4-1.最深部へ
前回から間が空いてしまった~すみません~!
でもその分文量あるから察してほしい…←
彼の初めて会ったのは、ちょうど二年前。スペインの片田舎にひっそりと立つ、こじんまりとした教会の、外と中を隔てる扉の前。
あまり知られていないが、スペインにも季節によっては寒暖差があり、冬になればそれなりに雪も積もる。
そんな雪が降りしきって一面真っ白の中。その人は同じ白に限りなく近い金髪を、冬の風になびかせて。
「――貴女を、殺しに来た」
隠す気なんて微塵もない、端的で簡潔な言葉。凍える空気に白む呼吸とともに吐き出された言葉に、ハンナは一瞬菫色の双眸を見開く。
だけど、それも一瞬。それだけで、ハンナには充分過ぎた。
生まれながらにしてこの世ならざる神秘を宿したこの身体。
それは例えば願うだけで万物に干渉し、周囲の生命に活力を与える癒しの力。
例えば神からの啓示。
彼女は神に祝福された娘だった。
それを良い金になると両親には身売りされ、教会にいいように使われて。そして手放したくないからとこんな辺鄙の地に、同じく身売りされた貧相な名ばかりの騎士と共に閉じ込められて数十年。
思えば白昼夢のような、その時はまだそれが神の言葉だとは分かっていなかった最後の啓示。
――ようやくこの時が来た。
言葉とは裏腹に、口元には薄い笑み。その意味がわからないのか、はたまた不謹慎だと思ったのか。まだ名前すら知らない麗人は、柳眉を僅かに寄せる。
まるで少年のような、拗ねた顔。それが少しおかしくて、ハンナはその言葉には返さずに、違う言葉を贈る。
「ねぇ貴方。神様って信じていますか?」
「俺の神はもう死んだ」
「……そう」
間髪入れずに返された言葉は酷く荒んでいて、諦観に沈む。すがった親に、友に。裏切られて悲嘆にくれる少年のように。
――悲しい人だと思った。
神を信じないことがでは無い。彼の生き様を想像して、彼自身をすり減らせるような、そんな人生を良しとした事に。
だから、ハンナは条件を出した。
ひとつはこの場所でずっと寄り添ってくれた、ひ弱な騎士の同行を。
もうひとつは。――彼の妻になること。
偽りでも構わない。ただ彼の隣に居れる肩書きがあれば十分。
――愛を知らない。愛することを禁じてしまった翡翠の瞳の麗人に、愛を与えるために。
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懐かしい記憶を見ていた気がして、ハンナはその大海から浮上するように目を開ける。
まっさらな何も無い。白い天井。
煩わしいほど沢山取り付けられていた酸素マスクや電子コードは全て払われて、夜の静謐な空間には今は音は何も無い。
差し込む光は月光だけで、軌跡を追うように隣の窓に自然と視線を向ける。
何をするでもなくひっそりと。ベッドの隣に備え付けられた椅子にすら腰掛けず、アルベルトは腕を組んで佇んでいた。
出会った当初から、ついに直ることのなかった、腕を組む癖。
それをみて、ハンナは薄く微笑んでしまう。
「……アル、」
「済まなかった。俺の失態だ」
「違うわアル」
「こうなることは分かっていたはずなのに。それなのに貴女の命を無為に、」
「アルベルト」
決して強い口調で呼んだ訳では無いのに、アルベルトは翡翠の双眸をは、と瞠る。
「無為なんかではないわ。わたくしはちゃんと自分で選んで貴方のそばに居たのですから」
緩く伸ばされた腕に、引き寄せられるようにしてアルベルトはようやく歩み寄って、その手をとる。酷くぎこちない、初めて赤子を抱くかのような動き。
ハンナはその手で白磁の顔を撫でる。
「ごめんなさい。【聖櫃】は奪われてしまった」
「……あぁ。でも貴女が気にする必要はない。あとは俺に任せて、」
不自然に切れたアルベルトの言葉を想像して、ハンナは困ったようにはにかむ。これもついに直ることのなかった、彼の不器用な優しさ。
でもそれを口にすることはハンナには出来なくて、だから代わりの言葉を贈る。
出会った時に交した、思い出の。
「ねぇ。神様はいるって信じられるようにはなれた?」
「……神様なんて、居ないよ」
神様を信じて、生から逃げて欲しい訳じゃなくて。いもしない『神様』に理不尽なことを押し付けて、伸び伸びと生きてほしい。そう思っての言葉で、それを正しく理解した上で、彼は神を信じない。
2年という月日で変えられるものでは無いと思ったけど、頑として聞き入れない姿は、本当に少年のようで、ハンナは微笑する。
それは、限られた人間にしか見せてくれない姿だから。
色んなものを背負い込んで、託されて。がんじがらめの彼にこれ以上背負って欲しくないから。
最後の言葉は、これでいい。
「ありがとうアルベルト。聖女の生まれ変わりと祀り上げられた私を、連れ出してくれて」
周囲の目があるからと。強い人で居続けるために、泣くことが許されなくなってしまった彼に。
アルベルトは固く目を瞑って。やがて決心したように、開いた翡翠の双眸は、凪いだ海のようにしずやかに。
「……愛しているよ。ハンナ」
優しく合わせられる額の温もりに、伏せられた瞳から自然と一筋の雫が滑り降りて、シーツに小さなしみを残す。
本当は。――愛してくれたことなんて、なかったくせに。
『聖女カタリナ』の再臨ともてはやされ、教会にいいように使われ軟禁されていた一人の女性は、静かに息を引き取った。
*****
がら、と音を立てて病室の扉を開くと、廊下にしゃがみこんで膝を抱えてうずくまる1人の影。
アルベルトはそんな彼を一瞬だけ見下ろして、そして足早に去ろうと出口へ足を向ける。
「……なんで、」
しゃがれた声がかけられたのは、その1歩を踏み出そうとした時だった。
ルークは男性にしては長い(アルベルトが言えた義理ではないが)青灰色の髪を振り乱して追いすがるように掴みかかる。
自分もさっきまで死にかけていたと言うのに、眼鏡の奥の黒瞳を怒りにギラつかせて。
「なんで君がいながら、彼女が死ななければならなかったのです!?きちんと守って居たのですか!?ハンナは、彼女はこんなことで死んでは行けない人だった!教会にいいように使われて、不自由な人生を強制させられた彼女がどんな思いで、」
彼の言葉を最後まで聞かずに、アルベルトは振り向きざまに彼の不健康極まりない頬をばしんと叩く。
完全な不意打ちに、元々戦闘力のない彼は踏ん張ることも出来ずにもつれて病院の床に転がって、弾き飛ばされた眼鏡が遅れて軽い音を鳴らす。
「守れなかったのはお前の落ち度でもあるだろう、騎士様?自分に力がないからと、人に擦り付けるな」
冷徹に凍りついた一声は、ルークの動きを止めるには十分すぎた。アルベルトの殺気に、言葉に。何も言い返せず何も出来ずに、ただ固く拳を握りしめ項垂れる。
彼の怒りも、悲しみも。やるせない感情の何もかもを、アルベルトは痛いほど理解している。だから彼の怒りは最もだし、自分にはその怒りを受け入れる義務があるのだと。
しかし。
「今は些事に付き合う時間はない。お前が動かないというのなら私は先に行く」
ただ、と。歩き去る最後、アルベルトは縋るように一言だけ言葉をこぼす。
「……彼女のためにも。お前の力が必要なんだ」
金髪の麗人は。もう二度と振り向くことは無かった。
*****
「――っ、」
微睡む意識の中でも突き刺してくる鋭い痛みに、隼人は思わず呻いて、その衝撃で意識が浮上する。
最初に映ったのは、ゴツゴツとした土色の迷宮区の天井。
「……また死にぞこなったな」
ひとりごちた。
と、思った直後に腹部に強い衝撃が落ち込んで、先程とは違った呻き声が喉から飛び出る。
「っんぐ!?」
「開口一番不謹慎過ぎる」
「気配殺すなよ……」
薄暗い迷宮区の開けっぴろげな空間に真白い影があれば普通は気づけるだろうが、その存在感すら気迫にしてヴァイスはひっそりと地面に転がる隼人の隣に胡座をかいて、ことん、と首を傾げる。どうやら長年の習性に、彼自身は気づいていないようだ。
そこまで考えて。
「っそうだお前、腕は!?」
「っちょ、」
は、と隼人はヴァイスに掴みかかる。気を失う前の彼の惨状を思い出して、確かめるように腕を掴んで引く。
そこには弾け飛んだはずの右腕がちゃんとあって。風穴が空いた左手にもその傷はパッと見た限りでは見当たらない。折られた足も、何も無く地に付けられている事から、無事だろう。
いきなり掴みかかってくるものだから、どうしたものか分からずにヴァイスはおろおろして、結局掴まれた腕はそのままに。
「頭か心臓を破壊されない限り、何度でも修復される。迷宮生物と同じだ」
「〜〜あ"〜〜良かった……」
あのまま吹っ飛んで風穴空いて折られたままだったら、いくらなんでも寝覚めが悪すぎる。
修復された各部とヴァイスの言葉でようやく安心して、隼人は立てた膝に顔を埋めて脱力。
しかし、当の本人はどうやら不満げなご様子で。
じゃりと迷宮区の整備されていない土をかく音に顔を上げると、覗き込むようにヴァイスが身を乗り出して睨んでいた。
子供を叱りつける親のような、少し拗ねたような瑠璃の双眸。
「何が良かっただ。そっちこそ脇目も振らずに飛び出してきて、それが原因で心臓が泊まるかと思ったぞ」
「あぁ〜…」
あのことかと、隼人は思い出して苦い顔であさっての方向に逃げる。ヴァイスがすっ転んで、自分がアイザックの撃った銃弾を両断した時のことを言っているのだ。
「僕はいくらでも再生するけど、君は違うんだ。領分を自覚しろ」
「助けてやったのに酷い言いよう」
「……もう、」
ふと。地面に突いたヴァイスの腕が震えているのに気づく。押し殺しているのか、白磁の手のひらが強く握りしめられて白んでしまっている。
「もうここで、眠っている君の姿は見たくない」
もう二度と目が覚めないのではないかという、恐怖。
眠ったまま、二度と開かれないかもしれない瞼。
それは、隼人も7年前に身をもって体験した。
だから強く言い返せなくて、いたたまれずに赤銅色の頭を掻き混ぜて。
自分とは真逆の全く色素のない、雪白の頭に手を伸ばしてぴん、と指を弾く。
「った、」
「悪かったよ」
ささやかな衝撃に反射で跳ね上がった瑠璃の瞳と、深紅のそれがぶつかって交錯する。虚をつかれたヴァイスは一瞬ぽかんと放心して、大きくひとつまばたく。
「〜〜おい!復活したなら青春してないで手伝え!?」
「良かったーハヤト先輩生き返ったー!!」
なにか言おうとヴァイスが口を開きかけたのと、余裕がなさげながなりごえと能天気に元気な声が飛んできたのは、全くの同時。
言葉をさえぎられたことにむ、とむくれるヴァイスはスルーして声の方をむくと、オリバーとレグルスが2人を守るようにして背を向けていた。
……守るように?なにから?
深紅の双眸を眇めてよく見ると、隼人とヴァイスの四方を取り囲むようにして液状の膜が薄く張られている。『水』系統魔法の防御結界陣だ。
そして。
そのさらに周りを。――蓮を抜いた『ケリュケイオン』4人を取り囲む、おびただしい数の迷宮生物の群れ。
それらを目の当たりにして、隼人はたまらず絶句する。起きていきなり超生物に鉢合わせれば誰だって言葉を失う。
その一瞬の間隙を縫うように、一体のブラックドッグが獰猛に爪を突き立て、硝子が弾けるような音をまき散らして結界が破壊される。
力場を失った前足が。そこに生え並ぶ爪がそのままの勢いで振り下ろされるが、隼人に到達する前に隣のヴァイスが『結晶核』を拳銃で正確に射抜き、音を立てて頽れる。
そういえば。
「……俺それで撃たれてなかった?」
「今更なの……?」
心の底から呆れている感全開で嘆息し、ヴァイスは肩を落としながら。
「レンはあの時銃を入れ替えたんだ」
ヴァイスはの二丁拳銃使いだ。ベレッタM92F2丁を常備し、普段は右腿の拳銃嚢にしまっているものを使い、相手の数や再装填の隙を無くすために腰の裏にもう一丁装備してある。
今回のランキング戦においてはふたつも使うことは無いだろうが念の為と、普段使いの一丁にはペイント弾を、もう一丁には実弾を装填してあった。
だからあの時アイザックは、ヴァイスの左手から零れた拳銃を蓮に蹴り渡したのだ。実弾の入った銃で、目撃者を殺すよう。
そしてヴァイスの言葉通りなら。――蓮はさらにそれを見越して、最初に撃ち落としたペイント弾の入った拳銃を拾い、そして撃った。
何故そんなことをしたのか。理由なんて簡単だ。――隼人を逃がすために。
「……蓮」
旧友を思い、思わず口から零れたにヴァイスは僅かに瑠璃の双眸を眇めて、しかし何も言わずに目を逸らす。
その代わり。
「だから。その顔で真剣な顔されると、正直笑える」
真面目な雰囲気なのに、逆に。
何が?と思って深紅の瞳を細めてあ、と気づく。
蓮が撃ったのはペイント弾だ。だから撃ち出された弾は当然貫通なんてしないで、額で弾けてインクをぶちまける。
気づいて慌てて額を拭うと案の定、赤のインクがベッタリと。
手のひらを染め上げる赤をみて、ふと視線を上げるとあからさまに逃げるようにヴァイスが顔を背ける。
「……お前、何笑ってんだよこっちは真面目に感傷に浸ってんのに」
「だって、顔真っ赤……ふ、」
「さっきまで捨てられた子犬みたいに縮こまって泣いてたくせにこの泣き虫が!」
「なっ!?泣いてないだろ」
なんて言い合いをしていたら、どこからともなく湧き出た水が虚空に出現し、真下に居た隼人とヴァイスは当然頭からぶっかかる。
あまりの突然のことに、流石のヴァイスも呆気に取られて、瑠璃の双眸を大きくまばたく。
その背後から歩み寄る、今にも人を殺しそうな勢いのマリンブルーの影。
「いいからさっさと手伝えよ」
「「……すみません」」
蛇に睨まれた蛙のように、隼人とヴァイスは相談もしてないのに同じタイミングで同じ言葉を口にした。
「貴様たちが2人で勝手に遊んで勝手に死ぬ分には私は一向に構わんが、一応気遣って駆けつけそうそう雑魚どもの相手をしている私の身にもなってみろ。というか貴様のせいで夏季休暇中だと言うとに付き合ってやって死にかけてるんだぞ責任取れ落ちこぼれ」
くどくどくどくど。まるで陰険な継母だな。
なんて言える空気でもないので、隼人は柄にもなく正座して降りかかる罵倒の数々を浴びる。ヴァイスも空気を読んでかはたまたオリバーの剣幕に気圧されたのか、同じ姿勢で黙りこくる。
「だいたいペイント弾で気絶するやつがあるか。情けないにも程が――」
「っちょ何してんのクソ貴族!?そんな影広げちゃ――!」
1人で5体のブラックドッグたちを相手取っていたレグルスのぎょっとした声に、オリバーは我に返ったように一瞬静止する。――その空白が命取りだと言うのに。
ブラックドッグは物体に落ちる影を伝って瞬間的な移動を得意とする迷宮生物。人間や高速で動く物体の影はさすがに仲介できないものの、数少ない迷宮区内に取り付けられた照明の影や物陰など、その影が大きければ大きいほど容易に移動が可能になる。
こんな――水によって湿り、さらに3人の人間の影が重なり合った地面など、彼らにとっては格好の的だ。
「――しまった、」
オリバーの狼狽した声と、その下の影が大きく揺らいだのは、全くの同時。その揺らぎは瞬く間に大きくなり、やがてずるりと巨大な犬の形を象って勢いよく這いずり出る。
「――全く。盛り上がっているね、学生諸君」
声と共に手にした直剣が翻り『結晶核』を一閃。
まだ半分以上形の朧気なブラックドッグは断末魔をあげることも出来ず、煙のように絶命した。
まさに閃光。オリバーと隼人、ヴァイスの間に舞い降りた影は今まさに迷宮生物を屠った宝剣を、薄く積もった残滓を払うように振りその動きに追うように翻る、純白のマント。
「楽しむのは学生の特権だが、死んだら笑いものだぞ」
ここはもういつ死んでもおかしくない、地獄なのだから。
言わずともそう付け足すように、アルベルトは手にした宝剣を鞘に納めず見下ろした。『理事長』としての朗らかな温かさはどこにもない、冷徹で研ぎ澄まされた『総団長』としての翡翠の双眸。
「し、失礼しました。サリヴァン様」
「……アルベルト」
舞い降りたアルベルトに対しオリバーは慌てて姿勢を正し、隣のヴァイスは敵を前にするかのように張り詰めた声を出す。先日の一件が尾を引いているのだろう。
「ちょっとどういうことなの理事長。ランキング戦中は迷宮生物はここには入ってこないんじゃないの?」
一通りの迷宮生物の殲滅を完了したレグルスが鎖を鳴らして駆け寄って、ここにいる全ての人間が一堂に会する。
「相手チームもどっか行っちゃったし、【聖櫃】は無いし」
「何が起こっている、アルベルト」
「……総団長」
言って、隼人はゆるりと立ち上がる。それだけでレグルスとヴァイスは口を閉じ、アルベルトは凍りついた視線を向ける。睥睨する翡翠の瞳を、深紅のそれで見据えながら。
『理事長』では無く、『総団長』として現れた。それだけで、隼人にとっては十分過ぎた。
例え『何が』起こっているのか、その全容は分からなくても、『何か』は起こっているのは事実なのだから。
余計な言葉入らない。今必要なことを言ってもらえればそれでいい。
翡翠の双眸はじ、と深紅のそれを見返して、やがて隼人の内心を理解したかのように口の端をゆるく緩ませる。
「宜しい。現状を簡潔に説明する。現在米国政府直下『ノアズアーク』なる秘密結社に『タキオン』総本部を占拠され、【聖櫃】は強奪された」
アルベルトの言葉に、その場にいる全員から少なくない動揺が波紋する。『タキオン』は今や下手な政府機関の建造物よりも高いセキュリティで守られている。そんな『タキオン』総本部が占拠されたとあれば、驚きもするだろう。
そんなざわめきはそよ風同然に聞き流し、アルベルトは続ける。
「そしてランキング戦中張られていた結界を破壊、この混乱に乗じて『ノアズアーク』統率者ケイン・シュルツは奪取した【聖櫃】をもって、直下一部隊を率いて迷宮区第660階層へ進撃中と思われる」
「――な、」
たまらずヴァイスが驚愕に声を上げる。アルベルトの言葉にはそれだけの単語が含まれていたからだ。
「最深部への道は無いんじゃなかったのか?2年前の崩落で、」
「確かに第660階層への道は崩落によって瓦礫の下だ。しかしその階層に行くだけなら、残してきたビーコンを頼りにルークの繋げた扉から移動出来る」
時空を歪曲させ瞬間移動を可能にする、ルーク・イグレシアスだけが持つ唯一の時空跳躍魔法。『タキオン』にはその扉が隠されていたと、アルベルトはここに暴露した。
この2年間ひた隠しにしてきた秘密を、惜しげも無く。それはもう必要が無くなったと言外に告げて。
しかし。
「なぜわざわざ第660階層へ?【聖櫃】を奪取したなら、そんな場所へ行かなくても」
「……そこに真実があるからだ」
オリバーの疑問には、隼人が答えた。自分では気づいていない癖の、右手を口に持って思考しながら。
「【聖櫃】の効果はただ開いて願えばいいだけじゃない。例えば欲しいものなら願えばその場に現出するが、奴らが望むのは過去の真実。その映像だ」
元々【聖櫃】は願いを叶える願望器では無いのだから、そんなことをしても無駄、ということは今の論点では無いので切り捨てる。
彼らの願いを叶えるには、映像を投射する舞台が必要なのだ。2年前の真実のその中心点。迷宮区『サンクチュアリ』の第660階層という舞台が。
成程と納得するオリバーの隣で、レグルスは既に頭のキャパシティを超えたのか頭を捻るばかりだ。
隼人の言葉にアルベルトは緊張を伴って頷く。彼にしては珍しく、切迫した白皙の顔。
「事態は極めて深刻だ。――何としても阻止しなければならない。あれを開かれるのだけは」
だから、と。アルベルトは空いた左手を広げ4人に振り返る。
厳密には、隼人とヴァイスの2人に、伸ばした手を向けて。
「ヴァイス。およびその契約者ハヤト・クサナギ両名には、直ちに『ノアズアーク』のあとを追い【聖櫃】の奪取を要請する。これは最優先で、最重要任務だ」
「……僕ら2人だけ?」
アルベルトの司令に、ヴァイスは怪訝そうに瑠璃の双眸を眇める。その裏の真実を探るように、仄かに黄金を光らせながら。
そんなヴァイスの態度に最もだ、とアルベルトが向き直る。簡潔に、それでいて嘘偽りがない事を表すように。
「今から遠征部隊を組む時間はないし、何よりも抑え込まれていた迷宮生物が、このままでは迷宮区を出て市街地にまで進行を始めてしまう。人員はそっちへ割くしかない。そして最深部へ行っても問題ない今動ける調査員は、『死神』しかいない」
「だけど、」
ちろ、と瑠璃の瞳が伺うようにこちらを向く。
迷宮生物と同じ蒼い血液が流れているヴァイスは、その異質性ゆえに単独行動ができない。制御装置を付けられ、その自由も契約者の目の届く範囲に限定される。――アルベルトの指示を聞くには、契約者である隼人も同行を強いられる。
その気遣いに、心配に。隼人はこそばゆさを感じながら、それを悟らせないように赤銅色の頭を掻き混ぜる。
「行って帰ってくるだけだろ。そんくらいどうにかするさ」
「っけど、」
「それに、いつかは辿り着かなきゃならない場所だ。だったらいつまでも危険だからって足踏みしてる訳には行かないだろ」
あの日。2人きりの病室で交した2人だけの約束。
隼人のその言葉に瑠璃の双眸を見開いて、ややあってヴァイスは視線を落とす。
「……分かった。君は僕が守る」
声音的に、どうやら納得はしていないようだ。
「ハヤト先輩が行くならオレも!」
「戦力が足りないと言っているだろう?それとも孤児院の子供たちをみすみす迷宮生物の餌にしたいのかな?」
アルベルトの容赦のない一言に、元気よく手を挙げて主張したレグルスは苦虫を数十匹噛み潰したような苦い顔でむすくれて黙る。
確認するようにアルベルトは翡翠の視線をオリバーへ向け、異論はないと言うようにオリバーは頷き返す。
――方針は決まった。問題は。
「最深部へはどうやって行くか、か」
アルベルトの言葉を信じるなら、最深部へ続く扉は『タキオン』本部に隠されている。しかし本部は『ノアズアーク』に占拠されてしまっている。簡単には通らせてはくれないだろう。
「本当ならルークに頼む予定だったんだがな……」
「僕ならここにいますよ」
珍しく言い淀むアルベルトだったが、その声を聞いた瞬間、弾かれたように広間の入口を注視する。
議題に上がった当の本人は、ここまで走ってきたのか元から無い体力の限界のようで、体全体で息をしている状態だ。
しかし何とか呼吸を整えて、ヅカヅカとアルベルトへ歩み寄る。心做しか殺気を感じるが。
「……ルーク、」
呆然と何かを言おうとして、しかしその言葉は振り下ろされたルークの手のひらによって遮られる。
女性がする平手より、さらに力の弱いささやかな攻撃に、しかしアルベルトは翡翠の瞳を見開いて、何をされたのかわからないように呆然と立ち尽くす。
これが人を叩いたのが初めてなのか、ルークは震える右手を握りしめて、ずり落ちた眼鏡の奥の黒瞳でき、と睨みつけながら。
「ごちゃごちゃ勝手に言うだけ言って勝手にまとめないで頂けますか?僕だってこれでも、『タキオン』所属第一級調査員ですよ…っ!」
普段のひ弱で軟弱な様子からは想像もつかない、見事な啖呵。それを浴びせられたアルベルトは大きく瞳をまばたくと、やがて満足気に微笑する。
「よく吠えた。やれるんだな?」
「えぇやってやりますよ。いつまでもうじうじしていたら、彼女に顔向けできません」
「そのうじうじはもう少し早くに直せばよかったんじゃないか?」
「五月蝿いですね!?今そんな話してる場合じゃないでしょう!?」
目の前で繰り広げられる茶番に、この場で理解できるものは2人の他には誰もいないので、各々首を傾げてとりあえずスルーしておく。とりあえず関係なさそうだし。
しばらく何事か言い合っていた2人だったが、周りの4人の白けた空気に気づいて、ルークは気を取り直すようにわざとらしくごほんと咳払いをして、首に提げていた十字架を掲げる。今は土に覆われて見えない、天に座す神を仰ぐように。
「今からありったけの魔力をつぎ込んで最深部への扉を開きます。【聖櫃】を回収したらいつも通り合図を送ってください。わかっているとは思いますが、ビーコンが破壊されれば座標を見失い、僕の魔法では戻ってこられなくなりますから、気をつけてください、ヴァイスくん」
「わかっている」
ヴァイスの返答に大きく頷き返し、ルークは目を閉じ跪く。
「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、・・・栄光と力が世々限りなくありますように――」
新約聖書『ヨハネの黙示録』第一章5-6節。長距離跳躍の魔法詠唱に反応するように、隼人とヴァイスは白い光に包まれる。
「【聖櫃】の回収が最優先だ。それ以外は捨ておいて構わない」
「ハヤト先輩っ、ちゃんと帰ってきてくださいね!」
「死んだら墓くらいは作っておいてやる、落ちこぼれ」
それぞれがそれぞれの言葉を最後に、景色が白い光で塗りつぶされていく。
ただひとつ、隣の温もりだけは変わらずそこにあって。それだけで隼人は不思議と不安はなくなった。
彼さえいれば、どんな困難があったとしてもきっと大丈夫だと、何故か信じられる。
言葉は自然に溢れ出て。
「――行くぞ、相棒」
その返答も、間髪入れずに返ってきた。
「――了解だ、ご主人様」
「――アーメン」
その言葉を最後に、2人を残して世界は真白に包まれる。
瞳を閉じて、心の中で隼人は一人呟いた。
行こう。――最深部へ。