5-1.君のとなりに
紫氷と白雷が激突する扉の外側とは打って変わり、内側は夜の海のように静まり返っていた。
その空間が広大ゆえに微かにしか視界に映すことが出来ない左右の壁面や床、天井に至るまで目につく全てに施された緻密な芸術の数々は、まさにかつてこの空間の直上にあったサン・ピエトロ大聖堂のそれ。
荘厳で厳格。その空間にいるだけで背筋が伸びるとはこのことだろう。
しかしそれだけではなく、何よりその空間の異様さは、回廊から差し込む陽光だ。
ヴァイスの記憶が正しければ、ここは迷宮区『サンクチュアリ』第661階層。全666階層あるとされる地下空洞の最深部であるはずで、陽の光なんてものは無縁の場所。
しかし迷宮区の暗闇に慣れた目には痛いほどの光は、疑いようもないほどに天から降り注ぐそれそのものである。
朗らかな日差しが差し込む中、太極図のような陰と陽から相対する、雪白と金色の人ならざるもの。
この空間の凜然と相まってか、それとも目の前に立つヒトでないものの正体を知っているからか、ヴァイスの中でおそらくは緊張が最高潮に達していた。
開戦の狼煙がいつ挙がってもおかしくない、そんな緊張の糸が今、限界にまで引き絞られ――。
「――申し訳なかった」
綺麗にかっちにななめ45°。お手本のような角度のお辞儀と謝罪に、ヴァイスは何時でも得物が抜けるように腰を低くした姿勢のまま。
「……は?」
「某のツレが無礼を働いた。こちらとしても不本意だった」
発せられる言葉に真摯さが込められているあたり、どうやら本気なのだろう。しかしそれでなくともステイのこの態度は、どうにも毒気が抜かれてします。
対面したが最後、問答無用で殺し合いが始まると思っていたから。
ヴァイスのそんな様子を他所に、ステイはそのままの姿勢で。
「某らとしても、奴の奇行に頭を痛める場面が多々あってだな。やれ地球の反対側は本当に繋がるのかと地球の核まで突き進んだり、神話の時代には世界樹の根は本当に下層にまで届いて居るのかと走り回った時もあったな。そういえば奴の地団駄で世界全体が揺れたこともあった」
「……はぁ」
心底あきれ果てた、疲れたようなステイの辟易とした言葉と表情に思わず同情しかけるが、一応敵である相手に素直に肯定する気にもなれず、煮え切らない返事だけを返す。
なんというか、向こうも向こうで色々と大変なんだな、と人並みの感想が思い浮かんだ。
そんななんとも言えない表情のヴァイスに、ステイはあくまでマイペースに話を進めるようで。
「そもそもあいつは子供っぽい部分があるというか、後先考えずに突っ走るきらいがあってだな。馬のくせに猪のようなやつだ、某が一体どれだけやつの尻拭いをさせられと、」
「あの、そろそろいい…?」
数千年間の鬱憤全てを聞いていたらそれこそ日が暮れる、そう思ってしかしあまり強く出ることも出来ずおずおずと切り出す。その様子にステイはようやく話が逸れていることに気づいたようで。
「すまない、話が逸れた」
「いや、律儀に謝られても困るんだけど…」
くそ真面目に頭を下げるステイのペースにまるきり呑まれてしまう。先程ステイはフローズのことを『子供っぽい』と評したが、2人(2匹)を足して2で割ったらちょうど良いのでは無いかと思う。
そんな気の緩みかけたヴァイスの意識が、次の瞬間切り替わる。ステイが無造作に掲げたあるものを、瑠璃に映したからだ。
「少年の目的はこれだったな」
外気に晒されても尚猛る、人間の心臓。化学の授業で見せられる模型資料そのものの形を成したそれは、今も薄桃色に濡れている。
見紛うはずもない。それはあの時確かにフローズによって引きずり出された、ハヤトの心臓だった。
当時の光景が脳裏にフラッシュバックする。飛び散る血赤に、力なく地面に転がるハヤトの身体。そしてその光景を見てもなお、何も出来なかった己の不甲斐なさに、今思い出しただけでも怒りを覚える。
それだけで雑魚の迷宮生物であれば殺せそうなヴァイスの殺気を、ステイはそよ風のようにサラリと流しながら。
「そう怒るな少年。繰り返すが、こちらとしても本意ではない」
「そんな戯言、誰が信じると、」
「信じろ、というのも無理な話だということも承知している」
嘆息し、ステイは心臓を掲げる。それがまだ活動を続けていて、取り返しが着くことを示すかのように。
「我が主スキールニルからは、少年がこれを取り返しに来た暁には返還するよう言われている。我らとしても不本意である以上、その命令に異論はない」
しかし、と。ステイは感情の起伏の乏しいペリドットの双眸を鋭く光らせる。
「このまま少年にこれを返還して良いものか。某としては些か以上に疑問が残る」
「言ってることが矛盾してる」
「『返還すること』ではなく『このまま返還してもよいものか』。某の懸念はその一点に尽きる」
人外のくせに口が回る。まるで言葉遊びのようだなとヴァイスは苛立ちに眉を顰める。つまり彼はこう言っているのだ。
「僕に不満があると」
「某は事前に告げていたはずだ、『このままではいずれ大切なものを取りこぼす』と。にもかかわらず己を顧みなかった結果がこれでは無いのか」
見せびらかすように心臓を晒され、ヴァイスは苦虫を何十匹と同時に噛み潰したような表情になる。彼の言っていることが全て正論で、だからこそいらだちを募らせる。
それが子供の駄々のような、幼い感情に起因するものだと気づかないまま。
隠しきれない幼い内情が浮かぶヴァイスの相貌を一瞥し、ステイは小さく嘆息する。それでは困るのだ、と吐息混じりの言葉は相手に届くことなく宙を遊ぶ。
「だからこそ、某は今1度見極めなければならない。少年、貴様にはこの魂を守るだけの力があるのかどうかを――」
ステイがそう言い終えるのと、手のひらの心臓を握りつぶすのは全くの同時だった。
「――っ!」
「心の臓とは『魂』の器でしかないが、器を失った『魂』はただ消滅するだけだ。そうだな、四半刻も持たないだろうな」
ぼたぼたと零れる血赤に、瑠璃の中の黄金は視る。いつか視た鮮烈な『あか』色な輝き、その『魂』の輝きが器を失った瞬間から死滅していく様を。
潰れた心臓と溢れ出る血赤に染まった左手に、浮遊する蛍のような淡い『魂』の光を横目に見遣りながら。
「『魂』が消滅すれば二度と蘇生することはない。さぁ少年、どうする――」
言い終わる前に、ステイは目の前に立っていたはずのヴァイスの姿を見失う。瞬きの一瞬に懐に入り込んだヴァイスの右手は、既に得物を抜いている。
零距離、砲撃。
マズルフラッシュよりも速く、撃ち出された弾丸はステイを急襲。視認できるはずもない死神の一撃を、しかしペリドットは確かに捉える。
ヴァイスの弾丸を首を軽く振っただけで回避、同時に腰裏の拳銃嚢から引き抜いた漆黒のルガーGP100を発砲。人間の反射神経では絶対不可避の銃弾を、しかしヴァイスもステイと同じように首を振って避ける。
一瞬の攻防は、お互いの銃口が額を捉えることによって静止する。眉間に突きつけられる白銀と漆黒の拳銃をお互いの双眸に映し。
「今すぐそれを渡せ」
「ならば口ではなく力で奪って見せろ」
一瞬で永遠に感じられたその空白を、先に破ったのはどちらだっただろうか。
向けられた漆黒の銃口から銃弾が吐き出される前に、腕を振り上げて標準をそらす。的をずらされた弾は雪白の髪を僅かに焼き切りながら、背後の地面にめり込む。
回避をすると同時にヴァイスは引き金を絞るが、ステイも重心を逸らすことで回避する。
距離を取ろうとバックステップでかわそうとするステイだったが、ヴァイスは獲物を前にした獣のように追撃。立て続けに三発をステイの回避行動を先読みして眼前に撃ち込む。
踏み出そうとした1歩を撃ち込まれた銃弾を回避するために無理やりずらす。そうすることで注意がわずかに逸れた様をヴァイスは見逃さない。動作がにぶったステイの足に標準、発砲しようと引き金に力を込めたと同時、気配を察知して行動を中止してその場をの飛び退く。
直後に走った銃弾は空間を裂くように直進、背後の精緻な装飾の施された一柱を粉砕する。
たった1発でこの威力。咄嗟に避けていなければ間違いなく一瞬で肉塊に成り果てていた。瓦礫がくずれ落ちる音を背後に聴きながらそのことを確認し、ふとこめかみを粘り気の強い何かが流れ落ちる感覚に思わずそれを手で拭う。
視界に映ったのは自分の手のひらと、それを染めあげる蒼色。じわりと広がる人間とは違う血の色に、ヴァイスは緊張のレベルを上げる。
「ただ考え無しに向かってきても勝機はないぞ、少年」
ステイの声が上から降ってくる。発生源を追いかけるように視線を上げると、文字通りステイが虚空からヴァイスを見下ろしていた。
まるで手品師の魔術のような芸当に、ヴァイスは皮肉げに瑠璃の瞳を眇めながら。
「手品にしては質が悪い」
「生憎と種も仕掛けもない。某は空、ブローズグホーヴィは大地を守護する神獣だ。天空は某にとっては大地も同じ」
そう言いながら、ステイは言葉通り大地を踏みしめるようにして空中からヴァイスを見下ろす。誇張する訳でもない、当たり前の事実を当たり前に淡々と言うだけ。
いつか体験した、神馬の上からの光景すら、彼にとっては当たり前の光景なのだろうか。
頭をよぎる感情を、軽く頭を振っておいやる。今はそんな場合ではなく、目の前の相手に集中しなければ――。
「そんな浮ついた心では。――死ぬぞ」
気がついた時には見上げた先に金色の影はない。どこに行った、そんな考えが脳裏をかすめる前に身体は意識を置き去りに反応する。
それまで頭があった部分を、吐き出された銃弾が飛翔する。前に転がることで直撃は免れたものの、それでも避けきれずに今度は肉ごと頭皮を抉りとる。
花が綻ぶようにぱっと視界が蒼に染る。今まさにえぐり取られた右側頭部から流れ出た蒼い血液が右目に流れ込み、そのせいで右の視界が真っ青に染る。
構わず振り向きざまに激発。しかし当てずっぽうの照準であたる相手でもなく、奪われた視覚側からの衝撃に、ヴァイスはそのまま地面を地面を転がった。
「っかは、」
止まったら終わる。本能でそう察したヴァイスは上体を起こそうとするが、地面に突いた左大腿部に風穴があくほうが速かった。衝撃と痛みから立ち上がることは叶わず、広がる蒼色の仲にべシャリと音を立てて倒れ込む。
「ぐ…っ」
「……弱い、弱すぎる。これが某と同じよう血を流すものか」
どこまでも冷徹で淡々とした声の中に、僅かに混じる憤慨と苛立ち。その事にヴァイスは気づいて面をあげるが、直後に向けられた銃口がその先の行動を制止する。飛び退いて回避しようとするが撃ち抜かれた大腿部が悲鳴をあげ、その分だけ所動が遅れる。顔のすぐ脇を銃弾が風を切る音を置き去りに、腹部に突き刺さった蹴りの衝撃が柱の1柱に激突してようやく止まる。
「――っっ!」
声にもならない空気と、逆流してきた血液だけが口内から溢れ出る。フローズ程の威力はなかったが、それでも人1人の内臓を破壊するには充分な威力に内臓が、骨が。身体の中がぐちゃぐちゃと蹂躙される。
飛びそうになった意識が、ステイが首を掴み上げることで無理やり引き戻される。徐々に絞めあげられる気管でどうにか酸素を取り込もうと、腕を掴んで藻掻く。
弱々しく抵抗するヴァイスの身体を首を掴んで持ち上げる。地面につま先が着くかつかないかの状態のヴァイスを睨みあげるペリドットの双眸は、先程までの伽藍堂ではなかった。
「――なぜ死ぬ気で来ない」
殺気を孕んだ声に、ヴァイスはギクリと肩をふるわせ同時に気づく。彼が何に憤っているのか、その理由に。
「某は貴様の主の『魂』を奪い、殺そうとしている。そして貴様はそれを奪い返しに来た。だと言うのに今の貴様にはまるで殺意が感じられん。制御装置もない以上、『魔眼』も自由に使えるはずなのに、貴様は使う素振りすら見せない。ふざけているのか」
「ふざけて…なん、か…っ」
怒りの感情も、憤慨も。ステイに対してヴァイスの中に湧き上がった感情は紛れもない真実だ。
大切なヒトを取り戻す。その目的に賛同してくれた、手を差し伸べてくれた人たちの協力を無駄にしないために、ヴァイスには何を犠牲にしてもそれを達する義務があることも。
だからこそ。
「――死ねない」
濡れた言葉に、ステイは初めて感情らしい感情を露わにする。なにか恐ろしいものを、理解できないものを見る目で。
「…理解できない。死ねない?今目の前で主が死にかけていると言うのに、貴様は自分の命の方が惜しいとでも言うつもりか」
言葉には次第に熱がこもり、それに比例して首を圧迫する力も強まる。白い顔を鬱血させながら、それでもヴァイスは意志を曲げない。
「僕が、死んだら…だれもっ。ハヤトを助け、られない…っ」
――月明かりの下で交わした、約束があるから。
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「この期に及んで、死ぬつもりとか考えてる?」
不意にかけられた声に、ヴァイスは瞠目する。今は作戦を詰めている最中で、話の流れにしては突飛すぎたから。
隣にいたレンからの問いかけに、ヴァイスは無言で居心地悪そうに目をそらす。
ハヤトを取り戻す為、最奥部で待ち受けているのは十中八九心臓を持ち去ったフローズか、彼女と同じ人外のステイだ。先の交戦で圧倒的な力を見せつけられたフローズはもちろん、ステイにもヴァイスは打ち勝てる自信が無い。以前授業で対峙した時は本調子ではなかったとはいえ、それでも『死神』と恐れられた自分の射撃線についてこられ、あまつさえこちらに弾丸を浴びせた。レンの介入がなければ間違いなく死んでいた。
『神獣』としての能力は不明だが、それでなくとも純粋な射撃の腕でも向こうの方が遥かに上。
死ぬ気は無い。が、死ぬ気で行かなければ勝てない。もし自分が死のうとも、刺し違える覚悟でないと、ハヤトは取り戻せない。
ヴァイスの沈黙をどう受けとったのか、レンは苛立ちがありありと感じられるため息を吐き捨てて。
「……あのさぁ」
胸ぐらを掴まれ、無理やり顔を上げされられる。怒りに染った琥珀色と交錯したのも一瞬で、次の瞬間に額に衝撃が走る。
「〜〜っ!?」
頭突きをされたのだと、痛みで潤む視界にレンを映して遅ればせながらに気づく。レンの額も赤く腫れていたが、ヴァイスよりかは軽傷のようだ。
その鈍い衝撃音とヴァイスの声にならなかった叫びを聞いてか、ミーティングに夢中になっていた3人も何事かと振り向く。
「一体何をしているんだココノエ。今はミーティング中、」
「あぁごめんね、ちょっと3人で話進めてもらっててもいいかな」
オリバーの非難の声を、レンは表面上は普段通りの穏やかな声で遮る。しかしその場に集合していた4人は、その声と笑みに逆に恐怖する。
レグルスは、獣並みの直感ですくみ上がり。
オリバーとリュカオンは、幼い頃から裏稼業で培った経験から後ずさる。
これ以上何か言ったら殺される、それほどまでの殺気と言っても過言ではない怒気。
「ほ、程々にな…」
何とかそれだけ言って、3人はすごすごと距離を置く。とばっちりを食らいたくないという気持ちがダダ漏れだ。
そんな3人は今更眼中に無いのか、レンは普段の穏やかな笑みをすっこめる。いつか見た工作員としての、彼の裏の顔。
「一体いつになったらその加虐趣味無くなるかな。あと隼人といいうじうじしてる奴って見てるこっちが苛立ってくるんだけど」
遠慮容赦のないレンの発言に、さしものヴァイスもかちんと来る。
「加虐趣味って、僕がいじめられて喜んでるっ言ってる?」
「実際そうでしょ。自分が真っ先に突っ込んでいって傷ついて犠牲になれば、それで丸く収まるって思ってるだろ。自己犠牲に酔ってる訳だろ」
「それはっ、」
「冷静ぶって無感情装って悲劇の主人公気取るのもいいけどさ、見せびらかされてもサムいしウザイんだよ」
「――だって事実だろ!」
矢継ぎ早に叩きつけられた罵詈雑言に被せるように、気がついたらヴァイスは叫んでいた。
「君たち人間なんか簡単に死んじゃうじゃないかっ!血がなくなり過ぎれば死ぬ、腕が飛んでも足が飛んでも死ぬ、ちょっと内臓が潰れただけでも死ぬ!死んだらそれで終わりなんだ、二度と活動を再開しない!人間は、生き物は生き還ったりしないんだっ!」
「――それを知っていて、どうして死ぬなんて言うんだよ」
湧き上がった頭が一瞬で覚めるほどに、酷くひび割れた声だった。
知らぬ間に掴み返していたヴァイスの腕を振り払うことなく、レンは真正面から向き合っていた。僅かな身長差から見上げてくる、黄金の散った琥珀色。
「隼人が1番怖いのは、自分のせいで誰かが死ぬ事だ。だから誰も寄せ付けなかったし近づこうともしなかった。自分自身でそれを守る力がないから、そうと分かっているから孤立を選んだ。本当は、孤独が嫌いなはずなのに」
12年前、ハヤトが大和桜花団の調査員として初めてここを訪れた時のことを、ヴァイスは今でも詳しくは知らない。カズキからも聞かなかったし、レンもハヤトも話そうとはしないから話すことでもないのだろうと、レグルスもオリバーもこちらからわざわざ聞くこともしない。
ヴァイス自身もそれでいいと思って聞いていない。過去の出来事は過去の出来事で、今更どうしようもないし当時のことを聞いたところで、ヴァイスには何も出来ないから。
だからレンの壊れてしまいそうに張り詰めた、悔しそうな表情の本当の意味もわからない。
「――君だけだった、ハヤトの隣に行けたのは。本当の意味で心を許せたのは、君だけなんだよ」
言葉と同時に、胸を拳で叩かれる。今まで体験したどんな痛みよりも、どうしてかその弱々しい拳が痛いと感じた。
「俺はその位置には行けない、隼人の前から居なくならないと言えない。だけどヴァイスは違う。腕が飛んでも足がなくなっても、内臓が潰れても隼人の元に還って来れる。あいつを遺して、居なくなったりしない」
今まで多くの人間が、ハヤト前から消えていった。友人も仲間も、未来が視えた兄でさえも、誰も彼もがみんな置いていった。
だからハヤトは独りを選んだ。それが幼い彼が見出した傷つかない、絶望しない為の唯一の処世術。
――だけど、ヴァイスは。
「お願いだよ。隼人を、独りにしないでくれ――」
最後の懇願は、冬の闇夜に吹く突き刺すような風が攫っていく。消えそうな、溶けてしまいそうなレンの言葉に、ヴァイスは思い出したように口にする。
「……1度だけ、ハヤトがボクに命令したことがあるんだ。『自分を道具扱いするな』、僕はその言葉をどう守ろうか、どういう意味なのかずっと考えてるんだ」
最初は単純に、レンと同じように無鉄砲な自分に対して言っているのかと思った。自己犠牲に走る自分が見るに堪えないからと。でも、だったらもっと違う言い方があったんじゃないか、と気づいたのは本当につい最近のことだ。
『前に出るな』『余計なことはするな』。命令の出し方を、あの頭の回る軍神が考えつかないはずがない。
俯いていたレンが面をあげる。そんなことも分からないのかと言うような、琥珀色が瞬く。
「…友達が自分のことを『道具だ』、なんて言ってたら、悲しいじゃないか」
答えに、ヴァイスは気がついたら笑ってしまっていた。
あぁ、なんだ。簡単な事だったんだ。
そんなの、『命令』ですらないじゃないか――。
「……分かった」
零れた声は自分でも驚く程に澄んでいて、だからレンも驚いたように瞠目する。
「約束する。腕が飛んでも足がなくなっても内蔵が潰れても、僕は――」
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「主、とか…従者とかっ、そんなんじゃない……っ」
仮借のない圧力に、絞り出すようにヴァイスは声を出す。自分を同じものだと勝手に勘違いをしているこいつに、一言言ってやらないことには気が済まない。
ハヤトを取り戻すのは彼が主だからとか、自分が従者だからとか、そんな理由なんかじゃない。
「友達として、ハヤトを取り戻して還る。それが、僕が僕自身で決めた、僕との約束だ――っ!」
眼下にあったペリドットの双眸が、雷に打たれたかのように凍りつく。僅かに生まれたその間隙を、『死神』は見逃さない。
全身の筋肉を総動員し、空中で右脚を跳ねあげる。左頭部を狙った一撃を、ステイは一拍遅れて空いていた左腕で防御する。
ハヤトの『魂』を持っていた、左腕で。
「っち――」
狙いに気づいたステイは宙を泳ぐ『あか』い蛍光に手を伸ばすが、すでにヴァイスは次の一手に差し掛かっている。
注意が逸れる、このときを待っていた。
即座に腰裏の拳銃嚢から第2の鎌を引き抜くと、首を掴むステイの右腕を迷わず発砲。蒼い血液が舞う中緩んだ手中から滑りぬけると、ステイを引きずり倒して蛍光に手を伸ばす。
届け。届け――っ!
その願いが届いたかのように、ヴァイスの腕の中にその『あか』色はするりと入り込んできた。
飛び込むように手を伸ばしたから、受け身も取れずに地面を転がる。『あか』色だけは潰れないように抱き込んで、確かめるように腕の中を見る。
初めて見た時から変わらない、彼の色が確かにそこにあった。
「良かった、」
と。気が緩んでしまったのがいけなかった。直後に背後からの衝撃でヴァイスは再び地面を転がる。仰向けになったところで肩を踏み抜かれ、目の前に突きつけられる銃口。
肩を地面にぬい止めた足は、象にでも踏まれているのかと思うほどどれだけもがいても微動だにしない。銃口の向こう側から見下ろしてくるペリドットは、迷宮生物と同じように闘争心から炯々と光る。
音が遠くなる。スローモーションになる世界で、ノロノロと引き絞られる引き金。
――死ねない。
僕は、決めたんだ。
何がなんでも、君のとなりに還るのだと――!
銃口が、重なり合う――。
*****
世界が改変されたのは、まさにその時だった。
 




