間章.追想: 例えこれが蛍光だとしても
迷宮区『サンクチュアリ』第661階層。
最奥部の入口は、すぐそこの660階層の喧騒など別世界の話のようにしん、と静まり返っている。
ごつごつと隆起した壁はそのままだが、至る所に地面と天井を繋ぐ巨木のような柱が乱立し、ひっそりと申し訳程度につけられたランプ。何よりも踏みしだく地面に取っ掛りが一切なく、磨かれた黒曜石がカツカツと軍靴を鳴らす。
さながら。――玉座の間へ至らんとする回廊のような。
その永遠と続くかのように長く伸びた直線を、一樹はひたすらに歩く。
5年間、ずっとそこにあった神刀の重みは今はなく、あるのはただ己の身一つ。それでも一樹は怯えることなくただひたすらに進み続けた。
何も考えずに、ただ足を動かし続けてふ、と大きな壁にぶち当たり、一樹は顔を上げる。
壁だと思っていたそれは、ちょうど中央に僅かな隙間があり、観音開きの扉だと気づく。
オフィスビルの6階分は優に超える、巨大で荘厳な大扉。その両脇にはその巨体ゆえに、存在感すら麻痺するほどの巨大な生物が門番のように屹立している。
方や、黄金色の体毛に覆われた大猪。
方や、錫色の鬣を靡かせる馬。
僅かに聞こえる呼吸音から、それが銅像や置物の類いでは無いことは容易に想像できる。しかし一樹を。――人間を見ても襲いかかる素振りすら見せずに、彼らはただ小さな人間を睥睨するだけだ。
なにより。――纏う空気が、他の迷宮生物全てを凌駕する程の、絶対的強者の威厳と風格。
その圧迫感をどうにか堪えながら、一樹は大扉の前に立つ。
明らかに人工物の扉を前にして、そして両隣の迷宮生物の姿を見て、しかし見据える紅の双眸が揺れることは無い。
――この扉は、知っている。
人ひとりの力で開けられるとは到底思えないそれに向かって、一樹は遺った左腕を伸ばす。しかしその指先が触れる前に震える大扉。
一歩後ろへ退くと同時。大きな地鳴りを響かせながら、大扉はひとりでに動いてその先の道を示す。――まるで一樹が来ることを分かっていたかのように。
招き入れるようにして開かれた扉を、一樹は何の感慨もなく見据える。この光景は幾度となく『ユメ』で視た通りだから。
果たして。――扉の奥から現れたのは、一人の青年だった。
中性的で若々しい相貌は性別や年齢感覚を狂わせるが、しなやかに均整の取れた引き締まった身体は男性のものだろう。年の頃もアルベルトよりも上だろうか。
手入れの行き届いた金髪は小麦畑のように輝き、その下の紅玉の双眸に散った白銀が淡い明りに照らされて、先ほどの少女とはまた違った光彩を放つ。
「――これより先は何人も立ち入ることは許されない」
見た目に反して武骨で淡白な言葉。さして大声で叫ばれたわけでもないその声はしかし、壁や天井や地面に反響して広大な空間を震わせる。
刃のように鋭利で冷え切った紅玉の視線を、一樹は真正面から受け止めて逸らさない。
「ここへは許された者のみ謁見を許される」
「勝手に国一つ飲み込んでおいてよく言うぜ」
「我々が在った場所に文明を築いたのはお前たちだ」
男の発言を、一樹はほとんど理解できない。学生時代学業は優秀だったが、それはただ異能力を無駄遣いした結果であり、本来デキは悪いのだ。
デキのいい弟なら、分かったかもしれないな。
そう内心で考えて、自嘲気に苦笑する。
ないものを願っても仕方がない。デキが悪いからこそ、できることだってないわけではない。
――これでいい。全ては『預言者』のシナリオ通りに。
「ここまで見られたのでは、生きて返すわけにもいかん。――彼女の眠りを守るために」
彼の纏う空気が一瞬にして変貌を遂げる。涼やかな騎士のものから。――獲物を狩る狩人のような凍てついた冷徹に。
その冷え切った殺気にわずかによぎる憐憫に、紅の双眸を眇める。
「予言の子よ。お前はこうなることを知っていたはずだ。なぜここまで来た」
死ぬと分かっていながら、なぜ来たのかと。
麗しい騎士は一樹のその真意がわからずに、紅玉の瞳を細める。
――愚問だと、一樹は笑う。
「俺の成すべきことは、ここに辿りつた時点で達成しているからだ」
たとえ自分が生きてこの情報を持ち還られなくても、この瞳を通して、薄桃色の天眼通は今この光景を目の当たりにしていることだろう。
それでいい。
なぜ迷宮区の最奥部にこんな人工物があるのか。
生きた人間がいるのか。
巨大な猪に馬はなんなのか。
――学のない自分にはわからなくとも。
たとえ微かな光でさえも。――後につないで受け取ってくれる者が、脈々と受け継がれる系統樹のように、その先を紡いでくれるから。
一樹の言葉に、表情に。青年騎士は初めて感情らしい感情を、その紅玉の瞳を驚きに見開いて。
「……なるほど。一杯食わされたな」
ほろ苦く苦笑するものの、青年騎士の表情にはどこかすがすがしさを感じられた。その表情は、こんな場所で出会わなければ、きっと良い友人になれたであろうと思えるほどに、一樹と何ら変わらない素の表情であった。
騎士はそうして佇まいを正すと、改めて一樹と正面に向かい合う。
「貴殿のその蛮勇に敬意を評して、主から賜りし宝剣を捧げよう」
右腰の豪奢な柄を握りしめ、騎士はその刃を一思いに引き抜く。
――どこまでも澄んだ、長い夜の明けを知らせる黎明のような紫の刀身は、瞬間どこからともなく舞い上がった業火によってその色を変える。
煌々と燃え盛る剣を青年騎士は振りかぶり。
「さらばだ。願わくば――この開闢の光を導に、お前の安寧と幸福に巡り逢えることを」
――草薙一樹の意識は、その葬送の辞を最期に紅蓮の炎に飲み込まれて消えた。