第5話 決意表明を求められました
ロディたちがお風呂に入っているうちに、私は片付けを済ませて、フェイさんのローブを洗っておいた。
「お嬢様のお手をお借りすると、本当にすぐ家事が終わってしまいますね……」
お皿を水につけて、水精霊に働きかけて浄化をしてから、再び軽く水で流す。すると、ひとつひとつ時間をかけて洗う必要がなくなる。
一般的には洗剤は森で取れるムクロジの実を粉にしたものを使うけれど、このあたりでは貴重品なので、使う量を減らせるに越したことはない。
「そのローブも、本来はこんな色をしていたのですね」
「ええ、白いローブだったのね。装飾に使ってある金属は、いちおう磨いておいたけど……あとはフェイさんに仕上がりを見てもらわないと」
◆◇◆
私はひと仕事終えたので、屋敷の外にある湯殿に向かった。
シルヴァーヌ村の北には、今は休眠しているけれど火山があって、地下水が地熱で温められて何箇所か温泉が湧いている。
そのうち一つが、うちの屋敷の敷地近くにある。お祖父様は、それを敷地内に引いてきて立派な湯殿を作った。昔は働いている人が多かったので、男湯と女湯に分かれている。
ナタリアと一緒に中庭を歩いて湯殿に向かう。まだ裕福だった頃に建てられたので、天井が高く作られており、そこだけ見るなら他の伯爵家よりも見栄えのする施設だった。
「お嬢様、入浴のお時間はずらされた方が……とも思いますが、これ以上待つと遅くなってしまいますね」
「ええ。それにロディはあの調子だから、もしけんかをしたら困るでしょう」
「フェイさんと……ですか。彼は突拍子もない発言をするので、油断ができないところがございますね」
あの『女神発言』をナタリアも引きずっていた。それからどうも、フェイさんのことを警戒しているらしい。
「お嬢様をあのような甘言で懐柔しようだなんて……男性は油断がなりません。あの少年のように無邪気な笑顔にも、何か裏があるのかも……」
「ナ、ナタリア。それは考えすぎよ。そんなことを言ったら、ジェレミーだって裏があるのかと思ってしまうじゃない」
「……い、いえ。ジェレミーは基本的には素直で良い少年です」
(私の護衛だから、たまに過激なことを言うのよね。本当はナタリアより手が早いかも……)
ナタリアも抑えていたけれど、あの場で実は一番アーネスト様たちに敵意を向けていたのがジェレミーだった。最後まで我慢していたのは、侯爵家に反抗することで、後に遺恨を残してはいけないと考えてくれたからだ。
本当は、私がもっと怒るべきだったのかもしれない。私の知らないところで、まだ婚約しているうちにユリアナと交際していたことは、例え彼が侯爵家の跡継ぎであっても、誠実な行いではないと思う。
「……お嬢様?」
「ナタリア、私はね……さっきも思っていたことだけれど。裕福さや、貴族としての面体という意味では、ユリアナに負けてしまっている。でも、姫騎士としては負けたくない」
「それは……もし試合で戦うことになったら、ということですね」
「ええ、そうね。でも、ユリアナが勝ち残るのなら、彼女と当たるまで負けられないということでもあるわ。これからも、稽古に出ていることが多いと思うけれど……」
ナタリアが立ち止まる。彼女の方を見やると、その伏せられた黒い瞳が、一瞬だけ深い憂いを帯びて見えた。
けれど私を見るときのナタリアは、いつものナタリアに戻っていた。
「お任せください、お嬢様。私たちは決して、クローデット家の思う通りにはさせません」
「……ナタリア、何か知っているの? ユリアナが、今回のことで何か……」
ナタリアは答えず、ただ微笑むばかりだった。それ以上聞いても、彼女はきっと口を固く閉ざしてしまうだろう。
「お嬢様は、ただ前を見てお進みください。姫剣舞祭の舞台に立つために、諸々の準備も始めなくてはなりませんし」
「……ええ。私は、あまり期待されていないけど……ナタリアにそう言ってもらえて良かった」
勝って得られるものは大きい。まして、もし優勝することができたのなら――。
かつてのクリサディア家の繁栄は、シャーロット母様の四連覇によってもたらされたものでもあった。
私が戦うことを良しとしなかったお母様。無理はしなくていいと、いつも優しく見守っていてくれるお父様。
(……それでも私は、勝ちたい。勝つことで、全てが変わるから)
「では……参りましょう。お嬢様。何やら、騒がしい声も聞こえて参りますし」
男湯と女湯は壁で仕切られているけれど、上のほうは繋がっているので、話していると普通に聞こえてしまう。
けれどやんちゃなロディと、曲者のフェイさんを見張る意味でも、会話が聞こえるのはむしろ都合がよかった。こっちの音を聞かれないようにすることは必要だけど。
◆◇◆
ナタリアと一緒に静かに浴室に入ってくると、さっきまでわいわいとロディたちの騒ぐ声が聞こえていたけど、いったん落ち着いたようだった。四人ともお風呂に浸かっているようで、話し声が聞こえてくる。
「まったく……登場の仕方もぶっ飛んでたが、常識もぶっ飛んでるじゃねえか。ちっとは隠しやがれ、前を」
「ははは、男同士なんだからいいじゃないか。恥ずかしがることでもない」
「……まあ、それはそうだが。フェイは……見た目が、中性的というか……」
「まあジェス君と比べれば、オレは線が細いかもしれないな。丸太みたいな腕をしてるじゃないか……格闘術でもやっていたのかい?」
「ジェス兄は、僕と同じ道場で拳術を習っていたんです。僕なんかよりずっと強くて、すごい先輩なんですよ」
ジェレミーはジェスさんと、昔は兄弟のようにして道場に通っていたという。ジェスさんが医者を志したあと、ジェレミーは道場の指導役代わりを務めるまでに腕を上げて、私の護衛をしてくれている。普段使用人をしてくれているのは、お爺さんの後を継ぎたいという気持ちの他に、収入の確保の意味があった。
ジェレミーのお母さまは夭折されていて、お父さまは出稼ぎに出たまま帰ってこない。寂しい思いも随分していて、荒れてしまった時期もあったけれど、今は家のために尽くしてくれて、よく笑顔も見せてくれるようになった。
「なるほど、道理で強そうなわけだ。いいなあ、オレもそんな筋肉の鎧を身につけたい」
「……鍛え方なら、教えるが。フェイは頭を使う分野の方が得意そうに思えるな」
「あのローブと杖からして、魔法使いってのは分かるが。どんな魔法が使えるんだ?」
私はナタリアと一緒に、自分の髪を洗い始める。そのために、ロディたちの話を全部聞くというわけにはいかないけれど、断片的に聞こえてきていた。
「必要に応じて、披露する機会もあるだろうね。まずは、オレの女神のために……いや、そろそろロディが怖いから、リィエルと呼ぶことにしようか」
「いきなり呼び捨てかよ……あのな、そういうのはいちおう貴族の間では、軽率な振る舞いって言われてるからな」
「そうなのか。お嬢さんというのも軽率に聞こえるかな? しかしオレは、できるだけ彼女との間に壁を作りたくないんだけどね。高い壁を築いてしまうと、乗り越えるには時間がかかるだろう。あの、無粋な風呂の仕切りみたいに」
(っ……こ、こっちにいること、気づいてる?)
女性の方から、男湯に一声かけるのも何か違う気がする。けれど私たちがここにいると知られていると、途端にきまりが悪く感じる。
「あー……姉ちゃん、いるのか? 気にすんなよ、フェイは俺らが見てるから」
「オレだけが覗きの危険があるって? 非道いことを言うなあ」
「……お嬢には、恩義がある。あまり、失礼なことは……」
「そ、そうです。お嬢様が湯浴みをしていらっしゃるなら、僕たちは本当なら、すぐにでも出ていくべきで……」
「い、いいのよジェレミー。私たちも静かに入って出ていくから、あまり気にしないで。昼に稽古をしたから、少しでも早く入りたかっただけなの」
声をかけると、しーん、と男湯の方が静まり返る。
「……いや、黙っていると向こうのことを想像しているみたいじゃないか?」
「お、おまえが言うな! ていうか姉ちゃんの風呂なんて想像するわけねえだろ!」
「……それは、そうだな。しかし、何を話していいのか……」
「え、えっと……こんな時にお伺いしていいのか、わかりませんが。フェイさんは、お嬢様に、どのようにご恩返しをされるのですか?」
止めようと思えば止められるけれど、必死で止めることでもないと思うので、私はナタリアに髪を流してもらって、向こうの話を気にしすぎないようにする。
フェイさんのお礼に、そんなに期待しているわけじゃない。ロディにも言ったとおり、倒れていた人を助けるのは当然のことなのだから。
「この家が置かれている状況は、どうやら芳しくはないようだね。それは、見ていて何となく感じ取ることができた。お家の再興……いや。まずは、リィエル個人の状況に限定して考えてみたい。彼女は、今どんな悩みを抱えている?」
「……姉ちゃん、少し話してもいいか?」
ロディが尋ねてくる。私はどう答えていいか迷ったけれど、フェイさんがここに滞在するのなら、いずれ伝わることだと思った。
「あまり、話を大きくしないようにね」
「お、おう……えーと。まさに今日なんで、未だに俺も思うところはあるんだがよ……」
ファランドール侯爵家、クローデット伯爵家の一行が屋敷を訪れたこと。
私の家の没落を理由に、アーネスト様から婚約を破棄されたこと。
クローデット家のユリアナが、アーネスト様の新しい婚約者となったこと……それを、ロディはできる限り淡々と、ありのままに話してくれた。
けれど話し終えると、ロディは我慢できなくなったかのように、声を少し荒げた。
「あいつには、今日みたいなことをする素振りは全くなかったんだ。元はといえば、結婚の話を自分から進めていやがったのに……姉貴はそんな結婚でも、花嫁修業をしてた。あいつは、そんな姉貴の努力をないがしろにして……っ」
「ロディ。ロディ……ありがとう、そんなに怒ってくれて。大丈夫、私は何も無駄だったなんて思わない。アーネスト様のことも、憎んでなんて……」
「それは違うな。憎むだろう、それは。憎むべきだよ、お嬢さん」
――そう言ったフェイさんの声は。今までの飄々とした彼からは想像もできないほど、強い意志に裏打ちされたものだった。
「身分は向こうの方が上かもしれない。最初から、こちらを下に見ていた。だとしても花嫁を、妻にするはずだった女性を何だと思っている? オレはそのアーネストを許すことができない。オレがその場にいたら、消し炭にしてやったところだ」
「……それは……それが、もしあなたにできるのだとしても。暴力に訴えるまでのことは、アーネスト様は……」
「……じゃあ、こうしようじゃないか。リィエル。アーネストを、ユリアナを見返してやろう。君にしたこと全てを後悔させ、自分たちの愚かさを味わわせたあと、膝を突かせて詫びさせよう」
そんな、炎のように苛烈な感情が、涼やかな瞳をしたフェイさんの中にあるとは想像もしていなかった。
「……お嬢様……」
私のために、そこまで怒ってくれている。ロディが、ナタリアが、皆が怒ってくれた時にも流れなかった涙が、私の頬を伝い落ちていた。
――本当は、悔しい。自分を慰めようと、納得させようとして、その気持ちから目をそむけていただけだ。
「君の気持ちを聞かせてくれ、リィエル。本当に、負けたままでいいのか?」
この悔しさは、紛らわせることしかできないと思っていた。
アーネスト様に迷惑をかけられない、彼の言い分に納得するしかないと、自分に言い聞かせてきた。
没落した途端に私を見限った彼。そして、絶対に私に負けることがないと侮っているユリアナを見返したい。その気持ちは、胸に秘めるしかないと思っていた。叶わなかったときに、さらに自分が惨めになることを恐れていたから。
――でも、本当は。
とても難しくて、絶対に無理だと言われそうなことでも――私は。
「……見返したい。アーネスト様を……ユリアナを、この手で……っ」
喉が震えて、うまく声が出なかった――けれど。
ばしゃっ、と男湯の方から大きな水音が聞こえる。そして、フェイさんの声が響いた。
「やろう、リィエル! 君が望むなら、オレはどんなことでもする! 翼が欲しいと言うなら翼を与えてやる! 花の雨でも、春の雪でも降らせてやる! オレがいれば、君にできないことは何もないんだ!」
生きる意欲を失っていた人が、今は誰よりも、生きることを謳歌している。
その高らかな宣言に、ナタリアも言葉をなくしていた。私は彼女としばらく何を言えばいいのか迷ったけれど、出てきたのは笑顔だった。笑いながら、涙の流れたあとを拭う。
すごく嬉しかった。フェイさんの真っ直ぐな言葉は私の心の中に、すっと染み込むように響いてきた。
「……でかいこと言うじゃねえか。そいつは結構なんだが……目の前で勢い良く立ち上がるんじゃねえ」
「細かいことを気にするなよ、ロディ。オレは今、かつてないほどに昂揚している。見ていろよ、アーネスト、ユリアナ。オレの女神の前に跪かせ、ごめんなさいと言わせてやる」
「……意外に……熱いところもあるのか。人は、見かけによらない」
「でも……僕は、好きですよ。お嬢様のために、こんなにはっきり言ってくれて……でも、フェイさんはどうやって……」
「それはおいおい披露していくさ。さてロディ、オレたちは一足先に上がるとしよう。お嬢さんがた、お先に失礼するよ」
「だから聞けよ人の話を……ったく。姉ちゃん、そういうことだから! できねえことって、意外にねえみたいだぞ! えーと、なんだ……諦めないで、頑張ろうぜ!」
ジェレミーの言うとおり、フェイさんは大きなことを言うけれど、それをどうやって成し遂げるのかはまだ分からない。けれどロディも無下にせず、フェイさんの言うことに、期待しているみたいだった。
それだけの力が、彼の言葉にはあった。不可能なことなどないという、圧倒的な自信。
私の胸は、ずっと高鳴っていた。早く明日が来てほしいと思うくらいに。
――けれど、その『明日』。
私はふたたび、今度はユリアナと一緒ではなく、お忍びでやってきたアーネスト様の訪問を受け、受け入れがたい申し入れをされることになるのだった。