5-4.追想:葛藤の狭間で
「お前とは、一緒に生きられない」
5年前のあの日。九重藤野は人生で最初で最後、最愛だと思った草薙一樹に振られた。
正直、振られること自体はどうでも良くて、それは人と人の付き合いである以上好き嫌いがあるし、そこを咎めるのは筋じゃない。
ただ。――この時藤野は心に誓ったのだ。
拒絶されても。
否定されても。
自分だけは、彼のことを愛し続けようと。
黄金にさえぎられてもう現在を見ることが出来ない、紅の瞳。その視界にはきっと、自分なんか見えていない。
でもだからこそ。――自分一人の幸せよりも、そのほか全てを救おうとしている彼の犠牲を、自分だけは否定し続ける。
だって。今までだって自分一人が幸せになれる道なんて、いくらでも選べたはずのちっぽけな凡人の君が、それを我慢して我慢して、ボロボロになっているのに。
――幸せになれないなんて、嘘だろう。
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「――どうして何も教えてくれないんだ」
「だから何度も言ってるだろ。お前には関係ないからだ」
もう何度目か分からない問い掛けとその答え。一樹がうんざりするのも藤野は嫌という程理解している。
理解していると言って、諦めるとは言っていないが。
5年前から、一樹は藤野と距離を置くようになっていた。それははためから見れば気づかないが、知っている人が見れば一目瞭然なほど、その溝は明確に。
あの地底湖で、溶け合ってひとつになれるような錯覚は遠い昔で、今はその欠片ほども感じられない。
彼を困らせたくはない。だったら大人しく何も言わずに引っ込んでいればいいのは分かっている。
だけど。
「もういいか。このあと約束があるんだよ」
そう言って、一樹は強引に話を切り上げて踵を返す。
「っカズキ、」
それでも何とか呼び止めようと伸ばした手は、さっきまでの考え事のせいで少しだけ挙動が遅れてしまって、その手を取ることはできずに虚しく空を切る。
追い縋ることも出来たが、躊躇ってしまって、藤野はただ頑なに振り返らないその背中を見送って。
……これはただの自己満足で、執着だとは分かっているけれど。
空気を掴んだままの手のひらは、爪がくい込んで薄く血が滲むほど固く握りしめられていて、痛んだ感覚でようやくそれに気づいて開く。
今は遠く離れてしまった弟に、その痛みが届かないように。
この胸の痛みに、気づかないように。
「……見苦しいところを見せてしまったね」
「……ごめんなさい」
気を使って隠れていたのか。それとも剣幕に足が竦んだか。曲がり角の先からおずおずと薄桃色が顔を覗かせる。つい先日出会った、気の弱そうな少年。
「別に謝ることじゃないさ。ただまぁちょっと、恥ずかしいかな」
人に見せるものでは無いと思うから、恥ずかしげに藤野は頬をかく。
だからきっと、これは油断。
「私はただ、話してもらいたいだけなんだ」
ぽつり、と。無意識のうちに言葉は零れて宙を遊ぶ。誰かに聞いてもらいたかったわけでも、ましてやその理由を知ってもらいたかったわけじゃなかった。
だけど。目の前の少年は大きくひとつ瞬くと、ちかりと輝きの増す、白銀に散る黄金の瞳を真っ直ぐに向け。
「……クサナギさんのこと、好きなんですね?」
予想外の言葉に、堪らず藤野は琥珀の瞳を大きく瞬く。確かにその通りなのだけれど。――こうも真っ直ぐに言われるとは。
「そうだね、私は彼が好きなんだ。だから彼の隣にずっといると自分に誓ったんだ」
顔の火照りに気づきながら、藤野はそう言ってはにかむ。そんなに私は分かりやすかっただろうか。
そしてふと。一樹が去っていった廊下の先に目をやって。
口から零れた言葉は、悔しさに固く軋んでいた。
「隣にいて、何が出来る訳でもないけど。でも。――話を聞いて、その重荷を一緒に背負うことは出来るのだから」
彼が視ている未来を、藤野は視ることが出来ない。
そこではどんなことが起こっていて、どんな選択をすればいいのか。
誰がどう動いて、どんな世界になっているのか。
その全てを、藤野は知らない。知ることは出来ない。
でもだからって。――どうして自分に話してくれないのだろう。
1人で背負い込んで、頑なに跳ね除けて。だのに何やらアルベルトには全てを話しているようで、それがさらに苛立ちを募らせる。
私はそんなにも。――頼りないだろうか。
「って、こんなこと言ってもしょうがないか。まぁ単純に、振られたのに諦めきれずに追いかけてるだけなんだけどね」
なんて考えて、目の前の少年が何かを言いかける前に取り繕って。まだ自分よりも小さい薄桃色の髪を混ぜる。
かつて自分の背中の後ろをついて回っていた、臆病で優しい弟と、同じ位置。
あの子は今、何をしているだろう。両親に聞いてもまともな返事なんていつも帰ってこないけれど。
一族から勝手に期待されて、勝手に裏切られてないもの同然に扱われてしまっている、弟のことなんて。
「じゃ、私も明日からの遠征の準備があるから失礼するね」
ポケットから取り出した、銀細工の懐中時計をパチンと鳴らして閉める。もう遠征も目前だ。準備に手配に、自分の調整に。やることは多い。
それ以上に。――これ以上はきっと、この少年に弟を重ねすぎてしまう。
一人残してしまった、蓮と。
それはいくらなんでも、彼に失礼だろう。
名残惜しさに後ろ髪を引かれながらも、藤野は努めて普段通りの笑みを浮かべて歩き去る。一樹が去った方と同じ方角。
別に一樹の跡を追いかけた訳ではなく、修練場がこっちの方角にあるだけだ。このモヤモヤとした気持ちを少しでも晴らそうと、適当に刀でも振るおうか、と藤野は歩を進める。
「貴女もつくづく大変だね」
差し掛かった角の陰。ささやかな呼び声に応えるように、藤野はふと足を止める。
わざと消していなかった気配のお陰で、第三者の声に藤野はさほど驚かない。
「……アル」
「全くあいつも。こんなに想ってくれているレディに対して失礼にも程がある」
抱えた書類は、この後行われる予定の最終調整会議のものだろう。アルベルトは小脇に紙束を抱えて、心底呆れると言ったようにため息をつく。
呆れと苛立ちと。すこし哀しみの色を帯びた翡翠の双眸。
その心遣いが嬉しくて、まだ出会って3年程の友人に微笑する。
「私をレディ扱いしてくれる人なんて、君くらいだよ」
「まぁ、大体の人間は貴女よりも弱いからね。確かにそう言われることは少ないだろうが」
アルベルトはそこで一旦言葉を区切り、言おうか言わないか少し逡巡して。
「それでも、傷つかないわけじゃない」
胸の中のもやもやに、その言葉はストンと落ちて、藤野はひとり納得する。
アルベルトは決してそう意味で言ったわけじゃないだろうけど、でもそれがきっと答えなのだろうと。
曲がった事が大嫌いな、誰よりも潔癖で真っ直ぐに向けられた瞳に、藤野はふ、と口の端を上げる。
先程とは違った、感情から。
「……私は君が羨ましいよ、アル」
怪訝そうに翡翠の双眸を眇めるアルベルトの気配。それを感じながら、藤野は翳った琥珀色を見られないように伏せる。
「君は一樹から、全てを聞かされているんだろう?」
「……それは、」
言いさして、アルベルトは口を噤む。ここで何かを言えばそれは言い訳になりさがってしまうと、途中で気づいたからだ。
まだ出会って三年程の、異国の麗人には話して。
もう5年の付き合いの私には、何も話してくれない。
それは。――私が、女だからなのだろうか。
藤野は困ったようにはにかむ。その裏に泣きそうになる弱い自分を隠すように。
「私の方が一樹と一緒にいた時間は長いのに。とられてしまったみたいで。――ズルいよ」
ズルい、なんて。まだ10代の少女の時にも言ったことが無いセリフ。
なんて子供っぽくて、女々しい言葉。
ズルい、と言っている自分の方が、きっと非常で残酷だ。
事実、雷に打たれたように、目の前の翡翠は見開かれて凍りつく。予想外の言葉に、返す言葉をなくただ立ち尽くす。
そんな彼がみていられなくて。こんな自分を見ていられたくなくて、藤野はアルベルトの隣をするりと抜ける。
「そろそろ会議の時間だろう?宜しく頼むよ、我らが総団長」
気づかれないくらいの早足で、その場から逃げるように藤野は修練場への道を進んで行った。
明日にはもう、迷宮区最深部へ突入する。
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まだ夜も明けきらぬ黎明。湿り気の強い暑さが幾分かマシになる、短い時間。
『タキオン』総本部前には攻略大隊およそ5部隊、それに随伴する5中隊を合わせた、総勢1000人程の調査員が集まっている。
1週間前、同じ場所では昼夜問わずのどんちゃん騒ぎが行われていた正面広間も、今は厳粛で神聖な空気に満たされていた。
ぴん、と張り詰めた緊張の先。入口に当たるその場所に、1人の青年が立つ。
オフゴールドのウェーブがかった髪はその薄ぼんやりとした空間でいっそう映え、風に靡いて軌跡を描く。
「――これより我々はこの異空間の底、迷宮区『サンクチュアリ』最深部へと進撃する」
厳かに響く、人に命令を出すことに慣れきった声。その艶かしい声はその空間をするりと抜け、それぞれの調査員の耳朶を打つ。
「この迷宮区はどうして出来たのか。なぜ突然出現したのか。この異空間はなんなのか。――人類が追い求めてきた全ての答えが、少なくともその一端は暴かれることになるだろう」
アルベルトは一人一人を確認するように、ぐるりと広間を見回すように睥睨する。
「この最深部攻略は、全世界、全人類が注目しているだろう。だが、」
言いさして、アルベルトは左腰に手を伸ばすと、佩いていた宝剣を鞘ごと抜く。
納剣したまま掲げられた剣は、そのまま白亜の床をうち鳴らす。
「そんなことは些細なことだ。周囲の目など気にする事はない。我々はただ目の前にある謎に、冒険に、発見に。それをその目に刻むために進む」
打ち付けた剣の柄に両手を添え、アルベルトはひとつ大きく息を吸い込む。
一際強い風と共に、朝の訪れを告げるように地平線から強烈な光が降り注ぐ。それは広間に集まった全ての人間を照らしだし、その道行を照らすよう。
照らし出された白皙の顔。麗人の翡翠の双眸は、その光にも負けないような強い光を称えて。
「――死ぬことは許さない。またひとつ大きな冒険の記録を手土産に、この場所に全員で生きて帰って来ようじゃないか!」
その言葉と同時に振り上げられた拳に習うように、全ての調査員が各々の武器を天高く突き上げる。
まるで地震ではないかと勘違いしてしまうほどに地面は揺れ、それぞれの感情の乗った雄叫びは空気を震わせる。
誰もが心を昂らせ、これからの攻略に一層の期待を募らせる中ふ、と。藤野はひとり隣を窺う。
大隊本隊所属で、打ち合わせはないがいつも自然と隣に立つ、彼を。
――そこには、まるで憑き物が全て落ちきったような、清々しいまでの静謐に満ちた紅の瞳。
それは、5年前のあの日。地底湖で初めて仮面を取り払った一樹の素顔そのものだった。
それを見て、なにか言おうとした口も、琥珀色の双眸も固まらせて、藤野はただその姿を瞳に映す。
「……なんで、そんな顔するんだ、」
微かに零れた言葉は、喧騒に揉まれてしまって、自分でさえも気づかない。
けれど。
――そんな。満足気な顔をして居るんだ。
かつての彼に戻ったはずなのに。
嬉しいはずなのに。
薄ら寒い予感に藤野は知らず、胸の前で手のひらを固く握りしめた。
ようやく最深部攻略が始まりますね!!!
いや~予想外に前振りが長くなってしまいました汗