楽の音
町から離れた家でひとり生活をする、あるヒトがいた。
十数年も前にそれまで育てた母親を亡くした、それでもまだ若さの感じられる女だ。
彼女はヒトが苦手であった。
彼女が抱える他者との相違も、彼女にヒトを不得手とさせるに一役買った。そのため兄弟もなく母以外の縁者も知らぬ彼女は、幼き日に移り住んでから今まで、唯一人の血縁である母を亡くした後もその場所で暮らし続けていた。
彼女が普段のように慣れた路を歩いていると、風が微かな音を運んでくる。
ヒトは滅多に通らず、羽虫以外には幼い獣のみが時折姿を見せるだけのその路は、町の喧騒を不得手とする彼女に、心休まる一時を提供する場だった。
普段と異なるソレに彼女が足を止めたのも、無理からぬことだろう。
彼女に届けられた音は少し先にある町の喧騒でも、子を探す親の獣の声でも、羽虫の舞うさざめきでもなかった。
弱々しい、だがはっきりと澄んだ、弦の調べ。
幼い頃、母につれられて都へ出かけたときに一度だけ覚えのある、異国の楽の音だったのだ。
足を止め、音の源に耳を澄ませようとしても、もうきこえない。
名残を惜しむように立ち尽くしていたところで、再びきこえる確証はないのだ。
彼女は頭を振ると、歩を再開した。
* * *
町へでて必要なものを買い集めるとまたあの路を通って家へと至るのが平時の流れだが、今日は少し違った。
普段のように買い物を終えてから、不足していたものを思いだして店に向かっていたところで、誰かにぶつかってしまう。相手は音もなく走っていたようで、衝突するまで彼女は気がつかなかったのだ。
一方で相手の男も、背後を窺いながら走っていたために、彼女に気づくのが遅れたらしい。
かなりの勢いで正面から接触したため彼女は体勢を崩し、手に持っていた品袋を落としそうになる。
男は倒れてからすぐに立ち上がると彼女が怪我をしないように庇い、傾いていた品袋から中身が落ちないよう支えると、辺りを気にしながら短い謝罪を口にした。
「不注意で済まない。怪我は無いか?」
「ええ。わたしも気がつかなくてごめんなさい……」
彼女は男の支えから抜けてひとりで立とうとしたが、足の痛みでうまくいかない。それを見て男が何か言いかけたところで、彼女の耳が人を捜す荒い声を拾った。
男も同様だったのかもしれない。別の言葉を口にすると、すぐに走り出した。──彼女を連れて。
「──失礼」
なにが起きたのか、彼女はすぐに理解することができなかった。
荒い声が近付いてきて、足が大地を離れ、背と膝の裏には腕が、頬には風が当たっている。
そして荒い声が遠ざかっていく。
短い断りの後、彼女は抱え上げられたのだ。
それを理解して顔を上げても、彼女には男の顔を窺い見ることができない。男の顔に触れようと手を伸ばしかけ、半ばで当たったなにかと体に感じる揺れから思い留まった。
少し経つと息遣いが乱れて感じられ、頬と腕に感じる風が弱くなった。歩いているのか、一定間隔の揺れを感じることもできる。
とりあえず状況は落ち着いたのだろうと彼女が再び手を伸ばすと、揺れが急に止まった。
なにが起きたのか把握できず、かといって尋ねてもいいものかと彼女が迷っていると、自分の手に温かい手が重なり、触れていたものから引きはがされた。
「あの──……」
相手も何も言わず、周囲からヒトの声も聞こえないため、彼女は思い切って声を出す。
「あなたは、何方?」
すぐには返答がない。
「……──えっと、ごめんなさいね。わたしからも名乗っていなかったのに。
わたしはスーリャ」
相手の表情を読み取ることが彼女──スーリャにはできず、待ったところで返される言葉があるのかもわからない。
「あの……」
沈黙が長引けば気まずさが募るばかりだから、続けて言葉を紡いでしまう。
男は荒い声が完全に聞こえなくなっても、町が完全に見えなくなるまで足の動きを緩めなかった。町が見えなくなるとやっと歩調を緩めて頻りに周囲へ目をやってから、少しの間両の眼を細めると、頬に生じた冷たさに驚いて足を止めた。
両腕に感じる重みを認識すると、それまで忘れていた彼女の存在を思い出す。
「──……。」
とっさに抱え上げてここまで連れてきてしまったが、足を負傷している彼女を放っておくわけにもいかない。かといってこのまま連れていくわけにもいかない。とりあえず彼女が伸ばした手に自分の手を重ねて顔からはがす。所在なさげに曲げられていく指を視界にいれながら何か適当な言葉を探していると、彼女から言葉が発された。
名を尋ねる意味合いの言葉だったが、男には名乗るべき名が無い。
どう返すか思案していると、彼女が先に名乗った。それでもまだ彼には、結論を出すに充分な時間ではなかった。スーリャがみるみる困った顔になる。
「……おろしていただけません?」
この言葉に対して、男は迷う余地もなく反射的に反応する。
「済まない。」
だがやっと言葉を返してくれた男に、彼女は安堵の表情を浮かべた。
「──重いでしょう?」
男はその言葉を聞いていないのか、無視しているのか。どちらにしても、自分の言葉を続ける。
「──……貴女は怪我をしている。」
「そうね。
でも、歩けないほどではないわ」
スーリャは痛みを感じる足に手を伸ばそうとしたのだが、男に手首を掴まれて阻止されてしまう。
「放置すると悪化して歩行が困難になる恐れがある。」
「家に着いたら、自分で処置できるわ」
「……医療を学んだことがあるのか?」
「ないわ。独学よ」
彼女の言葉にそれ以上反応が返らない。なにか起こったのかと、少しだけ口をつぐんだ。風の運んでくる音は何も異常を伝えてこない。ただ、ここが彼女のよく知らない場所であるとは感じた。
「……──どうかされました?」
男はひとつ呆れのような息を吐くと、何かを払拭するように首を左右に振り、仕方がない。と言葉を絞り出した。
「……貴女の家まで送り届けよう。
場所を教えてくれ」
* * *
スーリャの家にたどり着いたのは、日暮れの近い時間だった。
普段通りの買い物なら、日が高くなってから出ても昼過ぎには帰り着く。今日はだいぶ時間がかかってしまったようだ。
「ここで間違いはないか」
「ええ。」
玄関の木戸に触れ、スーリャは頷く。
それを確認して、男は渋い顔をした。
スーリャはそれに気付かない。
鞄から鍵を取り出すが、抱えられたままでは錠にうまく差し込むことができなかった。
「鍵を開きにくいわ、おろしてちょうだい」
そこでやっと、男はスーリャを地に立たせる。
「家の方は」
「わたしだけよ」
建物の中にはいると、そこはすぐにテーブルとイスが並んだリビングだった。ひとつのイスの向きを変えてスーリャを半ば強引に座らせると、男は家の奥へ勝手に入っていく。ものの配置は把握しているとでもいうように。
風の流れで男が離れていったことを感じたスーリャは、とりあえず町で購入してきたものを棚におく。
イスに座らされ、この後は何をされるのだろう。
この程度の怪我は慣れている。数日安静にしていれば、元のように動けるようになる。少し歩くくらいは何ともない。
「……過保護すぎやしないかしら?」
つい口から言葉が洩れたとき、男が箱を手に戻ってきた。
きかれただろうか。
何をしてきたのかと問いかけようとしたら、暖かいものが足に触れる。
分厚い皮膚をした手だった。
「痛かったら言ってください」
鼻腔に刺さる粘性の薬を塗られ、布を巻かれる。
「処置は自分でできるわよ」
「私にも多少心得があります。怪我をさせたのも私だ」
「わたしが気付かなかったせいもあるわ」
足を締め付けないように布の端を固く縛って処置は完了。
スーリャは口でしか抵抗しなかった。
「……痛みはありませんか」
「ひいてきたけれど、これだと歩くのは無理そうね」
動かないようにしっかりと固定された足に触れ、感想を述べる。
スーリャに他意はなかった。杖を使って動くしかないか。と考えていただけだ。
「……」
だが男には嫌みのように受け取られてしまう。
責任を感じているから、何かできることはないかと頭を巡らせた結果。
「動けるようになるまで、世話をさせてもらいます」
スーリャは歩けないと言ったが、動けないとは言っていない。
「わたし、動けるわよ?」
なんやかんやと男に押し切られ、結局は受け入れてしまった。
「──そのかわり、名前を教えてちょうだい」
「私には、名乗るべき名はありません」
「なんと呼んでいいのか分からないと、不便でしょう?」
男は肩に掛かっているベルトに手を添え、しばし考える。
「……では、ラジ、と」
スーリャは久方ぶりに誰かの作った食事をとり、何もさせてもらえずに眠りにつく。
深い眠りから醒めると、家の外から弦の調べがきこえた。
鳥たちのさえずりと相まって、心地よい目覚めを助けてくれる。
この音は、昨日きいたものと同じ。
異国の楽の音だ。
家の中には人の気配がない。
あのラジと名乗る男が爪弾いているのだろうか。
弦を近くでききたいと、玄関の裏に位置する寝室の戸を開ける。
わずかに軋んだその音を終止符とするように、音は止んだ。
また再開しないかと耳を澄ませても、きこえてくるのは楽の音ではない。
「足の調子はどうですか」
ラジが問う。
「痛みはないわ」
「そうですか。よかった」
「あの音は、貴方が?」
ラジは応えない。
「朝食の用意をしますね」
そう言うと玄関の方へ足音が離れていった。
何もすることがないので、スーリャもリビングへ向かった。
隣接するキッチンから、薪のはぜる音が聞こえる。
「来たんですか、お姫さん。
部屋で待っててよかったのに。」
「わたしは姫ではないわ。
何もしないで待っていることに、慣れていないの」
とは言うものの、何もすることはない。
火のそばに近づくのも危ないし、動かないよう固定されている足で何かやらかして余計な手間をかけさせることも避けたかった。
大人しく待っていると、すぐにラジが食事をテーブルへ持ってくる。
「できましたよ」
置かれた皿は、スーリャの前に2つ。
「貴方の分はないの?」
「必要ありません」
「食べないの?」
ラジは頷いた。
「事情があって。」
その事情が何かとは、スーリャはきかなかった。
* * *
「どうして、会ったばかりのわたしに、ここまでするの?」
豪勢ではないが美味な夕食を前にしてスーリャがきくと、ラジは怪我を負わせた償いだ。と言った。
本当はスーリャが幼い頃に知り合っていることを、ラジから言うつもりはない。
スーリャの就寝を確認して玄関をでると、寝室に近い外壁に背を預けて楽を奏ではじめる。翌朝になって彼女が目覚めるまで、ラジは寝ずに調べを紡ぐのだ。起こさないように、繊細に、慎重に。
睡眠が必要のない体になったのは、いつのことか。
何年も前、幼いスーリャが都できいた楽の音も、奏でていたのは彼だった。少なくともそのときにはもう、いまの常ならざる体になっていた。
それから数日の間、彼女は楽の調べで目を覚まし、ラジにしつこいほど世話を焼かれた。
「だいぶ治ってきましたね」
朝食の後、新しいものに換えるために布を取ると、もう腫れは見えなかったし、スーリャにも痛みは感じなかった。
「今日は出かけてきます」
新しい布を少しゆるめに巻き付けながら、ラジは言った。
「帰ってくるの?」
「貴女の怪我が治るまでは。」
スーリャは初めこそ不服だったが、今では当然のようにラジのいる生活に慣れている。
「もうほとんど治っているわ」
「完治するまでは、無茶をされないように見ていたいので。」
「わたしが腕白みたいね。」
「小さい頃は、そうだったでしょう?」
そのとおりだったが、スーリャはまだ身の上話をしたことがない。
「知っているの?」
どこで知ったのかときこうとした。
「推測しただけです。当たっていたようですね」
ラジのそれははぐらかしているだけのようにもきこえたが、追及はやめた。
「からかわないでちょうだい」
すぐにラジは出かけた。
あまり家から出ないようにと言い残して。
何もありっこないのにと、スーリャは笑うことができなかった。
ラジがあまりにも真剣で、洗濯物を干そうと家を出たところで、現に何者かに捕らえられているから。
「何方ですか」
誰何に返答はなく。
明らかにラジでもない。
一方のラジも、外出早々何者かに襲いかかられていた。
「手間が省けた」
「互いにな」
今日出かける用事というのが、この者たちと話を付けるためであった。あるいは強硬手段も厭わずに。
背後から、ラジのほぼ唯一の所持品である背の荷に手をかけるものがあった。指先が荷を掠めるよりも早く、ラジが拾った枝でその手は打ち落とされる。
それを皮切りとし、彼には刃がいくつも向けられた。
肩にかけているのは、毎朝スーリャのために奏でている楽。これの音には傷を癒す不可思議な力があった。
ラジはこの楽の音を最大限に生かすことのできる奏者でもあり、これなしでは長く生きることの難しい体でもあった。だから肌身はなさず持ち歩いているが、不可思議な力というのは欲しがるものが必ずいる。
それがこの、今ラジを襲っている者たちでもある。
ラジは武器を持ち歩かない。
だから初めは拾った枝や石で、途中からは誰ぞかの取り落とした刃物でもって迎え打っていた。
武術の心得も多少あるが、小さくない楽を背負い、多人数を相手にするのはやはり分が悪い。
半ばで、楽を背負うのをやめた。
巨木の根に隠れるように置き、手を出すものはすぐに意識を刈った。
多くを返り討ちにした頃、彼の前にスーリャが引き出された。
はじめに襲いかかられた場所からは、だいぶ離れているように感じる。
どれだけの時間が過ぎただろう。
まだ日は高い。
スーリャを拘束していた者は、すぐに動けなくなった。
彼女に逃げるよう言ったはいいものの、盲目の彼女が、あまり勝手を知らないであろうこの場所から、無事に逃げられただろうか。
そんな他所事を考えているから、こうなるのだ。
ラジの喉に、刃が突き立てられた。
奇跡的に、そこからの出血は少ない。
だが、空気が漏れている。
返す刃で最後の一人を沈めると、喉の刃をそのままにして、ラジは急いだ。
楽を回収するために。
記憶の最後と一致する場所に、それはきちんとあった。
安堵で意識が途切れそうになるのを耐え、力の入らない腕と体全体で楽を支えると、繊細な調べを奏で始める。
音は光となり、光は傷を癒していく。
少しずつ腕に力が戻っていき、出血も治まる。
喉の刃を抜くと、たちまち傷は消え去った。
それでも失った血までは戻らない。
背中に、柔らかく当たるものがあった。
それが何か、ラジは確かめない。
調べを止めない。
温もりと鼓動を感じ、腕を動かし続ける。
やがて、楽には小さなヒビが入った。
卵から雛が孵るようにそれは広がり、表面が欠片となり、落下する半ばで光に換わる。
長い時間を共にしてきて、限界が訪れたのだ。
それでも楽の音が滞ることはない。
* * *
逃げろと強く言われ、がむしゃらに走った。
根に躓き、草に足を取られ、岩にぶつかりさえした。
そうして、足を止めた。
まだ陽の温もりは冷めていない。
耳に入る沢の音、風の音、鳥の声。そして楽の音。
間違えようがあろうか。
これは、毎朝目覚めを助けているあの音とおなじもの。
スーリャは、楽の音に向けて歩いた。
その音は誘蛾灯のようにスーリャを惹き寄せた。
すぐそこに、音が。奏者がいる。
そう思って手をのばしたら、何かに躓いて転んだ。
それでも手をのばしたら、背中に触れた。
そこにあることを確かめるために、すがりついた。
調べは止まらない。
この背中はラジのものだと、そう思った。
やがて繊細な音に紛れてガラスの割れるような音がした。
小さく、断続的に。
気のせいかもしれないけれど、この背中から伝わる命の気配も、少しずつ弱まっているように感じる。
静かに、ずっと、きいていたいけれど、消えてしまう前に、ききたいこともあった。
「どうして、あのとき、姫と呼んだの?」
スーリャの母は、豪族の出だった。好いた相手と添うために家から逃げたのだときかされた。結局相手は死に、子供だけが残ったのだと。
だから姫と呼ばれることは、血筋的にはおかしくない。それを知っているのなら。
でも、この人には言っていないはず。
ラジは何も言わない。
言えないことを、スーリャは知らない。気付かない。
だが応えるように、ラジの指は楽の弦を弾く。
この音は、幼き日にきいたソレとおなじ。
見知らぬ地で弦に聴き惚れていたわたしに、奏でていたヒトは自分を楽師だと言った。旅をしているのだと。
いつの間にか母の姿がなく、見つけてもらえるまで隣で調べをきかせてもらった。そのときに、わたしも何か、自分のことを語ったのかもしれない。
永い調べが止み、スーリャを引き剥がすと、ラジは立ち上がり、歩いていった。
その痕には、ぬるい液溜まりが残っている。
その楽師は父に似ていたのだと、珍しく母が父を話題に出したことを覚えている。名も、母からきいた。
そのはずだ。
そう、確か、名は……「ザレ……──ナザレ」
思い出した時には、もう遅く。
幻だったかのように、どこにも残滓はなかった。
手をのばしても空を掴むだけ。
そこに広がる液溜まりだけが、そこに何かがあったのだと証明している。
「ナザレ……」
親の片割れを、彼女はよく知らない。母はそれを彼女に教えなかったし、彼女もそれを尋ねなかった。
ネタバレと補足。
楽:特殊な楽器(竪琴)
スーリャ:サティ・アン・スーリヤ:盲目。
ラジ:旅の楽師。楽の音で癒し続けないと持たない体になった。スーリャの母とは知り合い。
ナザレ:スーリャの父の名。ラジは彼の家で使用人をしていた。
手の向くまま気の向くまま書いていたらいつの間にか楽器に能力がついていました。