山口千早さんの素敵な朝
本編「おいしい春」の後くらいの小話。
退院してからも元気一杯なちいばあちゃんです。
カイとソラの双子からは「ちいばあちゃん」と呼ばれている、山口千早さんの朝は早い。
どのくらい早起きかというと、起きた時にはまだ空は深みを帯びた藍色で、キラリキラリと星が出ていたりする。一緒に暮らしているインコのピーちゃんが寝ぼけてグチュグチュと寝言を言っているくらい早起きなのだ。
ベッドの中で「うう~ん」とノビをした千早さんは、ベッドからそうっと抜け出すと、お湯を沸かしながら一人ごちた。
「今日も良いお天気になりそうだねえ」
渋めの緑茶をずずっとすすって、ホウッとため息をついてから、小さな梅干し入りおにぎりを一つ作ってラップにくるんでそれをポイッとバックに放り込むと、お気に入りの若草色したセーターとジーンズに身をつつみ、
「よし。始発電車に十分間に合いそうだ」
そんなひとり言を言いながら、玄関の扉を静かに閉めて鍵をかける。そして静まり返ったマンションを出て駅前商店街に差し掛かる頃、ようやくうっすらと空が明るくなってきた。
「おはようございます! ちい先生!」
「おや、寛ちゃんおはよう。いい天気になりそうだねえ」
声をかけてきたのは、ここ駅前商店街でパン屋をやっている寛ちゃんこと、田村寛太郎さん。千早さんは長い間小学校の先生をしていたので、あちらこちらに教え子が沢山いるのだ。今では「田村ベーカリー」の立派なご主人である寛太郎さんもその一人。お隣りの双子のお父さんである、広井悠とは同級生だった。そんな寛太郎さんも、いたずら坊主だった頃を全部知っているちい先生に、今でも頭が上がらない。
「もうすっかりお元気そうですね! 悠の奴が心配していましたよ。無理なさらないで下さいね、先生」
「寛ちゃんにも心配かけたねえ。もう大丈夫さ。ほら、この通り」
膝をヨイショと曲げ伸ばしして屈伸運動をした千早さん。
「ハハハ。ちい先生にはかなわねえや。これから畑ですか? 行ってらっしゃい!」
「行ってきます! 帰りに寄るからね!」
スタスタと歩いていく、元気なちい先生を見送った寛太郎さんは、笑いながらつぶやいた。
「あれじゃあ、悠も心配するわなあ。まあ、ちい先生が元気だと、俺らも元気になるけどね。さて仕事、仕事。美味しいパンを食べてもらわなきゃ」
商店街を後にした千早さんが始発電車で向かったのは市民農園だ。三年前から郊外に借りている小さな畑を、千早さんはとても大事にしている。いも虫が元気なこの季節は、せっかく育てたかわいい野菜達がもりもり食べられてしまうから、朝早い時間に出掛けていも虫退治をしに行くのだ。今年は双子の家でも畑を借りているから、二軒分の畑で草取りやいも虫退治をしている。お休みの日には双子や双子の両親も手伝ってくれるけれど、普通の日にはそうはいかない。こういう時は一人って気楽だわねえ。そんな事を考えながら、始発電車を降りた千早さんは畑への道をのんびりと歩いていく。
辺りがすっかり明るくなって、ピッカピカのお日様も顔を出した頃、早起きのスズメ達のおしゃべりを楽しそうに聞きながら、いも虫をホイホイと割り箸でつまみ上げ、ビニール袋へと入れていく千早さん。いも虫だって生きてるから、畑から離れた雑木林に放してあげるつもりでいる。チョウチョがヒラヒラ飛んでいるのを見ているのは、千早さんだって好きなのだ。
お日様の光とタップリのお水、そして千早さんや双子達の愛情をタップリもらった野菜達はスクスクと大きくなっているし、早朝の気持ちのいい風とお日様の光を浴びた千早さんは一つ大きくノビをした。
「うう~ん、気持ちいい!」
そしてかばんからおしぼりを出して手を拭くと、ラップにつつんだおにぎりを取り出してパクリ。
「最高~!」
こんな風に始まった千早さんの一日だが、もちろんこれで終わらない。いも虫を雑木林へと避難させ、帰ってきた商店街で寛太郎さんと約束した焼きたてのパンを買い、家に着いたところで双子のお父さんにバッタリ。
「おや悠ちゃん、これから会社かい?」
「おはようございます! ちい先生。あ、畑に行ってきたんですね。無理しないでくださいよ」
「おはよう。なあに大丈夫さ。畑も元気だって双子達にも伝えとくれ」
「この頃ちっとも会えないって、カイもソラも言ってましたよ? たまには顔を出してやって下さい」
「そうだねえ。じゃあ近い内にお邪魔するよ。さ、ほらほら遅刻するわよ!」
「いっけねえ。じゃあ行ってきます!」
「行ってらっしゃい!」
家に帰った千早さんは、ピーちゃんの鳥かごのカバーを開けてやり、昨日の夜作っておいた野菜タップリスープと焼きたてフランスパン、そして取っておきのコーヒーと云う、本日二度目の朝ごはんを食べ、洗濯をしながら今日の予定を確認する。
「ええと、ああ。今日はこれから児童館で読み聞かせと、お昼はポンちゃんとランチしてからテニスだねえ。久しぶりに赤ん坊達に会えるなんて嬉しい一日になりそうだ! テニスが終わる頃には双子も学校から帰ってくるだろうし、宿題チェックでもしてやろうかね」
千早さんは、長年小学校の先生をしてきたけれど、先生を退職してからも子供達と会えなくなるのは寂しいと、近所の児童館に集まってくる赤ん坊やそのお母さん相手にボランティアで絵本の読み聞かせをしている。集まってくるお母さん達も千早さんの教え子だったりするから、とても楽しいひと時を過ごしているのだ。
ぷくぷくしたあたたかい赤ん坊達は、どの子もとってもカワイイし、赤ん坊を卒業したばかりの子供達だって、おんなじだ。おしゃべりが上手な子もいれば、恥ずかしがりやの子だっている。そういえば小学生もそうだった。みんなそれぞれ成長の具合も違うし、勉強だって早く覚える子ものんびり覚える子だっていたものね。だからこそ可愛いし、愛しいのよねえ。
パンパンと洗濯物を叩いて伸ばして干しながら、今までに出会った子供達の顔を思い出していた。
「おや、いけない。急がないと遅刻しちゃうわ! ガス良し、電気良し、ええとテニスの用意できた、あ、水筒。忘れないようにしなくちゃ。」
パタパタと動き回りながら、用意を済ませた千早さん。これから忙しいけれど嬉しい一日が待っている。きっと行く先々で、教え子達にも会えるだろう。先生仲間だったポンちゃんと会うのもも久しぶりで、ランチもテニスも楽しみだ。
「それじゃあピーちゃん、行ってきます!」
7/30登場人物紹介(第一話)に、田村寛太郎さんを追加しました。