2-3.『世界の敵』
「――以上で報告は終わりです」
端的な締めくくりの言葉と、投射機から映像を映し出すために暗くされていた部屋の明かりがともされたのは、全くの同時だった。
贅沢にも大聖堂の一角を使用して作られた、荘厳でいて壮大な『タキオン』の大会議室。20名ほどが集まってもなお余りあるその部屋の中心で、今まさに報告を終えた『タキオン』副団長、アーサー・アンダーソンの僅かに細められるシトリンの双眸。
「総団長」
「……あぁ、聞いている」
視線の先、会議室の端でいて1番の存在感を放つ場所でアルベルトは、言葉通り聞いていたことを示すために居住まいを正す。本当は、ほとんど右から左に流れてしまっているのだが。
しかしそれではあまりに目の前のアーサーと、彼が率いた『タキオン』調査先遣隊に失礼だ。彼らは最前線のさらに先、迷宮区最奥部の道中を模索するために、ここ数週間に渡っていつ死ぬかも分からない死地へ赴いていたのだから。
「まずは2週間の調査ご苦労だった。そして感謝する」
「ありがとうございます」
「しかし。……あまり芳しくはないな」
渡された書類と先程まで映し出されていた映像を思い出しながら、アルベルトは隠しきれない焦燥感と苛立ちに翡翠の瞳を眇める。
『聖戦』の後、『タキオン』を中心に最深部および『女王』がいるであろう最奥部の本格的な調査が始められている。
それは35年前に突如として引き起こされた惨劇の解明。――全人類の悲願とも言える迷宮区の全容の把握だ。
もとよりここに集められた調査員の仕事はそれであり、いまさら否定するものは居ない。皆それぞれに目的はあるが、目指すところは同じということである。
全世界にも迷宮区の解明を明言した今、『タキオン』はその使命を全うする義務と責任があるのだ。
アルベルトの苛立ちに、しかし憤慨することなく。
「申し訳ございません」
「やはり最奥部への道は見つからないか」
「魔法、異能両方から探査しましたが、それらしきものは何も。クサナギ元一級調査員が見たとされる大広間も、それ以外の抜け道も全て」
5階建てはあろうかと言う高さの巨大な門と、門番のようにその左右に佇む2体の迷宮生物。それは当時カズキの瞳を通して全てを見ていたアデルから、既に話は聞いている。
それが、最奥部へ繋がる道だということも。
アーサー以下全ての『タキオン』団員にはその情報は共有済みで、だからこそすくならず収穫はあるかと思っていたが。
「責任は僕が」
「いや、そういう意味で言った訳では無い。『魔法でも異能でも、検知は不能だった』という収穫があっただけでも重畳だ」
アーサーは無能ではない。本来であれば長子である実兄、オスカーが継ぐべき家督を継ぐだけはある、極めて有能な人物だ。その彼が見、何も発見できない以上誰を派遣しても同じ結果になることは明白。
いや。――或いはあの『死神』ならば、違う景色が見れるかもしれないな。
「報告ご苦労。暫くはゆっくりと休め」
「承知しました」
軽く身を屈めると、アーサーと議会に集まった先遣隊大隊長達は振り返ることなく会議室をあとにする。その場に残されたのはアルベルトと、そのわずか後ろに控えるアデルのみ。正確に言えばダンゾウも居るのだが、影である以上彼女はカウントされない。
一体どれほどの時間そうしていただろうか。ただでさえ短くなった日照時間の中で、傾いた陽光が長い影をデスクの上に落とす。
「……お義父さま、」
「もう少し、もう少しなんだ」
アデルのつぶやきに被せるように、うわ言のように繰り返す。その声音と表情の冷淡は、自分では気づけない。
ただ。――唯一残った冷静な部分が、「一度立ち止まれ」と遠巻きに警告するだけ。
「もうすぐだ。もうすぐそこなのに、どうして届かない……」
「お義父さま、」
「お前を殺したあいつを、この手で切り刻み、焦がし、お前に与えた以上の苦しみを持って殺してやれる」
「おとう、」
「腸を引きちぎり、爪を全部はいで。泣き喚こうが懇願しようが知ったことか。お前を殺したあいつを俺は――!」
「お義父さまっ!」
強くデスクが叩かれるのと、間近で叫ぶような呼び声がかけられたのは同時。
その呼び声に気だるげに顔を上げると、夕日を背景にして白銀が真っ直ぐにこちらを向いている。
「お義父さま、いつもの冷静なあなたはどこへ行ってしまったんですか。カズキさんは復讐を望んでいないと、あなたなら分かるでしょう」
潤んだ瞳には、どこまでも悲痛な必死さがうかがえる。まるで間違った道を信じて進もうとする、愚かな子供を窘めるような。
この少年は。――何をそんなに引き留めようとしているんだ。
「……俺を見込んだ友が死んだ」
分からない。
「俺を赦してくれた女も、俺を友と呼んだ女も死んだ」
わからない。
「俺の罪の妹も結局死んだ」
ワカラナイ。
「――俺の英雄だった男も死んだ」
自分の生きる意味が。――もう分からないんだ。
「俺の道標だった、英雄だったあいつを殺した奴を、如何して赦せる」
「……お義父、」
「あんな無惨に殺したあいつが、今ものうのうと生きていること自体虫唾が走る」
「……」
とうとうかける言葉を失って、アデルはデスクに手をついたまま項垂れる。
頭の隅で、また冷静な自分が遠くで叫んでいる。この少年の手を取れと、少年を抱き寄せて抱擁しろと。
それが。――父親だろうと。
その全てを無視して、アルベルトは立ち上がり背後の扉に足を向ける。
その瞬間、自分の中の大切な何かも置き去りにしてしまったことに、彼は気づけないまま。
*****
普段と同じように、しかし全く違う冷徹さで会議室を後にしたアルベルトを、アデルはただ見送ることしか出来ない。
偽物とはいえ、自分は彼の息子だ。家族なんだ。
だったらそばにいて支えてあげられなくて、何が家族だ。
でも心の片隅で、冷静な自分が突きつけてくる。
たった2年の付き合いだ。そんな自分に、一体何ができるものか、と。
彼の孤独を。空虚を。埋められるだけのなにかを、自分は何も持っていないのだから。
――悔しかった。
何も出来ない自分が、ただ泣くことしか出来ない自分が、腹立たしくて仕方がない。
底のない闇に墜ちてしまった青年の翡翠には、自分なんてもう映っては居ないだろう。
ついたままの手を、固く握りしめる。そうでもしなければ、手当たり次第に当たり散らかしそうだったから。
そんな惨めな姿だけには、なりたくない。
「傷になってしまいます」
僅かな温もりに、アデルは顔を上げる。見上げた先の影から滲み出してきたかのような黒の、唯一の色彩の夕暮色が凪のように見つめていた。
「アデル殿だけのせいではありません。拙も、主人にかける言葉が見つかりません」
「……それでも、」
それでも、自分は自分を責め続けるだろう。
自分の意思で、彼を失いたくないと思っているのに。何も出来ない自分が、どうして許せるだろうか。
*****
「『タキオン』総団長、アルベルト・サリヴァン。ぼくはあなたに協力をお願いしたい」
自室に帰っても落ち着かないだろうと思い、ふと足を向けた聖グリエルモ学院最上階。理事長室のデスクの前に立った少年は、なんの気負いもなくそう切り出した。
黒よりもなお黒く深い黒曜に、その下の唐紅の瞳は光の角度で虹彩を変える。
エドヴァルド・フォン・ユングリング。ここ数日にわたって精力的に演説を繰り広げている、部外者の少年。
彼は正式な生徒としてこの学院にやってきた訳では無い。いつの間にか勝手に上がり込んできてのさばる、図々しい野良猫。
そんな飄々とした、言い換えればどこか楽しげな少年を、アルベルトは掛けた椅子から向き直り。
「勝手に上がり込んだドブ猫が、どんなことを言うかと思えば」
「猫はお好きではありませんか?」
「私はどちらかと言えば犬派だな」
「なるほど、従順な方が好きということですね」
皮肉には皮肉を。綺麗な顔をして案外に頭は回るらしい。
赤銅色に深紅。僅かに違う色彩は、しかしどうしても脳裏をチラついて離れない。
「それでどうでしょうか」
「お前に協力して、私になんの得があるというんだ」
交渉の大前提。いや、人間はどこまでも合理主義の人間だ。見返りがなければ動かない。
協力、と言えばなるほど確かに人の善意あってこその行為だが、生憎とこの少年にアルベルトは微塵も興味もなければ利点も見いだせない。
なんの面白みもない、ただの彼自身の欲望を押し付けるだけの討論だったのなら。その時はこちらの時間を無駄に浪費させた腹いせに、容赦なく潰そうと翡翠の瞳を眇めて待つ。
どうせそんなことだろうと思っていたから、次の瞬間に切り出された言葉に、アルベルトは咄嗟に反応出来なかった。
「――貴方の復讐のお手伝いができる、と言ったらいかがでしょう」
「……偉く突飛な切り返しだな」
「そうでしょうか。貴方の利益には1番有益な材料だと思ったのですが」
「我々『タキオン』の目下の懸案事項は最深部攻略だ。普通ならその情報を寄越すと言いそうだが」
アルベルトの切り返しに、エドヴァルドはとぼけたように小首を傾げながら。
「そちらの方がよろしければ、そちらにしましょうか」
なるほど、この少年はどこまでもこの調子でしらを切るつもりらしいと、アルベルトは憎らしげに鼻を鳴らす。
ただの箱入りの坊っちゃまかと思ったが、認識を改めなければならないらしい。年下にいいようにされるのは釈然としないが、しかしそれが果たされるのであれば――。
「最深部の情報は、どちらにしろご提供する予定でした。ぼくのお願いにその情報の共有は必須ですから」
「お前も最深部に用があると?」
「そうですね。最深部という『場所』と、そこを取りまとめる『女王』の存在が」
ぺらぺらと、こちらがつい最近まで知らなかった事柄を、さも当然のようにこの少年は口にする。が、今更アルベルトにとってそこは留意するべき点ではなかった。
ヴァイスに言われるまでもなく、ここはアルベルトの庭だ。どうでもいいと言ってもある程度調べるのは常識だ。
「――エドヴァルド・フォン・ユングリング。『北欧神話』に登場する、豊穣神フレイの子孫というのは本当のようだな」
「えぇ。そしてぼくはその使命を全うするために、今ここにいるのです」
隠す気などさらさらないと言いたげに、エドヴァルドはさらりとアルベルトの言葉を肯定する。むしろ、その事に誇りすら持っているかのような、清々しいまでの唐紅。
「『現実世界とアルフヘイム』の融和か。だがそれならばなぜ今まで表舞台に出てこなかった?お前のその血筋を鑑みれば、大貴族の地位は確実だぞ」
「貴族の身分など身に余ります。それに、身動きが取りにくくなりますし」
そういう肩がこるのは好きじゃないんですよね、と。どこまで本気か分からない笑顔で、エドヴァルドは続ける。
「今まで表舞台に出てこなかったのは、単純にその時ではなかったからです。ぼくの使命を全うするためには、彼の存在が邪魔だった」
先程までの軽い口調が、僅かに沈み込む。その僅かな変化にアルベルトは気づきつつ、無言で先に耳を傾ける。
「しかし彼は隠れるのが上手でして。こちらから探そうにも手の打ちようがなかったのですが、先日の一件のおかげで、彼は表舞台に出てこざるを得なくなった。そのことに関して、ぼくはとても感謝しているのです」
ゆっくりと、人ひとりが執務をする分には広すぎる理事長室を、エドヴァルドはくるくると歩いて、唐突に立ち止まる。
そして退屈そうに、しかし内心では食い入るように話を聞いていたアルベルトに向かって、人差し指を立てながら。
「ここで貴方に質問です。貴方はアルフヘイム、今は迷宮区なんて呼ばれているらしいですが、そこで最も危険な存在はなんだと思いますか?」
「『女王』、と呼ばれる存在だろう」
「彼女はただ無垢な存在です。こちらに敵意がないと教えてあげれば、容易に信じてくれるでしょう」
アルベルトの答えに罰を付け、エドヴァルドはワントーンも声音を低めながら、その答えを告げる。
それが、エドヴァルドの本性なのだと本能的に気づきながら。
「真に討つべきは、『女王』を誑かし続ける偽りの騎士。――スキールニル」
スキールニル。その名前を、アルベルトはそうだと知った瞬間から一時たりとも忘れたことは無い。
最深部の門番。
金色の騎士。
――英雄を殺した敵。
「彼はとても危険です。今の今まで『女王』に嘘をつき続け、アルフヘイムの奥深くに彼女を隠した。それに、彼が持つ暁の剣『レーヴァテイン』は、1度抜けば世界を焼き尽くすことなんて造作もない、まさに破壊兵器です」
アデルに言伝に知らされていた。カズキの最期は、見たこともないような美しい装飾の剣と、その白い光に飲み込まれて終わった事を。
その剣の銘は、レーヴァテインというのか。
「今回の件を受けて、スキールニルは『女王』をさらに慎重に最深部に隠すでしょう。そうなっては最深部にたどり着くことは容易ではありません」
「確かに、現状最深部への道は発見出来ていないな」
「魔法や異能を使っても、見つからないでしょう。彼はフレイの加護で妖精の恩恵を受けていますから、見つけられるのは妖精だけです」
ですが、と。エドヴァルドは何も無い空中に手を伸ばす。そして一瞬パッと光ったかと思うと、そこには手のひらサイズの背中に虫の翅のようなものを生やした人間が納まっている。
「彼らはヴュグヴィルとベイラ。かつてフレイに使えた召使いで、今はぼくの手伝いをしてくれています」
ヴュグヴィルとベイラと呼ばれた男女の妖精は、きゃっきゃと楽しげに宙を飛ぶ。翅が動く度に舞い落ちる光り輝く燐光を横目に。
「随分と大盤振る舞いだな。お前の手札ばかり公開しているが」
「実はぼく、回りくどいやり方がすきではなくて。この方が早く信頼を得られると思いましたので」
人懐こい笑みを浮かべながら、エドヴァルドは困ったようにはにかむ。その笑顔がどことなくあの『死神』とダブって見えて、知らず双眸を眇める。
その事に気づいていながら、しかし気付かないふりをして、エドヴァルドは念を押すように佇まいを正す。
翡翠と唐紅。二色の視線は真っ直ぐに、お互いをお互いの色彩に映しながら。
「スキールニル。――この世界を滅ぼす敵を、貴方には討って頂きたいのです」




