6-3.追想:貴方に捧ぐアイの詞
二年前編、これにて終了です!悲劇しかない←
「――っ!」
かつてないほどの痛みを感じ、アデルは右目を抑えてその場に踞る。
アルベルトやカズキ、フジノたち最前線攻略部隊が発った後の静けさに満ちる『タキオン』総本部の廊下。何もすることも無く、しかし何かしなければという思いから、図書館で自主学習をして自室に帰る途中の道中だ。
自室は目と鼻の先。しかし突き刺すような激しい痛みに平衡感覚さえかき乱され、立つこともままならない。
「――どうしました、アデル殿っ」
アデルの身辺警護のために残っていたダンゾウが、異変を察知しどこからともなく舞い降りる。
労わるように添えられる手の、羽のような感触でさえ今は何もかもが痛覚に変わってしまう。どれが本当の痛みで、何が幻覚の痛みなのか、それすらもアデル本人にすら分からない。
「何か身体に異変が?目が痛むのですか?」
「……ぅ、」
ダンゾウの問いかけにも答えることが出来ないほどに、痛みは脳にまで侵食する。眦から涙が溢れては、廊下にいくつもの染みを散らす。
――唐突に、その染みに色彩が付く。
「――っ」
息を呑むダンゾウの気配に、アデルはそっと右目を覆っていた手のひらを離す。廊下と同じく手のひらを染め上げる、赤血の色。
どうやら涙だと思っていた生温い液体は、血液も混じっていたようだ。
「アデル殿、右目が…、」
その言葉の意味を、鏡もない廊下にあってアデル自身には知ることは出来ない。
しかし見えている世界のちょうど半分が、アデルにとっては理解できないものに変化していて、ダンゾウの言葉は耳に入らなかった。
迷宮区に来てから徐々にあった異変。その異変は今このときを持って鮮明に。
『タキオン』総本部の豪奢な廊下ではない、右半分の『誰か』の映像に、アデルは食い入るようにのめり込んでいく。
*****
同時刻。迷宮区『サンクチュアリ』第660階層の大広間。そこに陣を敷いた『タキオン』最深部攻略部隊本隊と、押し寄せる迷宮生物との攻防の中で、ヴァイスは弾かれたように顔を上げる。
視線は真っ直ぐに先遣部隊のいる方角に、瑠璃の瞳に散る黄金を輝かせながら。
「……なんだあれは、」
言いさして、ヴァイスは歯が砕けんばかりに食いしばる。今この場でそんなことを言っていても、ただの時間の浪費だ。
防衛線を越え、ヴァイスは一直線にカズキの元へ駆け出そうとその足を踏み出して。
「どこに行くつもりだ、『死神』」
背後に迫っていたバイコーンの悲鳴と、それをかき消すほどの雷鳴。生物の肉が焼け爛れる臭いに振り向くと、想像通りの人物が悠然と立っている。
「持ち場を勝手に離れるな」
「カズキの所へ」
その一言で、アルベルトには大凡の察しがつく。ヴァイスは態度こそ素っ気ないものの、命令には忠実だ。
その彼が、言いつけを守らずに行こうとしている。それはつまり、カズキに危険が迫っている事だ。
――しかし。
「お前の今の主を忘れたか」
「……っ!」
見せつけるように、アルベルトは右手をヴァイスの眼前へと突き出す。その右人差し指に嵌められた、紅の指輪を。
改めて見せつけられたその事実に、ヴァイスは捨てられた子犬のように悲嘆にくれた瞳を見開いて、唇を噛んで俯く。
唯一無二の存在を助けに行きたい気持ちと、その存在から託された願いとの間で板挟みの少年を見下ろして、アルベルトは思う。
この少年も、俺と同じだ。
自分の本当の気持ちと、絡まる世間体と期待の間で、もう身動きも自由にすることは出来ない。
俺はもう手遅れで、でもそれでいいと手放した自由。
だけど、この少年は――。
「……なんて、」
ぽそりと呟かれた言葉は、迷宮生物と団員との戦闘に紛れてあっという間にもみくちゃに消える。
指に嵌ったそれをするりと抜いて。
「お前みたいな我儘な餓鬼の子守りなんて、俺は嫌だね」
――無造作に、放り投げた。
突然のアルベルトの奇行に、無表情なヴァイスでさえもこの時ばかりは呆然と見上げる。何してんだとありありと書かれた白皙の顔。
こうしていれば、ただの15の少年なのに。
そう思って苦笑して、しかし直ぐにその表情を引っ込めて、アルベルトは言う。
ただそれだけを願うように。
「何があっても、何を手放しても。――必ず還ってこい」
雷に撃たれたように、瑠璃の双眸は見開かれて。やがてその言葉を刻みつけるかのように深く一度頷くと、今度こそヴァイスは振り返らずに駆け出した。
彼の行く手を阻むものは、彼自身の武器で。
そしてその手が伸びきらない所へは、雨あられのように打ち下ろされる金色の槍。
紫電が地面を這う音と共に、その背中を見送ってアルベルトは困ったように苦笑する。
「……俺もつくづく甘くなった」
「カズキに絆されたのでは?」
いつの間にか隣に立っていた、幼少期からの友人の容赦のない一言。視界に入れずとも分かるほどに、シトリンの双眸は呆れ色に染っていることだろう。
「怒るか?」
「大切なものを守ることより、組織としての行動を優先するようであれば、僕が貴方を殺しました」
命拾いした、と。その時ほど心の底から思ったことは無い。それほどまでの容赦情けのない殺意だった。
「……それは、何よりだなっ!」
アルベルトは眼前に迫ってきていたバイコーンの結晶核を、気づかれないように溜めた呼気と共に、正確に宝剣で貫いた。
――あれを使うことがなければいいが。
一瞬の気さえ抜けない攻防の中、ふと頭の隅を過った懸念を振り払うかのように、アルベルトは眼前の敵を屠り続ける。
*****
比喩ではなく、そこには在るのは地獄だった。
「何故っ、どうして貴女がっいやああああああああああああっ!?」
「出せ!早くここから出してくれえェえェえェえェえェ!」
「わ、私の足っ、私の足はどこに行ったのっ?あは、あはははっ」
薄い蒼色の四方体は『天羽々斬』の神域。その結界の中に閉じ込められた先遣部隊の調査員達が、わけも分からずにその命を散らしていく。
その中心に立ち、まるで舞台の真ん中で1人踊るアリアのように舞い踊る、濡れ羽色の紗幕。
九重藤野。
琥珀色の瞳は血走り、焦点を合わさない。その腹部ははちきれんばかりに膨れ上がり続け、股からはとめどなく粘着質な赤い液体が流れ続け、その裾を臙脂に染め上げる。
「……産まなくちゃ、産まなくちゃ産まなくちゃうまなくちゃうまなくちゃうまなくちゃ」
うわ言のように、狂ったようにそれだけを口にしてなおも藤野は手にした神の刀を振るい続ける。
足首を両断し。
背中を串刺しにし。
首を飛ばす。
地面はすでに溢れ出した鮮血で染め上がり、赤黒く変色してしまっている。
――それだけならば、まだ救いがあったかもしれない。
足首を飛ばされ。
背中を串刺しにされ。
首を飛ばされ。
そうして永遠の沈黙に沈むはずの彼らはびくりと大きく身を震わして、次の瞬間には異形となって甦る。
異様に大きく膨れ上がった脚。
背中から鞭のように触手を生やすもの。
首から上が、人間のそれとは全く違うものにすげ変わってしまっているもの。
形容や色は様々で、もはや原型をとどめていない者すらいる。彼らは一様に虚ろな眼で虚空を見上げ、ただ眼前の人間を新たに同胞へ変える。
迷宮生物のどの容姿にも当てはまらないそれらは。――全く新しい生命のカタチ。
言葉にならない叫び声は止まる気配もなく。――阿鼻叫喚の地獄絵図とは、この景色をおいてほかにはないだろう。
仲間たちの悲鳴と、仲間だったものの成れの果て。何より自分が最も愛した彼女の悲惨すぎる姿に、一人結界から弾かれた一樹は、ただその地獄を外から見ていることしかできない。
『母親すら操ろうだなんて、とてもやんちゃな子ね』
場違いすぎる言葉と声音。背後からの気配にゆっくりと、悄然とした表情で振り返る。
少女はオペラでも見ているかのように、心の底からの笑顔でオパールの相貌を細めて笑う。
「なんで俺だけ、」
『なぜって。つがいは一緒にいるものでしょう?あの中にいてはあの子ったら無作為に殺してしまうもの。それにしてもこのやんちゃっぷり、これは苦労しそうだわ』
「……何をした」
『でもどんな子供でも、やっぱりかわいいものよね。可愛がってあげなくちゃ』
「何をしたかと聞いているっ!」
怒りに任せ、荒々しく振り下ろされる『天之尾羽張』。一樹の感情を代弁するかのように緋色の炎が燃え上がる刀身を、少女は危なげなくひらりとかわす。
「今すぐ藤野を元に戻せ!あいつの腹に何を仕込んだ?!」
藤野の腹部に指をあてた直後、彼女は豹変した。藤野に接近した少女がしたことはたったのそれだけだが。
――何かをしたとすれば、それしか考えられない。
『怖い怖い。でも仕込んだなんて、人聞きが悪いわ。――あれは元からあそこにあったのだもの』
「……何を意味の分からないことを、」
『命というものは、望まれた瞬間に生まれるもの。それが目に見えるか見えないか、違いはそれだけ』
その言葉に、一樹は紅の双眸を見開いて凍り付く。少女の表現は未だに要領を得ないが、だからこそその意味が理由もなく脳裏に浮かぶ。
それ以上は、聞きたくない。
心の中ではそう叫んでいるのに、身体は金縛りにあってしまったのように動かない。
その先を聞いてしまったら――。
『あそこにいるのは貴方たちの子供。私はただその概念に形をプレゼントしてあげただけ』
「――っ!!」
5年前。右腕を失ったとき以上の衝撃が、一樹の内側を一瞬にして走り抜けた。
全身という全身を突き刺したそれに耐えきれず、一樹は重力に引きずられて頽れる。
頭が真っ白で、何も考えられない。
ただ目の前の少女の言葉だけが、反響音となって脳を揺らす。
「…どうして、」
『新しい命は尊いものよ。だからこれは祝福のつもりだったの。けれどごめんなさい、貴方たちがあまりにも幸せそうだったから、つい意地悪してしまったわ』
膝を折ったせいで、頭上から降りかかるやわらかい声に、一樹はたまらず歯を食いしばる。
こんなことをした理由が。彼女をあんなふうにした理由が。――ただの嫉妬。
そんな低レベルな気持ちで、子供のダダのような言葉で、俺の藤野を――!
激情に任せて振られた刃はしかし、少女の細足に踏み抑えられてピクリとも動かない。
それでも負けてたまるかと。怨嗟のこもった紅の瞳で睨め付けて。
『だって、妬ましかったのだもの』
紅の瞳に宿るそれよりもおどろおどろしい、嫉妬と憎悪。さっきまでの少女からの突然の変容に、一樹ですら息をのむ。
『私はこんなに愛しているのに。会いたいと願っているのに。待っているのに!!あの人はいつまで経っても帰ってきてくれない!会いに来てくれない!!愛を囁いてくれない!!!私は会うことすらできないのに、いつまで待ったらあの人は帰ってきてくれるの?!』
あの人って誰だ。
会いに来てくれない?
帰ってこない?
そんな疑問は、少女のヒステリックな形相で霧散する。
言い募られる感情に、言葉に。その剣幕にただ圧倒されるだけで声すらも吐き出せない。
それほどまでに彼女の憎しみは深く。――その言葉には、隠し切れない悲しみに満ち溢れてしまっていた。
――あいつに似ている、と。そんな場合じゃないのに一樹はふと気づく。
雪白の髪に瑠璃の瞳の、あの少年に。
悲愴に満ち溢れていたオパールの双眸がふと、煩わしげな光を宿す。
『なぁに、何か用?……はいはい分かっているわ、直ぐに戻るわよ』
意味が判然としない言葉は、一樹に向けられたものではなく。少女は誰も居ないはずの虚空を見上げて、鬱陶しげに振られる手のひら。
『全く、お前のそういう所が嫌いよ、私。レディの扱いをもう少し学んだらどうかしら』
踏みつけた刀身から足を退け、少女はもうそれ以上興味が失せたのか、なんの未練もなくくるりと背を向ける。
『それじゃあまた、愛しい人の子。ひとまず100人新しい生命を産めばその子は満足すると思うわ』
「それはどういう…っ、」
『それはそういう子なの。そうしなければ生きていけないから』
最後まで抽象的な言葉を残して、幻想的な少女は跡形もなく消える。元からそこには何もいなかったかのように、残される空虚。
何もなくなった伽藍洞を見つめて呆然とする一樹の耳に、ひときわ鮮烈な悲鳴が入り込んで反射的に振り返る。
自分とは近くて異なる赤茶色の髪を振り乱し、目の前まで走りこんできた彼女の空色の双眸とかち合う。
「助けっ――!」
のばされた手の平をつかもうと、とっさに一樹も手を伸ばす。しかしその些細な抵抗も、割って入ってきた原型すらわからない化け物によって無残に散った。
赤い血が。内臓が。脳漿が。紅の眼前を舞う。
それはさながら、早春の涼やかな風に攫われて靡く桜の花弁のように、鮮烈ながらも儚い一瞬。
今は遠い島国の、春の訪れを知らせる情景。
そんな場違いな幻想を夢想して、一樹は何もつかめなかった左手をたたきつける。
――彼女は誰よりも真実を追い求める女性だった。
母国に自分の弟と同じくらいの年齢の弟と、何よりも最愛の夫を待たせていると言っていた。
置いて飛び出してきてしまったことを、本当は悔やんでいると。だから今回無事に生還したら、しばらく戻るのだとはにかんでいた。
その慈愛の色の濃く浮かぶ空色の双眸はもう、その未来を映すことはないだろう。
――俺のせいだ。
たたきつけた衝撃で薄く裂けた傷口から漏れる赤色ごと、固く手のひらを握りしめる。
誰もかれもが無為に死んでいく。
その死体の半数は、得体のしれない化け物となって新たな死体の山を築く。
違う。その死体の山を築いたのはほかでもない。――己自身の選択の結果。
人並みの幸せを願ってしまったから。
大多数ではなく、たった一人の手を取ってしまったから。
その唯一の彼女すら、救えない愚かな自分。
俺は結局最後まで、選択を誤った。
「……ずき、」
もう悲鳴も聞こえない、すべての人間が死に絶えた沈黙で。虫のさざめきの様にか細い呼び声を、悲嘆の中で確かに聞いた。
はっと面を上げると、そこには想像通りの人物が亡霊のように佇む。
純白の団服は返り血を吸いすぎて、赤黒い真逆の色彩へ変わってしまっている。絹糸のような柔らかな濡れ羽色の紗幕も、今は見る影もなく乱れ切って痩躯に張り付いている。
変わり果ててしまったその名前を、一樹は震える声で呼ぶ。
「……っ藤野」
「かずき、お願いがあるんだ」
「――っ」
その先は、聞きたくない。
膨れ上がって今にもはち切れそうな腹部を、股から止めど無く溢れる血を見ていられなくて、一樹はたまらず顔をそらす。
向けられた琥珀色の双眸は、今はもう黒く濁ってしまっていて、きっと何も見えてはいないだろう。それでも藤野は気配で察して、ほろ苦く微笑んで。
「君のその刀なら、きっと届く」
「……やめろ、」
「今ならまだ間に合う。この子が生まれる前の、今この時しかないんだ」
耳をふさいで、幼い子供がするように一樹は頭を振る。
言わなくても、その言葉の続きはわかる。わかっているけれど。
無慈悲と知りながら。残酷だと知りながら、藤野は子供を諭す母親のように柔らかな声で言い放つ。
「その刀で、私もろとも殺してくれ」
「嫌だっ!!」
被せるように叫んだ声は幼い子供のそれで。だからこそそれを叫んだのが自分だということに一樹は気づけなかった。
駄々をこねる子供のように耳を硬く塞いで頭を振って地面にうずくまる。そんな言葉を、寄りにもよって彼女の口から聞きたくはなかったのに。
純白の少女の言葉と、現状を分析したうえでの持論。現状を最善に収める方法なんてとっくにわかっている。――藤野の言葉通りにすることが、今この場でできる最善で最良の選択だということは。
そう理屈では理解できる。しかし――感情では納得できない。
自らが愛した女性を、もしかしたら近い将来芽吹くはずだった命を絶つことなんて――。
永遠のような一瞬をおいて、目の前の空気がかすかに揺れる。耳鳴りがうるさい頭をどうにか起こすと、同じ高さからまっすぐに見据えられる、深い慈愛の色を濃く宿す琥珀色。
「……君は、信じてくれないかもしれないけど」
訥々と、藤野はあやすように語り始める。いつもの彼女らしからぬそのしゃべり方には、少量の恥ずかしさが感じられた。
恋をしてそれを告白する、少女のように純粋な。
「君に出会うことができた。一緒の時間を過ごすことができた。心を通わせることができたし、望んだ形ではないけれど子供だってできたし」
静かに話す彼女が今、どれほどの苦痛の中にいるのか一樹にはわからない。美しい相貌は血の気が一切感じられないほど青白く、額には大粒の汗がにじんでいる。
それでも変わることのない慈しみに満ちた琥珀色の双眸は、きつく寄せられた眉の下で煌々と輝く。
「だからこそ子供の不始末は、きちんと親がつけなきゃね」
「――っ!」
はっと面を上げた衝撃で、眦にたまった透明な雫が宙を舞った。
涙で滲んだ視界向こうで、藤野は気丈に笑う。
それは今は記憶に朧気な、幼いころに見上げた日本に残してきた母と重なった。
「……ごめんなさい。これは君が望んだ幸せじゃきっとなかった。だけどこれだけは、この言葉だけは聞いてほしい」
自己評価の低い、君には信じてもらえないかもしれないけど。口の中で言った言葉はほかの誰にも届かない。
ただ見つめることしかできない一樹に向って、藤野は最後の言葉を言祝ぐ。
「――愛してくれて。幸せをくれてありがとう。ずっと君を、愛しているよ」
――もう言葉は、要らなかった。
それ以上の言葉は、彼女の最期を汚すだけだから。
うずくまった際に手放して離れた地面に転がっていた漆黒の刀身の日本刀を手繰り寄せると、きつく握りしめて立ち上がる。
彼女の覚悟に。心に、報いるために。
できる限りいつも通りに、強気な笑顔で。きっと普段通りの笑顔とはかけ離れていると思うけれど、目の前で両手を広げる彼女の表情は穏やかに。
震えないように引き結んで。手向けるように『天之尾羽張剣』を振りかぶって。
「――俺もお前を、愛し続けるよ」
緋色の軌跡を描いて、神刀を一息に振り下ろした。
*****
迫りくる緋色の焔に対して、恐怖は一切なかった。
一樹に包まれているようで、むしろ愛しいとさえ感じられる。
ぼろぼろと、清浄な炎に焼かれて身体が崩れていく。
――ごめんね、名前も顔もわからない私の子。
産んであげられなくて。
世界を見せてあげられなくて。
愛を教えてあげられなくて。
でも、せめて君の心だけは。
魂だけは、守ってみせるから。
君の隣にずっと、寄り添っているからね――。
*****
同時。イタリアから遠く離れた異国の地で異変が起きた。
アメリカ合衆国ニューヨーク。
夜の街に繰り出していた少年二人は楽し気にしゃべりながら、一瞬の青春を謳歌する。
「――ッ!」
「……どうかしたか、レン?」
遠い島国からわざわざ銃を学びにやってきたという、奇特な少年の異変にアイザックは振り返る。
普段はぽやぽやと笑顔が張り付いている相貌が苦悶に歪んでいて、感じた異変が尋常ではないことにアイザックはとっさに気づく。
自身の姉の瞳に浮かぶものと一緒の黄金が、炯々と瞬いていることにも。
――瞬間。まるで目に見えない不可視の刃に斬り裂かれたかのように、レンの胸元に大きな裂傷が前触れもなく刻まれた。
良く見えばただの裂傷ではなく、傷口が焼け爛れている。
アイザックやそれを見ていた多くの人々。いや、レン本人にすら理解できなかっただろう混乱の中、レンは自分の血溜りの中へと沈んでいった。
*****
駆け付けた場所の惨状に、感情の起伏が乏しいヴァイスでさえも凍り付く。
迷宮区内の隆起した壁を彩る、鮮烈な赤。
元の色すら判別ができないほどに、赤黒い肉が敷き詰められた地面。
それらを上書きするように、煌々と燃え盛る緋色の炎は、まるで火葬のようで。
なによりも。――その一帯だけが切り取られたかのように、不気味に沈む静けさ。
うすら寒さすら感じられる空間で、沈殿する死臭に思わず作り物のような陶器の顔を顰める。
ふ、と眼前を揺らめく炎の向こうに動く影を見つけて、ヴァイスは反射的に声を上げる。
その瞳と同じ色彩の魂の君を。
「――カズキ、」
「……よかった、来てくれたな」
戦場を彷徨う幽鬼のように振り向くカズキの変貌に、ヴァイスは一瞬気圧されて口を噤む。――その間隙が、預言者によって仕込まれたものとも知らず。
おもむろに、立ち上る陽炎の先から飛来したそれを、ヴァイスは咄嗟に掴み取る。
つかんだものは二つ。真っ黒な、それでいて豪奢な施しのされた四方体と。――カズキがいつもその右腰に佩いていた、白い柄の日本刀。
「……これは、」
「黒い匣はアルベルトに、刀は俺の弟に渡してくれ」
それだけで、ヴァイスには彼の真意を汲み取るには十分だった。だけどそれを信じたくなくて、咄嗟に引き留めようと声を張り上げる。
「っ嫌だ、カズキ!」
「ヴァイス」
遮るように、自分を呼ぶ彼のが被せられて、それだけで後に続けようとした言葉さえもねじ伏せられる。
――決して還ることができない決死行に、それを知っていながら突き進もうとする覚悟に気圧されて。
「後のことを。――俺の弟のこと、頼んだぜ」
「嫌だッ!カズキ、行かないで――!!」
誰も、自分すら信じられない世界に、僕を置いて――。
そんな最後の叫びについぞ振り向くことなく背を向けて、僕のたった一人の英雄は炎の向こうへと消えた。