七話
梅雨の季節になりました。
少し経ち、やっと蝙蓮と成海は身体を離した。
「蝙蓮、何かして遊ぼっか」
落ち着きを取り戻すと、退屈を覚えてきた。喋ろうにも、相手は言葉を知らないのだ。もちろん蝙蓮は、成海の提案にも首を傾げるばかりだ。
そうだ、なら丁度良い。
「蝙蓮。私が言葉を教えてあげる」
意味が分かっているのか、蝙蓮はニコニコしている。そうは言ったが、一体どう教えたものか。どうしたものかと辺りを見回すと、良いものが眼に止まる。去年の国語の教科書だ。一年生の教科書なら、入門としては丁度良かろう。ろくに片づけをしない自分の杜撰さに、今回は救われた。
「良い? まず……」
教科書を開こうとしたその時、無粋な声が下から聞こえた。
「ただいまぁ」
年を取ったドラ猫の様な、綺麗とは言い難い声だ。しかも、中々に大きい。その声を聞き、驚いたのは成海ばかりではないようだ。突然立ち上がった蝙蓮が、弾丸の様に窓から飛び出したのだ。窓を開けっ放しにしていたのが、幸いだった。もし閉めていたら、突き破られていたかもしれない。
階段を上る音が聞こえたので、慌てて窓を閉める。そして、出来る限り部屋を片付けて何事もなかったかのように見せかける。
部屋に入って来た母親は変な顔をしたが、成海が何でもないと言ったら、それ以上は聞かなかった。
ドラ猫の声に驚いて窓から飛び出した蝙蓮は、そのまま屋根から飛び降りた。身体を回転させて、両足でしっかりと着地する。普段から行っていなければ、とても出来そうにない程に見事な器械運動だった。
そのまま歩き出した蝙蓮に、声をかける者がいた。
「何だお前! 怪しい奴め!」
近所に住む農家の男性だ。怪しいと言われても、無理もない。ボサボサの長髪にボロ布をまとったいかにも浮浪者然とした人物が、いきなり屋根から飛び降りてきたのだ。それなりに秋山家とは親交があるが、こんな人物が身内にいるとは聞いていない。
加えて、今日は成海が学校を休んでいることをこの男性は知らない。それで、蝙蓮を空き巣か何かだと思ったのだ。
丁度そこを、老夫婦が通り過ぎた。蝙蓮を非難する男性に、何事かと尋ねる。
「この怪しい奴が、秋山さんとこの家の窓から飛び出してきたんだよ」
それを聞くと、老夫婦も蝙蓮を睨みつけて罵声を浴びせる。老人に至っては、右手の農具を蝙蓮に向けて突き付けている。
「警察に突き出してやる、この不審者!」
「空き巣なんてとんでもない奴だ、馬鹿野郎め!」
この興森市木場町という町は、店らしい店もない手本の様な田舎町である。その代わり、サイレンなど一切聞こえない、泥棒など出ない程に平和な町である。そんな町に不審者が現れたのだ。町の平和を乱された住民の気が立つのは、仕方がないと言えるだろう。
蝙蓮には、言葉が分からない。が、自分に敵意が向けられている事だけはどうにか理解できる。違う。自分は何も悪くない。そう伝える術を、蝙蓮は知らない。ただ、首を振るばかりだ。
これは、お互いの無知が招いた誤解だ。近所の住民も、意地悪で見知らぬ者を責めているのではない。蝙蓮が成海の友達であることを知らないので、不審者だと決めつけてしまったのだ。
そして、蝙蓮にも非はないとは言い切れない。自信の恰好が明らかに浮世離れしている、それだけならまだしも怪しさを醸し出す装束であることを知らない。また、窓は人間が出入りする場所ではないという事も知らないのだ。
首を振るだけだった蝙蓮は、遂に反撃に出た。と言っても、牙をむいて吠えただけだ。それだけでも、無知の住人たちを驚かすには充分だった。ひるんだその隙に、蝙蓮は走り出した。その眼には、涙が溜まっていた。
「逃げたぞ、アイツ」
「どうする?」
「一応秋山さんには話しとくか」
住民たちは、不審者の事を伝える為に、成海の家に向かう。
無知の住民から逃げ切った蝙蓮は、やがて草むらに辿り着く。そこで蝙蓮は足を止め、その場にへたり込む。
「ば、かや、ろ。ばか、やろ……」
自分に向けられた刃を、口に出す。意味を知らないはずなのに、口に出すたびに胸の中が痛くなる。そこで、自分が泣いていることに気が付く。
「ば、か。ば、か。ばか、ばか……」
後半からは、言葉にならなかった。やがて、蝙蓮は泣き出した。何故こんなに悲しいのか。自分が今しているのはどういう行為なのか。蝙蓮には分からなかった。分からないが、涙が止まらない。
そこにいるのは、狂暴な野生児でも不審者でもない。ただの、一人の少女だった。
「成海。さっき誰か家にいたのかい?」
蝙蓮が窓から飛び出してから少し経つと、近所の住民が尋ねてきた。ドラ猫が応対し、住民が帰ってから成海に尋ねる。
「聞いたら成海の部屋から出てきたみたいだよ? 誰かと話してたの?」
蝙蓮の事を言ってしまおうか。そう考えたが、ドラ猫は蝙蓮の事を良く思ってはいない。正直に言えば、怒られるだろう。それだけならまだしも、蝙蓮の事を悪く言うに違いない。それを考えると、蝙蓮の事を言おうとは思えなかった。
目覚まし時計に怯える蝙蓮の顔を、思い出す。ここで蝙蓮が来た事を打ち明ければ、ドラ猫も蝙蓮を泥棒か何かだと思うだろう。きっと、。それを知れば蝙蓮はまたあんな顔をするに違いない。
「もしかして、蝙蓮とかいう子かい?」
だんまりを決め込む成海に、ドラ猫が答えを示す。知っているなら、仕方がない。観念して、首を縦に振る。
「お母さんはねぇ、アンタが変な子と付き合って悪い影響を受けるんじゃあないかと不安なんだよ」
母親がこう言うのも、成海の事を気遣ってもことではあるだろう。が、自分を助けてくれた恩人でもあり友人でもある蝙蓮を『変な子』呼ばわりされては黙ってはいられない。
「蝙蓮の事を悪く言わないで!」
ドラ猫を突き飛ばし、家を飛び出してしまう。家がどうというより、ドラ猫の顔を見たくなかった。どこに行く当てもなく、走り出す。
お母さんの馬鹿、何も知らないくせに。大人なんて、何にも分かっちゃあいないんだ。心の中で毒づき、ただ走る。
しばらく走ると、偶然か蝙蓮と初めて会ったあの場所にいた。ここにいれば、蝙蓮とまた会えるかもしれない。そう思い、木の陰に腰を下ろす。
しばらく座り込んでいたが、蝙蓮はいつまでも来なかった。ここで会おうと打ち合わせしていたわけではないが、会えると思った場所で会えないと寂しい気持ちになる。
「成海?」
名前を呼ばれたので、思わず振り向く。不慣れな話し方ではなかった。それで蝙蓮が呼んだ訳ではないと分かってしまったのが、少し残念でもある。
「どうしたの? そんな所で」
そこにいたのは、紅音だった。家に帰らなくて良いのかと尋ねられ、答えを出し渋ってしまう。ドラ猫と同じ様に、紅音もまた蝙蓮を良くは思っていない。
流石に理由までは分からなくとも、家に帰りたくないのだという事は理解してくれたらしい。
「一緒に帰ろう?」
紅音が手を差し出す。昨日、一緒に寝たいといった自分を暖かく迎え入れてくれた、優しい言い方だ。それで断ることが出来ず、差し出された手を握ってしまう。
また書くことがない……。