第一話「ドロドロネバネバ」①
「あのっ…植ぶちゅ…あっ…えーっと、植物由来潤滑液を1つください!」
本日一番最初のお客さんは僕と同じか、少し年下くらいの少年だった。緊張しているのか、それとも僕の店の商品を買うのが恥ずかしいのか顔が少し赤い。見たことがない顔だし、新規の方だろう。
「いらっしゃいませ。店に来るのは初めてだね?潤滑液の使い方はわかる?」
少年は顔を赤らめたまま軽く頷いた。おそらく友達から評判を聞いて来てくれたんだな。間違った使い方をするとあまり気持ちよくないし、一応簡単に説明をしておこう。
「液の粘り気が強いって感じたら水で軽く薄めて調整して塗ってね。あと、温めてから使うとより効果的だよ」
説明しながら商品が入ったビンを用意したが、少年は恥ずかしそうに俯いたままで目を合わせてくれない。
「1つで700コールです」
少年は素早くポケットに手を突っ込み勢いよく硬貨をカウンターの上に置いた。できるだけ早くこの店を出たい、そういう態度が伝わってくる。お小遣いを必死にかき集めたのか様々な種類の硬貨が混じっていて数えるのが少々大変だ…おや?
「きみ、50コール足りないよ」
「えっ!?」
そう言うと少年は慌てた様子で服のどこかに硬貨がないか探し始めたが、すべてのポケットを探し終えると小さくため息をついた。シュンとした表情になってカウンターに置いたお金を回収しよう手を伸ばしたが、僕は先に自分の元へと引き寄せた。
「大丈夫。初めてだし、今回はサービスしてあげるよ」
ハッと顔を上げてこちらを見つめてきた少年に、できるだけの笑顔でそう答えた。本当にいいんですか?って聞きたいような顔だったから、僕はそのまま頷いて商品を手渡した。
「ありがとうございます!」
笑顔になった少年はバンッと勢いよく店の扉を開けて出て行った。おそらく彼は今後もうちに来てくれるな。商品を気に入ってもらえる自信はあるし、なにより僕のことをいい人だと思ってくれたに違いない。店を立ち上げてから少しずつお客さんは増えているけれど、もっと多くの人に認知してもらわなければ売り上げを上げることはできない。50コールの値引きでうちの評判を広めてくれるお得意様ができるならば、安いものだろう。
「お買い上げありがとうございました」
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転生してから一か月、どうにか僕は新しい世界で暮らしている。
エロスとプシケーは当面の生活ができるように準備したと言って送り出してくれたが、二人が用意してくれたものは正直物足りなかった。三日分の食料と服が2着に、この国で使われていると思われる硬貨が数枚(後々分かったことだが硬貨の価値は全部合わせても日本円にしてわずか一万円程だった)。渡されたリュックにこれしか入っていないなんて不親切すぎじゃないか。
それに、転生といえば何か新しい能力やスキルをくれるのが定番にもかかわらず、あの二人はほとんど何もしてくれていないようだ。この世界の言語を最初から使えるようにしてくれたのはありがたいが、それ以外僕の身体に変化はなかった。見た目も日本にいた頃と変わっていない。
とりあえず目の前のお城にいけば何とかなるか。遠目に見ても立派な城と街並みがあるから、親切な人に食べ物を恵んでもらったり仕事を紹介してもらえたりできるだろう。そう考えて街へと向かった。
街を囲う城壁の入り口には二人の門番が立っていたが、旅人だというとすんなり通してくれた。どうやら戦争などはしていない平和な国らしい。そうでなければこんなにあっさりと入れなかっただろう。だが、それにしては門番がやけに暗い顔をしていたのが気になる。国の名前を聞いても「イーニナ王国だ」と無愛想に応えるだけだった。
手始めに街を散策してみるといろいろなことが分かった。
この国で使われている通貨はコール。相場はおおむね日本の円と変わらないようだ。石畳の道路に、石とレンガで作られた建物が並ぶ街は歴史の教科書で見たヨーロッパに近い。技術レベルは産業革命以前といったところだろうか。機械や電気の利用は見られず魔法のような未知の力もないようだが、金属やガラスは材料として扱われている。
もちろん地球と異なる部分もあった。それは生物だ。店にならぶ食材はバナナ、マンゴー、キノコといった馴染みのあるもの以外にもスライムや巨大なトカゲなど見たことがない物もあった。これらを僕の身体が受け付けるのかどうかはまだわからないが、おそらく転生の際にうまく調整してくれているだろう。
しばらく散策に夢中になっていたが、気づけば空はオレンジ色に染まっていた。しまった、そういえば宿を探していなかった。宿の場所を聞くために街を歩いていた兵士に話しかけてみたが、どうやらこの街にそういった施設はないらしい。その代わりこの街には空き家が多く、国がどこに誰が住んでいるかを管理しているわけでもないので、無人の家は勝手に使っていいそうだ。一人で暮らすとなると安全面も気がかりだったが、大通りや城の付近は昼夜を問わず彼らが巡回することで治安を守っていることも教えてくれた。ただ、ガラの悪い連中が住むスラム街のような場所もあるのでそこは極力近づかないように、とも忠告をしてくれた。
親切に答えてくれた割には城壁の兵士と同じく元気がないことを不思議に思いながら家を探すとすんなり見つかった。街の大通りから一本裏道に入ったところに2階建ての小さな家があり、幸運にもベッドやテーブルといった暮らしに必要なものが一通り揃っていた。
ベッドに寝転がりながら頭の中を今日のことを整理してみようか。ここは異世界といっても昔のヨーロッパに毛が生えた程度。言葉は通じるし、街の中は平和そのもので住む場所も見つかった。これなら僕でもなんとか暮らしていけそうだというのが正直な感想だ。これから始まる新しい生活に向け期待を膨らませ、この日は眠りについた。
だが、そんな僕の甘い考えはすぐに打ち砕かれることになる。