六話
前書きにも書く事がなくなりつつあるこの頃。
翌朝、成海はいつもの様にドラ猫の声で目を覚ます。眠い目を擦り、ゆっくり開いたところで驚く。思わず情けない声が漏れる。何故紅音が自分の隣で寝ているのだろう。その後すぐに、自分が紅音のベッドにいるのだと気が付いた。当の紅音は、何でもないかのように眠っている。
身体を起こし、少しぼうっとして思い出す。昨晩自分は紅音と一緒に寝たのだ。それも、自分からそうしてくれと頼んだのだ。
やがて、紅音も目を覚まし、やはり隣にいる自分に驚く。
「……あぁ、そうだった」
頭を掻きながら、成海に顔を向ける。
「おはよう、成海」
たった一言、いつもと同じように挨拶をされただけだ。それに返すくらいの事、何でもないはずの事が、今日は凄く難しい事のように感じた。
寝室の窓から、紅音を見送る。今日は、学校に行く気にならない。ドラ猫も、それを許してくれた。ベッドに横になる。休むのは良いが、退屈でならない。例えば算数など苦手な教科の時は、学校を休んで何をしたい、と考えるものだ。が、いざ休みになってみると、やりたい事というのが思い浮かばない。不思議と、漫画やゲームに手を付ける気にならない。
そんなに退屈なら母親と話でもしようかと思い、ドラ猫の様な顔を思い出す。が、すぐにその顔は掻き消される。ドラ猫と、いや、誰かと話す気にならない。退屈ではあっても、何かをしたいとは思わない。カーテンを開けるという、ごく簡単な事をする気にすらならない。
そのまま暇を持て余していると、下からドラ猫の声が聞こえる。
「ちょっと用事に行ってくるからね!」
扉が閉まり、鍵をかける音が聞こえる。いっそ目を閉じれば、眠ってしまえるのではないか。ようやくの事で、その考えに思いつく。何で眠るという選択肢を、思いつかなかったのだろうか。自分の考えの至らなさに、小さい自嘲の笑みが零れる。
では、と目を閉じると、何かが小さくぶつかる音がした。パタパタと、小さな音も聞こえる。鳥だろう、と気にも留めなかった。最近聞き知った声が聞こえるまでは。
「な、る、み」
聞き間違えるはずがない。思わず、勢いよく起き上がる。どこから声が聞こえるのか、何故自分の家を知っているのか。それらの驚きが、成海を叩き起こす。
再び窓を叩く音が聞こえる。まさかと思い、カーテンを少し開ける。その隙間から、昨日自分を悪漢から助けてくれた少女の顔が覗いた。但し、どういう訳か上下逆さだった。少女のボサボサの髪は、重力に引っ張られて地面に向かっている。これで、顔がよく見えるようになった。思いの外、可愛らしい顔立ちだ。とても、大の男を引っ掻いたり噛み付いたりでボロボロにできるとは思えない。
それでおかしいのは、テルテル坊主の様に少女の身体を覆うボロ布は重力に逆らっているという事だ。普通なら、布も重力に負けての顔を隠してしまうはずだ。
「蝙蓮!」
驚いた成海は、少女の名を呼ぶ。笑顔を浮かべる蝙蓮は、突然右腕を振りかぶる。まさか、この窓を割る気だろうか。
「わぁ! 待って待って!」
慌てて蝙蓮を制止する。窓に当たる丁度寸前で、蝙蓮の手が止まる。窓を割られずに済んだ事で、安堵のため息を吐く。そんな事をしたら、ドラ猫に怒られてしまう。それに、ガラスの破片で怪我をしてしまう。紅音と同い年位の癖に、そんな事も分からないのか。
カーテンを全開にすると、上下逆さのカラクリが分かった。蝙蓮は、二階の屋根の軒先に足をかけ、ぶら下がっていたのだ。視界を遮るものがなくなった事で、蝙蓮のそばで黒い毛玉の様なものが飛んでいるのが見えた。よく見ると、それは一頭の蝙蝠だった。
軒先から足を離し、空中で綺麗な回転を見せる。そして両足で一介の屋根に着地してみせる。成海はただ、その美しいと評するよりない器械体操的な動作に見惚れているだけだった。そして、その顔はすぐに渋く崩れてしまう。
蝙蝠が、蝙蓮に向かってゆっくり飛んできたのだ。蝙蓮がボロ布から腕を出すと、蝙蝠は掌に着地する。その蝙蝠にゆっくり顔を近づけ、蝙蓮は愛おしそうに頬ずりをする。
蝙蝠という動物に対し、秋山成海という少女はマイナスなイメージしか抱いていない。どっちつかず。暗闇を舞う吸血鬼。実際に血を吸う蝙蝠は精々三種類ほどという事、彼らは正確には血を吸うというよりは舐めているという事を、残念ながらこの少女は知っていない。
そんな不気味な獣とあんな風に親しくできるこの少女は、やはり普通の人間とは違うのだろうか。そう思った成海は、むしろ蝙蓮に感心さえした。
それはそれとして、いつまでもそんな所に立たせておくのも忍びない。母が帰ってくるまでなら良いだろうと思い、蝙蓮に部屋に入るよう促す。ところが、当の蝙蓮はニコニコ笑っているばかりだ。それで、蝙蓮は言葉を知らないという事を思い出した。こちらに来るようにとジェスチャーで示すも、やはり蝙蓮には意味が分からないらしい。
そこで成海は蝙蓮の手を握り、軽く引く。それでようやく蝙蓮は成海の言葉の意図を理解したらしい。身体を屈め、成海の部屋に入った。握った蝙蓮の手は、多少ガサついていたが暖かかった。滑らかとは言ってやれないその肌の感触が、心地良いとは言えなくても悪い気はしなかった。
「なるみ」
嬉しそうな蝙蓮は、まだ成海の手を離さない。返事をしようと開いた成海の口から、代わりに不満そうなガ漏れる。
「あらぁ、土だらけ……」
蝙蓮は靴を履いていなかったのだ。幸いここ数日は雨が降っていなかったので泥はつかなかったが、ベッドなどには土がついてしまった。
部屋を汚した張本人は、興味津々といった顔で部屋を見回している。自分の部屋が、美術館か何かにでも思えるのだろうか。目を輝かせている蝙蓮を見ていると、怒る気になれなくなる。
やがて蝙蓮は、枕元の目覚まし時計に視線を定めた。歯車の音が、蝙蓮の注意を引いたのだろう。いきなり時計に襲い掛かる事はしなかったが、警戒しているのか時計から目を離さなかった。
そんな蝙蓮を見て、年相応のいたずら心というものが顔を覗かせた。そっと時計の後ろのツマミを捻り、時間を今に合わせる。すると目覚ましは、喧しい音で喚き始めた。いつも持ち主の目を覚ましてくれる、厳しくも頼れる相棒だ。その仕事の腕は、成海自身がよく知っている。
案の定、蝙蓮は驚いて後ろに跳ぶ。そして、威嚇するように負けじと大声で吼え始めた。両手を顔の前で今度は、成海が驚いた。まさかここまで驚くとは思わなかった。
そして、申し訳ない気分になった。初めこそ笑っていたが、蝙蓮の表情から彼女が本気で驚いているのが見て取れた。その顔が、成海の良心に突き刺さった。
慌ててツマミをオフに傾けると、目覚ましは仕事を止めた。それでも、蝙蓮は唸るのを止めない。まだ目覚ましを警戒している。
「ごめんね、蝙蓮。も、もう大丈夫だから……」
成海の声が聞こえていないのか、依然蝙蓮は目覚ましを睨んでいる。身体を屈め、いつ飛びかかってもおかしくない。
言葉は通じない。どうしたら。焦る成海の頭に、ふと昨日のビジョンが再生される。
そうだ。昨日助けてくれたこの少女は、こうやって自分を慰めてくれた。今度は私が慰めなくちゃ。
成海はゆっくり近づき、そっと蝙蓮を抱きしめる。身体を低くしているおかげで、身長差の問題は解決されている。
「ごめんね、蝙蓮。大丈夫、大丈夫だから」
何度も繰り返しながら、そっと背中を撫でる。やがて蝙蓮の口から唸り声が聞こえなくなる。どうやら、蝙蓮は安心してくれたらしい。
「ごめんね、ごめんね」
消えそうな声で、成海はまた謝った。その頭を、蝙蓮が優しく撫でてくれる。成海の心が通じたのだろうか。これでは、どちらが慰めているのか分からない。が、悪い気分にはならなかった。
それにしてもお金が欲しい。