3-3.蒼天に牙をむく
あけましておめでとうございます〜!今年も時間を見つけて精一杯更新していこうと思いますのでらどうぞ宜しくお願い致します〜!
それはそう。荒々しく地面を穿つように吹き荒れる、嵐の日だった。吹き荒ぶ雨が貧民街の屋根とも言えない板を無造作に重ねた小屋を打ち、腹の底にがつんと響く雷鳴の重低音。
隣人の声も怒鳴り合うようにしないと聞き取れない乱舞の中で、弟は膝を立てて泣きじゃくる。
「〜もう、泣くなよアデル」
「だって、兄さんは怖くないの?」
引き攣りながら返された言葉に、レグルスは曇天を見上げ。
「こんなの全然怖なくないね」
本当は嘘だ、とレグルスは内心で付け足す。自分だって怖いものはある。この嵐は神様が怒ってるのだとは微塵も思わないが、急ごしらえで作った犬小屋よりもみすぼらしい仮住宅が飛んでいかないかとか、ないとは思うが雷が落ちてこないかとか。
心のうちで言ったから弟には勿論聞こえなくて、「そっか」と涙でぐしゃぐしゃな顔のまま。
「兄さんは、やっぱり強いんだね」
薄桃色の髪に、白銀の瞳。自分と全く同じ、瓜二つの顔。
科学の発展、近代化が進むにつれてとっくの昔に迷信だと証明されたのに、災いを呼び込むだとかで一緒に捨てられた、双子の弟。
顔は全く同じなのに、真逆の性格のせいで弱々しいそんな弟を慰めようとして手を伸ばしかけたところで、アデルの視線が一点に釘付けになっていることに気づく。
その視線を辿るように、レグルスも同じ方向へ白銀の双眸を向ける。
そこにはお世辞にも綺麗とは言えない襤褸をまとった母と子がいた。お互いにレグルスたちと同じくびしょびしょで、それでも「びしょびしょー!」「早く家に帰って暖かくしましょうね」ときゃーきゃーわーわー楽しげに、その表情はどこか幸せそうで。
そんな、今の世界には溢れかえっている幸福を眺めてぽつり、とアデルは呟く。
いいな、と羨望にその白銀の双眸を伏せながら。
「…僕が居なかったら、兄さんは、」
そこまで言って、アデルの言葉は不自然に途切れる。隣のレグルスが頭をごいん、と殴ったからだ。
「痛いよ兄さん〜!」
「今のはアデルが悪いんだ」
せっかく泣き止みそうだったのにびええと泣くアデルはそのままに、レグルスは半目でつん、と顔を逸らす。
だって、そんなことを言ったらレグルスだって同じだ。双子の兄弟なんて、所詮は取り出された順番でしかないのだから、もしかしたら自分がアデルの弟だったかもしれない。もし、自分がいなかったらと眠れぬ夜を何度過ごしたことだろうか。
でも2人だからこそ、今まで生きてこれた。世界を恨んで疲れて死にそうになっても、兄だからと強がっていられる。
自分が今生きているのは、弟のおかげ。
そう思って、隣のぐずぐずと鼻をすするアデルの頭を抱き寄せる。さっきの女性のような、母のような温もりは与えてやれないけれど。
「オレたちは、2人でひとりなんだから」
どちらがかけてもダメなのだと。お互いがいるから、家族なんていなくてもきっと大丈夫。
――そう思えば、世界を呪わずにすむのだから。
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落ちた。
突然過ぎて、自分の見に起きたことが分からずに呆然とする小さな子供のように、一緒に落ちて今は自分の下に積み重なる瓦礫の上で、レグルスは大きな白銀の瞳をまばたく。
落ちた。完膚なきまでに、一切の言い逃れなく。
もう一度同じことを考えて、1拍置いてからく、と口の端を吊り上げて、それは次第に大笑いへと変わっていく。からから、からからと。
最初は落ちたことに対しての、シュールさに。
次いでこんな時でも死なない、自分の悪運の強さに。
――足掻こうとするほど絡みつく、世界の理不尽さに。
自分でも久しぶりに清々しく大きな口を開けて笑う、瞳の端に溜まる涙は、きっと笑い泣きだと言い聞かせる事にする。
ひとしきり笑って満足して、レグルスは全身を使ってばねのように状態を起こす。
どのくらい落ちたのか分からないが、死んでいないということはせいぜいが1.2階層分といったところだろうか。落下の衝撃で舞い上がった土埃が薄暗い迷宮区内部を更に闇に閉ざす。その暗闇をぐるりと見渡して、レグルスは小首を傾げる。
「さて、どうしたものかなぁ…」
地上へ戻ることは簡単だ。身体能力に加えて、表層域の地形は頭の中に入っている。迷宮生物と出会わないであろう、安全ルートのその全ても。だけど。
そこまでして生き残ることに、レグルスはもう意味を見いだせない。先程もいっそ瓦礫に押しつぶされて死ねばラクだったのに、と思ったほどに。
何をしても、どうせ上手くいかない。何もなすことなく死ぬだけ。
「…もう、疲れたなぁ」
口の中で呟かれた声は誰に届くことも無く、かすれて掻き消える。そして口にしてしまった瞬間に、透明な筋が一筋流れて、とめどなく頬を濡らす。
兄として被っていた、虚勢の仮面が崩れる。
元々栄養失調気味で飢えていたガリガリの身体は、人体実験で負荷をかけすぎて。
精神も、強く在らねばと弟の前で。孤児院の小さな子供たちも救うのだと被った仮面で。
――とっくの昔に、限界だったのだ。
極限まですり減らしてしまった自分の感情に気づいてしまったら、もう知らぬふりは出来なくて、嗚咽を堪えながら蹲る。いつかの弟と同じように、流した涙は地面を濡らす。あの時の体温はしかし、今はない。
俯いていても研ぎ澄まされた感覚はそれの接近を感じ取っているが、今更もう何も感じない。
ただ、願うのなら。
何の因果か、自分が融合された『魔狼』と度々同一視される『ガルム』のその爪で。
――一瞬で一思いに切り裂いてほしい。
ずしん、と重低音を立てながら『ガルム』が瓦礫の上に着地する。その崩れ掛けの瓦礫の傍に蹲るレグルスを見つけ、まるで何百年と生き続ける大樹の幹のように太い前足を無造作に振り上げて。
あれほど我慢して、それだけはやらないと決めていた瞬間が迫ってくるのを肌で感じながら。
あぁなんて。
――死ぬ時は一瞬なんだろう。
「――みっともなく蹲って。それでもハヤトの義弟なのか?」
張るでもない、静謐な声にレグルスは涙で濡れた白銀を見開く。今は最深部への遠征で、聞こえるはずのない憎たらしい声。
来るはずの衝撃はなく、代わりに辺りに響くのは自動拳銃の発砲音と耳をつんざくような悲鳴。
その悲鳴とは裏腹に、一切の音を立てずに舞い降りた足を見て、被さるように覆った影にレグルスはのろのろと顔を上げる。
「ハヤトだったらこんなとき、」
その身に纏うのは純白と蒼碧。同じようでいて、しかしより一切の穢れのない雪白の髪をなびかせながら。
「どんなに意地汚い手を使ってでも、生きることを諦めない」
白い死神は無表情に、しかし釈然とした瑠璃の瞳をもって、蹲る小さな王に振り返った。
*****
瞳に溜まった水たまりで濡れた白銀の双眸は、まるで幽霊でも見ているかのように大きく見開いてヴァイスを映す。
つい数日前に自分の心の内を引きずり出した冷徹さの欠片も無い、その弱々しいレグルスの姿を見て、ヴァイスはハヤトの言葉を思い出す。
『あのまま死んだんじゃ、さすがに救われない』
その言葉の意味を、ヴァイスは実感を伴って改めて噛み締める。
自分の胸ほどの身長に、その年齢からしたら軽すぎる痩けた身体。その小さな身体は、とっくの昔に限界だったのだと。
度重なる負荷しかかからない人体実験に。
常に気を貼り続けた精神に。
短い人生のうちに突きつけられた、この世界の理不尽に。
「…なんで、ここに、」
紡がれた言葉は呆然と、掻き消えるほどに小さく弱々しい。その様が普段の彼とかけ離れすぎて。――らしく無さすぎて、ヴァイスは苛立ちに瑠璃の双眸を眇める。
彼の境遇の全てに対して。
――だからどうしたと。
「こんな所で野垂れ死になんて。ハヤトの面汚しもいいところだ。あんなにしつこかったくせに、やっぱり君はハヤトには相応しくない」
「な、なんだよっ。何も知らないくせに、」
「どうせ死ぬなら、」
レグルスの文句に被せるように言い募る。その悲壮面にムカついて、そのままの勢いで。
何も知らない?それはそうだ。だって何も聞いてないんだから。だったら初めから、一つ二つ話せばよかったんだ。
野垂れ死ぬなら、勝手に死ねばいい。
だけど。
「ハヤトの義弟らしく、最後まで足掻いて、足掻ききった後に死ね」
君の義兄は、僕に君を託した。生きて欲しいと望んだ。だから。
――ただ死ぬのなんて、許さない。
ヴァイスの言葉に、レグルスは目を見開く。容赦情けのない言葉の裏の、不器用な後押しに。
果たして。小さき王は弱々しく、しかし確かにその四肢に力を込めて立ち上がる。その顔に不敵な笑みを浮かべて。
「もっと言い方はなかったの?」
「どうでもいい。それとも慰めて欲しかったのか?」
「冗談」
ヴァイスの皮肉をレグルスは鼻で一蹴する。ヴァイス自身それは微塵も思わなかったし気遣う気もなかったので、隣に並び立つ小さな気配を感じつつ視線は目の前の怪物に固定したまま受け流す。
以前視てしまった『人造人間』よりも複雑で、醜悪な魂の色彩。それを見ながら。
「で、あれは何?」
「…あれは、おれの孤児院の子供の遺伝子を使ったクローン人間が変異した迷宮生物だ」
レグルスの返答にヴァイスは僅かに柳眉を寄せる。同情するつもりではないけれど、あの錬金術師は本当にろくなものを生み出さない。――吐き気がする。
口に出したせいか、改めて目の前の化け物の生い立ちに、変異する前の既知の子供の姿を重ねてしまって。レグルスは手に持った大鎌の柄を強く握る。
「…あれは、元に戻ると思う?」
魂の色彩を見通す瞳。その瑠璃の双眸をであればなにか救いようがあるのではないかと、レグルスは微かな望みを託す。
しかし、世界は残酷にしか愛してはくれなくて。
ヴァイスは気づかれない程度の悲痛に瞳を伏せながら。
「残念だけど」
「そう、だよね。だっておれがそもそもそうなんだし」
「…やる気がないなら、下がっていればいい」
偽りとはいえ兄弟を、自分より幼い子供を殺すのが忍びないのなら自分がやろうかと、言外に伝える。ヴァイスにとっては全くの他人で、しかも今はただの迷宮生物にしか見えない化け物。
――殺すのは、簡単だ。
ヴァイスの提案にしかし、レグルスはは、と短く吐息をこぼす。
「これは、おれのやるべき事だ」
そういうだろうなと思って、ヴァイスも短く嘆息する。しかし、これだけは言っておかなければ。
「君が殺すのは、哀れな化け物だ。人間じゃない」
混濁とした魂の色彩は、もはや人間のそれではない。それはヴァイス以外には証明できないことだけど、あれは意思などない獣なのだと。
それでも、君がそれを重荷に思うのなら。
「君が殺すんじゃない。――これは僕と君の罪だ」
呆気に取られたようにこちらを見上げる視線を感じるが、しかしヴァイスは見下ろすことはしなかった。仕留め損ねた目の前の化け物が、その巨体をむくりと起こし始めたからだ。
「援護する。遅れるな」
「…誰に向かって言ってるのさ」
どちらが言うでもなく、2人は得物を軽くぶつけ合い、そして身構える。そんなごく自然な動作に、ヴァイスは既視感を覚えて知らず口の端を緩めてしまう。
あの頃のような、戦略なんてどこにもない。人数も少ないし隣に立つのは自分よりも小さい子供だけ。――しかし何を恐れることがあろうか。
人間を超えた戦闘力を誇る、人間では無い半人前が二人もいる。ただ、その力を持ってねじふせればいいだけの話。
でも、あの時と同じ高揚感に。この4年間感じることのなかった心の昂りに、ヴァイスは逸る心を押さえ込みながら。
さぁ。
――冒険を、始めよう。
それが合図。
ヴァイスが手にした自動拳銃の引き金を引くのと同時、レグルスは大地を蹴りあげ低い姿勢で突貫。一息で『ガルム』との距離を詰める。
さすがの反射神経と言うべきか、音速を超えるヴァイスの銃弾を跳ねるようにして『ガルム』は避け、地球の重力のままに落下する巨漢を持ってレグルスを叩き潰そうとその四肢を振り上げる。
轟音。体重と重力が相まったその一撃は、震源地を中心に蜘蛛の巣のような地割れを引き起こす。
粉塵と瓦礫が乱舞する中、2人の獣は退くでもなく、迷うことなく嵐の中に足を踏み入れる。
飛び交う瓦礫を足場に、縦横無尽に三次元の立体機動戦を展開。ある時は銃弾が、ある時は鎌が、ある時は鎖が、『ガルム』に殺到するが、その一切を強靭な皮膚は通さない。
「っの、」
業を煮やしたレグルスは、その手に鎌の柄ではなく鎖を握りしめると大きく回転させる。二、三度回し遠心力を付けると『ガルム』へ向かって思い切り投擲。
投擲された鎌は過たず『ガルム』のその肉体に突き刺さる。
迷宮生物は心臓部である『結晶核』を砕かぬ限りは、どれほどの致命傷を負ったところで瞬時に再生してしまう。しかし『ガルム』の思った以上の猛攻に攻めあぐねたレグルスは、その懐に入るためにアンカー代わりに鎌を放り投げたのだ。さながら山登りのように。
しかし、その判断は軽率だったとヴァイスは1人冷静に分析する。
敵に接近するには、確かにアンカーを突き立てる方法は妙案だ。しかし。――体重差がありすぎる。
『ガルム』は鎌の突き刺さった前足を振り上げると、レグルス諸共に振り回す。離し所を失ったレグルスはせめて弾き飛ばされないようにと食らいつくが、鎖と共に地面に叩きつけられるのも時間の問題だろう。
ヴァイスは小さく舌打ちをし、通常の人間であれば視認はまず不可能な宙を舞う鎖目掛け発砲。それは正しく鎌との接続を絶つ。――勿論、支えの失ったもう半分をもつレグルスも一緒にすっ飛ぶ。
派手な音を数回立て、ゴロゴロと転がった先の迷宮の壁に激突して、ようやく止まった先で。
「…もっと助け方、なかったかな」
「軽率な自分を恨みなよ」
ヴァイスのもっともな言い分も理解出来る。しかし言ったようにもう少し方法があっただろうとレグルスは顔を顰める。
「次で決めないなら僕がやる。こっちにも時間が無いんだから」
最深部からハヤトのもとへ。そしてそこからレグルスのもとへ。これから帰る時間まで考慮しても、この場に留まれるのもそろそろ限界だ。
それと、と眼下に転がるレグルスをちらり、と見遣る。
先日の迷宮区探索時よりも激しくない戦闘のはずなのに、荒々しく上下する肩をみて、こちらもそろそろ限界だろうとヴァイスは思う。
彼も救うのなら。――これ以上は危険だ。
「でも、鎌が」
レグルスの得物である鎌は依然として『ガルム』の肉体に刺さったままだ。それを取り返すことを、それほどの接近を『ガルム』が許すとは思えない。
こういう時、ハヤトならもっと要領良く戦況を回せるんだろうが、生憎とここに軍神はいない。
はぁ、と短く嘆息し、ヴァイスはおもむろに腰の裏へと手を伸ばす。そこに仕込まれた、もうひとつの死神の鎌。
「貸してあげるよ」
「なにを、」
がしゃり、と音を立てて自分の小さな掌にのった重みに、レグルスは知らず息を飲む。自身の瞳と同じ、白銀の自動拳銃。
「初弾は装填されてる。あとは。――引き金を引くだけだ。簡単だろ」
簡単なわけが無い。そんなことは使い手であるヴァイスが1番よく理解している。
刀や剣といった近接武器よりかは、敵に肉薄し直接切り伏せるといった恐怖は感じない。
しかし、だからこそ。
その引き金を引くには、それ以上の覚悟が必要なのだと。かつてその壁を越えるまでに時間を要したヴァイスは知っている。
レグルスは渡された自動拳銃を、白銀の双眸を見開いて凝視する。やがて揺れる瞳を固く閉じ、長い息を吐いて開く。
覚悟を、決めるように。
「…これは、おれがやらなきゃならない事なんだ」
きり、と歯を軋ませ、固く自動拳銃を握る。そのレグルスの覚悟を見届け、ヴァイスは纏うマントを翻し。
「行こう」
「ごめん。――頼む」
その素直な謝辞に口の端を緩めて、ヴァイスは先陣をきる。向かってくる雪白の少年に対し『ガルム』も反応する。身に迫る、確実な『死』の気配。
巨漢を振って巻き上げられた瓦礫は、全てが一直線にヴァイスへ向かうも、その全てをヴァイスは見切り、いなし。ある時は避け、ある時は踏み台にしてそれでもその歩みを止めることなく切迫する。
そしてついに『がルム』の巨漢の懐へ潜り込んだ。――その時だった。
『ガルム』は一際大きな雄叫びをあげると、強靭な爪を大地に突き立てる。
転瞬。その巨漢の下の影が一気に伸びたかと思うと、それはやがて隆起し剣山のようにつき上がる。
「っ!?」
眼前に迫る剣山を、それでもさすがの反射神経をもってギリギリのところで回避する。その後には一筋の蒼い鮮血があとを引くように飛散。
その一瞬のスキをついて、剣山の一角がヴァイスへ殺到。鋭角な先端がその左肩を捉え、その後ろの壁に縫い止めるように突き刺さった。
「あ”…っ!」
「死神っ!」
しくじった、と激痛に霞む意識の端でヴァイスは思考する。先程の影を伸ばす攻撃手段を、通常個体の『ガルム』では見た事がない。恐らく遺伝子を融合させた時にでも改良をしたのだろう。そんなことは考えれば直ぐに分かることなのに。
やっぱり。ハヤトのようには行かないなと、この場にそぐわない思考が閃く。
思わず漏れてしまった苦悶の声に、後を追うようにして追随していたレグルスは足を止める。煩慮の色に染る、白銀の双眸。
それを見返して、背中を押すようにして怒声を上げて。
「――行けっ!」
びくりと大きく身を震わすと、レグルスは歯を砕かんばかりに噛み締めて、1人『ガルム』へと肉薄する。ヴァイスが拓いた、その攻城路を一直線に。
その接近を『ガルム』が許すはずもないが、しかし1度見た攻撃をそう易々と食らうレグルスではなく、数多の杭をかわしきり、ついにその喉元へ食らいつく。
――その瞬間。『ガルム』が嗤うのをヴァイスは確かに見た。
『ガルム』の喉の下、死者の血で赤黒く染まった体毛の下の『結晶核』へ、レグルスが大地を蹴って飛翔する。その刹那。
――その胸元から、血赤の杭が空中で逃げ場を失ったレグルスに向かって殺到した。
「くぁっ!?」
どうにか空中で身を捩り致命傷を回避するが、小さな身体に少なくない裂傷と、そして右手に握っていた自動拳銃が弾かれ宙を舞う。
手を伸ばしてもそれには届かず、手のひらは空を切るだけ。――ならば。
ヴァイスは風穴の空いていない右腕を上げ、それに照準を合わせる。
瞬間、発砲。
薬室の火薬が爆発し、一気に加速。音速を超える弾丸は標的を1寸たがわず捉え、穿つ。――その胸元に乱立する、血赤の剣山へ。
ガラスが砕けるような甲高い音ともに、数本の杭が空中へと散らばる。そのうちの、1本をレグルスは掴み取り。
「――ごめん。こんなことでしか救えないおれを、憎んでくれ」
渾身の力を込めて、『結晶核』へと打ち込んだ。
狭苦しい空間を震わす程の絶叫を上げ、『ガルム』は喘ぐ。今は見えない蒼天を喰らいつかんばかりに、逆流した蒼い血液が吹く大きな顎をぱくぱくと開閉させると、やがて糸が切れたように轟音と共に頽れる。
そして、二度と立ち上がることなく。静かに魂の灯火を消した。
左肩に刺さったままの杭を一息に抜き取り、投げ捨てながらヴァイスは倒れた『ガルム』の上に蹲るレグルスへ歩み寄る。
「…大丈夫、」
か、と言葉を続けようとしたところでレグルスの上体がふらつき、倒れ込む。一瞬早く異常に気づいたヴァイスは滑り込むようにして駆け寄り、小さな身体を抱き上げる。
荒く整わない呼吸。焦点を結ばない瞳。朦朧とした意識。――明らかに瀕死の状態だ。
「しっかりしろっ、君に死なれたら困る!」
「…それは、ハヤト先輩に、言われたからでしょ?」
ひゅーひゅーと息を上げながら、途切れ途切れにレグルスは言う。皮肉げに、諦めたように。
「ハヤト先輩に、言われたから、あんたはここに来た。主の言うことだけ聞いて、そこにあんたの気持ちは、どこにもない」
レグルスの言葉に、一瞬ヴァイスは口を噤む。彼の言うとおりここに来たのは、ただの成り行きだ。
だけど、そうじゃないと。今にも消えそうなその魂の色彩を瑠璃に浮かぶ黄金に捉えながら。
「君は本当はこんな所で死にたいんじゃ無いんだろ!?君の魂が、そう叫んでいるじゃないか…っ!」
その魂の色は、瞳の白銀よりもなお深く堅い、鉄鋼色。ギラギラと煌めくその魂は、死にゆく今も叫んでいる。
――生きたい、と。
この世にまだ未練があるのだと。やり残したことがあるのだと。そう訴えているように思えてならない。
ハヤトに言われたから、ここへ来たのも確かだ。だけど、その魂の色彩を見たから。――自分の意思で、ここに来た。
「それなのに、君がその叫びから逃げるなんて許さない。意地汚く生きたいって思ってるくせに、嘘をつくなんて認めない!」
駄々をこねる子供のように、ヴァイスは涙が出ないように必死に堪えながら訴える。今も尚下がり続ける体温を感じながら。
混乱する頭で突破口を必死に考えながら、周囲をぐるりと見渡す。このまま最短距離で迷宮区を抜けたとしても、レグルスは恐らく持ちこたえられない。
――どうしよう。どうしたら、助けられる?
「…ぁ、」
胸の中で小さく、しかしなにかに反応したかのようにレグルスは短く声を出す。その、声の方角へ弾かれたようにヴァイスは視線を巡らす。
――そこには8本もの脚を持った、迷宮生物が静かに佇んでいた。
ぞわ、と総毛立ち、ヴァイスは反射的に銃口を向ける。こんな時に襲われたのでは、ひとたまりもない。
そんなヴァイスの殺気をそよ風のように受け流し、我が物顔で2人へと歩を進めるのは、当初の目的であった神獣『スレイプニル』。
遭遇確率の限りなく低いその神々しい姿に、ヴァイスも思わず息を飲む。それほどの、存在感。
『スレイプニル』はとことこと2人へと近づくと、ついには手を伸ばせば触れられそうな距離を置いて、ようやく静止。
伸ばした鼻でふんふんと何かを確認すると、くるりと背を向ける。――まるでその背に乗れと言っているばかりに。
その奇行に、ヴァイスは信じられないものを見るように目を瞠る。迷宮生物が、人を助ける?
呆然とするヴァイスに変わって反応したのは、レグルスだった。
「…助けて、くれるの?」
レグルスの問いかけに、愚問だとばかりに『スレイプニル』は鼻を鳴らす。
「おれは、『魔狼』。お前の主人を、食らった化け物だよ?」
北欧神話において。『魔狼』は神々の黄昏の際に『スレイプニル』の主、最高神オーディンを食らったとされる。あくまで語り継がれるひとつの伝説であり、当然彼らには直接の関係は無いのだが、確かに両者は相反する同士のはずだ。
そのレグルスの言葉にも『スレイプニル』は長い尾をピシピシと振り、ついには業を煮やしたのか2人諸共無理やり背に乗せあげる。
神とその子らである人間に尽くすことを己に課した、神の獣。その一蹴りで景色は霞み、速度は音速を超え神速へと至る。
一息で『ガルム』が生んだ縦穴へと到着すると、その速度はさらに増し、ついにその四肢は大地を離れ見えない足場を踏みしめて上昇。
僅かなすき間をぬい、その上昇は留まることを知らず、どこまでも自由に。
やがて差し込んだ眩い一筋の閃光に、ヴァイスは思わず瑠璃の双眸を固く閉じる。
重力に逆らった浮遊感。次の瞬間、ヴァイスとレグルスはその蒼穹へと身を躍らせた。
閉じた瞼を突き抜けるほどの夏の陽光。何度か瞬いたあと恐る恐る開けた瑠璃の双眸に飛び込んできたのは一面の穹の蒼。
海の碧とはまた違う、突き抜けるような蒼天だ。
「…すごい、」
レグルスもその蒼を見たのか、瀕死の状態で、それでも焦がれるように手を伸ばす。
「…っははっ、凄いやっ。おれたち空飛んでるよっ」
「そう、だな」
瞬間移動は何度も体験したが、空を実際に飛ぶのは初めてで、ヴァイスは子供のような素直さでレグルスの声に答える。
初めて見た、色彩。
世界にはまだこんなにも、見たことの無い色彩があるのだと。瑠璃の瞳を煌めかせて。
「…あんなこと言われたんじゃ、死ねないじゃないか」
小声で呟いた言葉は風を切る音でヴァイスには届かない。しかし何かを言った気配を感じてん、と視線を向けると、まだしっかりと目の開かないレグルスはその細腕を伸ばす。
蒼天に浮かぶ、灼熱の星を掴まんばかりに。
「おれは、おれの望みを諦めない。――必ず、弟を見つけ出すんだ…っ!」
その時、ヴァイスは確かに見た。――消えかけの、風前の灯火だった魂の色彩が再び燃え上がるのを。
その色に見惚れているとぎゅ、と服を掴まれる感触に、ヴァイスな視線を下ろす。
「…生かした責任は、取ってよね。死神」
「あぁ。死にたくなったらちゃんと殺してあげるよ」
「生かした意味…」
苦笑するレグルスに、ヴァイスは付け足す。彼を救った自分の意思を。
「安心しなよ、君の魂の色は。――無為に無くすのは、惜しいからね」