3-2.揺れる学都
今まさに目の前で起きた事象に、ヴァイスは思考を停止する。
何が起きた。
やつは何をした。
今僕は、何をしていた――?
瞬間、数日前の言葉を思い出す。寄りにもよって目の前の女と同じ人間ではないイブツに言われた言葉。
『いざという時、後悔することになる』――。
スローモーションの世界で、ゆっくりとハヤトが崩れ落ちていく。その瞳と同じ色彩の、今まさに自分の内から零れ出している『アカ』に、飛沫を上げながら沈む。
ぐしゃり、と。音は遅れてやってきた。そこでようやく自分の時間が、現実世界のそれに追いついたように、そのほかの音や景色が戻ってくる。
「……ハヤト?」
戦慄く唇から滑り出した声は、自分でも情けないほどに震えていて。それでも確かに呼んだ名前に、眼前のハヤトだったものは一切の反応を示さない。
今までの直感が告げている。
……あれはもう――。
「――貴様ァ!!」
神速を超えるスピードで引き抜いた拳銃を照準。一切の躊躇はない。そのまま引き金を絞りきる。
――しかし次の瞬間に感じた衝撃は、いつもの銃撃のものではなかった。
最初に感じたのは、壁に激突した際の背中の激痛。戦車砲でも撃ち込まれたのかと思うほどの衝撃に、あの迷宮区の発生時の衝撃にも耐えきった学院の壁が瓦礫と化して崩れる。
「――っっ!!」
次に感じたのは腹部。10トン級の大型トラックにでも突っ込まれたかのような衝撃に、全ての内臓が悲鳴をあげる。
それでようやく気づく。――恐らくはフローズに腹部を蹴られたのだ、と。
瓦礫と粉塵と共に、ヴァイスは大理石の床に頽れる。前と後ろからの想像を超える衝撃に、堪えきれずにぶちまけられる『血液』。
骨は勿論、内臓も潰れている。どこだ、どこがやられた――。
それを精査する時間は、ヴァイスにはなかった。
「何、呆れるほど弱いね。これが僕らの後輩だなんて涙が出ちゃう」
「がっ――!!」
再び腹部にのしかかる重みに、ただでさえぐちゃぐちゃにされた体内が蹂躙される。残った骨はことごとく粉砕され、ギリギリ難を逃れた内臓も全て引き潰された。
まるでタバコの火を靴底で消すかのように、フローズはヴァイスの腹部を踏みつけながら。
「せっかくのステイの忠告も、なんの意味もなかったね」
ぐりぐり、ぐりぐりと。つま先を動かされる度に身体をぐちゃぐちゃにされ、視界には『アオ』が舞う。
先程とは真逆の、ハヤトの『アカ』と同じように。
知らぬ間に、その視界が潤む。それは今身体を蹂躙している許容範囲を超える痛みからか、それともフローズが手に持ったハヤトの心臓のせいからか、ヴァイスには分からない。
その表情をどう思ったのか、フローズは器用に足を折りたたみ、踏みつけたヴァイスの顔に自身のそれを近づけて。
「迷宮生物って、心臓部分である『結晶核』を潰せば死ぬって知ってるよね?君のそれがどこにあるか、教えてあげよっか?」
その言葉の意味を理解しても遅い。視界以外の感覚は全て消えうせて、意識も既に半透明だ。
だから、見せつけてきた『アカ』だけが、鮮明に視界に映される。
「君の『結晶核』はこれと同じ場所にあるんだ〜。良かったね、ここだけはニンゲンと同じで。君、人間と同じことに拘ってたんでしょ?」
「……て、やる」
なに?と首をかじけるフローズの姿も、もうその影しかおえない。ヒューヒューと上がる、正常ではない呼吸の間に、その言葉をねじ込む。
今まで自分で発してきた中で、1番の怨嗟を込めて。
「……貴様、だけはっ。絶対に殺して、やる…っ!」
「…あはっ」
どこまでも楽しげに、愉しげに。フローズは口元を歪めながらその足を上げて。
「お前程度の力で僕を殺そうなんて、自惚れも大概にしておけよ」
その言葉とぐしゃり、という嫌な音を最後に、ヴァイスの意識は途切れた。
*****
その数分後。駆けつけた学生と教諭によって、事態は発覚した。
事件の発生場所は、どんな迷宮生物の襲撃のものか分からないほどに凄惨で、瓦礫とひび割れの数が壮絶さを際立たせる。
被害にあった人物は1名。
高等科近接歩兵科三年所属。監督生ハヤト・クサナギ。
現在意識不明の重体。どういう原理か彼の心臓は穿たれた穴から喪失しており、現在その修復を含め全力で治療に当たっている。
そして、その場所に残されたもうひとつの『血痕』。
その血溜まりを生んだであろうそれも、発見当時内臓と骨をことごとく粉砕され、意識不明の重体。
しかし、その血液の色は――迷宮生物と同じ蒼で。
外見からして『タキオン』所属の第一級調査員――『死神』本人と断定。
彼の正体と処遇について、現在捜査と審問が続けられている。
*****
「――それでは。臨時監督生円卓議会を、始める」
冷静さを取り繕った合図に、蓮は伏せていた瞼を開ける。
顔を上げた先、文字通り円卓には現在自分を含め4人がつく。
戦術立案科監督生、ムラト・ヤノフスキー。
特殊戦闘科監督生、クレス・H・グラヴナー。
後方支援科監督生、李 丁那。
3人の表情は一様にして暗い。特に会議初日にこちらを嘲てきた前者2人は、同じ人物とは思えないほどだ。
まぁそれも仕方の無いことか、と蓮は内心鼻で笑う。なにせ、今回の議題が議題なのだから。
「今日は急な呼び出しに集まってくれて感謝する。議題は、」
その先の言葉を躊躇うように1度言葉を切り、その場を仕切るムラトは意を決して。
「…議題は、先日学院内で起きた襲撃事件の件だ」
襲撃事件ねぇ、とこれまた内心で蓮は呟く。あの惨状を3人が実際見たのかは不明だが、確かに災害とは思えないものだったから、言い得て妙かなと。
「その襲撃事件でクサナギ学生は重傷を負ったとされる」
「だだだ、大丈夫なんでしょうか…?」
「今は手術自体は終わってるって聞いてるけど」
いち個人の現在の状態を、いちいち他人に開示するほど病院も馬鹿じゃないだろう。蓮としてもそれは同じだが、正直ツテがあるので3人以上には知っているつもりだ。
ムラトは2人の会話に小さく頷くと。
「今回はそっちよりも別件だ。――ココノエ、貴様は『アレ』の正体を知っていたのか?」
『アレ』と。酷く抽象的な表現に、蓮はたまらず鼻を鳴らす。つい先日、襲撃事件がある前までそんな風には言わなかったはずなのに。
だからいじめたくなって、蓮は朗らかな笑みはそのままに。
「『アレ』とは、一体なんだろうね?」
「……『死神』のことだ」
「あぁなるほどね。ちゃんと言ってくれなきゃ分からないな〜」
ヴァイス、ではなく二つ名だったがまぁいいだろう。皮肉にムラトはなんとも言えない表情を浮かべているのでこれで良しとしよう。
これ以上刺激をするとかえって面倒だと思って、蓮は気持ちを切り替えるようにして姿勢を正して。
「知っていたのか、という問に対しては『NO』と言わせてもらうよ、ヤノフスキーさん。これでも俺も気が動転してるんだ」
「…とてもそうには見えないが」
「それは君たちより感情を抑えるのが上手いからかな。本音を言えば、」
ごく自然な、それでいて蓮はこの場の誰も気づけないほどのスピードで腰裏に忍ばせている拳銃を抜き払うと。
「――今すぐこれを突きつけて、色々と吐いてもらいたいくらいには思ってるよ」
日和ったボンクラたちにもわかるように放った殺気に、3人は分かりやすく反応する。どいつもこいつも脂汗を浮かべて、情けないにも程がある。
それでも進行役のムラトはどうにかため息を零すと。
「…分かった、貴様の言葉は信じよう。それは『ケリュケイオン』のメンバーも同じか?」
「さぁどうだろうね。少なくとも契約主である隼人は知ってると思うけど」
蓮はにこやかに嘘を吐き続ける。確かに隼人は知っていただろう。しかし、他のメンバーも直接聞いたことは無いだろうが、薄々と勘づいているはずだ。
オリバーは、貴族階級故に。
レグルスは、獣並みの嗅覚で。
そして自分は。――かつて所属していた組織からの情報で。
しかしそれをこの場で暴露する義理はない、と。蓮は仮面を貼り付けながら。
「それを問うなら、いっそ『タキオン』に聞けばいいんじゃないかな?ヴァイスは『タキオン』所属の調査員だ。知らないはずがないと思うけど」
切り返しに、苦虫を噛み潰したようにムラトは顔を歪めて、それきり口を閉ざす。その様に、蓮はまたため息をこぼして。
――腰抜けが。
「…この件は、俺に預からせてもらおうかな」
「どういうことだ」
「ヴァイスは中遠所属の生徒でもある。ということは、監督生である俺には現状を調査して、本人に確認する義務があると思って」
蓮は言いながら席を立つ。議会は始まったばかりだが、これ以上の討論は不毛だ。
音を立てて立ち上がり、蓮は出口へと向かう。その蓮の背中を引き止めるように、ムラトはその場で立ち上がり。
「っ逃げるつもりかココノエ!貴様も充分に怪しまれているんだぞ!貴様は本当は――」
「それも単に『噂』ってだけだよね?これ以上言いがかりつけるつもりなら、俺は然るべきルートで君に抗議しなくちゃならない」
言いかけた言葉に被せるようにして、その先を遮る。彼の言葉は本当だが、今はそんな正論に構っている暇はない。
再び冷徹に染まる声に、今度こそムラトは凍りつく。そのさまを背中越しに横目でちらりと確認して。
「――この件に関しては今後、一切の手出しは無用に願おうか」
吐き捨てるようにそれだけ言うと、蓮は二度と振り返らなかった。
*****
「――ここにいるのは分かってるんだけど!?どうして通してくれないの!?」
「ですから、この先は許可のない人間は通せないと言っているのです」
犬のようにギャンギャンと吠えるように、レグルスは立ち塞がる警備員に抗議をまくし立てている。
この言い合いもそれほど短い時間で繰り広げられているものでもないようで、オリバーとリュカオンがその場に来た時には、病院のエントランスにいる周囲も努めて気にしないようにしていた。
それでも、レグルスの抗議の内容は気になるもののようで。
「ヴァイス、ここにいるんでしょ!?ちょっと殴りに行くだけじゃん!」
「ですから、ここは通すなと」
「通すなってことはやっぱりいるんじゃん!?別に連れ出そうとか思ってないし!殺しに行くだけだってーの!」
なまじ直感が鋭いと発言にも気をつけなくちゃならないんだな、とオリバーは半眼で経緯を見守る。
「止めないのか?」
「いらん面倒に巻き込まれたくない」
それはそうと発言も段々物騒になってきたな。
「〜〜あーもー!埒が明かないっての!もうこれなら力ずくで……っ!」
前言撤回。今すぐ止めに入らないとちょっとしたじゃ済まない騒動になりそうだ。
オリバーは腰に佩いていた剣を鞘ごと抜くと。
「やめんかお子様が」
「――いったぁ!?」
軽めにゴン、と薄桃色の頭部に振り下ろした。ちなみに純銀でできた刀剣だ。軽めに振ったとしてもそれなりの重量がある。
それを不意打ちで食らったレグルスは、当然のように痛みから床を転げ回って。
「〜〜何すんのさ!?」
「貴様が病院で武器なんぞ取り出そうとするからだ」
「あんただってだしてるじゃん!?」
それもそうなのだが、この時ばかりはレグルスのド正論をオリバーはスルーした。
「っだって!このおっさんが通してくれないから!」
おっさん、という年齢でもない警備員の少しショックを受けた表情を、今はとりあえずスルーしておく。まぁ、12の子供からしてみればおっさんか。
「通してくれんものは通せないんだ。わがままを言うな」
「――だって!」
剣を持っていないオリバーの左手をレグルスは引っつかむ。
…もしかして、私はこのまま投げ飛ばされるんだろうか。と危惧したオリバーだったが、その手が僅かに震えてることに気づいて、紫眼を瞠る。
「…だって、悔しいんだもん…!なんであいつがそばにいたのに、ハヤト先輩があんな目に合うんだよ…!」
「…レグルス」
発せられた声は今までのどの声音よりもか細くて、その表情はもう見なくてもわかる。
誰よりも大切に思っている相手を。
誰よりも認めて信用した相手がいたのに。
その場を譲ったのに、どうして――。
誰にも見せない、それこそ自分には絶対に見せたくない涙を流して、レグルスは叫ぶ。それほどまでに今回のことは、彼にとって衝撃的だったのだろう。
それは自分も同じで、だからこそここに来た。
「これ以上の騒動は困るんですが、」
「そうですね。私としてもあまり事を荒らげたくはありません」
宥めるように薄桃色の頭をポンポンと撫でると、オリバーは胸ポケットに書面を警備員に突き出す。
百合と聖女。ロングヴィル家の家紋の判を押された書面を、『タキオン』所属の準男爵家の警備員に向けて。
「――この地の規律を預かるロングヴィルの『代行者』として、この場を通していただく」
「…それはっ、」
「ダメだと申すならそれはロングヴィル家、ひいてはフランス国貴族連盟に対しての背信と受け取らせていただく。次はこんな書面ではないものを突き付けてきますが」
オリバーの殺気に、警備員は目を泳がせる。貴族の端くれである準男爵家であっても、ロングヴィル家の名前は言っていて当然だが、だからこそどうにかこの場でできる反論を探しているのだろう。
「で、では総隊長に確認を、」
「そんな暇はない。サリヴァン総団長へは後ほど当主の名で報告させていただく」
――そんな逃げ場は、作らせるつもりは毛頭ないが。
退路を絶たれ、脂汗を浮かべる警備員に1歩と近づいて。
「これ以上、お互いに荒事にしたくはないでしょう?」
「……わかり、ました」
苦虫を一度に何匹も噛み潰したような顰め面で絞り出す警備員を横目に、なんだかやけに大人しいなと見下ろすと、これでもかと見開かれた白銀の双眸。
「なんだ」
「いや、オリバーってそういう手も使うんだと思って…」
彼にしては珍しく本気で驚いているようで、いつもの皮肉の呼び名も忘れて瞬く瞳に、逆にオリバーは居心地悪く目をそらす。
正直自分も、こういう権力を振りかざすような手段は好まない。しかも、よりによってレグルスの前では。
「軽蔑したか」
零れた言葉は自分でも予想外に小さく、自嘲気味で。何に脅えているのか分からない、自分のそんな声にさらにオリバーは自分自身に落胆する。
相手からの評価なんて、そんなことをいちいち気にするような人間だったのか。
レグルスはどう思ったのか、たっぷりと数秒の後に。
「いや?使えるものは使っておかなきゃ損じゃん」
「まぁそうだが」
「むしろ逆に好感度アップしたかも?お高く留まった貴族様より、よっぽど俗物めいてて」
「…はぁ」
それは褒められているんだろうか。
「ブルームフィールド様。あまりお時間がないので」
「あぁ、わかりました」
「それと従者の方以外は通せませんので」
「っなぁ!?」
横をするりと通るオリバーと、変にニヤニヤ顔のリュカオンだけを通して、レグルスの前に再び立ふさがる警備員。その前で、レグルスは愕然と肩を怒らせて。
「なんでさ!?今の話の流れからしておかしいじゃん!」
「書面には書かれていませんので」
「そうだな、君のことは書いてないな」
「っきーーー!!何さ何さ!見直して損した!!!」
再びキャンキャン叫ぶレグルスをその場において、オリバーはその先を行こうと踵を返して。
「あんたもあんただよ!会合の時のあんた、おかしかったでしょ!?あれから何聞いても無視するし、隠し事ばっかり!」
「あーもー五月蝿いな」
辟易とため息をついて、もっと言えばまた僅かに震え出したレグルスの声を無視できなくて、オリバーは足を止めて半歩分だけ振り返る。
振り向いた先、興奮と憤慨から赤く染った相貌が紫眼に映る。
全く、自分はいつから子供の泣き顔が嫌いになったのか。それもこれも全部彼と、彼のせいで最近幼い子供と接する機会が増えたせいだ、と。誰にも言うつもりのない八つ当たりを心の中で唱えて。
「少し早いプレゼントをくれてやる。図書カードでいいか?」
「今その話する!?」
「レジで出せるだろそのくらい。んでもって好きな本でも買ってくるといい。自己学習用に聖書あたりはどうだ、ここでは役に立つぞ」
「はぁ?聖書?」
「20ユーロもあればいいのが買える。5セントくらいはあった方がいいかもな。聖書はやはり新約聖書がいいんじゃないか?私的には福音書を勧める」
「……!」
オリバーの言葉を理解できないと言わんばかりにしかめっ面で聞いていたレグルスは、最後の最後で何かに気づいたように目を見開く。しかしそれも一瞬で、目の前に立ふさがる警備員に気取られないように直ぐに普段通りの彼に戻る。
どこか不遜で不敵で、強気な王様のような。
「…ふ〜ん、あっそ。そろそろクリスマスだしね。勉強しておくのもいいかもね」
それだけ言って、今までの執拗さはどっかに行ってしまったように、レグルスはあっさりと出口へ向かって背を向けてさっさと立ち去ってしまう。
その後ろ姿をオリバーは、心の底からのため息をひとつこぼして。
「……で、何をそんなに笑っているんだ貴様は」
「ぷぷぷ…いやっ、お前さんがそんなに手を焼く姿も見ものだなと思って…っぐふ、」
「ここは病院だったな」
「すいませんでした勘弁してください」
わざと音を鳴らして刀身を僅かに抜いてみせると、手のひらを返したようにリュカオンは冗談のように姿勢を質す。
「これからお前の隣にいるのは、案外あいつかもな」
全くこの男は、と毒気を抜かれていて気が抜けてしまっていたから、次のリュカオンの発言をオリバーは咄嗟に処理できずに。
「何を言ってるんだ貴様は」
「そのままだよ。お前の従者にあいつはなるかもなって」
「冗談でもそんなこと言うな」
あんな四六時中きゃんきゃん吠える子犬を従えるなんて、考えただけでもうんざりだ。だったらリュカオンの方が断然マシだ。
その内心が顔に出ていたのか、リュカオンはからからと笑って。
「さ、そろそろいいんじゃないか?探るんだろ」
「……あぁ、そうだな」
リュカオンの言葉に、オリバーは神経を集中させながら。
「まずは、邪魔者に退場願おうか」




