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利知未シリーズ

TU BA ME (初夏から初秋・バッカスの光景)

作者: 茅野 遼

利知未シリーズの、特別読み切りとして、お送りいたします。 舞台は「バッカス」のみ。 芝居で言ったら一幕芝居、という所でしょうか? 

 ごゆっくりお楽しみ下さい。

      《利知未シリーズ・特別読み切り》


物語の初めに……

 小さい店内で、カラオケがある訳でもない。 九人掛けのL字型カウンター席と、四人掛けのボックス席が三つ。 その中で、忙しげに立ち働く美由紀……

      (中学時代の利知未から見たバッカス店内の様子より抜粋)




    TU BA ME (初夏から初秋・バッカスの光景)



               1


 五月の下旬、宏治は開店準備をしていて、頭上を飛び交う黒い影を見た。 看板を出し、店の出入り口外へと据え置きながら、ふと、頭の上を仰ぎ見る。

「何時からだ?」

出入り口扉の左側、五十センチほどずらした所へ視線を据えると、ツバメが一羽、どこからか運んで来た枯れ草を銜えた嘴を、せっせと動かしている。

 宏治は暫し考え、そして想像してみた。 お客様の頭の上に、ツバメの落し物が振ってくる光景を。

『マズイか?』 お袋に一応、相談しなければならないかと思う。 一端、思考を巡らせるのをやめて、開店準備の続きへと取り掛かる。


 店の開店は、夕方五時だ。 母、美由紀は何時も、四時四十五分頃に到着する。 宏治が二十歳を過ぎた頃から、開店準備は彼の仕事だ。 その頃から数えて、そろそろ八年近く経つだろうか。 今では閉店後の締めも、ほぼ任せている。 美由紀はスナック・バッカスの経営者として、行く行くは店の跡を、手塚家の次男、宏治に任せる心積もりでいる。


 今日も美由紀は何時も通りの時間に、店の裏口から姿を現す。

「ご苦労さま、準備はどう?」

「何時でも開店できるよ」

開店前の最後の仕事、『本日のお勧め』を、小さな黒板に記入しながら、宏治が言う。

「ありがとう」と笑顔を見せて、美由紀が仕事用のエプロンを身に着ける。

「ところで、おふくろ。 店の外、ツバメが巣をかけているみたいだけど、気付いてたか?」

「あら? 何時の間に」

「おれも、さっき気付いたばっかりだ。 客の頭にフンを落とされても困るし、完成する前に外そうか?」

宏治の言葉を聞いて、美由紀は言った。

「落とされないように、下に何か受け皿みたいなものを付けておきましょう。 ツバメの巣は商売屋にとっては、とっても縁起の良い物なのよ。 知らなかった?」

「そうなのか?」

「ツバメは、人の良く通る所でないと、巣をかけないのよ。 ソレはつまり、人が集まる場所って事に成るでしょう? それと、毎年必ず戻って来る渡り鳥だから、お客様も再度ご来店頂ける、お金も戻ってくる、と言う事と、かかってくるのよ」

「知らなかった。 じゃ、明日にでも、日曜大工をするとしよう」

「お願いね。 あら、もう時間ね。 オープンしてちょうだい」

「了解」

 短く答えて、宏治はカウンター下を潜って店のドアへと向かった。



 縁起物の、ツバメの思し召しだろうか? その日、珍しくバッカスの電話へ、懐かしい親友から連絡が入った。

 店内は、常連組みが程よく酔い始めた頃合、時計の針が九時を指す頃。 宏治は、常連客・大熊肉店の店主からの注文、『本日のお勧め』の調理にかかろうと、ワイシャツの袖を捲り上げた所だ。

 コロコロと言う優しい音色の受信音が、宏治の耳に入った。 やりかけた作業を途中にしたまま、宏治が受話器を上げる。

「毎度ありがとうございます、スナック・バッカスです」

「宏治か? 俺だ、倉真」

数ヶ月ぶりに親友の声を聞いた宏治の顔が、嬉しげな表情を見せる。

「久し振りだな、元気か?」

「おお、元気だぜ。 お前も元気そうだな」

受話口から漏れ聞こえて来るバックの音に、近くを通り抜けていく自動車のエンジン音が混ざる。

「どこから掛けているんだ?」

「チョイ、自販まで歩いてる所だ。 家じゃ、一真の泣き声をBGMにして話さなきゃならないからな」

困った様な口振りに似合わず、嬉しそうな響きを感じるのは、気のせいでは無いのだろう。

 去年、出産祝いを持って行った時、あの強面の顔が、いっそ情け無いと言ってしまった方が良い様なほどに、思い切り緩んでいた事を思い出す。

「子育ては、大変そうだな」

「意外と面白いぞ? 利知未に特訓してもらって、オムツも替えられるようになったぜ」

「そりゃ、利知未さんも助かってんだろうな」

「俺は、大した事もしてねーよ。 本当に大変なのは、利知未のほうだろうからな」

 たったこれだけの会話で、倉真の愛妻振りも伝わって来る様な気がする。宏治はつい、小さく吹き出してしまう。

「なんだよ? んな、笑えるか?」

「いや、相変わらず、仲が良さそうだと思っただけだ」

「独り者にはワリーが、楽しい生活、送ってるとは思うぜ」

ふざけた口ぶりに、倉真が昔から良く見せていた、ニヤリと言う笑い顔のイメージが重なる。

「宏治、誰から?」

少々、長話になりそうな雰囲気を察して、常連組のボックス席に付いていた美由紀から声がかかった。

「倉真だよ」

「倉真から? ちょっと、代わりなさい! 熊さん、悪いわね、ちょっとゴメンなさいね」

 大熊肉店の店主の顔が、酒の効能で赤くなっている。 健康そうな顔色だ。 その大熊に断りを入れ、同じ席についている常連仲間に笑顔を見せて、美由紀が席を立つ。

 急ぎ足で電話口にやって来た母を見て、宏治は少し呆れ顔を見せて、小さく肩を竦める。

「悪い、お袋に代わる」

電話の向こうにいる倉真に断って、宏治は素直に受話器を譲った。

「宏治は、熊さんのオーダー、進めてちょうだい」

チラリと息子に視線をやって、直ぐに受話器を耳に当てる。

「倉真? また、随分とご無沙汰ね。 利知未も元気でやってるの?」

 美由紀には、中学時代から散々、迷惑を掛けてきた。 倉真も彼女には、頭が上がらない。

「すんません、中々、酒飲みに行く余裕がないんすよ。 俺の小遣いは、一真のミルク代とムツ代で、ここんトコ、減る一方で」

苦笑いをしながら、無沙汰を詫びた。

「利知未に言って、小使い少し上げてもらいなさいよ。 二人でまた顔を見せてくれると、嬉しいわね。 二人分の小遣い足せば、少しくらい顔を見せる事も出来るでしょうに」

 言いながら、子育てには色々と物入りな事も良く判っている。 美由紀も二人の息子を育て上げた母親だ。 それでも、昔から可愛がって来た利知未と倉真には、偶には顔を出してもらいたい思いも、本音だ。

「相談してみます。 一真を連れて行く訳にも行かねーし」

携帯電話を肩と頬に挟んで、ジーパンの後ろポケットから財布を取り出す。

 倉真は今、タバコの自動販売機の前に立っている。 一真の誕生を機に、いっそ止めてしまおうかとも、少しは考えた事もあるが、何しろかなりのヤンチャ者だった彼の、中学時代からの愛用品は、すっかり倉真の体の中にニコチン中毒の種を植えつけていた。 そろそろ大木へと育ってしまった頃かも知れない。

 利知未も、無理に止めろとは言わなかった。 一度は減煙をしてみた倉真の、たった三日間でのストレスの溜まり具合と、それに伴う苛立ちの様子を確認して、高性能な空気清浄機を購入してリビングへ据える事で、一応の処置とする事にしたのだった。

 それでも倉真は、以前よりタバコの量が減って来た様にも感じている。 彼なりの愛情の賜物なのだろう。


「そろそろ、十一ヵ月ね。 可愛くてしょうが無いんでしょう?」

「分かるっすか?」

「私だって、人の親よ。 宏一が赤ちゃんの頃には、ちょっと熱を出すだけでも心配で心配でしょうがなかったもの」

 懐かしい思い出を辿り、美由紀の頬が柔らかい曲線を作る。

「色々、ガキの育て方を教わらなきゃならないな」

「何でも教えてあげるわよ。 利知未にも言っておいてちょうだい」

「っすね、言っておきます。 どうすれば勉強が嫌いじゃないガキが育つか、聞いておいたほうが良さそうだ。 俺に似なけりゃいいけどな」

 釣銭を入れた財布を再び後ろポケットへ収め直し、何時ものタバコを二箱手に取り、倉真が携帯電話を持ち直して、話しながら歩き出す。

「利知未に似れば、大丈夫そうだけど」

「利知未も、本当は勉強が嫌いだったらしいっすから」

「そう言うところ、あんた達は似たもの夫婦ね」

 美由紀と倉真の話しが、長話になってきた。 宏治は大熊からのオーダーを仕上げ、自らカウンターを出て商店主組の席へと運んで行った。

「美由紀ちゃんの電話の相手は、なんだ? 倉真なのか?」

仲間内のアイドル・美由紀を取られて、元から絡み酒の癖を持つ魚屋主人・田島が、宏治を捕まえてやっかみ事をぼやく。

「ええ、家の次男坊からです。 最近すっかりご無沙汰だったからな、お袋も恨み言の一つも言ってやりたい処なんだろうから」

 瞳を自分の頭の天辺を見るように寄せて、宏治は苦笑いだ。

「倉真が次男で、宏治は何番目だ?」

「四男に格下げですよ。 おれと倉真、和泉が三つ子で、準一が末っ子」

「利知未が長女、か」

「お袋がそう言ってますから。 家は五男一女だって」


 昔、未成年の倉真たちが、困ったスナック常連客になってしまった頃から。 手塚家ではそう言うことで話が纏まっている。 大熊たちも承知の上だ。 ただし店主組から見た時、誕生日があやふやな倉真や和泉が入ると、誰が次男で誰が三男か、等という事は、いい加減に記憶している。 結果、三つ子説が有効となって、彼らの関係相関図が完成するのだ。


「利知未は一時、本気で宏一とでも結婚させちまおうかって話が、出た事もあったなぁ」

 宏一の見合い相手を皆で相談していた頃、そんな話が出た事もあったという。 店主組は、その頃の事を思い出して、話しの勢いに拍車がかかり始めてしまった。

「宏一がどうしても見合いをしたくないって言い出したら、宏一と利知未を結婚させちまおうか、何てな」

八百屋店主、佐々木も話しに入る。 店主組は、何時も四人でボックス席へ着いている。

「ああ、言っていたね、そんな事も」

蕎麦屋の大野も会話に混ざって、宏治を面白そうに眺めている。

「どうも、旗色が悪くなりそうだ」

宏治はぼやいて、その場から逃げる事にした。

 そんな話しが続くうちに、漸く美由紀が受話器を置いた。

「宏治。今度、二人で店に来るって約束させたから。 倉真の用事は、その時に聞いて」

晴れやかな美由紀の言葉を聞いて、『今の電話、おれ宛だった筈だったんだけどな』 と、思わない事も無い宏治だった。




               2


 倉真が店に電話をして来た日から数えて、十日も経とうと言う頃。 今度は利知未から連絡が入る。 どうやら次の土曜日には、二人揃ってバッカスへ顔を出す事が出来そうだと言う報告だった。

 店先のツバメの巣は、この頃、漸く完成を迎えていた。 宏治の日曜大工により、巣の下にはベニヤ板を使った受け皿置きが出来上がっている。 ティッシュペーパーの空箱を皿の代わりにした物を、宏治が二日から三日に一度の割合で取り替える。 開店前の仕事が増えてしまった。

 けれど、ツバメの飛び交う姿に誘われて、その巣の出来上がっていく様子に興味を抱いた客が、本の少しだけ増えている。 以前、上司に連れられて、何度か来店していた若いサラリーマンだった。 宏治は、縁起物のツバメの恩恵だろうと考える事にした。



 倉真が利知未を伴って、仲良く久方ぶりの来店をしたのは、六月の中旬、梅雨真っ盛りの土曜日・七時半を回った頃だ。

「こう雨が続いちゃ、どうせタンデムする事も出来ネーし、酒を飲みに行くのに車も無いだろうって事だ」

そう言って、電車を使って片道四十分の道程をやって来た。

 倉真のバイクは既に無くなっているが、それよりも状態の良かった利知未のバイクは、今もアパートの駐輪所へ止まっている。 一真が生まれてからは、倉真が通勤の足に利用している。 普通車は、利知未が産前、産後休暇を貰った頃から、基本的には利知未の移動手段となっている。


「本当に久し振りだな、ここへ来るのも……。 明日香さんが、一真を今夜は預かってくれるって言ってくれたから、漸く顔を出す事が出来ました」

 そう言って、利知未も長らくの無沙汰を美由紀に詫びた。

「明日香さんって、利知未のお兄さんの奥さんね。 利知未の結婚式の時、お会いしたけど」

久し振りに二人を迎えて、美由紀も何時も以上に機嫌がよい。 常連組が来店する前の時間でもあり、宏治と二人、カウンターの中で二人の相手をしてくれた。

「そう言えば、ツバメの巣が出来てたね?」

ここへ着いた時、利知未は気付いていた。

「ンなモン、あったか?」

倉真は利知未の言葉を聞いて、初めて知った。

「あたしよりも背が高いのに、目に入らなかった?」

「気付かなかったな」

「お陰で開店前の仕事が増えたよ」

宏治は、丁度、倉真から久し振りに電話が入ったあの日、初めてツバメの巣が作られ始めていた事を知ったと、酒の肴に話してやった。

「ツバメの巣は、商売屋には縁起物だってお袋から聞いて、外すのを止めたんだけどな。 その日に、お前から久し振りに連絡が入ったから、満更、嘘でもないのかと思ったよ」

 微笑して言った宏治の様子を見て、随分と宏治の男前振りが上がって来た事を、利知未は感じた。

「宏治は、結婚する当て、無いの?」

「この流れで、どうして、そう言う突っ込みが入るんですか」

「ツバメも、巣をかけて新しい家族を作る準備をしている訳だし、宏治も随分と男らしく成って来たのに、美由紀さんはさぞヤキモキしている事だろうと思って」

 小さな悪戯が成功した時に、子供が見せる様な笑みを浮かべて、利知未が言う。

「利知未も、そう思う? どこかに丁度いいお嬢さん、居ないかしらねぇ」

美由紀も、普段は息子相手に見せない本音を、チラリと覗かせる。

「お袋は、早く孫が欲しかったのか」

「当たり前でしょう? 宏一だって、もう三十五歳にもなろうって言うのに、全然、そんな話が出て来ないし。 次男と長女の間では可愛らしい赤ちゃんがすくすくと育っているって言うのに。 期待しない母親が居るもんですか!」

「次男と長女の間って、なんか可笑しな誤解を招きそうな表現だな」

自分から振った話題だというのに、利知未は別の言葉に反応してしまった。

「確かに、近親相姦を言っているような言葉だな」

宏治も話しを摩り替える手段として、利知未の言葉に同調してしまう。 美由紀もその言葉には、少し笑えてしまった。 

「そう言や、熊さんたちは、相変わらず常連で顔出してるのか?」

倉真も、親友が話を摩り替えようとしている様子に気付き、協力してやる事にした。二人、僅かな目配せをしている。 横目で宏治と倉真の様子を見て、利知未は小さく笑ってしまった。 『本当に二人は、仲が良いと言うか、なんと言うか……』 少しだけ呆れた様な感心するような、微妙な感想を持つ。

「相変わらず、売り上げに協力してもらってるよ」

「そろそろ、来てくれる時間ね。 あの人たちも、きっと二人を見たら喜んでくれると思うわよ」

美由紀も敢えて話しを戻そうとはせず、矛先が変わった話題に素直に頷いていた。 宏治は内心で胸を撫で下ろす。

 今のところ、結婚をする当ても、結婚をしたいと感じる女性もいはしない。 いっその事、生涯独身でも構わない様な気さえして来ている。

 ただ、それはお袋にとっては、寂しい事なのかも知れないとも、感じてはいる。



 店の入り口から、賑やかに鈴の音が響く。 わいわいと相変わらずの大きな声で話をしながら、件の常連組が一人、二人と顔を出す。

「いらっしゃい、待っていたわよ!」

美由紀が、響いてくる鈴の音と良く聞き知った声を聞いて、弾んだ声と笑顔で新しい来客を迎え入れた。

 カウンターで顔を揃えている利知未達を見て、常連組も嬉しそうな笑顔を見せてくれた。

 久し振りに顔を合わせた商店街店主組に誘われるまま、利知未と倉真も二つのボックス席を繋げて広げたテーブル席へ移動した。 狭い店だ。 カウンターの中で別の客の相手をしながらでも、ボックス席での話しは良く聞こえる。 宏治は何時も通り、商店主組の席を美由紀に任せて、カウンター席の注文を受けていた。

 バッカスの客達は、宏治を『(こう)ちゃん』と呼び、美由紀を『美由紀さん』『美由紀ちゃん』と呼んでいる。

「宏ちゃん、表にツバメの巣が、出来ていたね?」

 九時前にカウンター席へ着いた、月に何度か顔を見せる客にそう言われて、宏治が頷いている。

「ええ。 この前、来店しくれた時には、漸く巣が完成するかどうかと言う所でしたね」

「そうだった? その時には気付かなかったな。 今日は、ベニヤ板が目に入ったから良く見てみたら、ツバメの巣があったから」

「ツバメの落し物対策ですよ。 簡単にビニール傘を引っ掛けている所も何処かにあったけど、それじゃ、この店の入り口前には邪魔になり過ぎますからね」

話しに頷きながら、宏治は客のオーダーに応えるべく、業務用冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。 水割りを手早く準備して、また別のカウンター席に座る客前へ出す。

「今日のお勧め、まだある?」 と、問われ、返事をして調理にかかる。


「何か、宏治が忙しくなってきたみたいだけど?」

 ボックス席からふとカウンターを見て、利知未が言った。 常連組との話題が盛り上がっていた所だ。

「そう? じゃ、ちょっとカウンターへ戻るけど、利知未たちは熊さん達と、ゆっくり話していてね」

ニコリと笑顔を見せて、美由紀が立ち上がった。 美由紀をカウンターへ送り出し、利知未たちは再び話を続ける。

「あの利知未と倉真が親になった、ってのは、ビックリだな」

と、蕎麦屋の大野が話を戻すと、八百屋の佐々木も言う。

「ビックリと言うより、歳を感じるな。 俺のところも、去年の暮れに長女が子供を生んでね。 今じゃ、じぃじと呼ばれているよ」

「そうなんだ! じゃ、家の一真と佐々木さんの孫は、同学年だ」

「まだ、学校行くまでは六年以上あるけどね、そう言うことだな」

「そうなるのか。 一真が学校に上がる迄には、何とか先の目処が立っていてほしい所だな」

 倉真の言葉に、大野が聞く。

「六年何て、あっと言う間だ。 何か目的があるのか?」

その質問に、利知未と倉真が軽く視線を交わす。

「この町で、バイクの整備工場やるのが、今の俺の目標なんすよ」

「俺たちの、ね?」

「ああ、そうだな」

利知未の言葉に頷いて、倉真が少しだけ、誇らしそうな笑顔を見せる。

「整備工場か。 でかい夢、持ったもんだな」

「て言うか、大熊さんたちは自分の店、持ってるんすから、個人事業主の先輩って事に成るんすよね?」

「個人事業主って言われてもな。 俺たちは、親の代からの店を継いでいる身だからな」

「それでも、色々と教えてもらえる事は多そうだな」

 そう言って、利知未が思い付く。

「あたし達もバッカスまで来る時間が無くなってきちゃっているし、いっその事、熊さんたちにこっちへ来てもらおうか?」

「何だ? 行き成り」

「一真の誕生日と、あたし達の結婚記念日、四日しか違わないから、今年は今までお世話になった人達を呼んで、記念日パーティーしてみるのも、イイかと思って」

「そうだな、そんな日があっても、良さそうだ」

利知未の提案に、倉真が頷いた。

「そりゃ、嬉しい誘いだな。 利知未達の子供も見てみたいし」

大野が言って、程よく酒が回ってきた血色の良い顔で、笑顔を見せる。

「あら、楽しそうな相談ね、勿論、私達もお招き頂けるかしら?」

カウンターの中から、美由紀がこちらへ声を掛ける。

「当然、美由紀さんにも来てもらいますよ」

利知未が答えて、作業の手が空いた美由紀は、宏治にカウンターを任せて、ボックス席へと出た。 再び美由紀も交えたボックス席では、パーティーの相談が始まった。


 暫らくすると、話は利知未と美由紀が中心になり、盛り上がり始めた。 大熊たちの意見を聞きながら、当日の料理の相談へと内容が動き出す。

「材料はいくらでも持って行ってやるからな、豪華に行こうじゃないか」

と、肉屋の大熊が言えば、すっかり出来上がってしまっている魚屋・田島が言う。

「船盛り作ってやる! ああ、心配すんな、タダでやってやっから!」

「そんな約束したら、カミさんに怒られるぞ?」

 普通に売ったら、かなりの儲けに成る筈だ。 大野に言われても、聞きはしない。

「シミったれたこと言いやがる! 祝いの席にお頭がつかねーでどうするってんだ!」

 酔っ払った勢いで、大きな約束をしてしまった。 利知未と美由紀は顔を見合わせて笑ってしまった。

 利知未達の賑やかな相談の中、カウンター席の客が、時間を見て席を立つ。 レジを済ませた客を笑顔で送り出した宏治は、漸く少し手が空いた。 それを見て倉真は、自分のグラスとタバコを持ち、立ち上がる。

「倉真?」 利知未に声を掛けられて、倉真が答える。

「パーティーの話しは、お前に任せた」

そう言って、カウンターへと移動した。

「ま、いいけど」

小さく首を竦めて見せて、利知未は美由紀たちとの話しに戻る。 倉真には親友、宏治と、男同士で話をしたい事が、色々とあるのだろう。


 カウンター席へ移動してきた倉真の前に、宏治が灰皿を出した。 倉真は早速、タバコを取り出す。

「グラスも新しくするか?」

言いながら、宏治はロックを新しく作って、倉真へ渡す。

「流石、親友」

 ニヤリとして吸い付け煙を吐き出しながら、倉真はグラスに口を付けた。

「Foxボトルは健在だな」

「準一が偶に来るからな。 その内、いくらか酒代を渡してやった方が良いかもな」

倉真の言葉に答えながら、宏治は自分の分の水割りを、同じボトルから作る。

 宏治が二人分の酒を作ったウィスキーは、瓶の首に『Fox』のネームをぶら下げたキープボトルだ。

「乾杯」 そう言って、倉真のグラスと自分のグラスを打ち合わせる。

「久し振りの再会に」 倉真はそう呟いて、乾杯を受けた。


 後ろのボックス席では、利知未達が大いに盛り上がっていた。 明るく賑やかな声を聞きながら、倉真と宏治は、男同士で静かに話し始める。

「和尚のヤツは、まだ由香子ちゃんの所か?」

「後一年は、向こうで暮らすつもりらしいな。 準一が、来る度に報告してくれるよ」

「後一年、な。 それはそうと、お前、最近、走ってるのか?」

 軽く握った右手首を手前に回転させて、バイクのスロットルを開く真似をして見せる。

「偶に。 こっちも、準一がイイ仲間だよ」

 宏治も右手首を軽く手前に回転させ、倉真と同じ動作をして見せながら答える。

「それにしても、随分と寂しいツーリング事情に成っちまったな」

「そうだな。 その内、お前とも久し振りに走りに行くか?」

「この前、連絡したのも、それを誘うつもりだったんだ」

 ロックグラスに再び口を付けて倉真が、先月、美由紀に横槍を入れられた時に、しようとしていた電話の話しを改めて始めた。

「バイクは?」

「利知未のバイク、今は殆ど、俺専用になっているぞ」

「利知未さんが車を使っているのか」

「一真が居るからな」

「成る程」

また今度、久し振りに箱根辺りまで走ってみようかと、話しが始まった。

 倉真と宏治が二人で話しをしている間に、利知未たちはパーティーの計画を立て終わってしまった。


 パーティーの相談を終えた利知未は、美由紀たちに断り、自分のグラスを持ち、カウンター席へ移動した。 倉真の隣に腰掛けて、男二人の会話に耳を傾ける。

「もう、相談は良いのか?」

隣で静かにグラスへ口を付けている利知未に、倉真が、宏治との話に切りが付いたところで問い掛ける。 利知未は軽く頷いた。

「一通りの相談は出来たよ。 そろそろ、一真を迎えに行かないと」

「もう、そんな時間になったか?」

「十時半になるよ。 宏治との相談は終ったの?」

倉真に問いかけ、宏治の顔を見る。 宏治が軽く頷く。

「相談って程の事でも、ないからな」

言いながら宏治は、利知未のグラスにも少しだけ、Foxボトルから酒を注ぎ足す。

「ありがと」 と、利知未は素直に受けた。

「今度、お前のバイク借りて箱根まで行ってくる」

「良いんじゃない? 最近、ツーリングも行ってなかったからね」

倉真の言葉にニコリと笑顔を見せて、利知未は二人のツーリング計画を快く承諾してやった。

「一真が、もう少しデカくなったら、親子タンデムで走らせてーな」

「一真もバイク好きに育ちそうだな」

 倉真の呟いた夢に軽い笑顔を見せて、宏治が言った。

「あたし達の子供だから、その血は随分、濃そうだよね」

「言えるな」

「そうなったら、おれも親子タンデムを観察しながら、一緒に走らせて貰うかな」

「その前に、お前もガキを作ったらいいんだ。 家族ぐるみで親子タンデム、して見たいと思わネーか?」

 倉真の言葉に、宏治は曖昧な笑みを見せる。

「そう言う気に、なら無いな。 相手もいない」

「利知未、知り合いに、宏治に丁度いい相手の当て、ないか?」

少し利知未が考えている間に、宏治が言った。

「考えなくてイイですよ。 その内、そう言う気になったら相談します」

 そんな未来は、今の所は想像できないが、取り敢えずそう言って断った。 利知未は宏治の様子に、小さく首を竦めて倉真をチラリと見た。

「いい夢だと、思ったんだけどな」

乗り気を見せない親友の様子に、倉真も軽く詰まらなそうな表情を見せて言った。

「まぁ、宏治の事は、宏治に任せれば良いんじゃない? 倉真のささやかな夢が叶うまで、あのバイクが持てば良いけど」

利知未の言葉に、倉真は自信満々な顔になる。

「専属の整備士が付いてんだ。 持たせてやるぜ」

「そうだね、倉真なら出来るね、きっと。 その頃には、自分の工場が持てていれば良いね?」

「そのつもりだよ」

「何年後の話しだ?」

宏治の言葉に、倉真が力強く答える。

「後、十年は掛けねーよ、絶対」

 そう言い切った親友の、希望に満ちた目を見て、宏治は少しだけ羨ましい様な気持ちになった。

「久し振りにバッカスへ来て、楽しかった」

話し終わりの潮時に、利知未がロックを飲みきった。

「これからも、偶には来て下さいよ。 お袋が寂しがる」

「そうだね、一真が居るから、あたしは、そうチョクチョク顔出せないけど……。 倉真は来れる時は、ね?」

「小遣い上げてくれ」

「そう来る?」

 少し呆れた利知未の顔を見て、宏治は小さく笑ってしまった。


 三十分後、利知未たちはバッカスを出て、駅へと向かった。




               3


 利知未達のアパートにバッカスの常連仲間が集まって、賑やかなパーティーが行われたのは、六月末の日曜日の事だった。


 その頃、バッカスの出入り口上に居を構えたツバメの夫婦は、五つの卵を温め始めていた。 最近は、ツバメの夫婦が食事を取るため、巣から一羽ずつ代わる代わる飛び立つ姿が、良く見られるようになって来た。 宏治の開店前の一仕事、ツバメのトイレ交換は、今の処まだ二日から三日に一度の割合で間に合っている。

 手塚家の玄関脇には、昔から、古新聞を一月分溜め込む為に、小さなダンボール箱が置かれていた。 最近、その隣には、使い終わったティッシュペーパーの箱が、幾つか積み上げられている。 その箱の山を見る度、宏治は、「卵が孵ったら、毎日の仕事に成るんだろうな……」 と、小さな溜息を漏らしている。



 七月に入り、初めの金曜日。 パーティーの写真を持って、倉真がバッカスへ顔を出す。

「今日は、お前一人か?」

 カウンターの中から宏治に聞かれて、倉真が言う。

「おお。 そう、いつも何時も、一真を預かって貰う訳にはいかねーだろ?」

「で、利知未さんは一真の世話か。 ストレス溜まらないのかな」

「子育ては、大変だと思ったら、お仕舞いなんだと」

「彼女の言葉か?」

「楽しいって思ってやれば、何でも楽しいんだって、な」

 その言葉にどれ程の本音が混ざっているのかは分からないが、彼女らしいと、宏治は思う。

「そうか。 今日は、電車で来たんだろうな?」

「事故ったら嫌だから電車を使え、と、釘を刺された」

「酒も入るしな」

言葉と同時に、宏治は倉真の前へ、Foxボトルから作ったロックを置いた。

「そう言うことだ」

倉真は早速、グラスへ口をつけた。

 倉真の持って来た写真を見ながら、暫らくは、あのパーティーでの話題が続いた。

「お前、チョイ顔出して直ぐ帰ったからな、あの後の大騒ぎ、教えてやろうと思ったんだ」

「何かあったのか?」

「一真が舟盛りひっくり返してよ、大変だったぜ」

「そう言えば、伝い歩きが出来るようになっていたな」

 その時の様子を想像してみた宏治が、小さな笑いを漏らす。

「大熊さんたちも、イイ具合に酔っ払っていたしな」

「そりゃ、大騒ぎに成ったんだろうな」


 それから、その数日前に倉真の両親と祝った『背負い餅』と言う行事の話しと、その時の写真も出して、話しの内容は、一真一色に成る。

「親父達が煩くてよ、一歳の誕生日には一升の餅を背負わせて、その子供が生涯食うに困らないように生きていけるように、祈願する慣わしなんだと。 一升の餅って、こんなにデカイんだ。 家は一真を入れても三人だろ? 実家に半分持って帰って貰っても、食い切れねぇじゃネーか?」

言いながら、倉真は手で二十五センチぐらいの輪を示し、三、四センチの厚みを指で示してみせる。 その時の餅は、勿論、倉真の実家、『和菓子 たてかわ』で、用意したと言う。

「で、あの後、利知未さんが料理して出したのか」

「おお。 皆、喜んで平らげてくれて助かった」

「縁起物だからな」

「そう言っていたな」

 一真のヤンチャ振りや、日常の大騒ぎを話していれば、話しの内容に事欠く事はなかった。 そんな話しが切っ掛けになり、宏治から、ツバメの親子の、その後の報告がされる。

「雛が孵ったんだ。 つい、一昨日くらいだ。 トイレ交換が大変になったよ」

「そう言や、店の出入り口の外が、賑やかになっていたな」

「ピーピー鳴いていただろう? 扉が閉まっていれば、中には聞こえてこないけどな」

今、店内には、昔から使われている有線放送から、静かな音楽が流れてきている。

「人間もツバメも、赤ん坊は、よく鳴くように出来ているモノなんだな」

と、宏治は親友の一人息子の話を聞きながら、妙に納得した顔で呟いた。

 今日も常連組の相手に忙しかった美由紀が、話しの切れ目に声を投げる。

「最近、宏治が私の話、身を入れて聞いてくれないのよ」

 こちらに向けられた美由紀の言葉に、宏治が小さく肩を竦めて見せる。 倉真は上半身を軽く捻るようにして、美由紀の方へ横顔を見せる。

「一真の話だって、いっぱいしたのにね」

軽く頬を膨らます様にして憎まれ口を叩く美由紀の様子に、倉真は少し面白さを感じた。

「俺の良く知っている美由紀さんは、いつからあんなお嬢ちゃんになっちまったんだ?」

 息子に対する愚痴の溢しようが、年端の行かない少女の様だと感じる。

「歳を取ると子供返りする、って言うよな」

宏治も自分の母親へ親しみを込めて、少々きつい言葉を返す。

「今更、反抗期か?」

昔から、母親思いで優しい性質を持っていた宏治の珍しい言い様に、倉真の両眉が、軽く上方へと引っ張り上げられた。

「反抗期って言うのは、親離れの時期に巡ってくるモノなんだろうな」

倉真の言葉に、宏治は少しおどけた返答をした。



 十時を回る頃、倉真はバッカスを後にした。店を出る前には空になってしまっていたFoxボトルを、ボーナスが出たばかりだからと言って、倉真が新しく入れ直して行った。




               4


 七月も半ばを過ぎて、バッカスに準一が顔を出した。 出入り口から響く鈴の音を聞いて声を掛けた宏治に、相変わらず気の抜けた笑い顔を見せる。

「チョイ、間が空いちゃったな。 元気?」

前回、準一が顔を出したのは、ツバメの巣が完成したばかりの頃、六月の初旬だった。

 そのツバメの雛達は最近も、親鳥が飛来する度、餌を口にする為の大合唱だ。 羽の色はまだ灰色で全体に薄い色ながらも、それらしい色合いへと近付いてきている。 身体もすくすくと育っており、巣の大きさが一回り、縮んでしまったように見える。


「お前も元気そうだな」

「風邪一つ引いてないよ。 三週間くらい、師匠にくっ付いて遠出していたんだ」

 準一の師匠であるカメラマンは、動物を被写体とした仕事も多い人物だった。 今回は、動物のモデル事務所に所属している被写体ではなく、野生動物を相手にした仕事があったのだと言う。

「それで中々、顔を出さなかったんだな。 お前が来ない間に、倉真が来たよ」

「倉真が? 久し振りだったな。 元気だった?」

「子育てが楽しいと言って、ニヤけていたぞ」

「倉真が、女とバイクの話題以外でニヤけてたって? 何か、ヘンな感じだな」

ヒャヒャヒャ、と、可笑しな声を上げて笑っている。 その準一の気楽な雰囲気は、今も昔も、全く変わるところが無い。

 宏治に何時も通りのウーロン茶割を出して貰い、受け取りながら、準一が言った。

「後で、樹絵が来るよ」

この一年の間に、樹絵と準一は時々、バッカスで待ち合わせをするように成っていた。

「明日は、樹絵ちゃんも休みって事だ」

「部屋、片付けるのが忙しかった。 旅先での思い出がばれたら、また喧嘩になっちゃうから」

「相変わらずだな」

宏治がボソリと打った相槌に、準一がヘラリと笑う。 ナンパ癖も相変わらずそうだ。

「そう言うことを下手に漏らすと、何処からか神のお告げが、彼女に(もたら)されるぞ」

宏治は軽く釘を刺してやった。


 ボックス席では常連組が、何時も通り楽しげに酒を飲んでいる。 『壁に耳有り、障子に目有り』だ。 おまけにバッカスのボックス席には、情報を漏らす『口』も付いている。

 案の定、耳がこちら側にも向いている美由紀が、カウンターの宏治へ、不適な笑みを浮かべて見せている。 それを受けた宏治が、やや気の毒そうな視線を準一へチラリと見せる。 その宏治の口元も、小さく笑みを作っている。

「ヤベ。 我らのお袋様が、威圧して来てるみたいだ」

宏治からのコンタクトを貰い、背後の気配に気付いて首を竦める。

「準一。 お袋とは呼ばせないわよ?」

飛んできた美由紀の声に、準一が振り向く。

「美由紀お代官様、どうぞ樹絵には、御内密に願いまする」

へへー、と、大仰に平伏す様な動作を見せた準一に、ボックス席から野次が飛ぶ。

「そうね、何時もよりも高価なボトルを入れてくれたら、考えて上げようかしら?」

冗談めかした美由紀の言葉に、宏治も軽く笑みを見せた。

「袖の下って事か。 それ位、これから後の修羅場を防ぐことを考えたら、安いんじゃないか?」

 準一は、昔馴染みの顔触れの中では、何時も弄られ役だ。 スナック経営者親子とのやり取りに、常連組からは笑い声が上がっている。

「って言うか、まだボトル、一杯じゃん? この前より増えてる?」

再びカウンター側へ体を向け直した準一が、ボトルと目の高さを合わせるように覗き込んで、上目遣いで宏治に問い掛けた。

「倉真が、『俺が空にしちまったから、新しく入れてくわ』って。 newボトル、入れてくれたのよ。 利知未もその前、久し振りに顔を出してくれていたから、言われて来ていたんでしょうね」

 美由紀が嬉しそうな笑顔になり、準一の問いへ答える。

「利知未さんも来てたのか! 久し振りに、一緒に飲みたかったな」

「仕事じゃ、仕方ないだろ?」

「そりゃ、そーだ」

話しが収まりかけた時、再び出入り口の鈴の音が響く。 新たな話題と一緒に、今は警官として働いている樹絵が、準一との約束通りに姿を現した。



「ジュン! ちょっと遅刻しちゃったよ、ゴメン!」

 ボックス席の美由紀から掛けられた、「いらっしゃい」の声にペコリと頭を下げ、挨拶を交わしてから、カウンターへ向かいながら、樹絵が準一に、片手で拝むような動作をする。

「いらっしゃいませ」 と、宏治もカウンターに立つ姿に、良く似合った笑顔を見せる。

「宏治も、久し振り!」

樹絵もニコリと元気な笑顔を返して、準一の隣席に腰掛ける。


 樹絵は、また少し大人っぽい外見へと変って来た。 少々、目じりが上がり気味で、黒目勝ちな目元をした、勝気そうな雰囲気の娘さん、と言う感じだろうか。 来年の一月に誕生日を迎えれば、二十五歳になる。

 今夜の樹絵は、Tシャツにパーカーを羽織った気楽な服装だ。 バッカスは、そんな格好でも浮く事の無い雰囲気の店作りをしている。 会社帰りのサラリーマンも、店内に入り席に落ち着けば、何気なくネクタイを緩める動作が自然と出てくる。


 樹絵を隣席に迎えた準一が、宏治からグラスと、ビールの小瓶を受け取った。

「樹絵は、初めは何時もコレだからね」

言いながら、恋人のグラスにビールを満たす。

「サンキュ」 礼を言って、樹絵がグラスを持ち上げる。 「乾杯」と、小声で言いながら、準一のグラスに軽く打ち合わせた。

「倉真がこの前、来ていたんだってさ」

準一に言われて、樹絵も少しだけ驚いた顔を見せる。

「随分、久し振りだったんだ」

「そうだな、一年近く顔出さなかったからな」

「一真が生まれたから、酒代が減っちゃったんだね、きっと」

樹絵は、宏治の「一年近く」の言葉に、直ぐにピンと来た。

「それとも、一人息子が可愛くて、仕事の後も直帰し続けていたってことかな?」

ちょっと面白そうな顔をする。 あの怖い顔が、グズグズに解けてしまった様な、利知未の出産直後に会った時の倉真の顔を、思い出してしまった。

「そうかもな。 この前は一真の写真を持参して来て、思う存分、披露して行ったよ」

宏治の報告を聞いて、樹絵が声を上げて笑う。

「昔の倉真からは、想像出来なかったよな、そう言うところ」

笑いながら言った樹絵の言葉に準一が頷いて、話が弾む。


 暫らく館川家の話題で盛り上がった後、樹絵が何かを思い出したようにパンッと手を叩く。直後、樹絵の口から驚きの報告がされた。

「由香子、こっちに戻ってくるって!」

「由香子ちゃんが? 遊びに来るんじゃないのか?」

「違う、違う! 直ぐの事じゃなくて、もう少し先の話しになるらしいけど、どうやら……」

そこまで言って、気持ちを落ち着けるために、グラスの底に残っていたビールを飲み干した。

「和尚と、真面目に結婚、考えているみたいなんだ」

 この告白に、仲間は目を見開いた。

「ってことは、結婚して、日本に戻って来るって、ことか?」

準一が話しを纏めて、推理した。

「そんな話しを、電話でしたんだよ、この前!」

「今日、樹絵が話したかったことって、それか」

 準一は、今日の約束をした時、樹絵が含み笑いをしながら言っていた言葉を思い出した。

「和尚って、和泉君のこと?」

ボックス席から、美由紀が話しに加わった。

「利知未達の仲間の、あの一番、真面目だった、頭に毛の無いヤツのことだな」

常連組みの席から、八百屋の佐々木が更に、話しに嘴を突っ込んだ。

「宏治と同い年だったわよね、当然の流れ、かしら」

 美由紀の言葉に、その言葉と共に投げられた息子への視線に、少しだけ何かの含みを感じて、宏治は小さく首を竦めた。

「話の流れが、おれに不利になってきそうだな」

宏治が小さく呟いた言葉に、準一が面白い玩具を見つけた子供の様な視線を向けた。

「オレが今年で二十七だから、宏治達は二十八歳になるんだな。 美由紀さんに期待されていても、当たり前の歳、ってことになるのか」

突っ込み処を得た準一は、その後の自分に降りかかる言葉を想像して見ることもせずに、思い付いた事を、ポン、と口にする。

「利知未と倉真は、丁度いい年齢で親になったのか」

準一の言葉を受けて、樹絵は、利知未達のことを考え始める。


 利知未は倉真の、一つ違いの姉さん女房だ。 二十七歳で結婚をし、二十八で子供を生んだ。 今年、二十九歳で、一歳児の母親だ。 樹絵は頭の中で計算しながら、由香子の事も考える。 この前の電話の話では、来年から再来年の初め頃までには、結婚と言う時期になりそうだと言っていた。 由香子は、樹絵たち双子の同級生だ。


「もう、そんな話しがあっても、不思議じゃない年に、なっちゃったんだな……」

 何と無く感慨深い様な、少しだけ複雑なような、不思議な感覚に囚われた。

「歳を重ねるごとに、時の流れが早くなる様な気分になるものよ」 と、美由紀が母親の顔になる。 バッカスで客の相手をしている時には、滅多に出さない表情だった。

「オレには、まだまだ考えられない事だな」

「彼女と結婚しようって気には、なっていないの?」

美由紀に言われて、準一は樹絵の顔を見る。 視線が合ってしまい、ヘラリと笑って見せた。

「ジュンは、まだまだ落ち着くって事を考えられない精神年齢の、持ち主だから」

ヘラリとしている準一を、右手の人差し指で指差しながら、樹絵が美由紀に言った。


 常連組のボックス席方向へ向いていた樹絵の頬は、少しだけ赤くなっていた。




               5


 準一と樹絵がバッカスで会った七月の中旬過ぎから、また更に時が経った。 八月を迎えて直ぐの週末、バッカスへ、また久し振りの顔が現れる。


 その頃、ツバメの子供達は、自分で餌を取る訓練を始めていた。 親鳥から餌を貰っていた雛の頃の様な賑やかさは無くなったが、代わりに最近は、親鳥と合わせて七羽のツバメ達が、バッカス出入り口前の軒下から、忙しなく羽ばたいては、近場を飛び回って戻って来ると言う光景が、繰り広げられている。 開店準備をしている時でも、飛び立ってはまた戻って来るツバメ達が、身体の直ぐ脇をヒラリと掠めていく。 宏治も何度かは、その影に驚いて首を竦めてしまった。

 バッカスへ飲みに来る客達も、宏治と同じ様な反応を見せては、「ビックリした、燕か!」 と言う言葉を、ポロリと溢す。



 その日、店に姿を現したのは、今から丁度、十年ほど前から時々やって来ては大金を落としていく上客、佐久間 哲だった。

 あの頃、哲は、宏治の兄・宏一のツテで知り合った利知未を気に入って、時折、利知未を目当てにバッカスへ顔を出すようになった。

 彼も今では三十六歳。 数年前から、嫌々ながら、父親の事業の一部を手伝い始めていた。


「お久し振りですね、佐久間さん」

 カウンターの中から、宏治が哲の前にコースターとお絞りを出しながら、声を掛ける。

「ああ。 少しこちらへ来る、ついでが出来た」

「ボトルはどうしますか? 新しく入れますか」

 宏治の言葉に暫し無言で考えて、タバコを取り出す。 一本取り出し火をつけ、一呼吸する間が空いた。

「……利知未は、まだ来る事が有るのか?」

「稀に」

「稀に、か……。 そうだな。 その(えにし)に期待をして、一本、入れておこう」

 利知未は哲にとって、今でも忘れられない女の一人だ。

「俺が来ていない時に、彼女所縁(ゆかり)の顔ぶれが集まったら、遠慮なくやってくれていい」

「ありがとうございます」

 営業スマイルを見せて宏治が、昔から必ず哲がオーダーする高級ブランデーを一本、棚の奥から出して来た。 ネームプレートを用意して、ペンを胸ポケットから出す。

『佐久間』と、記入した横へ日付を入れる。 新しく準備したボトルの栓を開け、チラリと哲に目配せをした。

「今夜は、ロックで頼む」

目配せの意味を直ぐに理解して、哲が微かに口元を緩めた。 宏治は小さく頷いて、手早くロックを作り、哲の前のコースター上へ、ロックグラスを据え置いた。

 哲はあの頃から、一人静かにグラスを傾ける客だった。 利知未が居ればそれなりに話もするが、そうでない時には時事ネタや、差し障りの無い話しをポツリ、ポツリと宏治と語るようにして、一時間ほどで席を立つ。


 グラスに口を付け、暫らくしてから哲が言う。

「早いものだな。 俺が始めて君達に会ってから、十年だ」

「そうですね」

話しを盛り上げようとする気遣いは無用だ。 哲が時折、呟くような言葉に、宏治は相槌を打つだけだ。 これも、昔と変わらない。 また暫らくしてから、哲が言う。

「店の外で、ツバメに驚かされたよ」

「横を掠めましたか?」

「ああ。 あと一、二週間もしたら、あのツバメもまた渡って行くんだろうな」

「彼岸の頃ですね。 それまで開店前の一仕事が、まだ続くんだな」

少しだけウンザリとした様に、宏治がぼやいた。


 哲には、子供が一人、出来ていた。 哲自身は、子供が欲しいと思った事もなかったが、妻・円が、「一人くらいは子供が欲しいから」と言って、産んだ子だ。 幼い頃から両親に構って貰った記憶の無い哲は、子育ての事は円に任せっ放しだった。

 我が娘ながら、どう接していいのか未だに分からないでいる。 その子供も、今年の春に、小学校へ上がったばかりだった。


 その夜、哲から本の少しだけ、現在の家族構成の話が出た。 哲の呟いた言葉にも、宏治は、また小さく首を竦めるだけだった。




               6


 ツバメの夫婦がバッカスへやって来てから、約三ヶ月。 出入り口前の軒下には、新しい家族が、すっかり出来上がっている。 そろそろ、渡りの時期が近付いていた。


 八月も半ばとなり、彼岸を向かえ、再び祖先を送り出した頃。 朝晩の気温が、急に冴え冴えとしてきた。

 秋が、もう其処までやって来ている。


 再び倉真が、利知未と共にバッカスへと顔を出したのは、そんな時期だった。

「今夜は、樹絵や準一とも会えるんだ」

 カウンター席へ二人で並んで腰掛け、利知未が嬉しそうな笑顔を見せた。

「今夜も、一真を預かって貰えたんですね」

宏治の言葉に、倉真が答える。

「今日は、俺の親父とお袋だ。 今頃、一真を玩具にして遊んでいるんじゃねーか?」

「一美さんが友達と旅行へ行ってしまったから、今夜は丁度、手が空いているからって」

「大喜びで一真を迎えに来ていたよな」

 倉真が両親の様子を呆れて眺めたのは、一時間ほど前の事だ。

「樹絵たちから、重大な報告が有るって言われたから、どうしようかと思ったんだけどね」

倉真と一緒に、舅・姑の一真に向けられた、とろける様な視線を、楽しい気分で目撃してきた利知未も、その光景を思い出して小さく笑う。

「重大な報告、か。 確かに、驚くだろうな」

 報告の内容を先月、一早く耳にしていた宏治が、カウンターの中でロックを準備している。

「お前は、もう聞いているのか?」

「ジュンたちが先月、来たからな」

「と言う事は、和尚の事か? アイツ、後一年は向こうで暮らすって言っていたって、言っていたよな」

「まぁ、その後の経過、とでも言っておくよ」

 樹絵と準一からは、口止めをされていた。 この話しは、自分達が二人にも伝えたいからと言って、あの日、二人は仲良く看板まで飲みながら、話をしていた。

「じゃ、後、少しの事だし。 のんびり待っていようか?」

「そうするか」

利知未の言葉に倉真が頷いて、それから三十分ほどの間、三人で話をしながらグラスを傾けた。


 八時を回る頃、バッカス出入り口扉の、鈴の音が響く。 その響き方を耳にして、来客が一人ではない事を、カウンター席で扉に背を向けて座っている利知未達も、知る事が出来た。

「あ、樹絵たちかな?」

利知未の言葉に、倉真が頷く。

「かもな」

 利知未は、自分が座っているカウンターチェアをクルリと回転させて、体の向きを変えた。

「利知未! 久し振りぃ!」

たった今、扉から姿を現したばかりの樹絵が、利知未の姿を見つけて、早足でカウンターへ向かう。 嬉しそうな笑顔と言葉に、利知未も釣られて大きく微笑んだ。

「一年振り、くらい?」

「それくらいになるね。 前、会ったのは、一真が生まれて直ぐだったから」

早速、久し振りの再開を喜び合う。 樹絵の後ろから、準一がのんびりとこちらへ向かって来た。 倉真と、軽い挨拶を交わす。

「久し振りだな、仕事は続いているのか?」

倉真に言われて、ニヤッと笑みを見せる。

「親戚のオジサンみたいな事、言うようになったな」

そう返した準一は、何と無く面白そうな顔付きだ。

 仲間内で一番のヤンチャ者だった倉真も、少しずつ歳を重ね、子の親となり、そしてこれから先、『オジサン』になって行くのだ。 その時の流れの中に自分達が居る事を実感した、と言う様な気分だ。

「うるせー。 お前は昔から、飽きっぽい性格をしていたからな。 仲間として、心配してやってんだろ。 何時もお前の近くで監視していた和泉のやつは、中々、こっちに戻って来ねーからな」

倉真の言葉に、準一は思い切りニヤリとしてしまう。 樹絵も倉真の言葉に反応して、準一と視線が合う。

「そのジュンの監視役、和尚について、すっごいビックリな報告があるんだ!」

弾んだ樹絵の声に、今度は利知未と倉真が、顔を見合わせる。 準一と樹絵は、利知未達の隣席に、漸く腰を落ち着けた。


 四人がカウンター席へ落ち着いてから、宏治が一本のブランデーを棚から出した。

「誰のキープボトルだ?」

何時ものFoxボトルとは違う瓶の形に、準一が気付いた。

「ツバメが巣をかけてからの三ヶ月間、久し振りの客が多かったんだ」

そう言いながら、ボトルの首に掛けられたネームプレートを、準一に見易い位置で止まる様に、宏治が指で弾く。

「佐久間?」

「忘れたのか?」

プレートを読み上げた準一の疑問符に、宏治が面白そうな顔をする。

 利知未の表情が微かに変わる。 その表情を見て、倉真も何かが引っかかる。

「……哲、来たの?」

利知未の声に、準一、倉真も思い当たった。

「哲? それ、誰?」

樹絵は始めて聞く名前で、一人だけ首を傾げている。 樹絵の質問には、宏治が完結に答えた。

「おれの兄貴の、仕事関係の人だよ」

「宏治の兄貴の、仕事関係の人が、ジュン達とどういう関係?」

何気なく、宏治が利知未と倉真をチラリと目に入れる。 それから哲についての補足説明を、樹絵にしてやった。

「一度だけ、仲間でツーリングへ行った時に一緒だった。 その後から何度か、店に来てくれていた人だ」

 あの頃の哲の事を思い出した準一が、話しを続けた。

「すっげー、女好きだったんだ。 ここに飲みに来るホステスの一人に、上手い事やって、手を出したりしてた」

 準一は、嫌っていたと言う程の事も無い。 それどころか、女の引っ掛け方を教わりたいと思ったこともある。 少しニヤ付いて言った準一の様子に、樹絵が軽く睨みを利かせる。

「それで? ナンパの仕方でも、教えて貰ったとか?」

「鋭いな。 そんな事を言っていたよな、あの頃」

倉真は樹絵の突っ込みに、軽く感心してしまう。 恋人の性質を、良く判っているらしい。

 それ程、気になる反応も見せなかった倉真の様子を見て、宏治は小さく笑みを漏らす。

『あの頃、倉真は佐久間さんの事、良く思ってはいなかったけどな……』 と、思う。

「今月の初めに、こっちに来るついでが出来たからって、顔を出してくれた。 ……利知未さんのことを聞いて、彼女所縁の仲間が集まったら、遠慮なくやってくれていいからと言って、ボトルを入れていった、と言う事です」

 最後の一言を利知未に向けて、再びチラリと倉真の表情を伺った。


 倉真は利知未を見ていた。 宏治の軽い視線に気付いて、何とも言えない表情となって、視点を動かす。

 利知未はチラリと倉真を見て、宏治に軽く目配せをしてから、知らない顔で自分のグラスに口をつけた。

 三人の微妙な様子に気付いて、樹絵が再び首を傾げる。


 空気を変えたのは、準一だった。

「それなら、遠慮なく貰っておこう。 宏治、水割りにしてよ?」

この場に流れる微妙な空気も、準一には全く関係のない事のようだ。

「了解」 と、短く答えて、宏治は準一分の水割りを、佐久間ボトルで作って出した。


 準一の手元にグラスが渡ってから、倉真が小さく肩を竦めて宏治に言った。

「折角だ、俺も貰っておくか。 ロックで」

 ロックで、と言った時の倉真の表情は、少し挑戦的だった。 横目でそれを目撃した利知未が、苦笑しながら宏治に言った。

「じゃ、あたしもロックで。 樹絵も飲んでみた方がいいよ、かなり高級なモノだから」

「そうなの? んじゃ、あたしも味見!」

 敢えて、微妙な空気を呼び戻す事もない。 樹絵もニコリと笑ってオーダーをした。



 佐久間ボトルが半分ほどに減った頃、樹絵と準一は今日、是非、利知未たちに伝えたいと思っていた報告をした。 二人からの報告を聞いて、利知未と倉真も驚いた。 それと同時に、心から喜んだ。


「じゃ、また此処で、皆が揃う日も、そう遠い未来じゃないんだね」

「そうだな」

 利知未の嬉しそうな声に、倉真も頷いて楽しそうな表情となる。

「あいつ等、何時の間にそう言う話しになっていたんだ?」

「あたしが話を聞いたのは、七月の初めくらいだった。 両親の事があるから、どっち道、和尚はその内、日本へ戻って来る予定だったみたいだよ。 で、由香子の両親は残念そうだったけど、相手が和尚ならって事で、二人の結婚に賛成してくれたんだって!」

「由香子の両親に気に入られての結婚なら、和尚達も幸せになれるね、きっと」

 利知未の言葉に、仲間たちが笑顔を見せる。

「あいつ、仕事はどうするつもりなんだろうな?」

倉真の言葉には、樹絵が答える。

「こっちで将来は、酪農関係の仕事をしたいとは、思っているみたいだよ」

「そうか。 ……アイツなら、どんな仕事も出来そうだけどな」

 自分が目標に向かっていく姿と、和尚が自分の将来の夢に向かって行く姿を、重ねて思い浮かべているのだろう。 倉真がイイ男の表情になる。

 利知未はそんな倉真の横顔を、暫し見つめてしまう。

「……なんか、二人の世界に入り込んじゃったみたいだよ?」

樹絵がその利知未達を見て、宏治と準一に言った。

「オレたち、邪魔者?」

「お前達も、二人の世界に入り込んだらどうだ?」

宏治は面白そうな表情で、準一に提案してやった。




                7


 九月が、目前に迫ってきた。

 バッカス前の軒下のツバメ達も、無事に南国へと渡って行った。


 開店準備をしながら、空っぽになったツバメの巣を仰ぎ見て、宏治は微かな笑顔を見せる。

『また来年、渡ってくるかな……?』

そう思いながら、駅北商店街の屋根群の影に切り取られた様な、青く澄んだ秋空を眺める。


 数年前に日本を旅立った仲間が、新しい家族を作って、またこの町へと戻って来る。

 利知未と倉真の近い未来の夢は、この町で整備工場を開く事。 その頃には一真も、もう少し大きくなって、もしかしたら、また家族が増えているかも知れない。

 あの二人の、仲の良い様子を見れば、その確立は高いと言えるだろう。


 宏治には、母・美由紀から、少々重い期待を掛けられ始めてしまった。 和泉と由香子の話を聞いて、その期待は最近、益々、膨らんでしまっている。



 それでも、宏治は思う。

 五月の下旬、バッカス軒下へ巣を掛けたツバメの夫婦の、お陰かも知れない。


 あの頃の仲間が、数年の月日を越えて再び、この町へと戻って来る未来は、毎年、春になれば渡って来る燕の齎す、恩恵なのかも知れないと。







 二〇〇八年 十月 二十日

       利知未シリーズ特別読み切り・初夏から初秋 バッカスの光景   了


 久し振りに、この仲間達の世界を文字にしてみました。 利知未達はまだ私の中で息づいておりまして、成長を続けている様な気がしております。


 このシリーズを気に入ってくださった何人かの読者様達に、喜んでいただければ嬉しいのですが……。

 では、また別のお話しでお会いできる事を楽しみにしております。 お付き合い、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 2回目を読み終わりました。いや〜、いい話ですね〜。しかし、大学編後半及び番外編全編での倉真の一途さを考えると、利知未の、マスターや哲との絡みがやや不愉快で、「おいおい・・・。」と感じました。…
[一言]  利知未シリーズの全てを一気に読ませて頂きました。大変素晴らしい小説だと思います。男前だった利知未が女らしく成長していく様がとても素敵でした。  シリーズの続きも楽しみにしております。個人…
[一言] 久しぶりです。♪このシリーズ大好きなので、書籍になればと思います。提案なんですがいくつかの章に分けて魔法のiランドや野いちごに開設してみてはどうでしょうか?このまま知られずにいくのは私すごく…
2008/11/03 16:04 かもしか♪
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