第三話:邂逅
さて、家出をすると言っても一体どうすれば良いのかしら?
ある日の昼下がり、珍しく予定が午前で終了したのでわたしはその日を休養に充てることにした。
自室の椅子に座りわたしは思案を巡らせていた。最初は恐れ多いと思っていたこの調度品たちにももうすっかり慣れてしまった。今ならテーブルの上に立つこともできそうだ。お行儀が悪いからしないけれど。
ティーカップを傾ける。すると芳しい香りとともに温かい液体が喉から体内へと滑り落ちた。じんわりと広がる熱が心地良い。
レースのあしらわれたカーテン越しに柔らかな太陽の光が入ってくる。じんわりと広がっていくこの暖かさはまさに春の光だった。力を抜いて深呼吸をするとだんだんと眠くなっていくのを感じた。
こうして穏やかな時間を過ごしていると、自分が家出を企てていることがまるで冗談のようなことに思えてくる。
けれど、これは現実だ。
十二歳の春、わたしは誕生日を目前にして婚約することが決まってしまった。相手が誰になるかはまだまだ先の話にしても、悠長に構えてはいられないはずだ。そのように考えていると、先ほどの眠気もどこかへと失せてしまった。
おそらくどんなに遅くても十六歳の式典まで。
このエーデルムント王国では一六歳が成人にあたる年齢だ。そのため、国民たちはその年齢を迎えると着飾って盛大にその日を祝う習慣となっている。
ましてや王女の身分ともなれば盛大も盛大だ。考えたくもない。
もはや許婚など関係なくお城を出たくなった。
わたしは改めて家出の計画に真剣に取り組もうと決意した。
「家出をするにしても、まずはお城を抜け出さないことには話にならないわね」
ティーカップの中身を揺らしながら独り言をこぼす。
わたしはまず最初にお城から抜け出す方法について考えることにした。
わたしが住んでいるのは大国のお城。その守りは厳重かつ牢堅で、中に忍び込むのも大変だが外へと抜け出すのも同じくらい難しそうであった。
長年のノウハウの蓄積によって、その巡回網は一分の隙もないほど綿密なものとなっている。それを誰の目に止まることもなく逃亡しようなど我が国最強と謳われる騎士団長殿でも難しいだろう。
うーん。
わたしは頭を抱えた。
何か良い手はないものかしら……。
一時間ほど経って、さすがに煮詰まってきたので気分転換をすることにした。
とは言っても、普段あれだけ忙しい日々を送っていると、予定がいきなり空いたところで「これをしよう!」などと思いつかなくなってしまう。わたしがまだ李子だった頃はそんな時に読書をして過ごしていたものだが、今となっては勉強のためのテキストくらいしか本を読んだ記憶がない。
……。
…………!
そうだ! 本を読んで見るというのはどうかしら!
このお城にも図書室があるらしいことを以前に耳にしたことがある。
これから借りれば今日中に一冊くらいは読めそうだ。元文学少女の血が騒ぐ。
善は急げ! ということでわたしは早速図書室へと向かうことにした。
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「うわぁ……」
図書室に来たわたしであったが、予想以上にすごかったので思わず感嘆の声を漏らしてしまった。
本当にすごい。
以前にお父様の視察について行った王立図書館ほどではなかったが、かなりの広さを有していた。そこは大きな円形のホールのような構造をしていて、中心に立って壁を見渡すと一面が本で埋め尽くされていることが見てとれた。
「こんなの人の家にあるような規模じゃないでしょ……」
またしてもわたしは誰もいない空間の中で一人ぼやいた。
書物を読んでみよう! と言っても特にこれといったあてもないので、適当に色々見て回ることにした。
それにしても本当に色々な本があるわね……。
いわゆるファンタジー小説に出てきそうな古びた装丁の薬草学の本があるかと思えば、城内のメイドたちが最近話題にしている発売されたばかりの恋愛小説もあった。さらに探してみると料理に兵法、哲学に武術と様々なものが見つかった。
もちろん魔導書もある。中でも特に目を引いたのは今まで見たこともない文字で書かれた魔導書であった。
この世界の言語は一部の地方を除いて基本的に共通であるらしい。なので見たことのない言語である、ということ自体がおかしなことだった。
その本を手にとってみる。だいぶ古いもののようで、表紙は擦り切れて読めなくなってしまっていた。
中身をぱらぱらとめくってみる。
日本語、英語、スペイン語、アラビア語などわたしがもともといた世界のどの言葉とも一致することはなかった。複雑な文字ではないが、かといって象形文字のように何かのものを象ったもののようにも見えなかった。
そして何より驚いたのは……。
「読めるわ……」
そう、なぜかわたしは初めて見たはずの文字を読むことができたのだ。発音までもわかる。どうしてかはわからない。けれど文字を一つ一つ目で追っていくと、頭の奥の方からじわりとその発音や意味が伝わってくる。
しかし同時にそれを別の言語に置き換えて誰かに説明することはできそうにないことも悟った。
「td……w……v……gx……」
気づけばわたしは開いていた頁に書いてある文章を誦読していた。
いつしかわたしの周囲には幾重もの魔法陣が展開されていた。それは魔導書に書かれた文字と同様に今まで見たことのないものであった。
けれどわたしは詠唱をやめない。
頭がぼうっとする。今ここで呪文を唱えているのは本当に現実なのかしら? 夢の中の出来事だと言われても迷わず信じられそうだった。視界に映る光景もわたしの現実を保っている意識も白い靄がかかっていて何が何なのかもわからない。
「tt……cvl……fzkc……lp……」
けれどわたしは詠唱をやめない。やめられなかった。
こんなにもふらふらなのに、呪文を唱えることをやめてはいけないという意識だけが強くあった。それだけがわたしの正気をぎりぎりのところで保っていた。
漏れ出た魔力の残滓がまるで蛍の光のように淡く舞っていた。部屋の中は燐光で満たされていた。
そして——
「lm……lr……trvf!!」
——ついに詠唱を終えた。
その刹那、それまでわたしを包んでいた淡い光を全て払い除けるように強大な煌めきが空間に響き渡って——
——わたしの意識はそこで途切れた。
徐々に身体の感覚が自分の元へと戻ってくるのを感じた。
わたしはいつの間にかうつ伏せになって眠ってしまったようだった。全く、わたしも気が緩んでいるのかしらね。
日々の退屈な厳しいお稽古に加えて家出方法の模索だもの、疲れてしまうのも当然。しかしそれに甘えてしまっていてはいつまで経っても解決の糸口は掴めないし、第一それを周りに気取られてしまう。
これからはより一層気を引き締めていくわ。そう思って頬を叩く。小気味良い音が部屋の中に響き渡る……はずであった。
わたしの頬から出た音は一切響くことなく虚しく霧散していった。
わたしは違和感に冷や汗をかいた。まだ目を瞑っているのでまだわからない。だけど半ば確信めいた予感があった。
恐る恐る目を開ける——
——目を開けると雪国であった。
けれど、夜の底が白くなることはなかった。その代わりにわたしの意識が白く霞んでいってしまいそうだった。
一面に広がる途方もない雪景色。高く屹立するいくつもの山々。時々響き渡る獣のような鳴き声や唸り声。
疑いようもなくわたしは知らない場所に飛ばされてしまったようだ。
それにしても……
「さ、寒い……」
吹雪が容赦なくわたしを襲う。対するわたしは春用の薄手のドレス。着るものなんて他には何もなかった。それどころかお城に帰る手段も何もなかった。
「どうしよう……」
図らずして計画よりだいぶ前倒しで家出に成功してしまったが、これではそれ以前に死んでしまう。いったん何としてでも帰らねば……。
さて、どうしたものかしらと思っていると——
「——っ!?」
突然現れた気配にわたしは身を引き締めた。
わたしの背後に何かいる。
荒々しい息遣いが聞こえる。
そこからは獰猛さしか感じ取れなかった。
『それ』は疑いようもなくわたしの真後ろにいた。
怖い。
だけどこのままでは得体の知れない『何か』に殺されてしまうのは間違いないだろう。
わたしは自分をなんとか励ましながら後ろを振り返って気配の正体を確かめた。
するとそこには——『怪物』がいた。