5-1.追想:在りし日の彼ら
過去編突入です!主人公sの一世代上、兄姉世代の活躍をしばらくお届けできたらと思っております。
際限のない暗闇を、一心不乱に薄桃色の髪の少年は駆け降りる。
乱立する今にも崩れそうな建物群の闇よりもなお黒くぬりつぶされる漆黒へは、普段嘲笑うかのように天に座す太陽の光さえも届かない。自身の伸ばす骨ばった腕だけが、目に痛いほどに白くシルエットを象る。
怖い。恐い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い――。
泣き虫な自分の隣には、いつもの太陽のような兄の姿はなく、心細さに拍車がかかる。いつの間にかいなくなってしまった温もりが、幻だったのではないかと思うほどの長い時間。それでも必死に少年は記憶を頼りに探し続けてもうどれ程か。
表通りは『酔う』からと外れてしまったのが運の尽きだ。タチの悪い野党から逃げて逃げて、いつの間にかこんなところまで来てしまった。
「――あっ!」
大した大きさの段差でもないのに、走りに走って酷使した足はもつれ、そのままの勢いで地面に滑り込む。ひんやりと冷たい、土の香り。
「……っぅ、」
十分に酸素の行き届いていない両手をついて、それでもなんとか上体を起こして周囲をぐるりと見回す。ようやく暗闇に慣れてきた白銀の双眸が、辺りの輪郭をぼんやりと捉えて。
――なんだろう、この臭い。
口を覆いたくなるほどに悪臭、という訳では無い。元々自分たちがいた掃き溜めのような貧民街の路地裏よりはマシ。かと言っていい匂いかと聞かれれば、それも否。
強いて言うならそう。――動物園の獣臭。
そう思った瞬間に、少年の薄桃色の髪に頭上から何かがふりかけられる。頭からこぼれて手のひらまで侵食し、少年はマジマジと見る。
透明な、粘り気のある生暖かい液体だ。
――とても嫌な予感がする。
そう思った少年が咄嗟に横に飛んだのは、全くの偶然。転がるように壁際目掛けて体を投げ出した直後、元いた場所に何かが突き刺さるかのような重低音。
何事か。――誰でもない自分自身への確認の声は、振り返った瞬間に霧散する。
ただでさえ狭苦しい洞窟を、埋め尽くさんがばかりの勢いの、爬虫類の鱗。
巨大すぎて、全容は見て取れない。しかし一番近くにあった、たった今地面を穿った胴体だけ見ても、何百年と生きる樹木のように野太い。
何よりも。――暗闇の中に置いても、なおも爛々と光る赫い目。
蛇のようにうねる身体の奥深くから突き刺さるように向けられるその眼光を向けられ、それだけで少年は動けなくなる。
その瞬間に全てを悟った。――途方もない暗闇の正体を。
迷宮区『サンクチュアリ』。
突如として発生した、果てのない異空間。
異世界と呼称してもいいそれに、自分は足を踏み入れてしまったのだと。
先程まで駆けていた貧民街は迷宮区最表層に存在しているので、厳密にこの表現は正しくない。しかし一階層降りただけで、そこは全くの別世界が拡がっている。――これまで数え切れないほどの人間を飲み込んだ、底なしの闇。
貧民街には度重なる崩落や地震などで、調査団や自治体が把握しきれていない入口が多く点在している。逃げ惑っているうちに、知らずその穴をくぐってしまっていたのだ。
この先の結末は、幼い少年にすら容易に想像が出来る。――貧民街の野党たちに捕まった方がマシだったかもしれない。
まさに蛇に睨まれた蛙のように動けない少年を目前に、名も姿も見えない化け物は顎を大きく開く。
――結局。泣き虫の自分にはたった1人の肉親さえ見つけ出すことが出来なかった。
「――デカい図体で道塞いでんじゃねぇぞごらァァァ!」
場違いな怒声と共に振り下ろされる一閃。天から一直線に振り下ろされたそれは、一太刀で鱗に覆われた野太い首を両断する。
人間のそれとは違う蒼い血飛沫を上げながら、化け物は叫びをあげる。狭い通路を揺るがさんがばかりの断末魔。
鼓膜がはりさけるのでは無いかと思うほどの絶叫はやがて勢いを失うと、ついには頽れる重音に上書きされて消える。
あまりの突然の出来事に、少年は呆然とすることしか出来ず。その沈黙を破ったのはまたしても闖入者だった。
飛び降りた衝撃を緩和するようにしゃがみ込んだ上体をゆるり、と起こし振り返る。その動きを追うように追随する右袖に重みはない。
何よりも印象的なのは、煌々と輝く黄金を讃える、自信に満ち溢れた紅の双眸。
「よぅ。間一髪、間に合ってよかった」
「……えっ、と、」
「こんな所に子供一人で来るもんじゃねぇぞ、少年。いくら子供でも金が稼げるからって死んじまったら意味ないし」
「あの、ボクは、――っ!」
出会い頭の正論に、どう返そうか悩んで泳がせた視界に偶然それは写り込む。
首だけになってもなお獲物を喰らわんとする、蛇の頭を。
「――危ないっ!?」
「なに。問題ねぇよ」
そう、青年が言った瞬間だ。
――それが合図だったと言わんばかりに、背後にまで迫っていた蛇の顎が勢いよく燃え上がる。
『――――――――――――!?!』
最早意味のなさない悲鳴が、煌々と燃え盛る焔のなかで轟く。しかし何より少年の目を奪ったのは、その炎の色。
赤でもなく。橙でも黄色でも、ましてや青でもない。――およそ自然界に発生するとは思えない、緋色の焔。
骨の髄まで燃やし尽くさんばかりに更に勢いの増す炎の中で、焼きただれてもはや原型すらとどめていない化け物は、それでも諦めてはいなかった。
せめて1人だけでも道連れに。燃える炎を擦り付けるように青年へと崩れ落ち。
――転瞬。天からの閃光によって、一瞬のうちに蒸発し蛇の頭は弾け飛ぶ。
まさに落雷のような雷撃。その凄まじい音に咄嗟に庇った鼓膜がきーんと耳鳴りを起こす。その中に硝子が砕けるようなささやかな音があったことに、もちろん少年は気づけない。
しかしそれは青年も同じだったようで、不意打ちの大音響にしばらくその場にしゃがみこんで唸りを上げて、ようやく抗議の声を背後に投げる。
「〜〜ってめぇアルベルト!こんな閉鎖空間で魔法使うなんて何考えてやがる!?」
「お前こそ。この俺に後始末をさせるなんて、いい度胸じゃないか」
そう言って、未だぎゅうぎゅうに鱗に覆われた図体の真逆の暗闇から現れたのは、同性の少年さえも目で追ってしまうほどの、白に近い金の髪の麗人。
「お前のその最後に油断する癖はいつになったら直るんだ」
アルベルトと呼ばれた麗人は手に持っていた精緻な剣を鞘に収めると、呆れの色の濃い翡翠の双眸を眇める。
「ばっか分かってねぇなこれだから頭でっかちは。い〜い焼き加減で焼いて食わせてやろうと思ってたんだよ。見ろコレ、こんがりというかもう原型すら残ってねぇよ」
「こんなゲテモノを子供に食わせるな。しかもどうせ毒持ってるだろ」
「え?何言ってんの。食べるのお前。毒味もなしに食べるわけないじゃん何言ってるの?」
「あ"?」
「は?」
見たところ、2人の青年は少年よりも成熟しており、10は確実に歳上だろう。それなのに目の前で繰り広げられる会話はとてもそうには見えなくて。
なんというか。――幼い子供同士の口喧嘩。
そもそもどうして出会い頭にそんなに喧嘩腰に喋るのか、元々争い事が嫌いな少年はその様子をアワアワと眺めることしかできない。
「〜〜もういい加減にしないか2人ともっ。子供の前で恥ずかしくないのか!」
いつの間にやら、やれ『先日の階層主は俺の手柄』だの『それは俺のサポートあってこそだろ』だのと論点がズレにズレまくっていた青年らの間を、無理やりこじ開けて割ってはいる第三者の声。
それは別段大きな声量で発せられたものでもないのに、すんなりと少年の耳朶を震わせる、鈴の音のような凛としたものだった。
「例え子供の前だろうと御年寄の前であろうともいつでもどこでも変わらない。それが俺という人間だ」
「俺はいち調査団の長として、そのバカを諌めただけだ」
「ほぅそれだけ言い返せる元気があるなら、疲れきってるみんなのためにこの『ワーム』の巨体を退けてくれるんだ?」
青年たちより頭1つ小さい細身のシルエットの滑らかな曲線は、紛れもない女性のそれ。
長く伸ばした濡れ羽色の髪は惜しげも無く背中を流れ、女性の動きを追うように靡く。
その女性の提案に、青年2人は全く同時に振り返り。
「「なんで俺が、」」
「ん?」
「「なんでもないです」」
言い返そうとして、瞬時に凍てついた空間を前に青年たちは180°意見を裏返す。
ちょうど少年を背に庇う形で仁王立ちする女性の表情は見ることは出来なかったが。――それを目前にする青年らの引きつった面を見れば、彼女がどんな表情をしていたのかおよそ想像がつく。
せこせこと身を縮こませて『ワーム』と言うらしい迷宮生物の残骸を片付けにかかる青年たちを見送って、濡れ羽色の紗幕を靡かせながら振り返る女性。
「私はフジノ・ココノエ。――君の名前はなんと言うのかな?」
フジノと名乗った女性の、吸い込まれそうな程気高く美しい琥珀の双眸を、少年。――アデルは白銀のそれに写して瞬いた。
-----
「――長い前置きは不要だろう。今日は本日までの最深部調査と、1週間後に控える攻略の景気づけだ。存分に楽しんでくれ」
アルベルトが音頭と共にグラスを掲げると、それに習うように集まった大勢の人々は高らかに声を上げ、それぞれのグラスを煽る。
崩落した旧サン・ピエトロ大聖堂の一角を贅沢に使った広々とした施設。それが創立されてわずか3年で最前線攻略組のトップに躍り出た、多国籍最上位迷宮区調査打撃群『タキオン』の調査本部だ。
その輝かしい栄光を誇示するようにゆき届いた庭園は、今は軽く1000を越える人達で溢れかえっていて足の踏み場もない。
『団』ではなく『群』と銘を打っている『タキオン』の本質は、旅団や連隊といったひとつの大きなチームとして攻略するのではなく、個々のポテンシャルを生かしながら大隊規模での連携を重視した、変幻自在の機動力にある。
それでも一度に1000人以上の活気ある若者が集まれば、どんちゃん騒ぎもまるで野外ライブのよう。
そんな庭園の片隅で。
――なんでボク、ここにいるんだろ。
スクリーンの向こう側を見ているかのような現実味の伴わない宴会をよそに、アデルは手渡されたグラスにちびちびと口をつける。もちろん中身は酒ではなく果汁ジュース。
「…怪我の方は大丈夫ですか、少年」
「わぁっ!?」
「ひぇ!?」
突然背後からかけられた声にアデルは手に持っていたグラスを危うく取りこぼしかけ、弾みでてた声に更に上書きされる悲鳴。
すんでのところでグラスを持ち直して恐る恐る振り返ると、そこには宴会の明かりの影にひっそりとしたシルエットが浮かび上がっていた。
まるで影が人間をかたどったかのようなアデルよりかは歳上らしきその人は、あわあわと所在なさげに手振り身振りをしながら。
「す、すみませんっ拙は驚かすつもりは無かったのですっ」
「ぼ、ボクの方こそごめんなさいっその、えっと、」
同じような人種が会話をすると、こうも話が平行線になってしまうのだろうか。一通りお互いがお互いにへりくだってから、影は小さく笑う。
「……閣下、いえ。アルベルト様に言われて参った次第です。所在なさげにしているだろうから、話し相手になってくれと」
隣良いですか、と訊ねる声にアデルは小さく頷く。滲み出るかのように影は暗闇からするりと出ると、音もなく隣に座る。
「拙はダンゾウと申します」
「……女の子なのに?」
名乗られた聞きなれない名前は異国のものだったが、それでも厳つい響からして男性のそれと理解して、そのうえで似合わないとアデルは思う。
その名前が不釣り合いなほど、隣に座る影は小さくて。――華奢な女性のシルエットだったから。
ダンゾウと名乗った少女は全身真っ黒な恰好で、唯一彩度のある夕暮色の瞳をぱちり、とまばたく。
「これが習わしなのです」
「ファミリーネームはないの?」
「拙は孤児なのです」
その言葉に、自分の考えの至らなさを恥じる。不躾に踏み込みすぎた。
「……ごめんなさい」
「なに。ここでは当たり前のこと。ですのでどうかダンゾウと。ただのダンゾウと呼んでいただけると嬉しいです」
自分と同じと言っては失礼だろうか。彼女は気遣うようにそう言うと、不器用に微笑する。
そんな空気を払拭するように、ダンゾウはそういえばと続ける。
「アデル殿はどうしてあんな場所に?子供一人で行く場所ではないと思うのです」
「……怖い人たちに追いかけられて。逃げてたら知らないうちに」
「野蛮な方たちがいるような路地も危険なのですよ?」
「それは分かってるけど……」
真っ直ぐに向けられる夕暮色の双眸から逃げるように、アデルは視線を逸らす。――本当のことを言って、信じられたことなんて一度もない。
と思って油断していた。
「…………」
「ひっ!?」
逸らした先に、さっきまでは確かにいなかった少年の顔が間近にあって、素っ頓狂な声が出てしまう。
音もなく現れた少年はどこまでも白く、白皙の顔には、感情というものがどこか抜け落ちているかのような無表情。
ただ一つ。ビードロのような澄んだ瑠璃の双眸に炯々と黄金を光らせて。
「……君、僕と一緒の色持ってる」
「え、」
「おや死神殿。どうしたのですか?」
たじろぐアデルの後ろから彼女も見えたのか、ダンゾウは少年に是非を問う。
『死神』――浮世離れしすぎている、この少年には確かに似合の肩書き。
「カズキは?」
「あぁ。先程閣下に呼ばれていましたよ。入口付近にいらっしゃるのでは?」
「……後で行く」
あいつは嫌いだ、と。『死神』は不貞腐れたように僅かに柳眉を寄せると、それきり興味を無くしたのか振り返ることなく去っていった。
突然現れて突然去る。そのあまりの気まぐれさに開いた口が塞がらない。
「彼はああいう方なのです」
「……はぁ、」
「ともあれ成程。答えは得ました。アデル殿も異能力者だったのですね」
「いのう……?」
そうですね、とダンゾウは口元に手を当てて思案して。
「例えばはるか遠くのものが見えたり、どんな些細な音でも隣で聞くように聞こえたり。そういった体験はありませんか?」
その言葉にアデルは白銀の双眸を見開いて固まる。それは見る人が見れば決定的すぎる回答。
ダンゾウは大きくひとつ頷くと、持っていたグラスを傾ける。
「なに。異能力は隠すものではありません。かと言ってひけらかすものでもないのです。なので拙はこれ以上は聞かないのですよ」
ただ、と。今まで向けていた夕暮色の瞳をアデルではなく、その正面に向けながら。
「そういった不自然な経験で悩み事があるのなら、あの方にお伺いするとよろしいのですよ」
「あの方……?」
その視線を追って、アデルも面を上げる。アデルたちは手入れされた庭園の、少し隆起した地面の上に転がっていた丸太に腰掛けているため、集まった人々よりも僅かに視線が高い。
その俯瞰景色の向こう側。『タキオン』本部正面には2人の青年と1人の女性の姿。
――先程アデルを窮地から救ってくれた人達だ。
「我が主を含め、『タキオン』でトップクラスの調査員。【三天】の1人、クサナギ殿です。あの赤みがかった黒髪の御仁ですよ」
赤みがかった黒髪。そんな人は1人しかいないので、アデルは一目で判別出来た。――一番最初に助けてくれた、緋色の焔の人。
……クサナギ、と言うのか。
彼はアルベルトと呼ばれた麗人と、フジノと名乗った女性とかわるがわる挨拶に来る団員と言葉を交わし、時には庭園をめぐり。その間にも3人での会談を楽しんでいるようだった。
「神の刀である『天羽々斬』の使い手であり、結界術に長けるココノエ殿。我が主にして唯一無二の『雷』魔法の使い手、『タキオン』総団長アルベルト様と並び、クサナギ殿は『タキオン』が誇る三本の剣であり創始者、【三天】の1人なのです」
彼女にしては珍しく、とても得意げに説明する声は聞いているアデルにすら分かるほど軽やかだ。
確かに、あの3人が纏う空気は他の団員たちとはどこか一線を画しており、これだけの大人数の中でも呑まれることの無い存在感。
『格が違う』と言ってしまえば簡単なのだが。しかし、アデルがクサナギに対して抱いた感情は少々違う。
「クサナギ殿はなんと言っても『未来視』の異能力者なのです。アデル殿の悩みにもきっと良いアドバイスをくださいますよ」
「なんだ、なんの話ししてるんだ?」
一通りの挨拶回りが済んだのか、いつの間にか目の前に来ていたカズキが楽しげに声をかける。噂をすればなんとやらという話はあながち嘘ではないらしい。
知らず思考に沈み伏せていた視線をあげるとかち合う、黄金の散った紅の双眸。
「よ。少しは楽しんでるか、アデル」
「えっと、はいっ。でもボクが居ていいのかなって…」
自然な流れで出されたグラスに、アデルは慌てながら自分のそれを合わせる。ちん、と硝子同士が鳴る音とともに鼻孔をくすぐる果実酒の香り。
「これも何かの縁だよ。それに1人2人増えたくらいじゃ周りも気づかないし」
確かにアデルの姿を見て咎めるものは誰もいない。むしろ気さくに声をかけてくれる人や気にかけてくれる人しかいなくて、今まで邪険にされたことしか無かったアデルにとっては、拍子抜けもいいところだ。
自分を気にかけてくれる人なんて、この世に兄ただ1人だけだと思っていたから。
そう思うアデルを他所に話は進んでいて、カズキが来る前まで話していた議題が持ち上がっていた。
「アデル殿もどうやら異能力者のようで。悩みがあるのなら、クサナギ殿に聞くと良いですよとアドバイスしていたのです」
「あ〜成程。俺で良ければ話は聞くぜ。まぁ最深部攻略に俺も行くから、もう1週間しか時間ないけど」
【三天】と呼ばれる腕を持つのなら、迷宮区攻略にはあってはならない存在になる。それが最深部という未知の領域ともなればなおのこと。
だから、カズキが出陣することにはなんのおかしな点もない。
しかしその言葉を聞いた瞬間、アデルはひとり納得する。白銀に浮かぶ、今はその色彩に混じってしまうほど儚い黄金を光らせながら。
――あぁ。だから。
「――だからクサナギさんは、『今』を視てはいないんですね」
本人としては、何気ない一言。
他人が聞けば、何を指すのか分からない一言。
しかし。――カズキにとってはかつてない衝撃の一言で、瞬間紅の双眸は見開かれて凍りつく。
「……お前、」
「クサナギ殿」
カズキがうわ言のように滑りでた呟きに被せられるダンゾウの声はしん、と深海のように静かで冷淡なものだった。
知らず発せられたカズキの殺気からアデルを庇うように、ダンゾウは二人の間に滑り込む。
それでもしばらくカズキは漏れ出す殺気をアデルに向け、やがて自分自身に言い聞かせるようにと大きくため息を着く。
「……そうか、お前が」
それは風が吹けば煽られて空に霧散してしまうような、小さな声。それでもアデルの耳はその声を聞き逃すことなく、言葉を脳裏に刻む。
どこか祈るような。――安心したような声音と共に。
1000人以上の人間が、それぞれの時間を謳歌する喧騒の中。その青年は20という年齢に似合わない黄金が煌々と輝く紅の双眸を、全天の星空に向けて。
「俺はずっと、この時を待っていたんだ。――これでようやく、俺の役目が終わる」
見つめたのは天井一面に広がる星の海。しかし彼はさらにその先の、遥かな景色を見据えながら、ポツリと呟いた。




