2-3.存在証明
見渡す限りの一面に美しい花々が咲き誇る、見事な花園だった。
聖グリエルモ学院内に多く点在する庭園も、一流の庭師が毎日丁寧に世話をしている所を見たことがあるので否定する訳では無いが、それでも『見事』と形容するにふさわしい庭だ。陽光に向かって我先にと競う花弁は際限なく所狭しと並び、その全てが隼人にとって見た事な無いものばかり。
燦燦と輝く太陽は春の陽気を思い出させる心地良さで、この場に寝転んだら良い夢が見れそうな雰囲気の中、何より真っ先に隼人の頭に浮かんだ感想は全く別物だった。
――俺、こんなに頭がファンタジーだったのか、と。
記憶にある限り小学生の頃には既に米国のハーバード大学に通っていた自分だ。その幼さのあまり特例で通信での講義になったが、自筆した論文の発表はさすがに自分で行った。そんなおよそ年齢らしからぬ合理主義者が最期に見る光景がこれとは、我ながら恥ずかしすぎる。
「どこかでこんな幻想を求めていたとでもいうのか…?いや待てそんなことあるかこれは夢だそうだ夢だ!」
自分に言い聞かせるために、無意味に大声で独り言をぶちまける。
そうだ、これはきっと夢だ。1面のどこまで行っても際限のない花畑も、そこに咲く見たことの無い形状の花弁も丁度よすぎる気候も。ついでに言えばよく分からない形状の生き物もどこから湧き出ているのか不思議な水も全部これなら説明がつくではないか!
……詳細に現実との差異を確認する度に、現実が突きつけられるこの虚しい気持ちはなんだろうか。
迷宮区もだいぶ現実世界からかけはなれた空間や生物は溢れかえっていたが、ここはどちらかと言うとそういう殺伐とした雰囲気とは無縁な、平和ボケしそうな程に心地よい空間だ。見上げるほど巨大な図体も振れば首が飛びそうな手足もなく、手のひらで掬いあげたくなるほどにふわふわな多分生物が空気中を漂っている。
ファンシーすぎる。
「悲しくなってきた……」
「随分辛気臭い顔をしているな」
声がした背後を振り返った先には、これまた目を見張るほどの精緻な施しがなされた休憩所。確かにこれほどまでの広大な花園だ、休憩所の一つや二つあって当然だろう。
――先程まで本当にそこにあったのなら、何も違和感はなかっただろうが。
それでも隼人はさほど警戒はしなかった。夢であれば死なないし、幻想であれば終わるだけだ。
果たして。深紅の双眸が映すのは、休憩所の椅子に我が物顔で腰かける1人の青年。
漆黒の髪は後頭部でひとつにまとめられ、背中を一筋流れている。休憩所の荘厳ささえくらむほどの豪奢な羽衣に包まれた痩躯は適度に鍛えられ、羽衣の装飾が麗らかな風に巻かれて沙羅と鳴る。
そんなきらびやかな着物も当の本人は気にしないらしく、梳けばそれなりに整うだろう長髪は乱暴にまとめられているし、羽衣も雑に切着崩されている。それでも粗雑と感じられないのは、彼の存在感があってこそだろう。
風に靡く漆黒の紗幕の向こう側から、白銀の輝きが散る唐紅が楽しげに笑う。
「そういうあんたは楽しそうだな」
「それはそうとも。こんな代わり映えの無い景色の中で百面相をするお前は滑稽だぞ」
「嫌な言い方だな」
高圧的な言い回しは確かに自分が日頃毛嫌いする貴族のそれに酷似していたが、不思議と嫌悪感は感じない。それが当たり前だとでも言いたげに。
華美な服装に整った外見。洗練された雰囲気に言葉遣い。彼を構成する全てが全く違和感なくそこにある。
その完璧さを、頭をよぎる雪白の髪を幻視して隼人は既視感に気づく。
隼人の思慮とは裏腹に、眼前の青年はどこまでもマイペースだ。これまた忽然と現れたティーポットを当たり前のように傾け、中の液体をカッブに注ぐ。
「まぁ立ち話もなんだ、座ったらどうだ?」
「……」
ビールジョッキよろしくほれ、と掲げられるティーカップに隼人は脱力する。警戒している自分の方が馬鹿らしい。
ただ踏み付けるにはさすがに心苦しいと、気持ち気を配りながら花園を横切り休憩所の席に着く。ソーサーに載せられたティーカップが差し出され、鼻孔をくすぐる花茶の馨しい香り。
「何も聞かないのか?」
「立ち話がどうとか言ったのはそっちが先だろ」
「ここはどこだとか、私は誰なのかとか。お前はどうなったのか、とか」
最後の質問と同時、唐紅の双眸が怪しげに光る。その奥底の感情を隠そうともしない青年の投げかけに、隼人は嘆息で答える。
「いいよそんなの。だいたい察した」
「ははーん?」
「もうちょっとその愉しげな顔を隠せよ」
「いや、さすがお前だと思った迄よ」
「さすがあんたって言いたいのか?」
意趣返しのように今度は隼人から仕掛けた質問に、しかし青年は一切微動だにしない。何もかも手のひらで見透かしたような余裕に緩く上がる口角。
青年はおもむろに1粒の角砂糖をつまみあげるとカップに放り込み、それを匙でくるくるとかき混ぜる。そのどの動きも緩慢で、流れる時間は恐ろしく停滞しているような錯覚に陥る。
「どうだ?ここは」
「退屈だな」
「そう言うのは、お前だけだよ」
「単刀直入に聞こう。あんたは何を望んだ」
遠慮の無い切り込みに匙がぴたり、と止まる。緩やかに上げられた唐紅と深紅が正面から交わり、幻想的な蒼い花弁が二人の間を横切っていく。
「お前が言った通りだよ」
「あんたは神だろ」
「そうとも。私はかつて『豊穣』を司った神。生命の営みとその繁栄の象徴だ」
大仰に手を振って青年はどやと鼻を鳴らす。だからどうしたと、隼人を見下すようなその姿が、どこか空々しいと思ってしまったのはきっと隼人だけだろう。
「争いを望むと?」
「断じて違う。いや、もしかしたら本質的には違わないのかもしれんな」
ソーサーからカップを上げて、それを緩く降って中身を混ぜながら、青年はどこか遠くを見るように唐紅を眇める。
「私は生命の営みと繁栄を望む。それが与えられた使命だとしても私の望みは変わらない。お前はここを『退屈』と切り捨て、私もかつてそう思った。どこまでも平和で起伏のないこの停滞は、やがて己自身を滅するだろう。その事にすら気づかないままな」
人間はこの数百年何も変化がないも説いた論者がいた。進行もなく後退もなく、そして先数百年も、もしかしたら永遠にきっと変わらないだろうとも。
ほかの生命は今この瞬間にも進化を続けている。それは地域に順応した変化とも劣化した進化とも評されても、進化に変わりはない。
生命ピラミッドの頂点。霊長類の長とも言われる人類は、『進化』というものを無意識に手放した。それは今の彼らを取り巻く世界に順応しきったゆえとも言えるが、言い方を変えれば『現状に満足してしまった』からだ。
『進化』を衰退させた末路は、『生存競争』への脱落。
これから先、天変地異は起こらないとなぜ言えよう。新たな病原菌が蔓延りパンデミックが起こる可能性も、大規模地殻変動が起こる可能性も。――人為的に引き起こされた人災が降りかかる可能性が零ではないと、なぜいい切れようか。
そんな『もしも』の局面な晒された時、果たして今の人類はその状況を打破できるだけの力が遺されているだろうか?
――今自分たちがいる空間はそういう場所だと、青年は世界を憂い。
――彼が望んだ世界も、今同じ道を辿ろうとしていることを、隼人は恥じた。
「だから私は望んだ。全てが決められた停滞した世界ではなく、誰もが自らの手で切り開くことが出来る世界。これこそが生命の営みをより繁栄させるだろうと」
「その結果は、どうだった」
「さぁ」
「さあって」
やるだけやってほったらかしか、この神は。
隼人の非難に、青年は至って当たり前のようにカラカラと笑う。
「それを決めるのもお前たちだろう?私は逆に問う側だ」
「…それは、」
「おっと待て待て、お前はまだ早い」
「わっぷ!?」
どこから、そしていつの間に毟ってきたのだろう。言葉を遮るように青年は隼人の顔面目掛けて華を投げつける。下のカップと開きかけた口内にそれらは容赦なく襲いかかり思わずむせかえる。
「っ何すんだ!?」
「時間だ、少年。お前にはまだやるべきことがあるだろう?」
はらり、と遅れて落ちてきたそれを隼人は反射的に掴む。それはどこか見慣れた『蒼い』薔薇。
薔薇の花言葉は色によって様々に細分化される。見慣れた赤やピンクはもちろん、現実にはない緑や紫。
蒼色はその中でも特に自然発生しない色彩だ、だからそれに準えたのだろう花言葉があったはず。確か――。
しかしそれを思い出す間もなく、二人の間を突風が吹き抜ける。それにやって巻き上げられた無数の花弁が極彩色に世界を塗りつぶしていく。
「お前ならやれるだろ、なんせお前は―――俺なんだから」
姿も見えなくなった青年の激励が、遠のく世界の向こうから聞こえてる。それを見すえる隼人の表情は自分自身にも、世界の誰にも観測されずに掻き消えていく。
「それは違う――俺はただの落ちこぼれだ」
お前とは違う。
だけどお前の心残りも、ついでに拾っておいてやる。
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ぱちり、と目を開く。視界を埋め尽くすのはこの一年弱で嫌という程見慣れた白い病室の天井。
なにか夢を見ていた気がするが、そう思うものは大抵目覚めた瞬間に手からするりと抜けてこぼれ落ちてしまって二度と戻らない。しかし妙に胸を満たす満足感に、隼人はそれ以上夢に関して考えるのをやめた。
内容は覚えてなくても、欲しかった結論は得たと。自分の中の感覚に納得して、隼人は上体を起こそうとしてふと止まる。
手をつこうとした先で、ベッドに伏せてすやすやと寝息を立てる青年。散らばる雪白色の髪は差し込む陽光に照らされ綺羅と光り、その下の瑠璃は今は長い睫毛に伏せられて見えない。
冬とはいえ、ガンガンに照る日の中でよくここまで熟睡できるなこいつ。
起きた直後から妙に重たいと感じた原因はこいつかと、隼人は無意識に雪白に手を伸ばしかけて。
「ようやく眠ったのだ、寝かせてやれ」
第三者の声に顔を上げる。個室の病室のベッドの正面、その壁際に椅子にも座らずに佇む1人の影。
「…スキールニル」
ダークブラウンの髪の下の新緑の双眸が呼び掛けに反応して一瞥する。その名前を口にするまでに間が空いてしまったのは、どうしても目の前の人物の外見が思い出と混同してしまったからだ。
その身体の本来の持ち主であり、短い間だったけど寝食を共にした青年と。
持ち主――セオの体をもたれていた壁からゆっくりと離す。腕を組むのがスキールニルの癖なのか、他人がやると威圧的なその恰好も板についている。
その組んでいた腕を解き。
「まず謝罪を。――申し訳なかった」
それは見事な斜め45度のお辞儀、謝罪だった。
「あ〜っと…」
起き掛けということもあって、彼の謝罪に対しての反応がしどろもどろになってしまう。そもそも彼とは一応敵対関係だったからに、彼の対応は正直反応に困る。見た目がセオな分、さらに精神的に悪い。
とにかく何か言わねばと、下げられた頭からは隼人から何か言わない限り絶対に上げないという確固たる意志を感じとって。
「それは何に関する謝罪だ?」
今まで培った皮肉を口走った。
思い返せば彼との邂逅も人より多いし、その分吹っ掛けられたツケも多い。だからこのくらいの皮肉くらいいいだろと思っての言葉で、スキールニルも分かっていたのか、隼人の言葉にも冷静によどみなく口を開く。
「この少年はお前にとって大切な友なのだろう。知らなかったこととはいえ冒涜した」
「いや別にそこまで思ってない」
きらいはあったがこの青年(かどうかは分からないが)、堅物過ぎるのでは?
返答に内心でそう突っ込んで、気を紛らわせるように赤銅色の髪をひとつかき混ぜながら。
「そりゃまぁ何も思わないこともないが。無理矢理ぶん取ったわけじゃないんだろ」
「同意は得ている」
「じゃあ何も問題は無い。セオ本人の選択まで俺は感知しねーよ」
今思えば学院に来て始めて少しだけ心を許した友人だったが、だからこそそこまで粘着質ではない。セオの人生なんだから、選択は彼の意思だ。
この話はこれで終わりだと、隼人は軽く肩をすくめる。
「で?俺の心臓を引っこ抜いてくれた件の謝罪は無いのか?」
「それに関してはお前が悪い」
「え〜…」
さてはこいつ、冗談の通じない委員長タイプだな?
先程の紳士的な態度から一変、面を上げたスキールニルは隼人を非難するような新緑で見下ろす。もちろん腕を組んだオプション付き。
「我らは敵対関係にある。そんな相手に不用心に考えを告げるなど軽率にすぎる、お前は聡い人物だと思っていたが」
言いさして、冷徹に眇られる新緑の瞳。
「ただの莫迦なら、ひとりで勝手に死んで行け」
莫迦、と。遠慮容赦のない言葉の刃に、隼人は鼻を鳴らして一蹴する。
『彼らは本当に静かに暮らしたいだけで、敵ではないのかもしれない』と。ハロウィンの時初めて対峙したこの青年の静謐な瞳を見て、そしてエドヴァルドが来てからも静観を貫いた姿勢に。隼人は根拠もなくそう無意識に悟った。
根拠はないが、信用出来る相手だと。それは堅物で委員長で歪んだ姿勢が一切できない青年に、自分とは真逆の態度に、それ故に彼の言葉に嘘がないと隼人は思って、だからヴァイスの反対を押し切って交渉をもちかけた。
確かに自分にしては些か以上に軽率な行動だったと理解している。スキールニルに対しての評価は自分の中での話であって、彼は一貫して『人類の敵』を貫いてきたのだから。
多くの人間の死を素通りした。
迷宮区が出現した時も、多くの人間の死を静観した。
好き勝手のさばる迷宮生物を諌めるでもなく、野放しに放置した。
10年前も、3年前も。――彼が兄を殺しているだろうことも。
普通なら激怒してもいいはずなのに、困ったことに何故か怒りの感情は湧いてこない。
ふと、視線をあげる。ベッドの前には先程から微動だにせず、スキールニルがセオの少し幼さの残る顔を顰め、真っ直ぐ見下ろしている。
眩しいくらいの実直さが、彼が悪役になりきれてないと本人はきっと気づいていない。その事が、少し可笑しい。
「何がおかしい」
「いや、莫迦にもなるさと思っただけだ」
隼人の真意を測りかねて、顰められる柳眉に意地悪くも笑みを深めてしまう。こういうところが何故か、今もすやすや眠って起きないこいつに似てる。
目の前の人物が、本当に争いを望んでいないだろうと思ったことは本当だ。だけど、交渉をもちかけた理由は別にあったからだ。
「俺はこいつを迷宮区の最深部に連れていく約束がある。それはこいつが自分が何者なのか、自分は一体何なのか。その答えが最深部にあると思っていたから、俺はそこまでの路を開くのが役目だった」
迷宮生物と同じ色彩の色が流れる身体で、欠落した13歳以前の記憶。『化け物』と呼ばれ続け感情すらすり減らした少年が望んだ、たった一つの願望。
もう去年の話になる。桜がちってもう随分とたった月星夜の淡い光の中で、少年たちは誓い合った。
『俺がそこまで導いてやる』と。
『だから俺を連れて行ってくれ』と。
そう決めてこの1年突き進んできた。意気込んでみたものの結局自分の力で進んできた気が全くしないところが情けない話だが、それでもここまで進んできた。 求めてきた答えに、手が届くところまで。
――でも。
「ショートカットがあるなら、それは使うべきだ」
意地の悪い笑みに、スキールニルは驚きに新緑を瞬く。青年が初めて見せた冷徹以外の表情は、想像以上に素直なものだった。
「…なるほど、引きずり出されたのはこちらか」
スキールニルが隼人の思惑に気づいたと同時、無駄話に気づいてかようやく眠り姫が起き上がる。そういえばヴァイスがこんなにうるさいところで寝ている所は見たことがなかったなと気づいて、それだけ疲れていたんだなとも思う。
寝起きが弱いヴァイスは普段以上に緩慢な動きで上体を起こしたかと思うと、半分も開いていない瞳が、ぼさぼさの雪白の前髪の下ふわふわと周囲を見回して。
「おはよう、ヴァイス」
「……んぅ」
なんだその生返事。
「こんな日が照ってる中よく眠れるなお前」
「んー…」
「大丈夫か?起きれそうか?」
「ぅん…」
「起きれなさそうだな」
「……ん」
疲れていたというレベルを超えているかもしれない。こんなヴァイスを今まで見たことがある人間がいるだろうか。少なくとも自分は見た事ない。
早くもうつらうつらと船を漕ぎ始めたヴァイスの目を覚まさせるために、あとこれは個人的な嫉妬心からとりあえず隼人は少し意地悪をすることにしてみた。
「いつもならもっと過剰なくらい心配してくれるじゃないか。今日は無いのか?」
もちろん本気ではないし意地悪してみただけだ。決していつもならもっと反応してくれるじゃんとか泣いてくれるじゃんとかそんなこと思っている訳では無い。断じて。
そんな隼人の内心の葛藤を知ってか知らずか、ヴァイスはシャツの袖でグジグジと目をこすり。
「邪魔な奴がいるから」
「何を言うか。心臓が動き出した時は泣いて喜んでいたくせに」
「してない」
「してた」
「…2人は仲良くなったのか?」
「「は?」」
「すみませんでした」
美形×2の凄みは半端なかった。
「そもそもお前が目を覚まさなかったひと月、我がこいつの面倒を見ていたんだぞ。感謝して欲しいくらいだが」
「面倒を見たってどっちの話?器物破損マシーンが」
「この時代の創作物が脆弱すぎるからだ。あと破損の方はブローズクホーヴィだ、我ではない」
「その尻拭いをしたのは僕だけど」
「尻拭いといえば、お前の猪突猛進をいつもカバーしてやったのは我だが」
「は?」
「は?」
「わかったわかった俺がすぐに起きなかったのが悪かった」
どこまで行っても平行線で終わらない話を隼人は横槍を入れて強制的に終了させる。レグルスといいヴァイスはすぐに相手に喧嘩を売るのは知っているが、スキールニルはもっと大人の対応ができるものだと思っていたのに。
といってもスキールニルは真面目さゆえの頭の硬さというか、まるで融通のきかない生真面目大人こ会話のようだったが。
その事にスキールニルも気づいて、仕切り直しというように1つ咳払いをして。
「先程はああいったが、我には部下の不始末の責任がある。なにか要望があるならできる範囲で聞こう」
お前が聞きたいことを聞いてやるとそう言って。その言葉の返答を、隼人はもう二ヶ月前から決めている。
かつてふたりが誓った結末を。
その答えを。
「『迷宮区』の真実――ヴァイスの出生を、お前は知ってるな」
その言葉に、1番反応を示したのはヴァイスだった。普段凪のような瞳は、今は驚愕に見開かれて固まって、握られた手のひらで知らずベッドのシーツにシワがよる。
対し、目の前の貴人の反応は変わらない。静謐で冷然、そして気負うことなく当たり前のことを当たり前のように。
「知っている」
冷酷とも取れる声音で、放たれた言葉はその一言だけ。
――予測は簡単だった。
夏の一件は迷宮区――アルフヘイム側としても予想外の出来事だったはずだ。それを裏付けるかように現れた2人の特別講師と、同時期にチラつくようになった妖精たち。
そして、迷宮区の最深部付近で現れた彼を、特別講師たちは『主』と呼んだ。
アルフヘイムの本来の持ち主は豊穣神フレイだ。しかし彼はあるとき人界に降り、人間として子孫を残した。それがエドヴァルドの生家、ユングリング。
人間になった時点で神としての所有物は持ってこられないはずだ。だから今の所有者は別にいる。
神の治世がどうなっているかは知るわけもないが、通例であれば所有物の権利は親族や近しい者に引き継がれる。
フレイの場合は伴侶がいたはずだから、おそらくは彼女に。
だとすれば現在の所有者はフレイの唯一の伴侶――巨神ゲルズになる。
しかし彼は言った。『静かに暮らしたいだけなのだ』と。
その言葉を、隼人は文面通りに受け取ることは出来なかった。その言葉は彼自身に向けられたものではなく、そのほかの『誰か』に向けられたもののように思えてならなかったからだ。
1人で静かにいたいなら『過ごす』と言えばいい。しかし彼は『暮らす』と言った。彼以外にもアルフヘイムに何者かがいる証明だ。それがゲルズにしろそうでないにしろ、彼はゲルズ以外の『何者か』ということになる。
特別講師――フレイの所有物である神獣を従え、かつゲルズ以外の『何者か』――そこまで来れば、彼の正体に辿り着くのは容易だ。
豊穣神フレイの幼馴染であり、側近騎士。そんな彼であれば知らないはずは無いのだ。
迷宮区内で発見された、記憶喪失の少年のことを。
「じゃあ、」
「ここまで巻き込んだ以上、隠す気は無い。が、当の本人はどうなんだ」
鋭い切り返しに、隼人ははっとなる。自分が知らず前のめりになっていたことに気付かされた。自分の推測の答え合わせとなると周囲に目が回らなくなるのは悪い癖だ。
今回は特に、自分のことではないのに。
「そいつに、話を聞く覚悟はあるのか」
隼人に対してでは無い問に、ヴァイスは瑠璃の双眸を凍りつかせて身を強ばらせる。感情の起伏の乏しい彼と紛いなりにも1年弱付き合った隼人の中で、最も揺れ動いた姿だった。
「ヴァイス」
きつく握り締めすぎて白くなった手を、隼人は努めて柔らかく触れる。握り込みすぎて爪がくい込んでしまって、裂けた傷口から薄く漏れ出す蒼い血。
「すまん、配慮が足りなかった」
伏せられていた瞳は見るからに動揺していたが、こちらを慮ってかヴァイスは緩く首を振って否定する。そのあと数秒置いてから、ややあって口を開く。
「…違う、聞きたくないわけじゃない。これが僕が求めてきた答えだから。だけど、」
1度言葉を切ってヴァイスは続ける。触れた手のひらをさらに上から自身の手のひらで覆いながら。
「いざ知れるってなると、怖いんだなって」
「怖いならやめよう」
「それじゃ意味が無い」
矛盾だらけの提案に、ヴァイスは困ったようにはにかんで。
「ハヤトは約束通りに導いてくれた。だから、僕も僕の約束を果たさないと」
落ちこぼれは、そこまでの道筋を導くから。
だから死神は、その場所まで連れていくと、そういう約束だったはずだから。
しん、と真っ直ぐに向けられた瑠璃は恐れはあれどもう揺れてはいなかった。いつもは人形のような無表情を取り繕った儚く脆いその色は、いつの間にか血の気が通い芯が通っていた。
そんなひたむきな姿にこれ以上は無粋だろうと、それ以上は何も言わずに。
「俺も、ちゃんと聞くから」
「ありがとう。…それと、」
瑠璃の双眸を今度は新緑に向けると。
「他にも聞いて欲しい人達がいる」
「我に異論はない」
スキールニルの承諾に、ヴァイスは再度ふりかえって。
「ここまで付き合ってくれたんだから、ちゃんと聞いておいて貰いたいんだ」
「俺も、お前が言うなら文句なんてない」
おそらくはきっと同じ面々の顔を思い浮かべて、同時に少し嬉しくもなった。
今までは誰にも、出会ってからは自分以外には頑なに心を隠してきた友人にも、自分以外にも話が出来る友人ができたんだと思って。
――少しそこに嫉妬の感情が混じっていたことに、隼人は見て見ぬふりをした。
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「へーいおまたせ諸君!団体様ご案内ー」
「貴様のその騒がしさはどうにかならないのか?ブローズグホーヴィ」
「ところでコノノエはなんで半裸なんだ…?」
「急に連れてこられて羽織れただけでも逆に褒めて欲しいな、俺は…」
「皆さん、一応ここ病院なので、」
「あーハヤト先輩起きたんですね!?」
「静かにしてね!?」
がやがやと病室らしからぬ騒々しさと共に入室してきた面々に、隼人は照れ隠しも兼ねて軽く手を挙げて答える。
「――揃ったようだな」
それぞれがそれぞれの問いを始める前に、窓際から差し込む陽光の陰に隠れるようにして貴人は厳かに口を開く。低く響くテノールは決して大きくはないのに、その一言だけで室内の空気は一気に張りつめる。
「我が今まで見てきた全てを、包み隠さずここに開示しよう」
それは、とても永く淡い。御伽噺のような純恋歌――。




