1-2.継ぐもの
たった数時間足らずの別離。たったそれだけなのに目の当たりにしている凄惨な姿に、彼の身に何かあったことは一目瞭然だった。
魔法繊維で編まれた制服は傷だらけで、その下の身体にまで届いて赤く滲んでいる。何よりも像を結ばない沈んだ紫眼がレグルスの不安を掻き立て、今も尚鼻腔をつく焦げた臭い。
「っその腕、まずいんじゃないの?早く病院に――っ、」
言葉の途中でそれに気づいて不自然に言葉を切ってしまう。黒炭と言ってしまっても違和感のない左腕の陰に隠れていたそれは、何度見た事はあっても一生慣れることは無い。
穴という穴から流れ出た血は既に凝固して、白磁を通り越して土色に変色しつつある相貌に貼り付いている。首から下が無くなったそれは、バスケットボール程の大きさの、見慣れた赤に近い金髪。
オリバーが抱えていたものは彼の従者、リュカオン·ルーの生首だった。
首の断面からして刀剣類によるものだろう。オリバーの傷と火であぶられたのではない焦げた腕から、相手は容易に想像できた。
『拾い物』とフローズは言った。ここに来る道中でオリバーを拾ったことは間違いなくて、その場には他にも人がいたはずなのにどうして彼だけ連れてきたのかなんて、それこそ少し考えればわかる事だ。
『生きていた』から連れてきて。
『生きていない』から置いてきた。
実に単純明快な解だ。
そしてその結論が、オリバーの他にはアルベルトもリュカオンの全員が『生きていない』証明。リュカオンの首を刎ね、オリバーにここまでの傷を負わせたアルベルトは死んだということ。
『タキオン』総団長として、疑念を撒いた青年と。
自身の双子の弟の、敬愛していた義父の彼と。
そのどちらの側面も知っているレグルスからすれば、どちらが正しい姿だったのか今となってはわからないが、弟を思うと何も思わないわけではない。弟がこのことを知ったらどんな気持ちを抱くのか、その感情も兄であるレグルスにもわからない。
しかし今だけはそのときではないと頭を軽く振って追いやると、刺激しないように立たせようと腕を回す。あまり動かさない方が良いのだろうが、そんなことは言っていられない。
「動ける?その腕早く診て貰わないと、さすがに治らないかも」
どうにか無事な左肩を揺らすが、オリバーの腕はリュカオンの首から一向に離れようとしない。ただ何事かうわ言のように呟いて、レグルスには一瞥もくれない。
今までずっと隣にいた従者の死に、打ちひしがれてるのは明白だった。
オリバーとリュカオンがどのような過去を歩んできたのか、ただの『主』と『従者』の枠ではきっと収まらないだろうことは聞かなくても分かっているつもりだ。だから抜け殻同然になってしまった彼の今の気持ちを簡単に『わかる』と言えるほど、レグルスも自惚れていない。
だけど、彼の喪失を黙って見すごす訳にも行かない理由が、自分にはある。
「立ってオリバー。病院に行かないと」
「……」
「あと言いたくないけど、オレあんたの言いつけ守れなかったんだけど。…怒ってくれないんだ」
「……」
「とにかくそれから手を離して。それは、持っていけないから」
それ、と言った瞬間それだけは絶対に離さないと言いたげに首を抱える手がピクリと反応する。『それ』にだけ反応を示すオリバーに、頭の中でなにかの線が切れる音が聞こえた。
今までの配慮も忘れて、レグルスは左肩を掴んだ手に力を込めて、苛立ちながら力いっぱい引いた。
「そんなもの置いてけって言ってんの!死んだ人間にいつまで固執してるんだよっ!」
叫んだ直後、左頬に感じた打撃に視界がぶれる。衝撃で切れた口内にじわりと広がる血の味。
視線を戻すと、血走った紫眼を向けながらオリバーが肩で息をしている。動かない左腕を無理やりしならせて頬を殴ったようで、脆くなってひび割れた表面を真新しい血赤がなぞって地面に伝う。
「貴様に何がわかる!今までどれだけ助けられたのかっ。リュカがいなかったら俺は今この場にいない!リュカだけが俺の存在を守ってくれた、理解者だった!それなのに…っ」
張り上げた激昂は、胸が張り裂けそうな程に痛ましかった。怒りと悲しみと自責と、色んな感情が綯い交ぜになってぐちゃぐちゃになって、絡み合った糸のように雁字搦めになってしまっている。
「それなのによりにもよって貴様が!リュカを貶めるのかっ!?」
悔しそうに、憎らしげに歪んだ紫眼が射殺すように見上げ、そして直ぐにいたたまれないように逸らされる。それだけはどうにか堪えようとして、それでも口から溢れ出る、押し殺されたつぶやき。
「リュカがいない世界で、俺はこれからどう生きていけばいいんだ…」
手のひらで掻き毟るように、ぐしゃりと前髪をかき混ぜる。荒々しい行為とは裏腹に小刻みにその手が震えているのを、白銀の双眸は見逃さない。
路頭に迷った、幼子のようなつぶやきだった。
ここで甘い言葉をかけることは、酷く簡単だ。
『ごめんなさい』。
『あんたは悪くない』。
『頑張った』『休んでいい』『他にやり方はなかった』――。
多くの言葉が頭を過り、その全てをことごとくを断固として否定した。それらは絶対に、その場では不必要なものだから。
再び俯いてしまったオリバーに、レグルスは静かに口を開く。君臨者がその臣下に命を下すように。
「従者の仕事は、一緒になって泣いてやる事じゃない。励ますことでも、慰めることでも、同情や甘やかすことでもない」
半ば呆然と顔を上げたオリバーに、尚もレグルスは続ける。ようやく交わった紫眼から、その底に訴えかけるように決してそらさない白銀。
「オレはあんたを託された。何を犠牲にしても、あんたを生かす責任がオレにはある」
数日前の、冬の澄んだ空気に浮かんだ月光の中。息を白く吐き出しながら、リュカオンはいつかのカズキと同じ目をしてこういった。
『置いていかれるんじゃない、お前は託されてるんだよ』
そう言って笑った彼の遺志を、それを受け取ったレグルスには継ぐ責任と権利がある。継がなければ、リュカオン·ルーという人間の遺志はこの世界のどこにも遺らない。
だから。
「立って。立ち上がって歩け。誰を犠牲にしても捨ておいても、オリバー·ブルームフィールドは歩き続けなくちゃいけない。あんたの行き着く先に、あんたを支えてくれたみんなを連れていくために」
多くに支えられ、犠牲にしながらも進まなくちゃならない人間は確かに存在する。それが本人の意思とは関係なくとも、それが『英雄』と後世に名を残す凡人。だからそうなる人間がこんなところで死ぬなんて許されないし、オレが許さない。それが『英雄』が犠牲にした人間たちに対する贖罪で、その重荷を一緒に背負うのが従者の役目だ。
残酷だと人は言うだろう。事実その通りだと思う。きらわれてもいい、憎まれてもいい。それでも彼の隣で最期まで見届ける。
それが彼を託された、レグルス·アマデウスの選択。
眼下の喧騒が、冬の冷えきった風に乗って両者の間を抜ける。こうしている間にも刻一刻と事態は進行していて、だからこそ2人だけが別の世界に取り残されているかのような錯覚さえ覚える、そんな静寂。
先に沈黙を破ったのは、オリバーだった。
小さく肩を震わせて、吐き捨てるように笑う。
「…どんな時でも手厳しいな、君は」
「オレがあんたを励ますとでも思った?」
「そんなことがあったら、次の日は槍の雨が降るな」
これだけ憔悴し切っていても口だけは達者らしい。少しでも心配した気持ちを返して欲しい。
憮然と口を尖らすレグルスの眼前に、まだ動く右手が差し出される。傷だらけで血だらけのその手のひらは、今はもうリュカオンの首は持っていない。
「助力くらいは乞うてもいいだろう?」
立たせて欲しいと素直に言えないものなのか。と気乗りはしないがその手を掴んで引き上げようとして、思いっきりつんのめる。
この期に及んでまだ何か抵抗するかこの男。
「ちょっと、」
「…すまない。少しだけ、このままいてくれないか」
掴んだ手のひらが、声が。小刻みに震えて濡れている。
「…少しだけ、待ってくれ。もう少ししたらちゃんと、…立ち上がるから」
俯いてしまって見えないオリバーの正面に、膝をついてボサボサになってしまった頭を抱き寄せる。いつもは綺麗に整えられている、マリンブルーの髪を梳く。
「一段落したら、ちゃんとお墓を立てよう」
「……急に優しくするのやめてくれ」
「飴と鞭は使いようだよ」
これでもお兄ちゃんだからね、とレグルスは回した手のひらで背中を叩く。
「で、あんたの言いつけ守れなかったオレへのお叱りは?」
「言いつけを守った君に、叱ることなんか何も無い」
あんたこそこういう時は叱ってくれないんだ、と少しだけ思ったことは、心の内にだけ留めておこう。
誰にも気づかれないように胸に隠した嗚咽は、喧騒に揉まれてレグルスの耳にしか届かない。
*****
同時刻。『タキオン』総司令部居住区画。
司令区画と隣接する形で敷設された自室の一角で、アデルはただただ己の無力さに伏していた。
外の喧騒を、まるで映画のワンシーンのような感覚で聞き流す。
耳を劈く悲鳴もクラクションの音もサイレンの音も、全て自分とは関係の無い、作り物のように感じながらアデルは自室の机にただ顔を埋める。
自分はこの四角い窓枠の向こう側から違う世界を見ているだけの観測者。自分の『現実』とは関係ない。
――そんなつまらない結末だったなら、どんなに良かっただろうか。
知らず、首筋に手が伸びる。震える手は氷のように冷えきって、首を流れる冷や汗のまとわりつくような感覚。
作戦時や緊急時以外は使うなと、義父の言いつけを守らず『目』を開いた。
これといって深い理由はなかった。ただ冷たく振り払われた手に縋り付くように、意地汚くも諦めきれずにアデルは最深部へ突入したアルベルトの『現在』を盗み見た。
いつか見た巨大すぎる扉を前に繰り広げられる、熾烈な闘い。見慣れたマリンブルーの、今は切られて短くなった髪の青年の紫氷とそれと同じように繰り出される閃光。
あの瞬間、誰が誰を殺してしまったのか、混戦した戦場で戦士ではないアデルには見抜けなかった。突然パッと花のように散った血赤に瞠目し。
――アルベルトの自決の瞬間を『目の当たりにした』。
感触はない。アデルの異能は『視る』ことしか出来ないから。その視界を刹那のうちに染め上げた鮮血を映して、それ以降二度と彼の視界を視ることは出来なかった。
1度見知った相手であれば、迷宮区内であれば繋げられないということは1度も無かった。今までで体験したことの無い現象に、しかし気づけないほど鈍感でもない。
死人の視界を視ることは、生身の人間にはできるはずもないのだから。
なぜあの場で彼らは剣を交えていたのか。
なぜ誰もが死ななければならなかったのか。
なぜ義父は自害したのか――そのいずれの答えも教えてくれる者はただの一人もいない。
外野の自分には分からないことだらけだ。あの場で起きたことも、彼らが何を話して、今まで何を思っていたのかも。
何も分からないのは、自分のせい。
話されなかったから、聞かなかったから。自分の受け身の姿勢にどこまでも嫌気がさしてくる。
何ももう分からない。
それでも。
「…なにも、出来なかった……っ」
ただその途方もない虚無感だけは、確かだった。
「電気もつけずに。こんなところで何をしているんだい、アデル」
慣れ親しんだ声が唐突に自室に響く。アルベルトとは違う、人に指示し慣れたよく通る澄んだ声。
時間的にはまだ昼にも関わらず、至る所で上がった黒煙のせいで外は暗くなっていて、唐突に刻まれた魔法陣の黄金は上空すぎて、その厚い煙に遮られてしまって全ては地上に届かない。第二次世界大戦時のような戦火の中の空はこんな風だったのだろうかと思うほど、夜の帳とはまた違った暗さに部屋は包まれていて。
その暗さの中で何をしているのか、という文面通りの意味ではいだろう問に、アルベルトと同じく最深部に向かってこの時間にはいないはずのアーサーに、気づいていてアデルは答えない。
「全く外は酷い騒ぎだね、まるでハロウィンの仮装パーティのようだ。まぁ中も同じようなものだけど。暴走した迷宮生物たちから命からがら逃げてきたらこの騒ぎだ、さすがに僕も頭が痛い」
普段は落ち着き払った彼の声も今は僅かに憔悴していて、言葉通りに深部から脱出してきたらしい。アルベルトの生死を知っているのかは分からないが、それでもあの扉の間にアーサーの姿がなかった以上、部隊の指揮を執っていたはずだ。
先遣隊何十人もの人員を、った1人で指揮してここまで生還して。今はこうしてアデルの目の前にいる。
英国王家直系、アンダーソン公爵家。その次期当主で実質の現当主を背負う『タキオン』副団長が、何故かこんなところに。
「それで。君はこんなところで何をしているんだい」
二度目の質問だった。聞こえなかったはずはないだろうという無言の圧力に、やはりアデルはなんの気力も湧いてこない。
「……何も出来ないから、ここにいるんです。義父を、アルベルトさんを諌めることも止めることも、戦うことも何もかも」
「だからここで朽ちようって?」
「…何が言いたいんですか」
嘲笑を含んだ返しに、たまらずアデルは聞き返す。彼の言い回しが、何故か酷く癪に触ったから。
思えば彼はなぜここにいるのだろうか。外も中も大変な騒ぎだと彼が言ったんじゃないか。だのになぜ副団長で率先して事態の収拾に努めなくてはならない彼が、貴族としての責務があるはずの彼が、こんな孤児の子供の前に。
嫌がらせの、つもりだろうか。
根拠がないことなんか少し考えればわかるはずなのに、無気力で悲愴に沈んだアデルにそんな余裕は微塵もなかった。
放っておいて欲しいのに――っ。
「あなたこそこんなところで油を売ってる暇なんでないんじゃないんですか!?アルベルトさんが居ない今、部隊の指揮はあなたが執らなければならないと言うのにっ、子供一人なんて捨てておけばいいでしょう!?」
ヒステリックに喚き散らして、乱暴に立ち上がった拍子に座っていた椅子が音を立てて転がる。そんな悲鳴すら今は気にすらならない。
情けなくも潤んだ瞳は眼前の青年のシトリンすら、今どんな表情を浮かべているのかさえ分からない。
ただ頭に閃いた疑問をそのままに、アデルはアーサーに叩きつける。
「あなたは一体、僕にどうして欲しいんだっ?!」
ヤケクソで突き放した、子供の言葉だった。だって分からない。彼が一体自分に何を望んでいるのか、まるで。
孤児の自分に、子供の自分に。何も出来なかった自分に、何も出来ない自分に――。
肩で息をするアデルとは対照的に、アーサーは彫刻のように微動だにしない。たっぷり数秒をそのまま佇立し、やがて。
「……失礼」
短すぎる断りの後、アーサーは鋭くアデルの左頬を右手で打ち払った。
「――ぇ、」
「いつまでそう悲壮感に浸っているんだ、見苦しい」
初めて聞く、冷徹に冷えきった声。たったそれだけですくみ上がるだけの重圧がそれはあった。
先程の圧力なんて比べ物にならないほどのそれに、引っぱたかれた衝撃も相まってその場に頽れる。
「聞いてもいないことをべらべらべらべらと、言い訳ばかり並べ立てて。君の言葉通り、こちらも子供の駄々に付き合う時間はないんだ。悲劇の主人公気取りなら他所でやってくれ、ご機嫌取りなんてお断りだよ」
地面にころがったアデルに手も伸ばさず、アーサーは高みから見下ろす。地を這う蟻を見下すような無感動なシトリン。
「君はアルベルトから何を学んだんだい?彼はこんな時何も出来ない自分を責めろと、ただ打ちひしがて呆然としてろとでも言ったのか?」
――親としての教えがそれなら、彼の器も高々知れる。
捨てるように吐き捨てられた、しかしどこか叱咤するようなアーサーの言葉に瞠目する。そうして走馬灯のように脳裏をひらめく数年間。
まともに剣を振るうことすら出来なかった自分に、苦笑しながらそれでも辛抱強く指導を続けたアルベルトの姿。
孤児で一般教養すら満足に身についていない自分に、高等教育を施してくれたアルベルトの姿。
『タキオン』総団長という立場と、聖グリエルモ学院の理事長を両立する彼自身ものすごく忙しかったはずなのに、それでも時間を見つけて彼自身が面倒を見続けた。食事も調査に行った時以外は一緒にテーブルについて、他愛もない話で盛り上がった。
記憶の中に蘇るのはどれも、誰かに面倒を指示することもできたはずなのに、それを頑なにしなかった青年の姿だ。
幼い頃に捨てられたアデルに肉親の記憶はほとんどない。だから本当の『父親』の姿というものは書物に書かれたものか、自分の想像でしか図り知ることは出来ないが。――記憶の中のアルベルトの姿は、アデルにとっては『父親』そのものだった。
ある時聞いたことがある。あれは多分剣の腕が思うように上がらず、そんな自分と成果を出せない自分に嫌気がさして、ほとんど八つ当たりなような問。
どうしてあなたは、こんな指導を続けるのか、と。
翡翠の双眸を瞬いてどう言おうか迷って、青年は答えた。
お前は一応、私の息子だからだ――、と。
その父の教えを思い出す。優しく、しかし熾烈な彼の教え。その時は言葉の意味がわからなかったけど、今思えばこの時のためにあったのだと理解出来る。
アルベルトが死んだ後、自分が一人で生きていくために。
義理の息子の自分が、跡を継いでくれる事を願って。
噛み締めるような沈黙の後、アデルは自分の頬を思いっきりひっぱたいた。両サイドからサンドするように容赦のない痛みをバネに、そので勢いよく立ち上がる。
正面のアーサーは少しばかり面食らったように金色を瞬いて、自分では見えないその顔を見て薄く笑って。
「皆、あなたの言葉を待っています、アデル。――新しい小さな団長殿。指示を」
中世の騎士のように恭しく跪く。大貴族の、それも同じ貴族同士でさえも気後れするような御仁が、自分のような孤児の前で。
彼のその姿勢に、自分も応えなくてはならない。彼の真摯なその姿勢に少しでも報いるために。
元々の色彩の白銀の右目と、異能の金に染まった左目。頭上に円環を煌々と輝かせて、アデルは闘志をみなぎらせる。
――一瞬垣間見えた現視の向こう。咄嗟に繋がった視界で黄金の青年が確かにこちらを視て、その口の動きを捉えながら。
「まずは市民の誘導と市街への迷宮生物の流出を抑えます。正面出入口は我らが『死神』が抑えていますので、そのほか全ての出入口に人員を回してください。――これ以上の被害を食い止めます!」
新しい『タキオン』総団長の少年は、跪く副団長にそう鋭く指示を飛ばす。
*****
小さい従者の助力のおかげで、間一髪窮地は脱した。
妖精はそれぞれの名前になぞらえた、秀でた能力を有している。とりわけビュグヴィルとベイラは『隠すこと』に長ける。イングランド圏で有名な『チェンジリング』は、実はそのほとんどが彼らの仕業ではないかと疑われているほど。
ベイラの能力で姿をくらませたエドヴァルドは、1人今だ輝きを放つ黄金の粒子の舞う空にいた。
魔法陣が展開した位置と、天井の裂かれた空間の狭間であるこの空間は、既にひとつの異世界と化している。全ての地球の法則から外れ、故に高高度でありながら普段通りに呼吸することもでき、浮遊することも造作もない。
ここがエドヴァルドが『聖杯』を使って作り上げた第三世界――『千年王国』の始まりの空間。
人間界でもない、ましてや『アルフヘイム』でもない全く新しい世界。イエス・キリストの再臨を待つために建国された幻想の国。名前はそこからとった。
「ベイラ、進捗はいかがですか?」
『ん〜のろのろだけど進んでる!』
「どのくらいかかりそうですか?」
普段は快活としているべイラだったが、今回ばかりは返答に言葉を濁す。エドヴァルドはそれだけで当初の目標は諦める他ないなとやんわりと話題を変える。
「どちらにせよ『聖杯』は起動しました。どれだけ時間がかかろうと、いずれ王国は完成します」
1度動かされた永久機関は簡単には止まれないように、起動された『聖杯』の機能の停止は不可能の現状に変わりは無いのだ。今後どれだけの邪魔が入ろうとも、エドヴァルドにも止めることは出来ない。
――誤算があったとすればひとつだけ。
先祖であるフレイの唯一の従者であり、今は地の底でティターニア――ゲルズを守護する番人。
『輝く者』スキールニル。
黄金の髪を持ち、人間の身でありながら神の位に召し上げられた彼が持つのは紛れもない、フレイが生涯持ち続けたとされる宝剣«宿木の魔杖»。暁の刀身のそれは白炎を纏い、その光は人間では認識することの出来ない上位次元――すなわち『世界』を両断する。
現在の『千年王国』の構築が遅れてしまっているのもそのせいだ。力の一端しか放っていないとはいえ、逆に言えば一端でこの威力とは。さすが神造兵器と言われるだけはあるだろう。
彼の登場は予想外だった。これまでエドヴァルドは聖グリエルモ学院で彼の出方を探っていたが、あまりのアクションの無さに最後まで不干渉を貫くつもりとばかり思っていた。それが彼が最期に受け取った『命令』だと。
それに――神がいなくなって久しい人間界で、純正の神造兵器を使用するのはリスクが過ぎる。
それらを加味して彼が出張ってくることは無いだろうと踏んでいたから、先ほどの急襲は肝が冷えた。«必定の穿槍»がなければ、今頃エドヴァルドの首はその辺の地面にころがっていた事だろうを
«宿木の魔杖»の能力のせいで計画の遅延が発生してしまったのは痛い誤算だが、しかし先程ベイラに言った通り、それも時間稼ぎに過ぎないだろう。
人生を賭けた理想郷は、ここに遂に完成する。
そのことを思うと、エドヴァルドは無意識のうちに口の端が緩む。天井の彼女のことを想うとなおのことだ。
自分の願いはようやく叶う。ようやく自分は『何者か』になることが出来る。
「……邪魔させない」
できることなどもうないのだ。その言葉が、自分に言い聞かせているものだとエドヴァルドは気づかない。
――あの薄桃色の髪の少年が持っていた『大鎌』の存在が、蛍光のように脳裏から離れない。




