8-1.ロンギヌスの槍
『タキオン』総本部の要請で一夜にして集まったのは、『タキオン』正式隊員、有志隊員、そして聖グリエルモ学院生徒の約1万を越えた。およそ師団規模となった最深部攻略部隊は『タキオン』上層部によって振り分けられ、半数は地上の防衛戦に残し、残り半数は夜明けと共に迷宮区『サンクチュアリ』第660階層へ出立。
ルークの次元跳躍魔法によって道中の心配はなかったが。――現状は、予想を遥かに超えた惨状が待ち構えていた。
『こちら【プレアデス】っ悪い打ち漏らした!思った以上の敵さんの数だ…っ』
『【マグメル】了解。学生との混成部隊の範囲を拡げよう』
『【ミネルヴァ】より【メティス】へっ、戦線離脱者多数っ!これでは……っ』
「【アイギス】から人員を回しています、合流まで3秒」
『タキオン』総本部総司令本部。大会議室ふたつをぶち抜いた広すぎるその中心に、見下ろせる高さに構えられた円卓から参謀長ミア・イングラムは指示を飛ばす。
目の前に浮かぶ無数のホロウィンドウのひとつには、まさに彼女の言葉通りのタイミングで増援が合流、戦線を押し返している様子が見て取れた。
ほ、とひとりひっそりと息を吐きだし、しかし頭を軽く振ってその安堵を早々に追いやる。
――油断したら簡単に死ぬ、ここはそういう戦場だ。
参謀長という立場になってからまだ日が浅い彼女には、重すぎる重圧。しかし自分が泣き言を言う訳には行かない。
ふ、と視線を横にずらすと、亡霊のように浮かび上がる黄金の円環が、その下の少年の頭上を浮かび上がらせている。
その下の薄桃色の前髪の下で煌々と輝く、白銀と黄金の瞳。
少年は何も無い虚空を違う色の瞳で見上げながら。
「ミアさん。貧民街東側に『リリン』が集中しています。北側担当の【ゴリアテ】から10名増援に向かわせてください」
輝く双眸は変わらず一点を見つめたまま動かない。まるでそこにある何かを凝視するように、しかしその言葉は普段の彼らしからぬ自信に満ちた強い口調だ。
そう、自分はただ自分の戦略と、彼の言葉を信じるだけ。今までただの1度も外したことの無い、絶対の言葉。
それはかつて『タキオン』に居た『預言者』のように的確で、しかし全くの錯覚だ。
この少年は今戦場に立つ師団の、その中核を担う大隊長全ての視覚と同調し、リアルタイムで戦況を把握、分析をすることで『予言』にも等しい指示を飛ばしているのだ。
言ってしまえば簡単だが、混乱し一瞬で移り変わる戦場を冷静に分析に、冷徹に戦場を支配する。それは人間にできる芸当を超えている。
それ故に彼はこう呼ばれている。
違う色の瞳を持つ北欧神話の主神。――『戦神』と。
*****
「地上はどうなっている」
『所々で混乱が見られますが、概ね予測通りです。問題ありません』
「防衛ラインが瓦解してしまえば、私たちの戦果が無駄になる。頼むぞ」
『了解』
遠距離通信用の聖石をはめ込んだインカム越しに地上の確認をアルベルトは手早くすませる。
このご時世では無線インカムも普及しているが、迷宮区では何の役にも立たないため、多くの電子機器や武器の動力は聖石に置換され使用される。
インカムの相手を切り替えるその動作でふわりとまう、オフゴールドの髪。
「グレース。前線の様子は――」
切り替えた先は本隊から先行している先遣隊の大隊長だろう。忙しなくインカムとホロウィンドウ越しにモニタリングするアルベルトをよそに。
「……お前らまで来なくても良かったんじゃないのか?」
苦々しく呟きながら、隼人は背後に振り返る。その視線の先にはここ数日で嫌という程に網膜に焼き付いた、マリンブルーと薄桃色の影。
草薙試験調査団改め『ケリュケイオン』所属のその2人は、諦観と憤慨それぞれに染まった瞳で隼人を見返すと。
「あ、その言い方は傷つきました〜。オレはハヤト先輩の義弟なんですよっ?」
「私は君の為に残った訳では無い」
「じゃあ何よ」
ぷりぷりと怒る義弟を軽く頭を叩きながらいなしつつ、隼人の深紅の双眸は怪訝げに眇られる。その気配を紫眼を細めて、ついでに言うと声も僅かに潜ませて、オリバーは言う。
「あのアンダーソン家の要請を無視する訳にも行かないだろ」
いつもよりも気持ち近距離まで近づけられた美貌の端に、その様子を遠くから見ていた『タキオン』副団長はシトリンの瞳を細めながら眺めている。心做しか妙な圧を伴って。
アンダーソン家は貴族としての歴史と系統外魔法の異例さ故に、国境を越えて畏怖されている。その猛威は政治や企業、その他多岐にも渡る事をいち一般市民である隼人でさえも知るところだ。
同じ貴族という肩書きからなのか、その驚異や隼人には想像もつかない権力からか、オリバーの言葉や顔にはいつものような余裕は消え失せていて、むしろ恐怖に脂汗まで浮かべる始末。
何となくオリバーの気持ちが分かってしまう隼人は内心で思う。ご愁傷さま、と。
「別に逃げてもいいと思うけどぉ?あんたひとり居たところでただの足でまといだし。呼ばれた訳でもないんだし」
「それは君がいたところでも変わらないんじゃないかな」
「貴族って肩書きに浮かれてるあんたよりは動けるよ」
「良く吠えた。ならばここで試してみるか?」
「いや今そういうの本当いいから。レグルスもオリバーに余裕が無いからって挑発するな」
これではまるでお守りだ、と嘆息しながら二人の間に割って入る。いつもは何処と吹く風のごとく流すレグルスの軽口に乗ってしまっているあたり、結構余裕が無いようだ。
……それもそうだろう。
死ぬかも分からないこの状況で余裕がある人間など、現代においてそうはいない。
ましてや、戦争を知らない今の年代には。
「レグルスの言う通りだ。要請があったからと言って何もここまで付き合う理由はあんたには無い。俺があんたに頼んだのは『ランク戦を手伝って欲しい』ことだけだ。だから、」
自分は作戦立案者。さらに『タキオン』総団長自ら直接助力を請われた『軍神』。どれだけ戦闘力がなくても、自分はこの場所に居なければならない。
だけど、それに付き合う理由は彼らには。
そう言おうとして、しかしその続きが放たれることは無かった。
「つれないことを言うなよ」
紫眼を僅かに見開いて、マリンブルーの貴族は被せるように、遮るように切り込んで。
「私は一度だけ君の要請を受けると言った。ランク戦が中断された今。――『ケリュケイオン』の勝利は、まだ決定していない」
元々隼人のランク戦参加の目的は、自身の留年の取り消し。ランク戦上位に入賞しなければ、隼人の留年は確定してしまう。
よって。
「この勝利を確定させるされるまでは、付き合わなければ」
その表情に、隼人がかつてみた 彼の最初の表情を見た。
貴族と平民。
在学生と転入生。
そういうお互いの肩書きを無視して、最初に言葉をかけてくれたただ一途に此方を心配する、同じ歳の少年の。
――あの時の自分は、まだ他人を信じられなかった。その手を取れなかった。
取ってしまえば、また失ってしまうと恐怖してしまって。
あれから関係は歪んでしまって、一度は堕ちる所まで堕ちてしまったけれど。だからこそ、今があるのだと思うから。
「――じゃあ、よろしく頼む」
「言われなくても。ただまぁ自分の命が危なかったら逃げて帰るからな、私は」
そう言って、春先の一件でも逃げなかったくせに。
「……なんだその表情は」
顔に出てしまっていたのか、突き刺すような殺気とともに飛んできた視線を明後日の方向を向くことで回避していると、いつの間にか背後から腰に腕を回して睨み返す影がひとつ。
「〜〜ハヤト先輩はオレの義兄なんだから、そんなにベタつかないで貰えます?」
「いらんわそんなもの。勝手に持っていけ」
「何その扱い!もっと敬え!!」
「どうすれば納得してもらえるんだ……」
グルルルと獣のように威嚇するレグルスを、普段通りにひらひらと片手を振りながら流すオリバーの様子を見て、隼人は嘆息しながら安堵する。丁度よく力が抜けてくれたようで何よりだ。
「――了解。ポイントに着き次第、また連絡してくれ」
ちょうど良いタイミングで通信を終えたアルベルトが、そのオフゴールドの髪を靡かせながら振り返る。
自身が従える『タキオン』所属隊員、有志隊員、そして隼人たち『ケリュケイオン』の学生3人の、混成本隊を、翡翠の瞳に写しながら高らかに。
「先遣隊からの連絡があり次第、作戦の第一段階。――"ロンギヌスの槍"を開始する」
*****
生命維持に必要な最低限の呼吸を繰り返し、ただひたすらに静かに待つ。それだけの事が、人間にとっては多大な苦痛となる。
しかし狙撃手はそれを、いつ死ぬとも分からない戦場で、ただひたすらにスコープ越しに戦況を俯瞰する。
添えられた人差し指に時たま触れる、鉄の冷徹。その冷たささえも、感覚を研ぎ澄まされた今は遠い。
「ごめんね」
「何」
感覚だけを置き去りに、蓮は同じように隣に寄り添う雪白の人形に語りかける。
「本当は隼人についていたかったでしょ」
「作戦中に私情は挟まない」
「とか言って。空気でバレちゃってるよ」
見透かしたような発言に、ヴァイスはむ、と口をとがらせる。と言っても目はスコープを覗いたまま微動だにしていないので、あくまで気配だけだ。
スコープの先、自らの眼下には途切れることなく『リリン』の群れがなだれ込む。まだ距離が遠く、さらに大きな岩の影に隠れる形で息を潜める彼らに気づくものは、今のところはいない。
ポイントに到着してからの時間、蓮とヴァイスは油断なく気配を気取られないように、獲物を待つ肉食獣のように息を潜め、その時を待っている。
かつては鍾乳洞のようだった、今は赤黒く脈動する大きなふたつの今の影。その場所にはたった2人の影しか居ない。
獲物を狙う狙撃手と、そのサポートの観測手。
普段はほの暗く道を照らす最低限のあかりすらまともに機能しない暗闇の中、『魂の色彩を捉える』ヴァイスの異能は真価を発揮する。
そういう訳で、今はヴァイスは主人の元を離れ、こうしてかつての隼人の旧友の蓮と2人きりのわけだけど。
「君こそ、軽口叩いてないで集中したら?」
「あんまりこん詰めても力みすぎて、いざと言う時に固まってしまう。ケイン隊長からそう教わってね」
「ケイン……」
探るように首を軽く傾げ、やがて合点が言ったのかヴァイスは僅かに目を細める。自分と同じ黄金を称える、瑠璃の双眸。
「そのケイン・シュルツは、君の狙撃の師だったの?」
ヴァイスはほとんど彼と接点がなかっただろうが、おおよそ作戦時に配られた資料の中で見たのだろう。だからこそ彼のたずね方はどこか遠く、堅苦しい。
その事にほんの少しだけ寂しさを感じながら。
「そうだよ。あの人は近距離戦専門だけど、狙撃もできる超人みたいな人で。出会った頃から真面目で堅苦しくて冗談とかも言えない人だったけど、それでもまだ慈しさは残ってた」
それが無くなったのは2年前。――最愛の恋人にして、自分の友人の姉が死んでから。
「7年前に隼人の言葉通りに俺は銃を学びに米国に渡った。そして俺の姉のツテを伝って紹介されたのがケイン。初回でいきなり拳銃渡されて、撃ったら撃ったでボロクソに言われて。その時に勧められたのが狙撃だった」
『お前には銃の圧倒的なセンスはない』――そう、初対面でろくに挨拶もせずに的当てを強いられた後に突き放すように告げられて。
それは、蓮自身でも自覚はあったが、それでも真正面からなんの飾り気もなしに言われれば、多少なりとも落胆する。
――自分は、誰かの影に隠れるしか能がないのか。
そう肩を落とした蓮に、しかし相変わらず変わらない冷徹に沈んだ声音で彼はこう続けた。
『だが。――お前には一点を見据える集中力と、忍耐力がある。それはお前の長所だ』
最初は何を言われたのか、分からなかった。
否定され続ける日々。
誰にも必要と、見られない生活。
『居ないもの』だと、認識されていなかった人生。
そんな中で彼のその言葉は、蓮にとってはどれほど焦がれた言葉だったか。きっとケイン自身にだって分からない。
だからその瞬間、蓮はこう決めたのだ。――この人のことを、自分を見てくれた人を、自分は、裏切らないように、と。
「嫌なことはなかったの?争いが嫌いなら、人を撃つのだって」
「ふ。ヴァイスくんって、意外に踏み込んでくるよね」
「……、」
しまった、と言うようにヴァイスは居心地悪そうに沈黙する。ヴァイスにとってはただの疑問でも、相手にとっては嫌な話題だったのだろうことに気づいて。
その気配を感じて優しい人だな、と蓮は思う。
この作戦に、【ノアズアーク】の構成員になった時から、ヴァイスの資料には目を通していた。『タキオン』を陥落させる上で、最も障害となりうる存在だったからだ。
だから。――彼が隠している自身の正体のことも、蓮は本当は知っている。
だけど、それを知らないふりをして。
「嫌なことは無い、っていえば嘘になるかな」
『リリス』攻略作戦において、提言された作戦段階は3つ。
第一段階"ロンギヌスの槍"。
第二段階"トリノの聖骸布"。
最終段階"ロンバルディアの鉄王冠"。
アルベルトや隼人からすれば、大本命は最終段階である、ヴァイスによる『リリス』の内部異界潜入からの内側からの撃破だ。それ以外に『リリス』の、『天羽々斬』の結界を突破することは不可能だと踏んでいるからだ。
第二段階と第一段階は、その前のステップ。第三段階に繋げるための、言わばブラフ。
それでも、蓮はこの"ロンギヌスの槍"の作戦参加を強く嘆願した。
第一段階"ロンギヌスの槍"。――それは、『リリス』を可能な限り遠距離から攻撃、注意をこちらに引くというもの。
誰もこの一撃で仕留めることを望んではいない。いかな歴戦の調査員だとしても、普段相手にしているのは未確認生物、迷宮生物だ。――見た目が人間に近しいものかもしれないとなれば、さすがに躊躇う声が続出した。
だから、ただ遠方から『リリス』に攻撃を当てるだけで充分だと作戦としては前提だった。しかし。――生半可な攻撃で注意を引けるのは思えないというのも事実。
だからこそ、蓮は我が先にと手を挙げたのだ。
人間の。――人型の的に弾を当てることにおいて、今この場で自分以外に、適任者はいないだろうから。
「俺は元々争い事が苦手なんだ。異能力もあって、人の痛みが全部分かっちゃうのもあるけど。なにより人の泣き顔が嫌いだったんだ」
痛みに耐えきれずに、流す涙。
悔しさに歯噛みする涙。
誰か、なにか大切なものを永遠に失ってしまった涙。
嬉し泣きや笑顔で流す涙ももちろんあるけど、この世の中は圧倒的に負の感情からの涙で溢れていた。
だけど。
「それを言い訳にして、いざって時に目の前で悲劇にあっている人を助けられないのは、もっと嫌だって思ったんだ」
7年前。当時治療魔法師として藤野について行ったあの日。心も体も傷だらけで帰ってきた同じ年齢の少年を前に、蓮はなにをすることも出来なかった。
声をかけることも。
治療することも。
寄り添ってあげることも。
ただ佇むだけしか出来なかった自分に、蓮は一番絶望したから。だから銃を習おうと蓮は1人渡米した。
「初めて人を撃った日は、眠れなかった。撃った感触も振動も右手を通して全身が震えて、何日間も食べたりできなかったな」
当時を思い出しながら、蓮はふふ、と笑う。その他人事のような笑いを、興味がないのか雪白の少年は微動だにせずに聞いていた。
覚悟していたことだけど、実感を伴ったそれは蓮に過酷すぎる現実を突きつける。
どれだけ取り繕っても、言い訳をしても。――かつては魔法で人を救っていた手は、今は血に塗れてしまったことを。
自分の相反する両手を見て、それでも、と連は思う。
「後悔はない。しちゃいけないんだ」
それはあの日の決意を、今まで自分を支えてくれた相手を。――自分がこの手にかけた誰かを否定することと同じだから。
紫眼の貴族は言った。――この身が滅ぶその時まで、自分の罪を背負い続けるのが罪人(自分たち)のやるべき事だと。
だからもう、迷わない。
「それに、いいこともあった。この瞬間、今まで積み重ねてきた今までがあったから、俺はこの場所にいる。――最初の引き金を託された」
自分はただの狙撃手(人殺し)。そんな自分だからこそ他の誰でもない、自分が今この場に存在する。
今以上に、蓮は自分自身に誇りを持って銃把を握ったことは無かった。
「だから今、ここに居られるのが嬉しいんだ。……不謹慎だよね」
「……そう」
語った口数とは真逆に、ヴァイスからの返答は簡素で淡白なものだった。元々口数は多くない方だから、これが当たり前だろう。それに、慰めや肯定をしてもらいたい訳ではなく、聞いていて欲しかった。
ただの大きな独り言を。
話始める前と同じ沈黙が二人の間に降りる。先程も言ったが元々口数が多い方ではない彼は、不必要な言葉はかわさない。――隼人以外とは。
どうして隼人相手には口が軽くなるのか、その馴れ初めも聞いてみたい気もするがさすがに場違いかと蓮は自重して口を閉ざす。可もなく不可もなく、それでいて何となく居心地のよい静寂。
不意に、短く息を吸い込む音がした。
「ここで仕方がないからここにいるって言ったら、一発撃ち込もうと思ってた」
「え"、」
「でもやめた。――悲しむ顔を見たくないのは、僕も同じだから」
がしゃ、という耳に慣れた音が耳朶を打つ。スライドを引いて初弾を送り込む、拳銃の初動の動作音。
僅かに背後の気配が揺れたかと思うと、その気配は音もなく隣に立った。
「最後の作戦までの間、君のそばを離れるまで。君は僕が何があっても守ってあげる。――ハヤトもそれを望んでる」
だから。――お前が隼人を泣かせるな、と。言外にそう言っているようで、蓮は黄金の散る琥珀色の双眸を、スコープを覗いたままに見開く。
この少年にこそ、自分は嫌われて恨まれて。それが当然だと思っていたのに。――それでも死ぬなと言ってくれる。
本当に。
「……みんな優しいね」
「ハヤトの為だ」
「そういうことにしておくよ」
「何その返答。僕は別に君のことなんて――、」
蓮の含みのある言葉に言い返そうとして、不自然に途切れる。何故、を問う前には、蓮もその理由を肌で感じていた。
引き金に添えた人差し指が、小刻みに震える。
「――来た」
「分かってる」
瞳はそらさずスコープを覗く。気配でしか感じられないが、黄金が瞬く瑠璃の双眸も、スコープと同じ方向を見据えていることだろう。
目の前をとめどなく流れていた『リリン』の群れが、唐突に途切れる。
その、空白を泰然と歩むひとつの小さな影。
濡れ羽色の長い頭髪に、細くしなやかな少女の肢体。――『リリン』たちの母、『リリス』がなんの警戒もなく躍り出る。
人類で初めてその姿を捉えた狙撃手は、ひとつ深く息を吐く。再び息を吸い込む頃にはもう全身に走っていた震えは消え失せ、先程までの軽口を交わしていた少年の顔はない。
相手がたとえ、自身の姉の子供かもしれないとしても。
それはもう、冷徹な弾丸と化した彼の意識にはない。
――引き金にかけた人差し指に、力を込める。
引き金を通じて、信管に。散った火花は内部で猛烈な爆発を起こし、初速850m/sの速さで双方の間の距離を一瞬で零にする。
消音器を通って放たれた不可視の魔弾はあや待たず、『リリス』と呼ばれる少女の頭蓋を正確に撃ち抜いた。