3-3.創恋紀:蕾
前回更新から半年もたってしまいましたすみません…そしてまた時間が空くと思われます…
頑張って完結自体はしたいと思いますのでよろしくお願い致します~
「――一度でいいから見てみたいわ」
別に誰かに聞いてほしかったわけじゃない。しかし一歩引いた後ろに控えていた小金色の麗人は耳聡くそのつぶやきを拾う。
「何を、だろうか」
そっけないぶっきらぼうな言い方は彼の生きざまそのものを表しているようで、不思議と嫌悪感を感じない。なんとなくわかってるくせに、とゲルズはひっそりと微笑する。
「この地面いっぱいの花畑」
この世にはそんな幻想的な景色が広がっている場所もあるのだという。しかしゲルズの七色のオパールの視界に映るのは、どこまでも広がる荒野だけだ。ごつごつとした岩肌にはコケすらも生えないから、根を地中深くまで巡らせる花が咲くことはない。
そも、この巨人の世界には満足に陽光すら降ってこないのだ。
理由は至極簡単で、この階層の上にはさらに別の階層が幾重にも重なっているからだ。それぞれの世界はそれぞれの世界に陽光を降らせようと躍起になって、まるで雨の日の大きな雨除けのように空を覆いつくしてしまっていて、差し込む光といえば一瞬、ごくわずか瞬きほどだ。
植物の成長に必要なものがないのだから、花畑どころか一輪の花すらここでは見ることはできないのだ。
「我の種族のところもあまり見かけないが」
「ここよりはマシでしょう」
「そうだな」
彼なりのフォローだろうが、生憎人間の国もここよりは上階だ。夢物語のような花畑こそないにしろ、緑がないわけではないだろう。
「花が好きなのか?」
話の流れの当然の疑問に、ゲルズはやっぱり苦笑する。好きなのか、と言われてもそもそも見たことがないのに。
「興味はあるわ。それを見た物語の登場人物たちは楽しそうだもの」
物語は空想だ、おとぎ話だ。現実じゃない以上、自分自身の妄想の域を出ない。
それ故に無限で。
――それ故にむなしい。
妄想であれば妄想である、と自分に言い聞かせることができる。本物を見てしまって、妄想よりも自分の感情が昂らなかったときにがっかりしないで済む。
それでも。
物語の登場人物のように、自分も本物の胸を躍らせてみたい。
*****
フレイがここを訪れてから時間が流れただろうか。少なくとも、人の人生の数倍は過ぎたかもしれない。
人間にとっては長い時間を、しかし長命な巨人であるゲルズは特にこれといって何の感慨もなく過ごしている。
友人のモーズグズと違い、ゲルズには特に言い渡された使命はない。ただ毎日起きて自身の身の回りの用事を済ませ、気まぐれに幼子や友人と遊んだり会話したり、適度に食事をして就寝する機械的な毎日だ。
そんな言い換えてしまえば暇な毎日なものだから。
「あの神は一体何をしているのかしら…」
なんて、特に興味もなかった相手のことを考えてしまうくらいには、ゲルズは日々暇で暇で仕方がないのである。
というかいきなり求婚しに来たかと思えば好き放題言い放って、その態度に腹を立てたから怒った後は姿形も声すら聞こえない日々に逆戻り。今考えても彼が何をしに来て何を言いたかったのか、皆目見当もつかない。
彼以外の『神』に対しても言えることではあるが、彼らが何を考えているかなんてそれこそ考えるだけ無駄なのだが、一人の女として、彼の求婚には聊か感情が揺れてしまうのは仕方がないじゃないか。
『――私のものになれ』
あんな、直接的な言葉を聞いたのは、初めてだったのに。
「ゲルズ~?」
「あぁごめんなさい。なんの話だったかしら」
問い詰めるような呼びかけに、思考に沈んでいた意識が浮上する。目の前には相変わらずの荒野にひび割れた間をちょろちょろと流れる小川、ゲルズの隣には仕事を放り投げた友人のモーズグズが顔を覗き込むようにして立っている。
「アタシの話をないがしろにしてまで考えたいことでもあるの?」
「そんなこと何もないわよ」
「あんたを尋ねに来た自称夫のこと?」
「はぁ?」
夫、というワードにゲルズは思わず奇声を上げる。自分でもわかるほどのしかめづらを前に、モーズグズはどこか含むような笑みで。
「いやぁ、まさかあんたが男相手にそんなに悩むなんて思わなかったなぁ~」
「悩んでないわ」
「数百年前の求婚のことを今の今までずっと考えているなんて立派な悩みですぅ~。いいじゃない、あんたから会いに行けばいいのに」
「何でよ」
「いつまでたっても一人相撲のままよ?」
「だからなんで私がっ」
モーズグズの下心丸出しのにやけ顔に嫌気がさして、ゲルズはたまらずこぶしを振りながら勢いよく立ち上がり。
「私が気になっているのはあくまで迷惑だったからよ!こちらの言い分も気持ちも何もかも無視して自分の意見を押し付けてきたからよ!自己中で不謹慎だったから!」
「ふ~ん。普段は他人なんて空気にしか思ってないあんたがそこまで相手のことを分析してるんだぁ~へぇ~」
「はっ?!」
いじわるな友人の言葉に、自分の顔がかっと赤くなる。
「だから別にあなたが思うようなことは何もないわっあなたのそういうところが私は嫌いよっ」
「え~何の話かな~アタシは別に何か考えてるとか思ってないしぃ~」
「もうっこれ以上からかうと怒るわよ?!」
「何やら盛り上がっているな」
子犬と成犬のいさかいに第三者の声が割り込んでくる。飛び跳ねるようにして背後を振り返れば、荒野に咲く花のように輝く麗人が音もなく降り立ったところだ。
「何の話をしていたんだ?」
人間の身でありながら、神の側近に召し上げられた人物。小麦色の髪に紅玉の瞳。彼の功績と外見から、人々はみな口をそろえて「輝く人」とその人を呼ぶ。その名にふさわしく、陽の光が届かないこの大地においても尚その輝きが損なわれることはない。
初対面には彼の主の不謹慎な物言いに腹を立て彼もろとも吹き飛ばしてしまったが、その時の傷はとっくの昔に癒えている。しっかりとした足取りで悠々と歩いてくるスキールニルに、モーズグズはこれまたひらひらと軽く手を振りながら。
「あんたの主様のお話~」
「ほう、我の主の」
「だ、だから違うってば!」
違くはないのだが、彼の従者に対し素直になるのも憚れ、ゲルズは全身を使って否定する。彼の真摯でまっすぐな視線が真意を探るように突き刺さってくるが、意識して無視してオパールの瞳を眇める。
「それにしても、あなたも飽きもせずよく通うわね。こんな何もないところを」
先ほどとは一変してつん、と突き放したような冷えた言葉に、しかしスキールニルは特に気分を害した様子もなく口元に右手を当てながら。
「確かに何もないが…見るべきものならある」
「例えば?」
「アースガルズにはこのような寂寥とした場所はないからな」
「それは嫌味かしら…」
含みのないまっすぐな声音からは微塵も見下すような色は感じず、本心から言っているところがたちが悪い。行き場のないやるせなさから乱暴に吐き出されるため息。
あの一件以来彼の主フレイは顔も気配も見えなくなって久しいが、彼の従者は毎日といってもいいほど足蹴く通うようになった。
初めは主に対する遠慮なさを咎められるのでは、と問い詰められるものと思っていたが待てど暮らせどその兆候は一切なく、むしろ何度かフレイからの贈り物を押し付けてくるだけで他には積極的なアプローチはない。今のように音もなく現れたかと思うと特に何をするでもなく他愛のない話をしたり、それまでゲルズと一緒に遊んでいた幼子たちと遊んだり話たり。おかげで彼の顔は周囲一帯に知れ渡ってしまっている。
ちなみに、贈り物については懇切丁寧にすべてお断りした。11もの黄金林檎や幻獣を贈られても普通に困る。
そのうち警戒するこちらのほうが馬鹿らしくなって気にしないように努めてはいるが――つかめない彼の真意はなかなかに気味が悪い。
「それで?従者様は今日は何を贈りに来たのかな?」
貴女仕事はしなくていいの?と思わないゲルズではないが、古い友人のにやけ顔を見て質問するだけ無駄だと諦観している。外界との接点が多い彼女はほかの巨人と違い『外部からの刺激』に目がないのだ。現にゲルズがフレイに目に掛けられたと知るや否や、仕事を放り出してスキールニル同様に足蹴く通う始末だ。
モーズグズの質問に、スキールニルはしかし彼女ではなくゲルズに向き直る。いつになく真剣な眼差しに思わず身を固くしてしまう。
「……ゲルズ様。あなた様は今まで主の愛を拒み続けている。そのことに関して主は怒りあらぶっておられるのはご存じだろう」
「それは…」
だったら自らの足でゲルズのもとへ来るべきではないだろうか?彼自身の手で贈り物を、そして言葉をかけられれば幾分かゲルズの気持ちも揺れたかもしれないが、来るのは彼の従者のみ。それなのに怒っているといわれても、ゲルズにとってはあずかり知らぬことではないか。
しかし、そうも言っていられないのもこの世界なのだ。
神は理不尽に怒り、その怒りは理不尽に下位生物に向けられるもの。それがこの世界の決まり事。
だから神以外の生物は神に意見しないし、会話どころか姿さえ隠す。相手に認識されていなければ癇癪など向けられるいわれはない。
ゲルズもむろんそのことは重々知っていて、だからフレイに対する己の行動はやりすぎたと思って警戒していたのだが、まさか今になって。
ゲルズのそんな葛藤をスキールニルはわずかに伏せた紅玉で憂う。しかしそれも一瞬で、ここへ来る前に下された言葉を人を捨てた従者は機械的に告げる。
生命の死を宣告する、死神のように。
「これ以上愛を拒むというのであれば、主は貴女に罰を下すおっしゃっている」
「……な」
あまりの破天荒な言葉に頭が真っ白になる。指先が冷たい。息も荒い。
神罰は下るだろうと思っていた。自分一人で事が収まるのならと思ったが、もしかしたら周囲の知り合いにも迷惑をかけるかもしれないとそのくらいの想定はしていた。
水分のなくなったカラカラののどを必死にふるわせて、ゲルズは表面上は気丈なようにふるまってスキールニルに問う。
「罰、とはなにかしら」
「詳細に関してはわかりかねるが、『呪い』といえば主の怒りの程度はわかるだろうか」
言葉を選ぶように慎重し、しかしスキールニルははっきりとその言葉を口にする。
『呪い』――それは本人だけではなくこれから産まれるであろう子や孫、その先につながれる系統樹さえも失われるということだ。
仮借なく例えるならば、未来を奪われるといっても過言ではないほどに、残酷で横暴な誅。
そこまでの罪を、私は犯してしまったというのだろうか。
前置きのない、あまりにも度が過ぎた神罰に、さすがのゲルズも顔をこわばらせる。その表情をくみ取ってか、スキールニルはわずかに気遣う色を残した冷たい声音で問い返す。
「納得できないか?」
「あ、当たり前でしょうっ。私がそれほどのことをしたというの?!」
「私には何とも。主がそう判断したのなら、それが世界の決定だ」
向けられる紅玉に一切の慈悲はない。そのあまりの冷酷さに、人間の彼の何十倍もの身体を持つ巨人ゲルズは怯む。
「主はバリの森で待つと仰せだ。まさかとは思うが、逃げようとは思わないことだ」
「……」
一瞬よぎった逃げ道さえも防がれ、ゲルズは音すら聞こえそうなほどに歯を軋ませる。
神の盤上に、逃げ場などないことは生まれた時から知っているとも。そのことがたまらなく嫌で――たまらなく息苦しいのに。
「ちょいとそこのお兄さん」
その場の緊張感にそぐわない、しかし彼女にしては珍しい真剣な声にゲルズとスキールニルの視線が集中する。モーズグズはオパールと紅玉二色の注目を浴びながら、投げられる軽い口調の言葉。
「お土産、期待してるね~?」
――冗談ではなく、本当に時が止まったかのようにその時ゲルズは錯覚した。正直普通にフリーズしていた。
何を言い出すんだこの女は。
「今から死刑言い渡される友人を差し置いていうセリフがそれって何事なの?!」
「え?いや別に今すぐ死ねって言われてるわけじゃないじゃん」
「同じことを今言われてるんですけど?!」
たまらず荒ぶるゲルズをよそに、しかしモーズグズはどこと吹く風だ。きゃんきゃんわめく声を聞き流し、ひょいと肩をすくめながら。
「まぁとりあえず行ってきなさいな。待たせでもしたらそれこそ面倒じゃない」
「死ねって言った!この女、また死ねって言ったぁっ!」
「も~早く連れて行って」
「それもそうだな。そうだ、そのままというわけにもいかないか」
それはもはや半泣きのゲルズを面倒くさそうにあしらうモーズグズに、視線を投げられたスキールニルが軽く指を鳴らした瞬間だった。パチンと乾いた音が聞こえたかと思えば、ゲルズの視界は普段の高さの何十分の1の高さになっており、驚愕に見開かれるオパールの瞳。
「なっ何をするの?!」
「元の大きさのままでは森に入れないだろう」
「だからって許可なく魔法使って小さくしないでっ」
「おやおやこれまたかわいらしい姿になっちゃって」
はるか高みから見下ろしてくる、つい一瞬前まで同じ高さにあったモーズグズに向かって殺気を込めた視線で睨み返すも、人間サイズ―それも幼子まで小さくされた姿だ―にまで魔法で縮小された彼女の殺気などもはやないもののようにスルーして、モーズグズはにまにまと見下ろすだけだ。例えるならよく近所の子供たちと遊んだ、大きな箱を家に見立てた人形遊びのような不快感。
「そろそろ行くぞ」
いよいよしびれを切らしてか、スキールニルは短くそれだけ言うと森への道を先導するように歩き出す。有無を言わせないその姿勢にまだ文句を言い足りないゲルズはうなりながらその後を追う。ここまで来たらもう逃げ場などないのだから彼の後を追うしかない。
「…恋は盲目ってよく言うねぇ」
遠く残された親友のつぶやきは、この時ゲルズの耳に入ることはなかった。
*****
この世界において階層間―つまり『世界』間の移動は容易だ。各大地の特定の場所に設置された魔法陣を起動させればいいだけだ。
最も、『生』から『死』がすべて完結するこの世界においては『死ねば魂のみとなって世界をめぐる』ことになるのだが、それをカウントしてしまうことはなんだか憚れるので除外させていただく。
閑話休題。
しかし唯一の方法である『魔法陣起動』も、選ばれたものしか起動はできない。万物が使用できてしまってはそれこそ生命ピラミッドが崩壊してしまう。おおそよはその『世界』を占める族長―言ってしまえば神のみが使用できる特別性だ。
ここでも垣間見える神至上主義にゲルズは嫌気がさすが、世界の運営を考えれば合理的な判断にも納得している。
システムを考えたのはもちろん世界形態の頂点、神である。――さすがは知恵の神、主神オーディンといったところだろうか。
「貴方に使えるの?」
「主か許可をいただいている」
ゲルズの質問に、しかしスキールニルは普段通りの無感動で返答。これから死の宣告を受けるという人間に対して何か配慮というものはないのだろうか。
そう思ってむ、としていると少し高みから見下ろされる視線に気づく。
「何かしら」
「こうして見下ろすのは初めてだな」
「あら、ご不満だったかしら。だとしたらごめんなさい、巨人なので」
嫌味たっぷりな皮肉に我ながら嫌気がさす。他種族からの「でかい」という言葉にはとっくになれたはずなのに、いろいろなことが重なってどうにもささくれ立っているらしい。こういういざというときに出てしまう子供っぽさが嫌いだ。
対しスキールニルは発言に対してかはたまた違うことに関してか、考え込むように右手を口元にあてながら。
「見下ろされることはあまり身に覚えがないのは確かだが」
「嫌味かしら」
「だからこそこうして見下ろす貴女の瞳もきれいなものだ」
「…………」
今この男は何と言ったか。
あの銅像に魂が宿って動いているような、表情筋が死んでいる男だ。確かに表情は一切変わっていない。無表情だ。
しかし無表情だからこそ、今の発言にゲルズは時が止まったかのようにフリーズする。
その一瞬のスキを突くように視界が白く染め上がる。スキールニルが転移魔法陣を起動させたのだろう。瞬いた一瞬後、視界いっぱいに広がる景色は――。
――この世のすべての植物が絨毯のように敷き詰められた、七色の花畑だった。
「……きれい」
今の立場を忘れ、言葉だけが意志に関係なく口からこぼれた。放心するほどに、目の前の光景はゲルズにとっては美しい光景だったからだ。
生まれてこの方、自然の色といえば岩の茶色や黒しか見たことがなかったゲルズだ。植物の緑はもちろん華のどこか正確ではない赤や白や黄、空のどこまでも透き通る青や、岩とは違い柔らかな茶色の色彩は、さながら宝箱に入った色とりどりの宝石のような光彩をオパールに鮮烈に焼き付ける。
「すごいっここがバリの森?大麦はどこに行ったのっ!」
「それは言葉の綾だ。「大麦」は金、つまり輝く森という意味でつけられたものだ」
「きれい~素敵ね!」
見た目のままに子供のように腕を広げて駆け回る。そんなゲルズの後ろをスキールニルは微笑しながらついていく。自身の発言なんて耳に入っていないだろうとあきらめたようなほろ苦い笑みを張り付けながら。
むろんその通りで、スキールニルの解説なんぞ右から左、いやそもそも入っていないように、ゲルズは笑いながらくるくると回る。
「みてっこんなに抜けた蒼穹を見たことがないわ!あっあれは何?!」
「鳥だな。遠すぎて種類まではわからないが。…そのまま回っていると危ないぞ」
「なに――、」
が?と言いかけて、その言葉は続かない。初めて見る大空を見上げながら回っていた足元お留守のゲルズは、スキールニルの危惧通りに植物の影に隠れていた小川に足を滑らせる。
しまった、と思った時にはもう遅い。ずるりと上体を崩したゲルズは重力そのままに、いつもの自分であれば見向きもしないであろう水玉rにに向かって一直線。とっさに手を突こうとした一瞬見えた伸びた掌をつかむ。
ばしゃん、と派手な音としぶきをあげながら二人は仲良く水たまりに転がった。
「……だから危ないと」
頭から水をかぶりひたひたになった黄金色を頬に張り付けながら、スキールニルは恨めしそうにゲルズをにらむが、やはりゲルズは露ほども気にかけず軽やかに笑うだけだ。自身も水浸しでせっかくの純白の髪もびしょ濡れだが、陽光に照らされて幻想的に輝く髪は自分のものではないほどに煌びやかに光を放つ。
遠くに聞こえていた獣の声も、ささやかに流れる風の音も。二人の笑い声を尊重するように小さくなっていって。この世界にはまるで二人しかいないかのような錯覚さえ覚え始めた時。
「……いったい何をやっているんだ」
その声は唐突に二人の上から降り注ぐ。転んでそのままの大勢だった二人はその声に全く同時に顔を上げる。
聞き覚えのある威厳に満ちた、しかしどこか気の抜けた子供のような声――。
「……フレイ、様」
口から出た声が震えてしまったのは、きっと気のせいではないだろう。ゲルズは直前までの浮かれてしまった自分を心の中でしかりつけた。
どうして自分がいま、この場にいるのかを思い出せ、と。
血の気の引いたゲルズの表情をどう思ったのか、フレイは少しだけその整った柳眉を寄せるが、それ以上はゲルズに関心はないのか不意に唐紅の双眸を己の従者に向ける。どこか胡乱気なその瞳はなぜか彼らしくないなと頭の隅で思う。
「で?」
「でとは」
「何をしているのかと聞いているんだが」
「水たまりにはまって水浸しになって笑ってる」
「そんな目に見える話をしているんじゃないんだが」
頭が痛いと言いたげに眉間にしわを寄せるフレイに対し、真逆にスキールニルの表情はどこか明るいものだ。まるでいたずらが成功した子供のようだ。
その場にいながら置いてけぼりを食らっているかのような疎外感にうろたえるゲルズだったが、フレイの放った次の言葉に衝撃のあまりフリーズすることになるとはこの時まったく思わなかったのである。
一つ盛大なため息をこぼし、フレイは首を振って声を上げる。
「それで?いったいいつまで我の姿を取るつもりだ、お前は」
切り取られたかのような静寂に、先ほどまで遠くでコーラスを奏でていた一切合切の音のすべてが静止する。
…………今こいつは何と言ったか?
頭を通り越して全身が砂のように真っ白になる中、二人の言葉の応酬は止まらない。言葉を突き付けられたスキールニルは一変し、まるで楽しくないとばかりに大げさに肩を揺らす。
「まったくお前は本当につまらん男だな」
「それがこの数百年人の姿で遊びまくったやつのいうセリフでいいんだな?」
「冗談も通じんとか、少しはお前も私を見習って遊び惚けてみたらどうだ?」
「生憎、遊び人の世話で手いっぱいだ」
「やれやれ」
心底つまらないと言いたげに首を振るスキールニルを正面に、ゲルズはわななく口を必死に動かしながら、同じく震える指を向けながら。
「……え、どういうことかしら、スキールニル?」
「どうもこうも……」
正面の黄金色の麗人のつぶやきと指を鳴らす音が周囲に響いたのは同時。瞬きののちゲルズの目の前には全く別の容姿の人間がその場に出現していた。
漆黒の髪に、白銀の散った唐紅の瞳。女性のような透き通る肌に、だれが見ても最高級の衣装。
「――こういうことだ」
豊穣神フレイは目の前の巨人族の幼女に向かって、すがすがしいほどの笑みを向けた。
彼のあけすけな表情とは裏腹に、ゲルズは今までの長い人生の中で一度だってしたことがないくらいあんぐりと口を開けて、打ち上げられた魚のように言葉にならない声をぱくぱくと開閉させるだけだ。そのゲルズの表情をどうとらえたのか、フレイは変わらず瞳を輝かせたまま。
「見ろニール彼女のこの表情を!人間の子に教わったどっきり成功だ!!」
「彼女の表情を見てそういえるお前は本当すごいぞ」
「驚いているではないか」
「お前が想像している驚きではない」
「お前は難しいことを言うのだな相変わらず」
「人間界で何を見てきたというんだお前こそ…」
先ほどフレイが立っていたいた場所には、入れ替わるように黄金色の髪をした仏頂面の麗人――スキールニルがいつも以上に感情の抜け落ちた紅玉で己の主を見返している。
「何十何百と人の姿で遊んで、さぞ楽しかったんだろうな?」
「なんだ?お前は何も仕事をしていないではないか。私が全部やってたんだから」
「これは本来お前の使命だ」
「というわけだゲルズっ。どうだ私の渾身のどっきりは」
「お前後で覚えてろよ」
終わらない文句を強引に断ち切り、フレイは何もしゃべらなっくなったゲルズに向き直る。恐ろしく静かすぎて正直うすら寒さすら感じる。
……さすがにやりすぎただろうか?
声もなく大粒の涙をこぼしながら花畑にたたずむ幼い彼女の姿。『神』から『人間の心』を獲得した唐紅の双眸に、それは場違いにも幻想的に映し出された。
「――――?!?」
この時の彼の狼狽を、ゲルズは一生忘れないだろう。しかし今はそれどころではなかった。
どうして今自分は泣いているのか、そのことにゲルズ自身がわからない。
「どっどうしたゲルズっ!?どこか痛めたか!?」
「泣いて当然だと思う」
「えっなんでだ!?」
「ゲルズ様。とりあえずこいつを殴ってもよいかと思います」
「なんでそうなr痛い!?くない?!」
スキールニルの言葉のままに反射的にとりあえず殴ってみたが、普段の姿ならまだしも今の幼い子供の姿で出せる渾身の一撃は、ぺちんというかわいらしい音をフレイの頬で奏でることしかできない。それでも胸に湧き上がる感情のままに、ゲルズはフレイを殴り続けることにした。
「ちょっと待て待て待つんだゲルズっただ殴られるだけだとそれはそれで困るんだが!」
「うる、さいっ、この駄神!自己中神!」
「ひどい言われようだなっ」
ガーンという効果音さえ聞こえそうな悲愴顔をして、フレイはぺちぺちと殴り続けるゲルズの細腕をはっしと掴む。自然距離が縮まった二人の乱れた前髪から覗く瞳は、それぞれの姿をその色彩に映す。
「お気に召さなかったか?」
「召すわけないじゃないっ」
「そうか…貴女に振り向いてもらうために『愛』というものを学んできたがまだまだだなぁ」
「もっと他にあったと思うけど」
「そうかぁ、私はまた選択を間違えてしまったようだ。全知全能が聞いてあきれるな」
がっかりという言葉とは裏腹に、フレイの表情はどこまでも明るい。彼のどこか気負わない声音に、ようやく表情が追いついたようにそれは彼にぴったりとはまる。
「でも、これに関しては私の選択はあってるようだ」
何が、というゲルズの問いかけは、頭に乗ったわずかな質量がこたえる。離された手を動かしてそっと触れてみれば、それは王冠状の花の環だった。
「ずいぶんと長くなってしまったし、これでは格好よくとは言えないだろうが」
フレイはそう言って、ゲルズの前に膝を折る。全知全能を謳う『神』の地位など捨てるように、いつかの傲慢な彼は自然な流れでオパールの双眸を見上げ、いたずらげに笑う。
「何も知らない私に、貴女が教えてほしい。
何も持ちえない私に、貴女が恵んでほしい。
空っぽな私を、貴女で満たしてほしい。
――どうか私の『愛』になってくれないだろうか」
とげのある赤い花。それをただ一輪差し出して、青年は初めて見せるはにかみ顔で少女を見上げる。
それはさながら、子供たちから借りていつか見た御伽噺のワンシーンそのもので、頭の端でフラッシュバックする。
その時物語の中の少女は、どんなセリフを言ったんだっけ。
なんの飾り気もなくうなずいた気がする。でも現実の少女はそれだとなんだか釈然としなかった。
だってこんな、自分が想像した『空想』よりも『現実』のほうがロマンティックだなんて、だれが信じられるだろうか。
知らずに彼と過ごしてきた何十何百年を思い出す。モノトーンだった世界を様々な色彩で彩ってくれた貴方。やり方は不器用だったけど、それが少女にもなかった『恋』を与えていたことに、彼はきっと気づいていないだろう。親友には見透かされていたけど。
ずっと取り繕っていた虚勢はすぐには消えてくれなくて、少女は結局こんな返事しかできないのであった。
「……少しはマシな告白ができるようになったじゃない」
――『現実』は、『物語』のようにはいかないわね。




