5-3.追想:功罪の星月夜
見上げた先には全天の星。その光は何百光年と途方もない時間をかけて、このちっぽけな惑星の空をきらびやかに彩る。
異能力者はその光の中の不思議な力を受け取っていて、だからその瞳には黄金が散っているのだと、胡散臭い評論家が言っていたっけ。
迷宮区のあるヨーロッパよりも肌寒さを感じる秋の星月夜の下、一樹は1人屋根の上で寝転んで思う。
――5年ぶりの我が家だ。
何も変わっていない、と思う。自分が出たきりの部屋も、吹けば飛んでしまいそうな父も強気な母も、この風景も。
それは全て、15までここで生きた自分が見続けた景色そのものだ。
その事が、たまらなく嬉しい。
自分は何もかも変わってしまったけれど。――この風景はそんな自分を変わらない情景で迎えてくれるから。
そんな調子で年寄りのようにぼんやりと景色を眺めて、程よい寒さだったのが鼻頭を冷たくするほどに冷え始めた頃。
ようやく、待ち人が来た。
古びた瓦屋根を踏むささやかな音。その音を聞いて、一樹は振り返る。
――あぁ。成長したな。
「――よぉ、来たな」
暗闇の中に術衣の白を際立たせ、15の彼よりも少し大人びた草薙隼人は呆然と立ち尽くしていた。
その様子を見て、一樹は確信する。――自分の犠牲は、正しく成ったのだ、と。
「夢の中でくらいしおらしくしてればいいのに」
「ユメ…まぁ隼人にしてみればそうか」
不機嫌そうに自分のそれとは深度が違う、深紅の双眸を眇める隼人に向かって、一樹は自分の見ている景色を自分なりに説明する。
『ユメ』という表現は、言い得て妙だと一樹は説明しながら思う。自分は『未来視』という異能越しに次元を渡る漂流者。どこにでも行けて、どこにも留まることは出来ない。
確かにそこにいたけれど、ふと振り返るともう居ない、影法師のような存在なのだから。
だから今の景色も隼人にとっては『ユメ』であり、そして自分にとっても『ユメ』。覚めれば朧気に霞む一夜の幻。
それはそうと。
「腕ねーじゃん。お揃いにしたかったのか?ウケるわっ」
我慢できずに笑ったら、思い切り頭を叩かれた。普通に痛い。
「何笑ってんだよ」
「お前利き手右だろ?苦労するぞ~」
俺は左利きだから良かったけど。
事実は笑い事ではない。腕が吹っ飛ぶなんて、普通の日常生活を送っていればありえないことなのだから。
それでも、ほんのひと時でも愛した弟と他愛のない話が出来るのがたまらなく嬉しくて、ついついバカ話をしてしまう。
この数年は、一瞬ですらそんな余裕はなかったから。
今はまだ日本で日常を謳歌している隼人が、こんな異常な深手を負っているということは。――やはり。
「その様子だと、迷宮区へ戻ったんだな」
「誰かさんのせいでな。全く迷惑な話だ、死んだ後も振り回しやがって」
「それは俺の性分だからな〜。って、弟ならそれくらい知ってるだろ?」
言ってしまってからしまったと言う顔になって顔を逸らす隼人を見て、一樹は苦笑する。そんなこと、気にしなくていいのに。
それは、自分が選んだ道なんだから。
……なんて言っても、このひねくれた優しさを持つ彼は、聞き入れてはくれないだろうけど。
ただ、と。一樹は紅の双眸を細めながらそろりと隣を伺う。先程は笑い飛ばしてしまった、空を切る右袖。
ちゃんと、忠告しておけばよかったな。
今の一樹は目の前の、最悪の未来を回避することに全力を注いでいる。その未来にならないよう、それだけを無数の道筋から選びとって手繰り寄せるので手一杯。
だから正直、それ以外のことは視えないのだ。視ることは出来ても、そこに構っていられる余裕はない。
だから未来を見た時に隼人の腕が無くなる事も見逃してしまった。
そして。――一樹にとっても、この瞬間は『ユメ』。『未来視』の異能力者が視る『未来』の正体だ。
だからきっとこの『ユメ』から醒めた時、一樹はこのことを忘れてしまうだろう。後に残るのは、ただ少し大きくなった隼人と会話をしたという、曖昧な幻だけだ。
「…自分が死ぬって、いつから知ってたんだよ」
ぽつり、とこぼれた言葉に沈みかけた思考の海から浮上する。その声が今の彼の身体年齢からは想像できないような、迷子になった子供みたいにか細くて、思わず見開く紅の双眸。
この質問には、きちんと応えてあげないと。そう思ってそうだなぁ、と努めて普段通りの声音で前置きをして。
「5年前、いま、お前からすると7年前か。初めて迷宮区に行って、調査団のみんなが死んだ時かな」
自分も右腕を持っていかれて、死にかけの意識のない状態で視えた未来。
自分がその時死ぬ、という未来ではなく、下手をしたら世界中の多くの人間が死ぬかもしれない。そんな終末期を迎えないための、ささやかな犠牲。
自分1人の死が、その未来を回避する。
だから。――草薙一樹は死を選ぶ。
「未来を繋ぐため、とか言うやつ?」
悲痛な顔でこぼれた隼人の言葉は、今まで渦巻いていた心象を端的に表すにはピッタリだった。
流石天才。いい言葉を知っている。
「何それかっけぇ。頂くわ」
ぱちんと指を鳴らす向かい側で、辟易と隼人は肩を落とす。素直にかっこいいと思ったんだからしょうがないだろうが。
そう、未来を繋ぐためだ。それは誰とも知らない他人の未来で、友人や。――短い人生で唯一、人生を捧げても良いと思わせてくれた、琥珀色の未来。
そこに自分がいればよかったのにと。願わなかった事は無いけれど。
「未来のため。そう、それいいな」
半ば無意識に吐き出された言葉は、自分でも分かってしまうくらいに震えていて、隣の気配が少し緊張する。敏い弟のことだから、きっと些細な変化にも気づいてしまっただろう。
本心を吐露しないように、切り替えるようにふっ、と短く息を吸い込んで、一樹は言う。もう時間はない、と。何よりもこの瞳が告げている。
その前に、告げるべき言葉を告げなければ。
「――お前に救って欲しいやつがいるんだ」
それは、迷宮区の最深部近くで保護した、無垢な子供。一目見た瞬間に一樹は悟った。――この子供はきっと、この迷宮区という名の大きな謎の答えに辿り着くための、鍵となるだろうと。
それは一樹のこの終末期を変える、なんて願いがちっぽけに見えるほど、人ひとりが背負うには重すぎる、運命という名の重圧。その大きな流れには抗うことすら出来ず、彼はきっと沈んでしまう。
自分が隣で支えてあげたかったけれど。――その役は、自分ではないから。
「あいつはああ見えてもまだ2歳児でって、お前から見たら4歳児か?まぁまだ小学生にもなってない子供で、迷宮区から1歩も出たことがない可哀想な奴なんだ。迷宮区で見つけたんだが、それ以前の記憶も一切ない。世界を知らない。人間を知らない。あいつの身体は人間とは違くて、だからあいつの周りは敵だらけだ。だから誰も、自分のことも信じられなくなってる。――本当は、誰よりも純粋で縋るものを欲しているのに」
雪白と瑠璃の、純白な少年を頭に描きながら一樹は思う。保護したからには最後まで面倒見る責任があるのに、彼もこんな世界に1人、置いて行ってしまう。
もう誰も悲しませたくなかったのに。誰も悲しませないように、つかず離れずな距離を保ってきたのに、またそういう人を抱え込んでしまっていた。
……彼にもきっと、嫌われるだろう。
本当は誰よりも心に空いた空虚を埋めてくれる、隣にいてくれる誰かを純粋に求めているだけなのに。
だから。
「あいつは誰よりも迷宮区の最深部に行きたいんだ。――自分自身の、存在理由を知るために」
記憶もない。
親も知らない。
自分の身体は人間のそれとは違う。
その全ての答えが、迷宮区の最深部にあるのだと、一縷の望みをかけて進み続けるその姿を想像して。
――ヴァイスには、それに縋るしか無いのだから。
それでも彼は不自由で、人間とは違うからという理由だけで迷宮生物と同じように管理され、首輪を嵌められ、雁字搦め。戦闘能力はあるけど、無知ゆえにその力の使い方をまだ知らない。
だから彼には、弟が。――『軍神』と呼ばれた天才の知恵が必要なのだ。
その場所へ隣から導いてくれる、心強い相棒が。
願うように、真っ直ぐに深紅の双眸を紅のそれで横目に窺う。こんな何もしてやれなかった不甲斐ない兄のお願いなんて、聞いてくれないんじゃないだろうか。
いや。聞いてくれない方が当たり前か。
審判を待つように長い時間、本当はほんの少しの時間だったが、時が止まったかのように錯覚するような長い時間を経て、隼人は口を開く。
「兄貴の望み通りの救いには、程遠いだろうけど」
聞き入れて貰えないだろう、無視されるだろうと思っていたから、反応が遅れてゆっくりと表を上げて隣を見る。真っ直ぐにこちらを向いた深紅の瞳が、こちらの紅を射抜く。
その中の、一樹の願いを汲み取るかのように。
「あいつの行く末を、見届けるくらいはしてやるさ」
ざぁ、と風にさらわれるように隼人の決意は満天の星空へと舞い上がる。
言ってから自分がだいぶ恥ずかしいセリフを言ったことに気づいたのか、夜風で乱れる赤銅色の髪を抑えながら隼人は気まずそうに顔を伏せる。
恥ずかしくはない、なんて飾り気のない彼らしい言葉。
あぁ、でも。たったこれだけの言葉でこんなにも。――清々しい気持ちになれるなんて。
強ばっていた肩をほぐすように、一樹は吐息とともに力を抜いて。
「あぁ、良かった」
これでようやく、肩の荷がおりた。
伝えたいこと。
伝えなければならなかったこと。
最後に弟と、会話ができたこと。
あとはもう、自分が使命を全うするだけだ。
唯一の心残りがあるとすれば、それは救って欲しい人間がヴァイスだけではないということだが、それを伝える気は無い。
そうして見上げた星空は、今まで以上に輝かしくて。自分がまるでサリウムに囲まれた舞台の真ん中にいるよう。煌々と輝く星々は、自分の心の風景を汲み取ってくれているようだ。
ふ、と。隣の空気ががくんと揺れる気配に振り向くと、そこでは隼人が膝をおってふらついている。急激な眠気に抗うように、閉じられた半分の瞼を懸命に押し上げようとしているが、その抵抗は無意味だろう。
「もうユメから醒める時間か」
そういえばもっと幼い頃、まだ隼人が10の時。自分が夜遅くまでこうして起きていると、眠そうな目をこすって、それでも自分より先に寝るもんかと言いたげに隣で小難しい小論文を読んでいたっけ。
何にそんなに意固地になっていたかは知らないが。――眠たいなら、寝てしまえばいいのに。
自然と一樹は残った左手を隼人の頭に伸ばしていて、自分と同じ赤銅色の髪を掻き混ぜる。
幼子を寝かしつけるように、優しく。
「まぁなんだ、こんな生意気になって大きくなったお前が見れて良かったよ」
この言葉も、もう届いていないかもしれない。半透明になって薄れつつある隼人を見ながら、一樹は思って、目に焼きつける。
これが、本当に最期。
だから、隼人が最後の力を振り絞るように告げられた言葉は、一樹にとって不意打ちだった。
光の粒子となって輝く星々に混ざるように立ちのぼる中、降り注ぐようにその言葉が降りかかる。
「だから安心してくれ。あいつのついでに、俺自身も救ってみせるからさ――」
どうしてそれを、と反射的に最後の粒子を掴む。しかしそれは夏の川辺の蛍のようにするりと手のひらをぬけ、溶けるように風にさらわれて消える。
最初と同じくひとりぼっちになった屋根の上、一樹は呆然と空を見上げて。
「……なんだよ、そんなことまで解らなくていいんだっつの。お兄ちゃん恥ずかしいだろ」
「…ったく、こんな時間にこんな所に呼び出して、なんの用だよ兄貴。…って兄貴?」
17の隼人よりも若い声。まだ変声期を迎えてすぐの15の隼人の怪訝そうな声に、一樹は慌てて眦から流れた感情の水を拭う。
「…いや、なんでもない。やっぱこの時期でも夜は冷えるな」
涙は拭えたが啜りでる鼻頭までは抑えきれず、ずびとすすりながら振り向く。
我ながら、苦しすぎる言い訳だなと思いながら。それでも弟の手前、弱気な姿は見られたくない。
だって自分は彼の。――兄貴なのだから。
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どこか優しいユメを見た気がする。
覚醒しきらない暗闇の中でひとりそう頭の中で思って、しかしそれは直ぐに霧散して消えてしまった。
フレームを軋ませながらベッドから這い出て、手早く顔を洗って頭をしっかりと覚醒させる。
装飾の一つ一つを丁寧に、見慣れた純白の騎士団服のような制服の袖に腕を通す頃には、もうすっかりさっきまで見ていただろうユメのことは頭から切り離されて、自然と姿勢が整う。
――ようやくこの時が来た。
まだ夜も明けきらぬ黎明の中、一樹は『タキオン』本部内の自室をひとりぐるりと見渡す。
余分なものは一切捨て去った、淡白すぎる簡素な部屋だ。それはまるで引越し前のようで、もっと言えばもう帰らない、死ぬ前の身辺整理が成された室内。
――事実、その通りだ。
これから『タキオン』は攻略のために再編成された精鋭部隊で迷宮区『サンクチュアリ』の最深部へと突入する。
多くの犠牲、多くの死傷者が出るだろう。それはかつて初めて一樹が迷宮区へ足を踏み入れた時の、50人以上が死んだ悲劇よりも。
だが、そうでは無い。――草薙一樹が死ぬということ。
それは神のみぞ知り、一樹自身が選択した未来。
5年前のあの日。仲間の死骸の中無様にも生き延びてしまった混濁した意識の中で見てしまった惨劇を、現実にしないために。
『未来視』の目だけが特別な凡人は、その為だけに犠牲になることを選びとった。
不思議と、悲しみや涙は出ない。心はむしろ今まで以上に清々しい。さっきまで視ていたユメをもう彼は忘れてしまっているから、その感情の理由は分からない。
けれど自分が死んでも、遠くない未来。――その先を繋いでくれる存在を、一樹はちゃんと知っているから。
「……あとは頼んだぜ、隼人」
あいつはきっと、俺のことをもっと嫌いになるだろうな。
そう思うと少し悲しい気もするが、それだけのことをこれから自分はしでかすのだから、それくらいの文句は聞いてやろう。
あいつが人生を生き切って、彼岸の世界で。
最後に机の上の封筒を一瞥してそ、と扉を閉める。
――草薙一樹は、もう二度と振り返ることは無かった。