第一話:わたし、異世界に来ちゃいました
絶望の中で、もがきながらも必死に手を伸ばして掴み取ったものにこそ本懐が備わっている
——エミリ・ブラッドポンド『砂時計としての同盟』より
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——美少女がいる。
そう、美少女がいるのだ。目の前に。
すらりとした手足に、均整の取れた身体。肌はまるで剥きたての卵のようにすべすべとしていて、自分で触ってもうっとりしてしまうほどだ。
そのまましばらく眺め続ける。
身体にばかり見ていても仕方ないので、目線を上にあげる。するとまず肩甲骨のあたりまで伸ばされた髪が目に止まった。絹のように細く滑らかな白銀の髪は、窓から差し込む陽光を浴びてあたかも髪それ自体が光を放つように感じられた。
視線をさらに上へ。
そして、ついにその相貌が明らかとなった。
長い睫毛のぱっちりとした瞼の中には髪の色と同じ銀色の瞳があった。それはまるで星々の煌きを湛えているようで、見る者に吸い込まれるかのような感覚を与えるであろう。
頬は軽く赤みを帯びており、化粧などなくとも十分な愛らしさを自然に、かつ最大限魅力的に表現していた。
彼女の唇も同様に、化粧が必要ないほど完成されたものであった。その絶妙な色合いはまるで淡い葡萄酒を太陽に透かしたようであった。その艶のある口元を覗き込んだ誰もがその蠱惑性に引き付けられないわけにはいかなかった。
歳のせいかまだ全体的にあどけなさを感じさせるところがあるが、それゆえに可愛さと美しさの双方を兼ね備えた完璧な女の子の姿として顕現していた——
……。
…………。
………………。
……まあ、わたしのことなんですけど。
三大国のうちの一つであるエーデルハイム王国のお姫様で、絶世の美女と言っても過言ではない容姿、全てが希望と羨望に彩られた完璧な女の子、ミリア・エーデルムントの姿がここにあった。
「本当に前のわたしとは大違いだわ……」
わたしは姿見の前でそこに映る自分の姿を眺めながら大きなため息をついた。
本当に大違い。
以前のわたしはひどいクマを目の下に抱え、年不相応なほどに荒れた顔と油断するとすぐに崩れるパサついた髪で、アイロンをかけていないぐちゃぐちゃのブラウスに皺が深く刻み込まれたスーツを装備して死にそうな日々を送っていた。
——いや、
事実、死んだのだ。
だからわたしは生まれ変わってここにいる。
少し気分が悪くなり、テーブルの上に置かれた水差しでグラスに水を注いで一口飲んだ。よく冷えていて胸のすくような爽やかな味わいだった。水差しには果実のスライスと氷がたっぷりと入っていて、透明な液体に芳香と清々しさを与えていた。元の世界の果物に例えると、レモンに近い香りだ。
ゆっくりとグラスの水を一杯飲み終えると、多少気持ちを和らげることができた。
そして着替えるため寝巻きに手をかけながら、かつてのわたしのことを思い出した。
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わたし、藤田李子は今日もくたくたで帰宅した。
疲労のせいでぼうっとしたままで思考の纏まらない頭で壁に掛かった時計を見る。針は日を跨いでおよそ五十分ほど経っていることを示していた。
——最後に休んだのはいつだろうか?
わたしは冷蔵庫から缶チューハイを取り出しながら考えた。夜遅くに家のドアを開け、今度は冷蔵庫のドアを開けてお酒を取り出す。日々の繰り返しの中で自動化された動きだ。まるで水族館のペンギンが決まった時間に飼育員から餌を貰うかのような見事なルーチンだった。
缶の中に封じられた空気が漏れ出す音が部屋に響く。六畳のワンルーム。ちょっと高級感溢れる牢獄のようだった。わたしはチューハイを一気に流し込んだ。少し眩暈がした。
冷たい缶を握りしめながらわたしは水族館のペンギンのことを考える。
毎日同じ時間に餌を口に放りこまれ、次の食事までの時間を見世物になりながらあてもなく過ごす。彼らはそれで幸せなのだろうか? わたしは手についた水滴をブラウスで拭った。
時計の針を見る。いつのまにか二時を過ぎていた。
もう、寝ないと……。でないと明日の仕事に影響が、ってもう今日か。はは、と乾いた笑みが溢れる。もちろんこれっぽっちも楽しくなんてなかった。
わたしは空になった缶を握りつぶし、シャワーを浴びようと立ち上がった。その時——
一言で表せば、限界だった。
目の前がいきなり真っ白となり、平衡感覚を失い倒れた。けれど果たしてこれは本当に倒れたと言っていいのか。
今わたしは虹色の空間に浮かんでいる。そんな気がした。
そう思うくらい自分は世界を認知できなくなっていた。
それからどれだけ浮かんでいたのかはわからない。
でもそれは永遠ではなかった。幸か不幸か終わりがあった。
やがて、この世界と、ここではないどこか。それらがわたしの意識の中で少しずつ溶け合う感触がした。
そこからの記憶はない。
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——気がつけば白い靄の中にいた。
自分を取り巻く一切が霞んでいて、わたしがどこにいるのかも、そもそも何者であるのかもわからなかった。
だが、それも長くは続かなかった。
まるで永遠のように思われたぼやけた思考も、次第に晴れてその視界を取り戻していって——
そこは知らない場所だった。
わたしはそのどこか知らない空間のおよそ真ん中の部分で仰向けになって寝ていた。
背中に程よい固さと頬に滑らかな肌触りを感じた。悪くない。
周りを見回す。
すると自分が今いる場所が壁に囲まれていることがわかった。囲まれているとは、言っても壁と壁との間隔は大きく空けられていて全く息苦しさを感じることはなかった。
壁は暖かみのあるクリーム色をしていて、その壁の一つには大きな油絵が掛かっている。その壁の反対側には大きな窓があり、レースのカーテンを通して柔らかい太陽の光が差し込んでいた。
身体を動かしてもう一対の壁に目を向ける。それにしても動き辛いわね……。
なんとかして頭の向きを変えて様子を見ると、片側には暖炉、もう一方には両開きの扉があった。
そしてまずは一つの結論に達した。
——どうやら、わたしは今広い部屋にいるらしい。
するとここは一体どんな部屋なのだろうかという疑問が浮かんだ。
さらに部屋の様子をじっくりと観察してみる。
調度品は、大きなベッド、箪笥、姿見、そしてテーブルだけの簡素なものであった。かといって決してみすぼらしいものではない。むしろ一つ一つに手入れが行き届いていて埃の一つも見当たらない。そしてなりより、わたしの素人目でもそれぞれが相当に上等なものであることが見て取れた。壁にも明らかに高そうな風景画が掛かっているし。
——どうしてわたしはこんなに場違いな場所にいるのかしら?
わたしは額に手を当ててため息をついた。
……ついた。
……あれ?
先ほど身体の向きを変えた時のように違和感がわたしを苛む。
なぜかやたら手が小さい気がする。
わたしは慌てて自分の身体を見回した。
うん、明らかに小さい。なんなら腕も足も短いし。
これはもしや……。
わたしが焦りに汗を滲ませていると、部屋に誰かが入って来る音がした。
音の正体は迷いなくわたしの方へ歩いた。給仕服に身を包んだ女性だった。軽い足取りでわたしの元へとたどり着くと、なんのためらいもなくわたしを抱き上げた。
「ミリア様〜、まだお昼寝してないみたいですね〜?」
彼女はゆっくりとわたしを抱えた腕を揺すりながら優しい声で話しかけた。
え? ミリア? 誰それ? わたしの名前は李子よ……?
どれだけ疑問に思っても女性がわたしに向けて話しかけているのは間違いなかった。
彼女はわたしの焦りなどどこ吹く風で歌い出した。緩やかなメロディが彼女の優しく綺麗な声によって奏でられる。それはとても穏やかな歌であった。
わたしは女性のゆりかごに揺られ、彼女の心地良い歌声と落ち着く匂いに段々と瞼が下りていくのを感じた。そして徐々に意識が遠のいて——
あっ。
……嫌な予感が的中した。先ほどまでの眠気など遠くの果てまで消え失せてしまった。
女性がわたしを抱き上げてくれたおかげで姿見の覗き込むことができるようになったのだ。そして、そこに映り込んででいたのは、給仕服の女性と——
「ばぶぅぅぅぅぅぅぅうう!?(なんでぇぇぇぇぇぇぇええ!?)」
——赤ちゃんだった。
そして、間違いようもなくその赤ちゃんはわたしであった。
こうしてわたしの異世界生活が幕を開けた。
読んでいただきありがとうございます!
初めての異世界ファンタジーなのでうまく書いていけるか不安ですが全力でがんばりたいと思います!!
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