間章.再会の恒星(アステル)
「……はぁ、」
とぼとぼと重い足取りでたどり着いたのは、この2年で見なれ切ってしまった『タキオン』総本部の長すぎる廊下の途中、休憩所のひとつだった。
アデルは年齢らしからぬ深いため息を付いて、申し訳程度に置かれた長椅子にぽすんと腰掛ける。
分かってはいたけれど。
「僕、本当役に立たないなぁ……」
自分は2年前の真相を知る唯一の人物だった。彼にしか知りえない情報を多くこの目で視たからこそ、錚々たるメンツの中に幼すぎる少年は参加を許されているのだ。
僕にできることは、ただ視たことを教えることだけ。
それでもなにか出来ないかと、この2年間死に物狂いで勉強した。迷宮生物のありとあらゆる情報を頭の中に叩き込んで、その他にも魔法の知識や【聖遺物】、それに類する類のもの全てや、現状最も資料として用いられるあらゆる神話体系の全て。
思いつくものは全て調べて、考えて、あらゆる視点からの考察をしたつもりだった。
だけど、いざその場に立ってみたらどうだ。
自分はただのオブザーバー。いや、助言すらももはや自信がなくなってきた。
自分の異能の力が1番発揮されるのは、確かにこの場面ではないけれど。
「僕にこんな役目は無理ですよ、クサナギさん……」
元々ネガティブな性格のアデルだ。そこに自己否定と後悔とその他諸々負の感情で埋め尽くされて、周囲一帯にすらそのどんよりとした空気が伝播し始めた頃。
「――あ、アデルだっ!」
聞きなれた声。
待ちわびた声。
――待ち焦がれた声。
その声に面をあげると。
「――え、」
予想以上に接近していた、自分と全く同じ顔が既に眼前に迫っていて。
「うわぁあああアデルーーーー!!!」
「に"ゃーーーーーー!?!」
最早人のそれを超える速度で突っ込んできたレグルスは、そのままの勢いでアデルに抱擁という名のタックルをかます。もちろん構えていなかったアデルは、腰掛けていた長椅子諸共に盛大に大理石の床を転がり込む。
運良く長椅子は遠くに吹っ飛んでおり、アデルとレグルスの巻き添えを食らうことなく、盛大な音を立ててやがて静止した。
「……っいったぁ。お兄ちゃん、いきなりは危ない、」
全身の痛みを堪えながら身を起こそうと力を入れるが、がっしりとホールドされてしまっていて身動きが取れない。
それに、さっきまでの威勢はどこへ行ってしまったのか。上に被さるレグルスはただただ黙りこくったまま微動だにしない。
「……レグルス?」
不審に思ったアデルは、訝しげに兄の名前を呼んで。その声に反応するかのように、腰に回された腕により力が篭もる。
「……アデル、なんだよね」
「……っ、」
確認の言葉に、一瞬だけ口篭る。それはアデルにしか分からない後ろめたさからだったが、アデルは意を決して解を返す。
「そうだよ、お兄ちゃん」
「死んだ幽霊とか、ドッペルゲンガーとかじゃない?」
「僕ちゃんと生きてるよ」
ちょうど胸の位置に頭が乗っかってるんだから、動いてることは分かるだろうに。
同じ色の頭に伸ばしかけた腕を、しかしアデルは乗せることに躊躇って。
「……レグルス。僕は君にあったら言わなきゃいけない事があるんだ」
転がったままの床はひんやりと冷たくて、接する背中を徐々に冷やしていく。反対に自分の中でふつふつと湧き上がる気持ちの悪い熱気を和らげるのにはちょうどいいだろうか。
今から自分が打ち明ける事への緊張に、身体が火照る。
「――僕は、レグルスがどんな仕打ちを受けてきたのか視てた」
今まで微動だにしなかった少年が、胸の上でぴくりと反応する。それはそうだ、と他人事のように思いながら。
「僕と離れ離れになって、タチの悪い孤児院に連れていかれて。……そこでレグルスがどんなことをされてきて、どんなものを見てきたのか。それを僕はこの目で全部視てたんだ。――視ていて、なにもしなかった」
しようと思えば、いくらでも手はあった。
アルベルトに助けを求めたり。
自分が自ら助けに行ったり。
――文字通り目を盗んで、彼らの凄惨な隠蔽を暴くことも。
『近しい人間の現在を視る』なんて破格の異能を持っていながら、アデルは何もしなかった。
何も出来なかったのではなく、何もしなかった。
それは、アデルがこの2年間で積み重ね続けた罪。
「ごめんね、ごめんなさいレグルス。僕は君が傷つく姿をただ見てることしか出来なかった」
恐怖と悲しみで震える声をどうにか堪えながら、アデルはずっと言いたかった、言わなければならなかった謝罪を、遂にレグルスに伝える。
そして。
「ありがとう。――僕のことをずっと探してくれて。僕を見つけてくれて」
この日が来て欲しい気持ちと、来て欲しくない気持ちが半々で、それがアデルの正直な気持ちだった。
だけどその気持ちから、特に会いたくないという気持ちからは逃げる訳には行かなかった。
どんなに酷い目に合わされても。視ているこっちが痛くて、悲しくて、死にたくなるほどの仕打ちを受けてもなお、自分を探してくれたたった1人の肉親に報いるために。
永遠とも思える時間は本当には一瞬で。アデルの胸にずっと填め続けてしまって見えない顔を、レグルスはさらに押し付けながら。
「……お兄ちゃんなんだから、当たり前でしょ」
「……」
「カズキも言ってたけど、きっと必要なことだったんでしょ。だから、アデルが見つかっただけでオレはいいんだ」
「……」
「むしろオレの方がごめん。寂しい思いさせて。怖い思いさせて。余計なもの視せちゃったね、痛かったでしょ。ごめん」
自分が受けた仕打ちを、恐怖を。自分の瞳を介して伝播してしまったアデルの心配ばかり。
この期に及んで弟の心配ばかりする、強がりな兄の痩せ細った身体を、アデルは今度こそそっと両腕で包み込んで。
「怖かったね」
「……怖くなんかない」
「すごく痛かったし」
「……痛くなんかないし」
「……もう死にたいって、本当は何度も思ったね」
「……っ」
いつも兄貴然として、誰にも弱みを見せない見栄っ張りなお兄ちゃん。気持ちが沈みそうな時、自分が惨めに思えてしかながないとき、誰よりも隣で温めてくれる太陽のようなひと。
そんな彼を僕は誰よりも誇らしいと思うけど。
「僕の前でだけは、泣いてもいいよ」
それがきっかけだった。ふえ、というか細すぎるうめき声が埋められた頭から漏れたかと思うと、それはせき止められた川の水のように勢いを増して、胸に感じる熱量も増える。
「死にたいと思ったし、痛かったし、怖かったよぉ……っ」
「知ってるよ」
「なんだよぉ、せっかく隠してたのにっ。意味ないじゃんかよぉ」
「なんでも視えちゃうからね」
別れた時には、いつも頭を撫ででくれた兄に、いつか自分がそうしてあげれる日が来ればいいのに。
アデルのささやかな願いはこの日、2人だけの空間で、ひっそりと叶えることが出来た。
しばらくグチグチ言いながらグズグズと泣いていたレグルスは、やがて落ち着いたのか、ようやくその面をあげる。涙で真っ赤に腫れてしまった、白銀の双眸。
「これからは、ずっと一緒?」
「もう僕が隠れる必要は無くなったからね。お義父さんに相談してみようか?」
お義父さん――アルベルトであれば、広い屋敷に何人人が増えようが気にならないだろ、とつっけんどんに承認してくれるだろう。なんやかんや文句を言いながら、自分を受け入れてくれたレグルスと同じような不器用な人。
レグルスは少しだけそれもいいかな、と考えてから、ふるふると長い三つ編みを揺らしながら首を振って。
「それはいいや」
「有名人のお世話になるのは嫌?」
世間一般からすれば、アルベルト・サリヴァンはきちんと政府からの承認を得た正真正銘の貴族だ。しかしサリヴァン家の歴史は彼が初代当主であるからに、他の貴族から見れば産まれたての雛鳥も当然の、吹けば消えてしまうような称号だ。
彼が最も権威を振るうのは、この迷宮区という『箱庭』の中だけだ。
レグルスが貴族を毛嫌いしていることは、離れ離れになる前からの話なのでアデルはもちろん知っているし、それでなくてもこの数年で彼らがレグルスにした非道の数々を考えれば、当然の帰結だ。
アデルがアルベルトは違うと言っても、心の底からそう思ってもらえるのは難しいだろう。
しかしレグルスはその言葉にも首を振って。
「――オレにはまだ、やることがあるから」
依然として涙で濡れた白銀は、しかし今は確たる意志を持ってその瞳を燃え上がらせる。何を言っても曲がらない、曲げられない意志をその瞳越しに感じて。
「レグルスも行くの?」
最深部攻略に。
「アデルも行くんでしょ?」
だったら兄である自分も行くべきだ。
昔から双子だからか、多くを語らずともお互いの意思は疎通できた。それは今も変わらず、二人の間にしっかりと繋がれた目に見えないパスを介して少年たちは会話をする。
「……僕なんかが、何か出来るとは思えないよ」
『現在を視る』異能力。それは遠くにいても実際に目の当たりに戦場を視ながら、戦況を俯瞰的に把握出来る。
『作戦指揮官』として、これ以上破格の能力は他にはないだろう。
実際にそれを見越して、アルベルトは自分に教えをとき、それは既に実戦でも通用するレベルにまで達している。
……実際に経験したのは、ひと月前。たったの1度の実戦経験で、いきなりクライマックス。
とても自分には、その大役は務まらないとアデルは再び肩を落とす。
「――大丈夫だよ」
軽い身のこなしで上体を起こしたレグルスは、そのまま真っ直ぐに手のひらを伸ばして。
「オレ達には、ハヤト先輩がついてるんだから」
その言葉に、アデルは黄金の散る白銀の双眸を大きく瞬く。レグルスのその言葉は、以前の彼からはあまりにも想像もできないものだったから。
誰にも弱みを見せることなく、頼ることのなかった兄。その彼が断言するほどの、絶対的な信頼。
まだあって数時間、交わした言葉も少ない知り合い程度のアデルだったが、自分が最も信頼する兄が、信頼する程の相手。
だったらきっと、大丈夫。
「お兄ちゃんがそんなに言うなら大丈夫だね」
「ハヤト先輩はなんやかんや言って最後には締めてくれるし、何よりカッコイイじゃん!それを言いふらさないのもかっこいいし!!」
レグルスの一気に上がったテンションに、あ、これ長くなるなと思ったアデルはうんうんと相槌を打つ。その表情がまさに幼い子供を微笑ましく眺める親のようだとはアデル自身は気づかない。
辛いことも沢山あったと思うのに。
「いい出会い、だったんだね」
ぽつりとこぼしたつぶやきは、今だ興奮気味に言い募るレグルスには届かない。そもそも伝えようと思った言葉ではないから、それでもいい。
それよりも。
「でも、それだけじゃないでしょ?」
確信じみた一言に、レグルスは電池の切れたロボットのようにぎくりと動きを止める。先程までの勢いはどこへやら。
ぎぎぎ、と軋む音すら聞こえそうな程にぎこちなく口の端を歪めて。
「な、ななな何の話かな?」
「今はハヤトさんじゃなくて、違う人のことを気にしてるんでしょ」
「だっ誰があんな貴族!?」
「貴族なんだ」
しまった、と気づいた時にはもう遅い。まんまと誘導させられたレグルスは金魚のようにパクパクと口を開閉して、そして無言で。
「っいたいっ!?」
先程まで顔を顰めていた胸に向かって、思いっきり頭突きをかましてきた。
結構容赦はなかったが、最初に突進された時と比べたら可愛いものだ。そのまま胸の中で頭をグリグリするレグルスを見下ろしながら、アデルはカラカラと笑う。
「……アデル嫌い」
「いいじゃない。気になるんでしょ」
だったら隠す必要ないのにと思う。それが貴族だろうが誰だろうが、アデルは気にしないし周囲に言わせもしない。
まぁ、レグルスの態度と『貴族』と呼ぶあたり、もう誰なのかは一発でわかるわけで。短時間しか見ていないが、二人の掛け合いからして犬猿なのは理解できるので隠そうとする気持ちも分からないでもないけど。
「……だってあいつ、気になるんだもん」
どこが、とアデルが尋ねる前にレグルスはぽつぽつと独白する。おそらく誰にも言っていないだろう、彼の直感。
「貴族のくせに毎日孤児院に顔出てくるし、絡んでくるし。かと思ったらどこか一線引いてて。――誰かが見てないと、消えちゃいそうな気がするんだ」
消えそう、か。と少しの間だけ見たマリンブルーの少年を思い返して、アデルは首を傾げる。結構存在感はあったと思うけど、レグルスが言いたいのはそういうことでは無いのだろう。
誰かが見張っていないと、いつの間にかどこか遠くへ行ってしまいそうな。――言葉通りの空気を、昔からそういう直感が優れていたレグルスは無意識に感じ取って、そう例えたのかもしれない。
「でもオレはハヤト先輩の義弟であって!別にあいつのことなんてなんとも思ってないしむしろウザイと思ってるところだけは間違えないでよね!?」
「うんうんわかったわかった」
「しばらく見ないうちに、アデルがスルースキルを身につけてる……」
お兄ちゃん悲しい、と。わざとらしくしくしくとなくレグルスの頭をそ、とかき混ぜる。自分と同じ薄桃色の、昔は逆だった立ち位置から。
「じゃあまずは、生き残らなきゃだね」
「大丈夫だよ。オレが全部守ってあげるから」
そうしてあげられた顔には、昔と変わらない強気で自信に満ち溢れた笑顔。
自分と同じはずなのに、自分がやるのとは大違いに安心感のある白銀の瞳をにかっ、と細めながら。
「アデルにもう一度会えた。――今のオレは無敵だからねっ」