第四話:わたしのチートのはじまり
——走る。
「っ……はぁ……はぁ……」
走る。
「はぁ……はぁ……くっ」
私は走った。
とにかく、無我夢中で。
前だけを見てひたすらに。
決して後ろは振り向かない。
——振り向いてはいけない。
すぐ後ろにあの『怪物』がいるような気がするから。
いや、気がするではない。これはれっきとした事実なのだ。
息は絶え絶えで、体力の限界なんてとっくに越えている。足だってもうがくがくしていていつ崩れ落ちても不思議ではない。
だから相手がどれだけ遠くにいるのか(あるいは近くにいるのか)なんていうのは把握できなかった。
けれど、今もこうしてわたしを——、わたしだけを狙って追ってきていることに間違いなかった。
もしもここで足を止めてしまったらどうなるだろうか?
すぐに殺される? それとも……?
後方の怪物はその巨躯で大地に鈍い足音を落としながら、唸りとも笑いともとれるような、下卑た濁音を口から漏らしていた。
その様相に思わず鳥肌が立った。
あれに捕まったわたしがどうなってしまうかなど想像もしたくなかった。
ただ、陰惨な結末が待ち構えていることは疑いようもなかった。
帰る手がかりは今手元にはない。
あの魔導書があればなんとかなると思うんだけど、『奴』から逃げるのに夢中で置いてきてしまった。
まずは怪物を撒いて、そこから改めて本を探す必要があった。
——だから、わたしは走る。まずは生きるために。
「は、はぁっ……! もう……むりぃ……!」
限界を越えた先にある世界をさらに越えて頭の中は真っ白になっていた。
いつ足が止まってしまうのか、あるいは意識を失ってしまうのかわからなかった。
雪を踏みしめながら坂を登る。ふくらはぎの筋肉の繊維一本一本が悲鳴をあげ、今にも引き千切れてしまいそうだと主張している。わたしはそれを無視して駆け上がり続ける。
頭がぼうっとして耳もほとんど聞こえない。それでも追跡者の雪を掻き分ける音が脳内に大きく響き渡っていた。
気づけば坂もほとんど終わりであった。
そしてそんなわたしに僥倖が!
(目の前に開けた場所があるわ!)
もしかしたら元いた場所まで戻ってきたのかもしれない。
やった——
……。
…………。
………………。
——しかしどんなにがんばったとしても駄目なこともある。
わたしはとうとう足を止めた。
どんなにがんばったとしても駄目なこともある。
……そんなことわかっていのに。
わたしは自嘲気味にため息をついた。
坂を登った先には確かに広場があった。
しかし、それは坂の途中から見るよりもずっと小さなものであった。
しかもそこは行き止まり。わたしはもうどこにも行けない。
——そこは崖だった。
わたしは第二の人生でも終点に到達してしまったらしい。
(わたしって長生きできない運命にあるのね……)
涙が滲んできた。
思えば異世界での生活も悪くはなかった。
大変なことも多かったけれど、毎日が新鮮なことに満ちていた。
ちょっと窮屈で、自由もなくて、ネニーヌから毎日怒られて、お母様たちに勝手に結婚相手を決められそうになっていて……。
「あれ……?」
こう思い返すとあまり良い思い出がないわね。それになんだかだんだんと腹が立ってきた。
気がつくと涙はとっくに枯れていた。代わりにわたしは怒りでいっぱいだった。
なんかもうこうなったらあの怪物に一矢報いてから死んでやる。思い切り殴ってやってそれから自分で崖に飛び込むの。
あいつなんかにわたしを殺させやしないわ。
不思議とさっきまでの疲れが吹き飛んで、身体中に力が満ちていくのを感じる。今ならなんでもできそうな気がした。
そして、
『怪物』が坂を登り終え、わたしの立つ広場へとやってきた。
あいつはわたしを追い詰めたと思ったのか、ただでさえ醜いその相貌をさらに歪めて嗜虐的な気分に浸っているようであった。
口から漏れる笑い声ともに涎を垂らしていた。わたしは拳を強く握り締めた。
「あなた、笑ってられるのも今のうちよ。あなたにわたしを好きにさせなんてしない」
わたしは宣言する、があいつは理解していないようだった。変わらずいやらしい視線をわたしに向け続けている。
隆々というには不自然に発達しすぎた肉体。人間から理性を取り払ったかのような知性なき醜い顔。明らかに動物的で欲望と本能に塗れた姿にも関わらず、中途半端に『ヒト』を感じさせていて吐き気がした。
こいつは一体なんなのかしら?
わたしは考える。まあもうすぐ死ぬから意味なんてないんだけど。
「gff……」
怪物が口角を上げる。
お前にはもう逃げ場なんてない。覚悟しろ。そうわたしに語りかけているようだった。
そしてじわり、じわりと距離を詰めていく。
一方でわたしは俯いて一歩も動かない。
きっと恐怖で動けないと思っているのだろう。
そんなわたしの様子を見て怪物は満足そうにしていた。こいつはそうやって人間を嬲り、楽しんできたに違いない。
愚かね、そうわたしは思った。
この化物はわたしが覚悟を決めたなんて露ほども思っていないのね。
——腹を括った人間は強いのよ。
わたしはゆっくりと構えをとった。
これからお見舞いするのはかつて騎士団長から一本を取った一撃。あの時とは違って剣を持っていないが贅沢は言っていられない。
それにあの時よりもずっと力が漲っている。だから武器の有無なんて関係ない。
「gf……?」
怪物は構えをとったわたしを理解できていないようだった。奴は一瞬考える素振りを見せた後、わたしに汚い腕を伸ばしてきた。
——関係ない。
わたしは力を蓄える。そしてそれを一点に集中させる。
あいつの手がわたしに触れそうになった——。その時、準備が完了した。
わたしはそれを解き放つ。
「いっけええええええぇぇぇぇぇぇええええええ!!!!!!」
わたしは拳を思い切り振った。力の限り。自分の持てる全てを乗せて。
——刹那、空間が一瞬強い光で覆われた。
わたしが放った力の輝きであった。
あまりにも強烈な明るさで、自分の攻撃に目を眩ませられてしまった。
しばらくして徐々に視力が戻ってくる。
久しぶりに出したけど我ながらすごい技だったわ。
これならあの分厚い筋肉でも痛みくらいは与えられただろう。
なのでわたしの攻撃を食らった化物の苦しそうな顔を拝んでやろうとその姿に目を向けて——。
……。
…………。
………………。
「…………は?」
目の前には何もいなかった。
さっきまでいたはずの怪物は何処へ?
わたしは目を凝らす。
そして、見つけた。
そこには抉れた地面と、その両脇にあるわたしの一撃により掻き分けられた雪の山と——。
——消し飛ばされた怪物らしき断片があった。
こうしてわたしの寿命は延びることになった。