プロローグ・2 婚約破棄
屋敷の扉を開け、玄関ホールに入ってくるアーネスト様とユリアナは、私の姿を見るなり、それぞれ違う表情を見せた。アーネスト様は無関心そうに、ユリアナは、とても嬉しそうに私を見る。
「アーネスト様、この度は、ご多忙の中お越しいただき……」
「ああ、そう畏まらなくてもいい。リィエル、今日は君に伝えたいことがあって来た」
白い手袋をつけたままでアーネスト様が言う。家に来た時は、何を差し置いても、まず手袋を外して握手をしてくれた彼が――。
「急に来てしまってごめんなさいね、リィエル。けれど、先送りにしても仕方のないことだから」
ユリアナはアーネスト様と視線を交わす。もう、ずっと前から親しく交遊を続けてきたのだと感じさせる仕草だった。
――きっと、そういうことなのだ。勘に鋭くない私でも、ここまで来れば分かる。
「……クリサディア家には、後日正式に申し入れるつもりだが。私は、君との婚約を破棄させてもらいたいと思っている」
決定的な言葉が、はっきりと玄関ホールに響いた。
「私はユリアナさんと結婚する。可能であれば、父からは伯爵家の令嬢を娶るようにと言われている……侯爵家同士の婚姻となれば、家格が同じであるだけに、序列の問題が出てきてしまうのでね」
ナタリアと使用人たちが、息を飲むのが分かった。同情の視線が、一身に私へと注がれる。
ファランドール家の人々は無言でいたけれど、ユリアナの連れてきたクローデット家の使用人たちは、まるで誇らしいことだとでも言うかのように笑っていた。
「クリサディア家は伝統のある家だ。君の母君であるシャーロット様は、聖王国の誇る最強の姫騎士でもある……彼女を侮辱するというつもりはないが、今のクリサディア家は伯爵の位を保つのもやっとというほど、権威が形骸化している。済まないが、このまま婚姻を結ぶには、私の家と格が釣り合わなくなったと判断した」
私と話している時は、それほどアーネスト様は饒舌ではなかった。品のある振る舞いに、話題の選び方も、女性の話し相手をするのが慣れているのだろうと思わせ、一緒にいることを不愉快に思ったことはなかった。
けれど、私という個人に、アーネスト様が強く興味を持っていないことは分かっていた。彼はクリサディア家の財力が豊かな時は私の機嫌を取ろうとしたけれど、叔父が財産を持ち出し、私の家が借金を返すために土地などを手放し始めたと伝わると、途端に定期的な連絡を途絶えさせた。
私の家に来ない間に、アーネスト様とユリアナの間に、何が起こっていたのか。
その答えが、目の前にある。ユリアナは私に見せつけるように、アーネスト様に寄り添う――結婚を約束している男女でもない限り、皆の面前でしてはならないことを、さも当然のようにしてみせたのだ。
「申し訳ないけれど、このままアーネスト様とあなたが結婚すれば、彼の家にも迷惑がかかるわ。リィエル、あなたの叔父様の借金は、全て返済できたのかしら? そうでなければ、ファランドール家にも債務が移ることになってしまうわよ」
「……あと数年で返しきれる予定だと、お父様は言っていたわ」
「それなら、やはり時間が足りないわね。アーネスト様と貴方の結婚式は来年……その時にはまだ負債が残っている。そのまま結婚することが不義理だとは分かるでしょう?」
ユリアナは私を気遣っている体で、憐れむように言う。それを見ていたナタリアが、もう抑えきれないというように前に出ようとした。
「ユリアナ様、あなたという人は……この状況に乗じて、リィエルお嬢様を陥れるようなことを……っ!」
「ナタリア、いいのよ。アーネスト様と、ユリアナの言うとおり……家の状況が変わった今となっては、婚約について見直すのは当然のことだもの……」
「お嬢様、しかしっ……!」
私の代わりに、ナタリアは本気で怒ってくれている。貴族であるユリアナを批判することで、彼女の立場が危うくなることも恐れずに。
(ナタリアは私が守る。こんなに私のことを思ってくれる従者がいるなら……私は辛くない)
自分のことを、惨めだと思う気持ちはあった。
ユリアナのように華やかなドレスを着て外出することもできず、髪を巻くこともしないで、料理人に作らせたものではなく、作り置きのお菓子を婚約者に振る舞おうとした――それは、貴族の社会では恥ずかしいこととされているから。
「……ナタリア、だったかしら。貴方のことは覚えておくわ」
「ユリアナさん、彼女の失言については私が責を負う。長く婚約者でいた女性の侍女に、それくらいの報いはしてもいいだろう」
「アーネスト様がそうおっしゃるのなら。命拾いしたわね、ナタリア。身分の卑しい人はこれだから」
「っ……」
どこまでも挑発的にユリアナは振る舞う。彼女はそうすることを心から楽しんでいる。
昔から、そういうところがあった。何か私に勝てるようなことがあれば、それを絶対に見逃さないで、自分の勝ちを見せつけようとする。
――でも、憎むほどではなかった。今、ナタリアが侮辱されるその瞬間までは。
ファランドール家とクローデット家の一行は、用事は済んだとばかりに退出していこうとする。その背中に、荒っぽい声が投げかけられた。
「アーネストさんよ。うちの親がいないうちに好き勝手言ってくれてるが、ファランドールの家訓は『義に勝る美徳なし』じゃなかったか?」
私と同じ髪の色をした青年――双子の弟の、ロディ。正式な名前は、ロドルファス・クリサディアという。
先ほどまでいなかったはずの彼は、いつの間にかこの場に出てきていて、アーネスト様に射抜くような眼光を向けていた。
アーネスト様は立ち止まり、振り返ると、ロディの視線を正面から受け止める。
「なんなら、国王陛下に報告してからでも良かったのだがな。そうすれば、クリサディアの爵位が剥奪されることも考えられる。今は猶予を与えられているだけだ……クリサディアが負債を返せなければ、家は取り潰しとなるのだから」
「……だから、乗り換えるってのか。クローデット家の財産に目が眩んだかよ」
「貴君っ……それ以上我が主を侮辱するのであれば、ただでは……!」
「やめとけよ。俺がお前らを斬ったって咎められることはない……試してみるか?」
「ヒィッ……!」
ロディが腰に帯びた長剣に手をかける。それだけでファランドール家の護衛が威圧され、動けなくなるほど凄まじい殺気が放たれる。
生成りの綿シャツとトラウザーの上に、革のジャケットを身に着けているだけのラフな服装。私と双子のはずなのに、ロディは狼のような気迫を持っていて、いつも見ていて羨ましいと思う。
「ロドルファス、君も家の再興を考えるなら、大それた行動は自粛した方がいいのではないか? 義兄になるはずだった者として忠告しておこう」
「気遣いに感謝するよ、アーネスト殿。だが、もしもの話は忘れろ。俺があんたの義弟になるかもしれなかったなんて、もう起こり得ない出来事だ」
アーネスト様はそれには答えず、外套を翻すと、ユリアナと共に去っていく。
最後にユリアナが私を見た時、彼女は勝ち誇っていた。
言い訳もしようもないほど、私は負けていた。例え、自分の力ではどうすることもできないと分かっていても。
ユリアナにアーネスト様を奪われ、彼と過ごした時間の意味を失くしてしまったことは確かだった。