4-7.孤高の白雷
とある子供の話をしよう。
なんの目標も指標もなく、ただ単純に「力が欲しい」と望んだ時期が、少なからずみな等しくあったと思う。
そんな在り来りな願望を抱いた、ちっぽけな子供の話。
その子供は、イタリア中央区ヴァチカン市国近くの街に生まれた。
イギリス人の父親に、イタリア人の母親の間に生まれた第1子。後に2人は女の子も授かり、子供は兄となった。
帝は裕福だったわけでは無いが、特別貧乏でもない。ごく一般的な家庭だ。
しかし妹は何の因果か、なんの魔法適正もない両親から生まれたにもかかわらず、飛び抜けた適正値を記録した。
後々の調べで父方の遠い縁者に魔法適正が高い者が出生していた記録が存在した。いわゆる先祖返りというやつだ。
それで家族含め周囲の対応が変わった訳では無い。しかし子供は腐っても兄だ、そこに少なくないプライドがあっても仕方がないだろう。
然して、子供が「力が欲しい」と願うことは、必然といえばそうだったのかもしれない。
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「お兄ちゃんどこまで行くの?危ないよ〜」
「だったらついてこなければいいだろ」
間延びする穏やかな声に、アルベルトは白金色の髪を靡かせながら振り返る。至る所が崩れ落ち、真っ直ぐに歩くことも難しい道を、ぽてぽてと仔犬のようについてくる人影。
「マリア」
「だって危ないよ〜」
答えになっているようでなっていない言葉を、妹のマリアは穏やかに返す。家族全員同じシアンの瞳ち、魔法五代元素『風』属性の適正を表す翡翠色のくせ毛。
まるで水面のように光の角度でキラキラと光る髪はどこまでも幻想的で、その動きはいつまで見ていても飽きはしない。自分の白金の髪に不満がない訳では無いが、妹にはその色が似合うと兄ながらに思う。
「それに、すぐここに遊びに来ちゃうお兄ちゃんをちゃんと見張るようにって、お母さんに言われてるもん」
「見張れてないじゃないか」
「えへへ〜」
屈託のない笑に、つられてアルベルトも苦笑する。マリアの笑みを前にすれば、たとえ殴り合の喧嘩をしていたとしても和んでしまう。そんな悪魔的な魅力があるのだ。
イタリア中心区、旧ヴァチカン市国。現在は『サンクチュアリ』と呼ばれる異空間。その表層部分はまだ地表に近いこともあり、崩落した縦穴は一昔前の人類もそうして暮らしたように人が賑わう。世界一小さい国とはいえ、ひとつの国家が一夜にして滅んだそこは、今でも統治が行き届いておらず、なんな審査もなく人は入り放題だ。
どこにも居場所がない流れ物が居着くには、もってこいの場所。
当然治安は大変宜しくない。至る所にゴミは散乱し、日中であっても怒号が飛び交う。そんな無法地帯はしかし、幼い子供から見ればまるで秘密基地のような場所だった。
崩落して空いた縦穴に、抜けた先には大空洞。崩壊に巻き込まれたサン・ピエトロ大聖堂に収容されていた美術品の、その欠片がみつかることもある。
そんな場所にアルベルトはよく来ていて、その後をマリアも楽しげに追いかけてきた。両親からは危ないからと近づかないよう言われているが、その一言だけで湧き上がる好奇心が収まる年頃でもない。
「今日は何が見つかるかな〜」
「あまり目立つなよ、目をつけられるぞ」
貧民街に来る時は、それ相応の恰好で訪れる事にしている。貴族ではない一般家庭のアルベルトにそれほど価値は無いが、それでもここでは浮いてしまう。みすぼらしい恰好をしていれば、ただの流れ者の孤児の出来上がりという訳だ。
自慢じゃないが、アルベルトはそうした悪知恵がよく働いた。両親共に善良な市民のはずなのだが、悪戯やこうした悪巧みの類の閃きはもはや才能ではないかと疑うレベルだ。元々読書好きで知恵を蓄える事に楽しみを見いだせる性格だったため、齢10にして賢さは両親すら舌を巻くほどだ。
それでもアルベルトは現状に満足はしていない。もっと知恵を、力をと今日も迷宮区を訪れる。
「この前見つけたこれ、綺麗だよね〜」
「割れた角で見事に切ったけどな」
「そうだね〜」
翡翠色の髪を束ねる髪飾りをアルベルトは恨めしげに睨む。つい先日迷宮区で発見したそれは、ものの見事にガラクタの破片で、それはもう素晴らしい切れ味だった。
先日の探索の際に目ざとく見つけたマリアに、なんの意味は無いが口封じのために拾ったそれは、どうやら壺かなにかの装飾部分だったらしい。無造作につかみあげた破片は思いのほか鋭く、アルベルトの手の甲を深く裂いた。
「でももう痛くないでしょ?」
「…そうだな、マリアのおかげだ」
つい先日できたその傷は、今はすっかり消え去ってしまって見る影もない。怪我の程度は最悪何針か縫う程のものだったが、マリアが魔法ひとつで治してしまったのだ。
サリヴァン家の縁者に、魔法の素養があるものは少ない。『魔法』という概念が認知されるようになった現代でさえ、その適性があると正式に認められるレベルの術者ともなればほぼ皆無。だからマリアに魔法を教えられる何者かがいた訳でもなく、彼女はなんと独学で実用レベルにまで魔法を使えるようになっていたのだ。
特別何かした訳ではないのだと言う。ただ思い描いたように、頭に浮かんだ祝詞を諳んじただけなのだと。
年齢ゆえの気恥しさから、うつむき加減にアルベルトは治療の礼を述べる。そんな無愛想な兄だったが、マリアは気にする様子もなくはにかむ。
「でもあまり使いすぎるなよ。変なやつらに目をつけられたらどんな面倒なことになるか」
「お兄ちゃん、今日その言葉何回目〜?」
「お前がそんなだから心配してるんだよ」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ〜」
吹けば飛ぶような陽気さで言うマリアに全く信用はない。現に言いながら瓦礫に何度足を取られているか、見ているこちらがハラハラする。
そんな時だった。
「――あ、」
「ばっ!?」
瓦礫の下に空洞があったのだろう。滑らせた足がその空洞にはまりそのまま転がり落ちそうになるマリアの腕を、アルベルトは反射で掴む。我ながらこの時の反射神経には賞賛する。
しかし年の差があったとしても所詮は10歳の少年でしかないあるべるとあは想像通りに引き上げることは叶わず、一緒になって奈落のような空洞に落ちていく。
長いようで一瞬の浮遊感。何とかしてマリアを抱え込んだアルベルトの背中に走った衝撃は、朽ちた木製の床だった。
「っいった…っ!」
「お兄ちゃん、大丈夫?」
胸の中から声をかけてくるマリアに怪我はなかったようだ。心配そうに気遣う妹に言葉のひとつも返してやりたいが、思った以上に強打した背中が痛すぎる。とりあえず背中以外にアルベルトも怪我はなさそうだったので、呻きながらもどうにか軽く手を挙げて答えた。
痛みに潤んだ視界をめぐらせる。壁という壁に所狭しと並べられた本の数々に、その中央にポツンと備え付けられた大きなデスクには、現代では見かけなくなって久しい羊皮紙とつけペンが整頓されている。ここの主だったろう人間の几帳面さがありありとうかがえた。
「図書館、かなぁ?」
「いや、多分誰かの家の書斎だ。崩落に巻き込まれて埋まってたんだ」
ひとまず目の前にころがっていた古本の表紙に目を落とす。イタリア語ではない文字列。これは…ドイツ語?
「ドイツ系譜の貴族の書斎か」
これだけの蔵書をもっとなれば維持費もかさむだろう。だからここは貴族の書斎だとアルベルトは結論づけて立ち上がり、改めて周囲を見回す。崩落に巻き込まれながらこれだけ保存状態がいいとはなんと奇跡的なのか。その時、その理由がアルベルトには理解できなかった。
何気なくふと、中央のデスクに視線を向ける。何故かまるで呼ばれるかのように錯覚し、熱に浮かされたようにふらりと歩み寄る。
近づいてわかった。整頓されたデスクにはしかし、羊皮紙が一枚だけ広げられたままだった。それはまだ描きかけで、それを裏付けるかのように傍にインクがこびりついた1本のつけペンが転がっていたが、そこに記されたものがなんなのか、アルベルトは一瞬で見抜く。 円を中心とした幾何学模様。補足するかのようにびっしりと描かれた、ドイツ語の文字列。
「――魔導書」
正確には、それになる前の設計図だ。事実描かれた魔法陣には、わずかではあるが空白がある。しかしそれも一節分を残すのみで、ほとんど完成しているようだった。
おそらく崩落のせいで未完だった魔法陣に、アルベルトは近くにころがったままのつけペンに手を伸ばす。普通であれば何かを書けるはずもないそれも、魔法陣と同じで神秘を宿していたことに、凡人の彼は気づかないまま。
「外郭は完成してる…とりあえず無視して…ここの文字が方向…ここが威力…ここが効果範囲だから…」
「お兄ちゃん見てみて〜こっちに大きな動物の骨があるよ〜」
周囲を見回っていたマリアが見つけたものを自慢げに兄に披露しようとして、ようやくアルベルトがなにかに夢中になっていることに気づく。普通であれば気づくはずの最愛の妹の呼び声にも気づかないほどに、今のアルベルトは集中と興奮に身を焦がす。
五大元素外の、貴族所有の系統外魔法をこの目で見れたことに。
それを何となく理解できたことに。
そして。――自分が欲した『力』がもしかしたら手に入るかもしれないということに。
そう。今まで自分には適性がなく自分自身で触れる機会が全くなかったアルベルトは、自分に魔法研究の才能があることに気づかなかった。
「ということは、ここにこの文字を書けば…っ」
自分の手で、未完成だった魔法が完成する。
どんな魔法なのだろうか?
威力は?効果範囲は?攻撃系なのか補佐系なのか?
今までになかった高揚感に浮かれながら、アルベルトはなんの躊躇いもなく文字を記す――。
――アルベルトの視界に火花が散ったのは、その直後だった。
「――――っっ!?!」
最初はなにかの勘違いだと思った。自分の手で魔法陣を完成させた興奮からの。しかしそれが勘違いでないことを、全身を貫くかのような激痛が否定する。
ツンと鼻をつく、焦げた臭いだけがアルベルトの意識を皮肉にもかろうじて繋いだ。
眼球が沸騰したかのように熱い。外側でなく裏側からの痛みに、アルベルトは目が焼かれたのだと咄嗟に気づく。
「お兄ちゃんっ?!」
いたいイタイイタイイタイ何か言わないとクルシイクルシイクルシイ大丈夫だってクサイクサイキモチワルイキモチワルイシヌシヌシヌ――――!!!
地面をころげ回るアルベルトにマリアが駆け寄る気配を感じるが、痛みと強烈な焦げる臭いでどうすることも出来ない。激痛で遠ざかる意識をどうにか保ちたいのに、身体は言うことを聞かずに沈んでいく。
耳元で叫ぶマリアの最後の、その時だけ普段では見せない静かな声が嫌に耳に残った。
「もう、これしかない――」
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まず最初に目に飛び込んだのは、真白な天井。
呼吸をする度にやけに息が篭もる。視界の端に映った酸素マスクに、アルベルトはなるほどと納得する。どうりで呼吸がしづらいと思った。
「アルベルトくん、大丈夫ですか?どこか痛いところなどはありますか?」
ビービーと鳴る警告音を聞き付けて駆けつけた看護婦が、気遣うように声をかける。どのくらい寝ていたかは分からないが、喉がカラカラで声が出ない。仕方ないから小さく頷いて見せると、看護婦はひとまず安心したように、「お医者様を呼んできますね」と病室を出ていく。
ふと、周囲を見回す。今も色んなコードに繋がれ、上体を起こす気にもなれないので寝たままで。落下防止の柵越しの外の緑が目に痛い。
――痛い?そうだ、自分は確かに『目が痛かった』。
外と内を隔てる透明な壁に意識を集中する。チューブだらけの自分の身体。包帯やガーゼだらけの憔悴した顔。
――傷だらけの顔の2箇所に埋まる眼球の見慣れた翡翠色だけが、冷えきった精神と反対に炯々と輝いていた。
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「何をしたんだ」
隠す気もない苛立ちに満ちた声に、目の前の変わり果てた姿のマリアはきょとんとする。
アルベルトが目を覚ましてからだいぶ時間が経過したある日。その日はようやくマリアの面会許可が降りるようになった、最初の日。
同じ病院に入院していたため、両親が来るよりも早く彼女の病室をめざしたアルベルトの身体には、もうかすり傷程度しか傷は残っていない。
目の前のベッドで上体を起こしていたマリアもアルベルトと同じように大きな傷は癒えたあとのようだった。――あの美しかった翡翠色はすっかり抜け落ちハリのない白髪の下の、目を覆う包帯を除けば。
「何って?」
「あの書斎に落ちた時のことだ。俺に何をしたんだ、マリア」
朗らかでマイペースな声音は、相変わらずわかっているのかいないのか分からない。そんな普段通りの彼女の態度が、アルベルトをさらにイラつかせる。
マリアは考え込むように頭をひねり。
「お兄ちゃんが痛そうだったから、治そうとしたの。だけどお兄ちゃんの目はもう焦げちゃって転がっていっちゃったから、だったら私の目をあげたらいいんじゃないかな〜って思って」
顔に巻かれた包帯の下には何も無いことを、落窪んだ陰が突きつけてくる。その抜き取られた目は、彼女の言うとおり今――。
「――だからなんでそんなことをしたんだっ!」
突然の大声に、マリアは身体を竦ませる。マリアに対して初めて発した、怒りの声で。
目をくり抜いて、俺に与えた?
そんな人形遊びのように、簡単に部品を替えたみたいに言うな。
「俺の目が焼けたのは俺のせいじゃないか!それなのになんでお前が犠牲になる必要があるんだっ。眼球を移植するなんて、それこそお前に何かあったらどうしたんだっ!?」
ダメだとわかっていても、押し寄せる激情を制御出来ずにそのままぶつける。
彼女は何も悪くない。自分を救ってくれたのに。目が潰れたのは完全に自分のせいなのに。
どうして、お前が。
息を荒らげるアルベルトに、しばらくマリアは怯えるように微動だにしなかった。今まで見えていたものが一切見えなくなった世界の恐怖は、その人にしか分からない。
やがて、オドオドとしながら口を開く。
「……お兄ちゃんを、助けたかっただけなの」
か細い声に、アルベルトは目を見開いて凍りつく。自分より幼い妹が彼女自身にできることを精一杯考えて、彼女なりに実行した全てを今、アルベルトは今の発言だけで否定してしまった。
それは、彼女の全てを、感情を。否定したと同義語。
そのことに気づいて動けないアルベルトに、マリアは顔を俯かせながら。
「……私、悪い子だなぁ」
つぶやきと言うよりも、無意識にこぼれおちた言葉を聞いた瞬間、気がつけばアルベルトはマリアを抱きしめていた。ベッドの前で膝を折り、目線を彼女に合わせて掻き毟るように肩を寄せた。
「…ごめん、ごめんな。そうじゃない、悪い子は俺だ。マリアは悪い子じゃないよ」
きちんと言えたのはそれだけ。あとは感情に揺れて震えてしまって、その先は泣き声になってしまったから。
まるで教会で懺悔する凡人と、それを聞く聖女を彷彿とさせる光景だった。
もう愚かな行いはしないと。口走らないと己を律して。そしてこのか弱い妹を守ることをアルベルトはこの時彼女色の瞳に誓った。
――そんな誓いも、この理不尽な世界は簡単にふみにじる。
これで終わると思っていた災難は、しかし実の所序章でしか無かった。
まず、その日中に会えるはずだった両親とは会えなかった。マリアの施術に興味を示した迷宮区にある総合病院の医師たちによって拒絶されたのだ。
そこは世界でも最先端の科学技術に加え、魔法技術を用いた医療の研究も行っていた。化学と魔術、その両サイドの最先端の治療を受けられたからこそ、アルベルトとマリアの命も助かったと言っても過言ではない。
勿論、その総合病院を開業したのはとある国の医療魔法に特化した貴族だった。プライドの高い彼らは、素直にマリアの偉業を賞賛できなかったのである。
結果としてアルベルトとマリアは面会謝絶の上、怪我が癒えたあとも病院に拘束されることとなった。
毎日の質問攻めはもちろん、投薬や魔術の施術による影響、果ては遺伝子調査や切開手術まで。拷問と言っても過言ではない軟禁生活を強いられることとなった。
もちろん二人は反論し、両親も病院に直談判したに違いない。しかし既に迷宮区は世界各国から人間が集まり、故に法律という法律が成り立たない無法地帯と成り下がっていた。
貴族が経営する病院に誰が踏み込めるはずもなく。その病院は親族から金をまきあげ彼らにとって都合のいい人体実験の場でしかなかったのだ。
先に解放されたのは、アルベルトだった。元々彼は魔法をかけられた側で、魔法を使ったマリアよりも価値が低かったから。
開放されたその日、病院の前に現れた母は半年前に見た時よりもやつれ、疲れ切っていた。それでも入口から出てきたアルベルのを見ると、泣きながら抱きとめてくれた。
しかし父親は、最後まで現れることは無かった。あとから聞き出した話で、氷点下まで気温が下がる季節に病院の前で冷たくなっていたそうだ。
家に帰っても、母との時間はほとんど取れなかった。かつての持ち家を手放し、治療費と称し金を奪取され続けた家計を支えるために母は身を粉にして働き、そして極度のうつ病を患い最期には首を吊った。
自分のたった一度の過ちで一家離散となった現状に、自分を責めるなという方がおかしな話だ。
たった一度だけ、アルベルトは自分が解放された後にあの病院に向かったことがある。当然願ったのは、マリアの解放。
しかし、あいつらは。
「貴族には貴族の使命があるのだよ、君たち庶民と違って」
放たれた言葉に、頭がフリーズした。
君が手に入れた魔法はかつて最強と言われた『雷』魔法だの、その貴族は既にこの世にいないから解明することも出来ずにいただのつらつら言っていた気もするが、もうそんなこと聞いてはいなかった。
――使命?使命といったか、このサルは。
人間の身体を刻み、繋ぎ。好きに弄り回して言葉で追い詰めて。それをこいつは『使命』と言うのか?そんなことサルでもできるぞ。
そこでアルベルトは気づく。
「……そうか、サルだから人間の言葉を正しく理解できないのか」
であればどうするか。簡単だ、このサルよりも上の立場となって相手の身の程を分からせてやらねばならない。動物の社会はシンプルに弱肉強食、強いものが群れを自由にできる。全く手のかかるサルだ。
それが、アルベルト·サリヴァンの始まりだった。
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「まるで獣ですね」
開口一番目の前の男に言われ、アルベルトは睨み返す。
迷宮区の貧民街。その路地裏の一角で邂逅した彼は襤褸を纏っているものの、漂う気品から貴族だと一目でわかった。
掴みあげていたごろつきの首から無造作に手を離す。既に泡を吹いて気絶している男は結果として地面に激突するコースだが、下に転がる何人かの同じごろつきがクッションになるだろう。
「ようやく重い腰を上げたか」
「貧民街に最近出没するようになった乱暴者。この数日間で被害が何十人ともなれば黙ってはいられませんよ」
「それにしては随分と遅い登場だ。おかげでいらない手間が増えた」
呻くごろつきを足でつつきながら、アルベルトは鼻を鳴らす。被害が大きくなったのはひとえに、お前らが出てくるのが遅かったからだと。
アルベルトの嫌悪感全開の皮肉に、しかし青年はふむと口元に手を添えながら。
「つまり君は、私を待っていたと」
襤褸の端から覗くシトリンの双眸が鈍く光る。どうやらこちらの予想以上には頭の回転が早い相手のようだ。こうした引きの良さは悪運と同じで、なるほどどうして昔からいいらしい。
「それで?わざわざ遠回しに呼び立てて、何用だでしょうか?」
「俺を貴族にしろ。伯爵以上だ」
アルベルトの言葉は、彼の想像の斜め上以上のものだったのだろう。ぱちぱちとシトリンを瞬いて数十秒の停止を経て。
「……それはまた傲慢ですね」
「現代では貴族になるためには侯爵位以上の推薦が必要だと聞いた」
「君は、私が侯爵位以上だとなぜ分かるのです?」
「勘だ」
正しくは彼の気品と威圧感。足元に転がっているごろつきたちを全員まとめたとしても、彼には遠く及ばないだろう。
それほどまでの圧倒的な雰囲気は、多くの人間の上に立つ人間のそれだった。
発言に、今度は青年は声高らかに笑う。ただそこには普段からあびせられた嘲りではなく、清々しいまでの純粋な興味が混ざりあっていた。
「貴方、なかなか面白いですね。今までの人生で貴方のような人間は初めて出会った」
「気に入ったなら、」
「貴族になる以上、もちろん貴方は固有魔法を持っているのでしょうね?」
青年の当然の質問に、アルベルトは右腰に佩いていた鞘から片手剣を抜く。なんの飾り気もない、ただその辺に売っていそうななまくら。
――しかし。
無造作に一閃。されど地面にはその無造作からは想像もできないような深い溝が、両者の間に一瞬で刻まれる。
これでもなにか文句はあるか、と。アルベルトは侯爵家以上であるはずの貴族の青年にしゃくってみせる。
本来であれば貴族はその特異上、自分の魔法を見せることはほとんど無いが、そんなプライドの欠けらも無いアルベルトには無縁な話。
しかし青年は、そんなアルベルトの態度には気にした様子もなく。
「ほぉ、なるほど…これは電気…いや『雷』ですか?『雷』属性の魔法は少し前に潰えたと思っていましたが」
「盗んだ技術だ」
しゃがみこんでまじまじと溝を、そこに残った魔法の痕跡を見ていたシトリンの視線が見上げてくる。驚愕と好奇心に彩られた双眸に、堅苦しい物言いの割に意外に表情がコロコロ変わるものだと毒気が抜ける。
それはまるで、かつて純粋に『力』を求めた、幼い頃の純粋のひたむきさ。
向けられた視線は熟考するようにアルベルトに固定されたまま、今度はたっぷり1分程の時間が流れ。
「盗んだ技術に不遜な態度。なるほど『獣』という例えはあながち間違いじゃなかったのかもしれませんね」
音もなく立ち上がり、青年は顔まで被っていた襤褸を剥す。隠れていたシルバーの髪の下のシトリンは、真っ直ぐアルベルトを見据え。
「――どうした貴方は、そのまでして力を求める」
今後、幾度となく浴びせられることとなる、これが最初の問いかけ。アルベルトはこれまでの己の過ちを清算するために、そして無能な貴族を葬る怨嗟から、彼女色に染まった双眸を燃やしながら。
「この貴族社会を、根底からぶっ潰す」
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幼い頃、まだ己の志を定めてすぐの頃。アルベルトは周囲にそのことを特に隠すことはしなかった。
その度にあびせられたのは罵倒、嘲笑、憐れみ。現代社会において復活した貴族社会、絶対権力に近い貴族に一般人が楯突こうなどと、なんて浅はかで愚かなことなのだろうと誰も彼もが言い放つ。
だから言うのをやめた。どうせ嗤われるなら、自分がそれでいいと認めた相手にだけでいい。
しかし何の因果か、そう思う相手こそ自分を嗤ってはくれなかった。
真っ先に話に乗った、オスカー·アンダーソンも。
最期まで自分の行く末を案じた、草薙一樹も。
そして。
「この貴族社会を、根底からぶっ壊す」
――オリバー·ブルームフィールドも。
氷と雷の暴力に戦闘前とは比べ物にならないほど無惨な姿になり果てた、迷宮区最深部第661階層。下層に続く大門の前で、『執行者』と『代行者』の問答は続く。
僅かな沈黙の後、口を開いたのはオリバーだった。
「…私は貴方に憧れていた。一般家庭の出でありながらたった10代で伯爵にまで登り詰めた凜冽な豪胆さ。最前線を走る『タキオン』を率いる姿は、人を惹きつける貴方だからこそできるのだと」
長い前髪から覗く紫眼は悔しげに揺れている。それがアルベルトに裏切られたからなのか、自分に無いものを持つが故の妬ましさからなのか、アルベルトには分からない。そもそも知る必要もないとすら思う。
彼らが何を言おうが、自分はこういう人間だ。他人を蹴落としただ自分の志を遂げるために走り続けた。周りの人間は勝手に付いてきただけだ。
勝手に着いてきただけなのに、やけに大人数になっだものだけど。
「それは、期待に添えなくて残念だな」
悪態をつきながら剣を地面に突き立てて身を起こす。身体中に張り付いた氷華が冷気とそれに伴う凍傷がそんな動きすら鈍らせる。我ながら緩慢な動きに嫌気がさす。
「生き方を変えることは出来なかったのか」
「無理な相談だ。私はこれだけを指針として生きてきた。最期まで貫かなければ面目も立たない」
「その相手は、一度でも貴方を引き留めようとはしなかったのか」
言葉が見えない刃となって、アルベルトの胸に突き刺さる。それは見事に痛いところを突いてきて、僅かに眇られる翡翠色。
それを見とってか、オリバーは責めるように言葉を重ねる。
「ならばなぜ、貴方は学院なんて開いた。理事長としての貴方は嘘だったのか」
――それはオスカーに交換条件として出されたから。
「なぜ貴方は『タキオン』の総団長になった。総団長として皆を率いた貴方も嘘なのか」
――それはカズキに担ぎあげられたから。
「貴方の家族はどうなる?――アデルはどうするんだ…っ」
――それは。
「……五月蝿いな」
『代行者』の使命は、権力を振りかざして悦に入る愚かな貴族(道化)を殺すだけでいいのに。どうして彼は言われた通りに使命を果たさない。あの言葉の通じなかったサルのように、『使命』という名のていのいい大義名分を振りかざして、ただ『使命』に準ずればいいだけなのに。
そうすれば、全て終わるのに――!
自分自身でさえ凝らさなければ聞こえない声は空中に消える。オリバーがそれを耳聡く聞き返す前に、彼の懐に入り込む。
まさに一瞬の出来事。それが帯電によって身体能力を向上させた、かつて『雷』魔法を最強たらしめた名も無き貴族の集大成。幼いアルベルトが不器用に完成させてしまった魔法の果て。
無理やりステータスを向上させた肉体から、焦げた臭いが鼻をつく。かつて全く同じ臭いを体験したアルベルトにとってはとうに慣れきった臭い。
見上げる先、目の前の紫眼が驚愕に見開かれる。
「――alz!!」
両者の間に咄嗟に差し込まれた紫黒の剣がアルベルトの宝剣を受け止める。しかしアルベルトは構わず詠唱、むしろそれが狙いだった。
詠唱と同時、宝剣に蓄電されていた電流が交わった部分を起点に一息にオリバーの身体を駆け巡る。
「――――っっ!!」
「――ダンゾウっ!」
アルベルトの叫びに足元の影が波を打ち、あの思えばそこから飛び出す影が一人分。
闇色の髪をした忠実な従僕は滑らすように手を振るう。投擲された苦無は過たずオリバーの両手両足に突き刺さり、背面の壁と地面に彼を縫い止める。
「ぐっ……!」
苦痛に歪む彼の視界に、白金の影がダンゾウの闇色の後ろからかぶさって。
「おさらばです、我が主。どうかご武運を――」
ダンゾウごと、方言をオリバーの鳩尾に押し込んだ。
*****
――死。
これまで何度もしに直面してきたから分かる、濃密な死の気配がこれまで以上に迫ってきている。
突き立てられた宝剣から滴る血赤を紫眼に映す。その宝剣から流れ込んでくるであろう最高出力の雷撃は、今度こそこの身を焦がすだろう。その威力はもう感覚もなくなり焦げた臭いしか発しない左腕が物語る。
殺さなければ、殺される。
――死にたくない。
唐突に頭をよぎる言葉。
なぜ?数ヶ月前は死ぬことを認めていたじゃないか。死ぬことなんて、とっくの昔に受けいれていたじゃないか。
だけどこうして生き長らえて、だからたった数ヶ月だけだけど寿命が伸びただけ。 ただあるべきものがそうあるようにただ帰ってくるだけ。当然の帰結じゃないか。
――死にたくない。
なぜ?なぜ自分は行きたいと思うのか。
確かに生きたいと望んだ。こんな運命があってたまるかと、最後の最後で思ったけれど。
そして気づいた。『死にたくない』ではなく。――『死ねない』のだと。
なぜ?『死にたくない』が『死ねない』になった理由はなんだろうか。
利己的な理由から、利他的になった理由は。
そう考えて直ぐに思い浮かべたのは長年連れ添った従者ではなく、なぜか薄桃色の色彩。
左手に持っていた剣は、今はこぼれ落ちてしまって手にはない。しかし魔法自体は紡ぐことは出来る。細かい制御ができない以上『聖石』なしの魔法は確実にアルベルトを殺すだろう。
殺すんだ。だって、殺される。そして相手は執行対象者。
殺すのが。それが『代行者』の、自分の使命なのだから――!
「――やっぱり、見てられねぇよ」
聞きなれた声が、極限状態のスローモーションの世界で響く。
今まさに自分が殺そうとする白金のさらに後ろに少しだけ見えた、赤みの金髪。
「お前が手を汚すところなんて、俺には耐えられない」
果たして、自分の声は彼に届いたのだろうか。
リュカオンが短剣をアルベルトの首筋に突き刺すのと。
アルベルトが抜きはなった宝剣でリュカオンの首を飛ばすのは。
――全くの同時だった。
-----
遠ざかっていた音が、時間が。現実世界に戻っていく。
吹き出す鮮血。
ついさっきまで生きていたニンゲンだったものが静かで、しかし鮮烈にその幕を閉じていく。
最後の締めと言わんばかりに、宙を舞っていた従者の首が地面を叩いた。
「……ぁ、」
枯れた老人のような声だった。誰の声かと思ったが、今この場で満足に声を出せる人間は自分だけだ。
「……くだらない、幕引きだったな」
呼吸障害に陥った生き物特有のヒューヒューという音を立てながら、アルベルトはふらふらと後ずさる。
突き刺さった短剣は根深く、肉と刃の間から噴水のように命が零れ落ちていく。
「せっかくの、最期だから。どうせならせめて、仇でもとってやろうと、思ったのが、欲張りだったな…」
この帰結は、10歳にしてアルベルト自身が決定した最期。それに悔いはないし、後悔なんて微塵もない。
だけど最期くらいは親友のために生きてもいいだろうと思って、結局それは叶わなかった。
それがただの逃避だということは分かっていたし、だから誰にも言わなかったから、オリバーにも誰にも彼のその気持ちだけは受け継がれない。
白を通り越して土色になった相貌をオリバーに向ける。既に見えていないだろう翡翠色は、しかし確かに紫を射止めて。
「お前のそのお綺麗な手が、この世界でどれだけ通用するか。向こう側から見ていてやるよ」
呪いのようなエールを最期に、白金の麗人は手に持った宝剣で自らの首を掻き切った。
*****
かつてあった日を思い出す。
アルベルトがオスカーと出会い、あのサル共を巣窟から一掃するまでにかかった時間は5年。――マリアがサルに嬲られ続け、精神を壊すには充分すぎる時間。
ようやく救い出せたマリアは憔悴しきり、自力で立つこともままならなかった。
車椅子に腰掛けるマリアに、膝を折って視線を合わせて呼びかける。
「――マリア」
マリアはゆっくりと顔を上げる。伸び放題の枯れた白髪の下の、ひび割れた唇がかすかに動く。
「あなた、だぁれ?」
久しぶりに聞いた妹の声は記憶の中のそれよりも少し大人で、でも紛れもなくマリアの声だった。だからこそ彼女の口から飛び出た問いかけに、当時アルベルトは答えられなかった。彼女に残された時間が、彼女と過ごせる時間に限りがあると知っていて、それでも答えられなかった。
その資格がないと思ったから。
随分と懐かしいことを思い出す、と。僅かに口の端を吊り上げる。
かつては資格なんてないと思った。不甲斐ない兄のせいで、人生をめちゃくちゃにされてしまった妹になんと声をかけたらいいかなんて、分かるはずがない。
だけど、今は違う。
「私は。――俺は、アルベルト。お前のお兄ちゃんだよ」
そう告げた瞬間、走馬灯の中の彼女は確かに、微笑んでくれたように見えた。
あぁ、よかった。
これでようやく、お前と同じ場所へいける――。
1話から書きたかった話をようやく描くことができました。信念を貫くことしかできなかった不器用な彼の事、嫌いにならないでくださいね…




