の前の『リリン』の結晶核を砕こうと尋ねた蓮に、容量を得ないヴァイスの返答。

予想外のヴァイスの返答に蓮は訝しげに振り向くと、そこにはいつにもまして神妙な顔つきの少年が映る。――どこかこちらを気にかけるような。案じるような、そんな表情。

それだけで、蓮は悟る。悟ってしまう。

蔓延る『リリン』は生前の面影はどこにもないほどに歪で歪み切っている。パッと見人間だからこそその歪みは嫌悪感を増し、自分たちと同じものだとは思いたくない程に。

だから。――目の前の『リリン』を見ても、蓮は誰だったのか気づけない。

けれど自分には見えない形。――魂の色彩を捉える彼の黄金には、きっとそれが誰だったのが、全て視えているのだろう。

「――ヴァイス」

普段は鉄面皮で表情が読みにくくて仕方が無いのに、どうしてこういう時だけ下手くそになるのか。

初めて呼び捨てで名前を呼ばれたヴァイスは、ぎくりと動きを止める。その行動が蓮の答えの証明だとは気づけずに。

「そんな気遣いは要らない。俺から――引き金を奪わないでくれ」

驚きと悲痛がない混ぜになった瑠璃の双眸が歪む。それ以上は蓮にとっての侮辱になると無意識のうちに察して、ヴァイスは口を閉ざす。

蓮はヴァイスに努めて普段通りの笑顔を向けて、そして正面に振り返る。

――照準は真っ直ぐに『リリン』を狙い、人差し指は引き金に。

「ヴァイス」

「……そのまま真っ直ぐ。引き金を引いて」

ヴァイスの言葉通りに、蓮は引き金を引き絞る。

直後、銃口から吐き出された狙撃銃よりかは幾分か遅い銃弾は、今まさに瓦礫を乗り越えた『リリン』の歪んだ頭蓋の中心を射抜く。

マズルフラッシュと蒼い血潮が、まるで祭りの最中に舞う紙吹雪のように彩る刹那の世界で思い出す。

彼とニューヨークを歩いた日々。

辛くて苦しかった訓練の日々も、励ましてくれた。

そして。――紅蓮に染まる世界の中で、初めて会った時のことを。

たった4年の付き合いだったけれど。

「――ようやく君から1本取れたよ。アイザック」


正直に言うと。――拳銃の扱いも身のこなしも。最後まで1本も君から取れなかったこと、本当は悔しかったんだ。


結晶核を砕かれたアイザック・リーだったかもしれない『リリン』は一度大きく身じろぐと、やがては力なく地面に倒れて動かなくなった。

蓮は暫く油断なく照準を定めていたが、動かないところを確認して、まだ熱を持つ拳銃は右手に持ったまま。

「……そんな顔しなくても、大丈夫だよ」

「……でも、」

「むしろ清々したよ。最後の別れ際までやりたい放題だったから、これでおあいこ」

その時ヴァイスは気を失っていたから知らないだろうけど、と。蓮は微笑して。

「とにかく移動しよう。欲を言えば狙撃に有利な場所がいいけど――」

『リリン』の一体は倒したものの油断はできない。幸いにも積み重なった瓦礫が壁として機能しているが、先ほどの『リリン』のように乗り越えられないわけではない。

そう考えて蓮が正面を振り返るのと、音も無く背後に忍び寄っていた『リリン』が歪んだ腕を勢いよく振り上げたのは、まったくの同時。

草を刈り取るために最適な形に変形したそれはかすかに見えただけでも鋭利に研がれ、人間の細首なんぞ一振で両断するだろう。

なんて。人事のように、声も出すことも忘れて呆然と己の結末を減資して。


――突如として飛来した雷撃が、蓮の目の前に立ちはだかった『リリン』を打ち抜いた。


まるで神の鉄槌のように天から打ち落とされたそれは『リリン』の中心を正確に射抜く。つんざぐような悲鳴は轟く雷鳴と雷光の輝きにかき消され、それらが晴れた時には『リリン』は原型をとどめないほどに炭化し、やがて風にさらわれて迷宮区の地面に還る。

突然の閃光と轟音にくらむ頭をどうにか振って、蓮は何が起きたのかと状況を把握しようとして。


「――良く持ちこたえてくれた、英雄諸君」


降りかかる声は静謐でいて、あふれんばかりの怒気をはらんでいるのが聞くだけでわかる。

声のした方角。――第660階層唯一の吹き抜けの先を蓮を含め生き残った【ナヴィガトリア】の面々はとっさに見上げる。

数多の家臣を睥睨するように。細い蛇のように紫電をまとった宝剣を掲げ。


「随分好き勝手やってくれた。この代償は高くつくぞ。――有象無象共」


出立した時よりも幾分か小さくなってしまった攻略本隊【オベリスク】の到着を、金髪の麗人は怒りに震えた低い声で宣言した。

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