第6話 先生と弟子
翌日、朝食の準備を終えて皆で食べ始めようというときに、ナタリアが屋敷に近づいてくる数騎の馬を見つけて報告してくれた。
「前に出ている一騎が、槍に小さな白い旗を縛り付けています。攻撃の意志はないものと思われますが……」
ナタリアから遠眼鏡を貸してもらって、二階の窓から屋敷の西門を見る。そのうちの一騎のたたずまいに、私は見覚えがあった。
――アーネスト様が、私に鳥撃ちを見せてくれたことがある。そのとき、彼が乗っていた馬と同じ。黒芦毛の艶やかな馬が、他の三人の騎兵に守られている。
「アーネスト様……昨日の今日だと言うのに」
「っ……お嬢様、彼にお会いになるのですか? 事前に連絡もせず、正門以外から入ろうとするのは、あまりに礼を逸しています」
「でも、追い返すわけにもいかないわ。きっと良くないことだろうけど、話は聞きましょう」
ナタリアは納得がいかない様子だったけれど、私が彼の言うことなら何でも聞くと思ってこんなことをしているのなら、それは大きな勘違いをしている。
昨日の私とは違う。アーネスト様の言葉に傷つくこともなく、ただ彼を見返すその時のために、話を聞いてあげるという気持ちで対面することにした。
◆◇◆
ロディとナタリア、ジェレミーが屋敷の西門を開け、騎兵を中に入れる。
なぜか、追従してきた騎士は屋敷に入ろうとせず、アーネスト様だけがやってくる。彼は応接室に通されると、兜をジェレミーに預ける――ジェレミーは表情が強張っている。けれどナタリアに制されて、憤りを表には出さずにいてくれた。
(今は我慢して……ここで怒っても、何にもならない。私のことを今でも従順なのだと思っていればいい。その方が、きっと気を緩めるはずだから)
昨日まで、麗しい容姿に見えた彼の姿が、今は色褪せて見えるようだった。私の心から、かつての婚約者への愛着が、全く消えてなくなっていると確かめる。
「……いつもなら、お茶の準備をして迎えてくれたと思うのだが?」
(何を……言ってるの? この人は……)
悪い意味で、言っていることの意味がわからなかった。胸に怒りの炎が燃えるどころか、どこまでも冷めたままで、感情は平坦だった。
「今は、朝食の前でしたから。アーネスト様、お急ぎのご要件ではないのですか?」
「……婚約を破棄したことを、根に持っているのか? 君らしくもない」
「っ……!」
怒っているのはナタリア、そしてジェレミーだった。
(そんなに殺気を出さないで、怒っても仕方がないから)
目配せをしたらアーネスト様もさすがに気づいてしまうので、胸の中で念じる。私が落ち着いていることは、二人に分かっておいてもらわなければ。
「まあ、いいだろう。話をする前に、この従者たちには、席を外してもらいたい」
「……心配をなさらなくても、彼らはこのことを口外したりはしません」
「内容が内容なのだ。リィエル、君にとっても悪い話ではない」
言うことを聞け、と無言の圧力をかけてくる。そこまでして二人で話さなければならないことが、良い内容であるわけがなかった。
(……どれだけ貴方を嫌いになれば済むの? 私が貴方に、何をしたっていうの?)
そう思わずにいられない。もっと冷静でいられると思ったのに、直接顔を見てしまうと、抑えるのがやっとなくらいだった。
もう二度と来ないで、と言ったらどうなっていたか。侯爵家の力で家をつぶされてしまうわけにはいかない。今はまだ、耐えなければ。
私はナタリアとジェレミーに退出をお願いした。応接室の外に居てくれる気配に安心しながら、私は向かい側に座ったアーネスト様が、話を切り出すのを待つ。
「……近く、姫剣舞祭が始まる。君にも知らせはじきに届くが、第一試合で、私の婚約者と君が剣を交えることになっている」
「ユリアナと……私が……」
クリサディアとクローデットの家格は同じ。16の伯爵家の中で二つが当たるのだから、ユリアナと試合をすることになってもおかしくない。
どうして、もう試合の組み合わせを知っているのか――それは、侯爵家の方が早く情報が伝わるからだ。アーネスト様の妹君も、姫騎士として試合に出ることになっている。
「そこで……君は、ユリアナに敗けてもらいたい。もちろん、そうと知れないようにだ」
「っ……私に……わざと負けろと言うのですか……!?」
声を出さずにはいられなかった。アーネスト様の前で、大きな声を出したことは一度もなかったのに。
最も考えたくない、最も聞きたくない言葉を、彼の口から聞かされてしまった。
婚約を破棄するだけで飽き足らず、私が目指したものを、私自身の手で捨てさせようとするなんて。
もう、同じ人間と話をしているのだと思えなかった。アーネスト様はそんな私の反応を、さも意外そうに見ているのだから。
「なぜ、そこまで姫剣舞祭にこだわる? 母君のシャーロット様に憧れているのか。君に剣の才能はない、そう母君にも見限られたのではなかったか?」
「……私は、私の意志で……姫騎士として戦うために、修練をしてきました」
お母様は見限ったなどと言ってはいない。戦うことを勧めなかっただけ。
それを訂正しても意味はない。今のアーネスト様は、完全にユリアナの側にいる――私がどうなろうと、何を考えていようと、彼は興味がない。
「ユリアナは伯爵家の姫騎士の中では、剣の才に秀でているほうだ。仮に普通に試合をしても、彼女には勝てないだろう。どうせ負けるよりは、賞金の半分を約束されて、父君を助けるほうがよほど有意義だ」
一言ずつが、私の中に残っていた彼の人の姿を、ぼろぼろに切り裂いていく。
私は勝てないと決めつけていながら、賞金の半分をあげるから、自分から負けろという。
「それは……ユリアナが……」
「彼女が言ったことではない。今回の行動は、私の独断だ」
嘘をつかないで、と言っても、彼は表情一つ変えず、本当のことを言っているだけだと答えるだけ。
幼い頃、私はユリアナに母への憧れを語ったことがあった。その時の彼女の答えは、『シャーロット様には娘のあなたでも追いつけるはずがないわ』というものだった。
これまで一度でも、彼女が私の友達だったことはなかった。
それに気が付かず、私は今の今まで、努力をすればそれが実るのだと、世界には誠実で優しい人たちが多いのだと、盲目に信じていた。
「……婚約者のご心配を、なさらなくても……私の剣の実力は、ご存知でしょう。賞金も、ご結婚された後のことを考えれば、私などに支払わずとも良いと思います」
怒りを過ぎると、頭の中のどこかに冷静な自分が生まれて、そんな答えを返すことができた。
昨日まではユリアナのことを思い出すと震えていた手も、もう震えることはない。
――笑わなければ。今はまだ、私が変わったことを知られてはいけない。
無力で、何もできなくて、負けると決まっている人間を演じなくてはいけない。
「……そうか。こちらとしては、良い提案だと思ったが……君がそこまで言うなら、今の話は初めから無かったことにしてもらいたい」
アーネスト様が席を立つ。彼は本当に、それを話すためだけにここに来たのだ。
なぜ侯爵家嫡男のアーネスト様が、ユリアナの言いなりになっているのか。なぜリスクを払ってまで、不正を行っているのか……。
かすかにあった疑問が、確信へと変わり始める。
ユリアナは確実に勝つために、アーネスト様を利用しようとした。
彼女が私に持っている悪意は、想像もしていないほど強いものだった。私はもっと、人の悪意に敏感にならなくてはいけなかった。
◆◇◆
アーネスト様が屋敷を出たあと、私はようやく気持ちを落ち着けて、応接室から出ようとする。
「……よく耐えたね。済まない、彼を消し炭にしてやると言ったのに」
「っ……フェイさん。もしかして、ずっと話を……?」
転移ができる彼なら、アーネスト様に気取られず、この部屋に入ってこられる。
フェイさんは頷き、窓から差し込む朝の光を背にしながら、こちらに歩いてきた。
「今の会話だけでも、証拠にはなりうる。オレの魔法があれば、オレが見て聞いたものを、幻影として映し出すことができるからね」
「……そんな、魔法が……やっぱりあなたは、自分の意志で転移しているのね……」
「そうだ。オレの魔法の知識……その他の知識。全て、君への恩義に報いるために使っていい」
彼の力があれば、転移が自由にできる――けれどそれは、彼の知識の一部にすぎないのだと感じる。
全身がぞくぞくとする。私は、とんでもない人を助けてしまったのかもしれない――そして。
彼の力があれば、逆転できる。これから、どれだけ卑怯な手を使われたとしても。
「今の話を聞いて分かったよ。君にとって大切なもの……姫剣舞祭。その舞台こそが、絶好の機会だ。彼らを見返すためのね」
「……負けてしまったら、本当に何もかも失ってしまう。私は……」
「半分でも賞金を受け取っておけばなんて、そんなことは考えちゃいけない。君にまで不正をさせて、彼らが笑うところを見たいのか?」
でも絶対に勝てる保証なんてない。ユリアナが強いことは、私もよく知っている。
「……まだ会ったばかりのオレを、十割信頼しろというのは難しいだろう。それなら、これから安心させてやる。君が戦う時、オレも同じように戦っているんだと思ってくれ」
彼が、どうしてそこまで言ってくれるのか。まだ会ったばかりの私に。
それは……彼にご飯を食べさせてあげたから。それだけで、私を特別に思ってくれているなんて、考えてはいけない。
古代の魔法を知っているフェイさんが、力を貸してくれる。彼ができる限りのことをすると言ってくれたのだから、私も自分が勝つことを信じる。
「……あっ」
きゅるる、と音がする。朝食を食べないで話をしていたから、ちょっと情けないことになってしまった。
「食欲があるっていうのは、とても前向きなことだよ。前向きなうちは、人間は上手くいくようにできている。リィエル、君がオレに教えてくれたんだ」
「そ、そんなこと……私は、そこまで考えてませんでしたよ?」
「オレはそう解釈したんだ。さあ、皆が待っている。食事をした後は、早速姫剣舞祭に向けて準備を始めよう。君の魔法の適性を見せてほしい」
魔法の適性――ということは。彼が、魔法を教えてくれるということだ。
ずっと見つからなかった、魔法の先生。お母様に褒めてもらえた魔法を、姫騎士としての戦いで使うことができるようになるかもしれない。
「あの、フェイさん。一つ、お願いをしてもいいでしょうか」
「お願い? やっぱり、こういう時は抱きしめたりしたほうが良かったかな」
「ふふっ……ロディに怒られますよ? そういう冗談を言うと」
フェイさんの冗談で、私は久しぶりに笑うことができた。でも彼はどこか、残念そうにしているようにも見える――私はきっと、それくらいのショック療法でないと浮上しそうにないくらい落ち込んで見えたんだと思う。
「フェイさんのこと、これから『先生』って呼んでもいいですか?」
「あ、ああ……悪くない響きだね。リィエル、今日から君はオレの教え子だ。頑張って指導についてくるように」
「はい、先生」
返事をすると、なぜかフェイさんは――先生は、照れているみたいだった。
アーネスト様との話で重くなっていた心が、いつの間にか軽くなっている。
先生がいなかったら、私は立ち直れていただろうか。そう思うと、私の方こそ、彼に大きな恩ができてしまっている。
「しかし、あの男も見る目がないな。君の料理を毎日食べられる喜びを、自分から手放すなんて」
「それより先生、髪は切らないんですか? 男性にしては長いですけど」
「ああ、気がついたら伸びてたからな。すまないが、できれば切ってもらえるとありがたい」
「任せておいてください、ロディの髪をよく切っているので、慣れてますから」
先生の髪を切る弟子――そういうのも、無くはないと思う。
私はフェイ先生の髪をどう整えるかを考えながら、食堂で待ちくたびれていたみんなに改めて挨拶をして席についた。