第3章
(1)
萌絵の葬儀から3日が経った。私は、ナイトメアの田川恭博が運転する車の後部座席に座っていた。神戸での営業を終え、大阪へと向かう帰り道。助手席には彼の相方の井頭が座っている。私の相方の深雪は、神戸の友達と会う予定があるらしく、現地で別れた。
萌絵の急死によって、週末に予定されていた「ボンバーファイブSHOW」が中止になり、替わりに神戸の健康ランドでの営業が回って来たのだ。
「それにしても、今日は疲れたなあ」
田川が、ハンドルを回しながら苦笑する。
「ほんまに。今日は一段と大変でしたよねえ」
私は答えた。
健康ランドでの営業は、なかなか難しいものがある。
集っている老若男女は皆、アロハを身に付け、リゾート気分でテンションが上がっている。ビールも入り、それぞれに盛り上がっている人々に向かって、必死で漫才をやってみたところで、聞いている人などそうそういない。
とまあ、ここまではいつもの健康ランドと変わりない光景なのだが、今日、健康ランドに入っていた団体は、さらにパワフルだった。それは、『親子で楽しもう会』という、幼稚園生くらいの子供を連れたお母さん達の団体だったのだ。
健康ランドの方も、ヒーローショーなどの子供向けのイベントをしたかったらしいのだが、申し込みが急だった上、週末でヒーロー達の都合がつかなかったらしく、私達が子守りの手伝いをさせられるハメになってしまった。
子供というのは、観客としては甚だタチが悪い。舞台に興味がないならないで、大人しく他の事をしていてくれればいいのだが、そんな聞き分けのいい子供など、望むだけ無駄な話だ。暴れ回ってはコケて泣き、叩き合っては悲鳴を上げて泣き、もう阿鼻叫喚。
頼りの親は、自分達の話に忙しく、子供に構っているヒマなぞない、といったご様子。漫才をしている私達の前を平気で走り回る子供がいても、マイクスタンドを蹴り倒そうとする子供がいても、まったく知らん顔でおしゃべりを続けている。
ついにキレた相方の深雪は、自分の周りをチョロチョロする子供達をつかまえては、「お尻ペンペン」の刑を与え始めた。しかし、これが逆効果だった。彼らは深雪のお仕置きを遊んでくれているものと勘違いし、「僕も」「私も」と更にまとわりついてきたのだ。最後には私まで巻き込まれ、もう収集がつかない状態に。
結局、持ち時間のほとんどを「お尻ペンペン」に費やした挙げ句、子供達に「ケツ叩きババア」などというあだ名を付けられ、それでも「ありがとうございました~」と言いながら舞台を下りるという、屈辱的な経験をすることになってしまった。
「それにしても、深雪は頑張っとったなあ。子供にえらい人気やったやないか」
井頭が、振り返って話しかけてくる。
「巻き込まれた私は、たまったもんやないですよ」
私は溜息まじりに答えた。
「せやけど、健康ランドのマネージャー、めっちゃ喜んではったで。またお呼びがかかるかもしらんわ」
「勘弁して下さいよ、ほんまに」
私の心からの叫びに、田川と井頭が、そろって大笑いする。
「まあ、地方の営業は意外とギャラが入るし。そう思ってあきらめるしかないわな」
井頭が笑いを含んだ声で言う。
「それだけが心の支えですね」
私も笑いながら答えて、窓の外を見た。
この3日の間に、萌絵の事件は思いがけない方向へと展開していた。
萌絵の部屋からは、様々な指紋が検出された。その中には、彼女と噂になっていた橘リキヤのものも、多数含まれていたらしい。それも、物色されていた場所からより多く検出されたそうで、警察からは連日事情を聞かれていた。萌絵の死亡推定時刻にはアリバイがなかったらしく、今のところは、彼が一番の容疑者と目されている。
しかし、その橘リキヤが、今日の未明からぷっつりとその姿を消してしまったのだ。
最後に彼の姿を見たのは、岩田事務所の若手芸人達だった。警察にマークされているという鬱憤から逃れたかったのか、彼は自分の番組に出演している若手芸人達をつれ、歓楽街へと繰り出したらしい。
彼が店を出たのは今日の午前2時頃。何やら用事を思い出したということで、急に席を立ったそうだ。以来、彼の所在はわからなくなった。電話もつながらず、自宅にも帰らず、今日の仕事は無断欠勤。昼過ぎに捜索願いが出されたらしいという話を、大阪に残っていたマネージャーから、電話で聞かされた。
ぼうっと走り去る景色を眺めていると、田川が声をかけてきた。
「なあ、お前ら、この後、なんか予定入ってるか?」
「いや、別に。彩香は?」
井頭に尋ねられ、答える。
「いえ、私も何も」
「そうか。ほんなら、晩飯、付き合ってもらいたいねん。相談したいことがあってな」
「ああ、わかった」
「ええ。わかりました」
私達は同時に頷いた。
(2)
もうすぐ大阪という所で、私達は近くのファミレスに腰を落ち着けていた。ちょうど夕食時とあって、お客も多い。中には私達に気付き、ちらちらとこちらを見ている人もいた。
「井頭は知ってると思うけど……実は俺、真尋と付き合うててん」
ドリンクバーから飲み物を持ってきた私と井頭に、田川はいきなり、そう切り出した。
「は?」
田川の正面に座りながら、彼の顔を見る。
「真尋って、あの、アフロディテの? えっと、萌絵の相方やった矢吹真尋ですか?」
「ああ、そうや」
「はあ」
突然の告白に、答えるべき言葉が見つからない。私は口を開けたまま頷いた。
「たしかに俺は知ってたけど……。急に、何やねん」
私の隣に座った井頭が、怪訝そうな表情をする。
「実は……、ちょっと、これ見てほしいねん」
私の困惑などおかまいなしに、田川はバッグから1通の封書を取り出した。受け取って、差出し人を確認する。
「え、これ、萌絵から?」
そこには、『杉下萌絵』と書かれていた。隣から井頭が覗き込む。
「ああ。あいつが殺された日の夕方に、投函されたみたいやな。俺ともめた後に……」
言われて消印を見る。たしかに間違いない。
「中、読んでいいですか?」
「ああ、読んでくれ」
封筒の端にはハサミが入れられていた。その切れ目から、折り畳まれた便箋を取り出す。花柄の可愛らしい便箋は、全部で3枚。そこに、筆圧の高い、キッチリとした萌絵の文字が並べられていた。
私は夢中でその中身に目を通した。途中で注文していた品々が届いたが、手紙から目を離すことができなかった。
『田川様
先程は本当に申し訳ありませんでした。
私は、10ヶ月ほど前、子宮癌の宣告を受けました。既に転移が見られ、もってもあと1年だろうというお話でした。手術をしても治らないのならと、私は通院しながら仕事を続ける道を選びました。田川さんが見られたのは、治療のために産婦人科へ行った私だと思います。
死の宣告を受け、私が真っ先にやりたかったこと、それは真尋の死の真相を探ることでした。これが、私が橘先生に近付いた理由です。
田川さんも気付いておられましたよね? 真尋と橘先生の関係に。真尋は決して、好んでそういうことになったわけではないんです。真尋の母親が心臓を煩って入院した時、多額のお金が必要でした。あの子の実家の冶金業はあまり上手く行っていなくて、借金を抱えていた。助けられるのは自分しかいないと思ったのでしょう。必死で金策に駆け回って、端から見ていても可哀想なくらいボロボロになっていました。
当時、私達は、橘先生が手掛けている番組の前説をしていました。そこで、先生はどこからか真尋の話を聞き付け、相談に乗って下さったのです。そのお陰で、彼女の母親は手術を受けることができました。結局回復することはなく、その1年後に亡くなったのですが、橘先生はその間の医療費も支払って下さいました。出世払いでいいとのお話に、私には彼が神様のように見えたものです。
しかし、実際にはそうじゃなかった。彼は、お金を払うことと引き替えに、真尋の身体を要求していたのです。母親をどうしても助けたかった真尋は、先生の言う事を聞き入れるしかなかった。真尋と橘先生との関係は、こうして始まったんです。
私は、真尋の死が自殺だったとは思っていません。なぜなら、私はその証拠の品を握っているから。そして、橘先生に近付き、いろいろなことを見聞きするうちに、真尋の死の全容がわかりました。このすべての証拠を持って、橘先生と対決しようと思っています。私にもしものことがあったら、この手紙を警察に渡して下さい。お願いします。 萌絵』
読み終わって、私は顔を上げた。井頭に手を差し出され、無言で手渡す。井頭もひと通り目を通すと、便箋に目を落としたまま尋ねた。
「これ、いつ頃届いたんや?」
「それが、いろんな郵便物に取り紛れとってな。今朝になって初めて、その手紙に気付いてんけど……」
田川が辛そうに答える。
「そうか」
井頭は、顔を上げて続けた。
「この手紙の最後、『私にもしものことがあったら、この手紙を警察に渡して下さい』って書いてあるな。実際、彼女は命を落としたわけやし……。この手紙、警察に持っていった方がいいんとちゃうか? 橘先生の行方不明の件とも、関係してそうやし」
「ああ。もちろん、俺もそのつもりやで。せやけど、俺自身、どうにも心の整理がつかへんかってな。どうしたもんかと思ってるんや」
田川に言われ、私はようやく口を開いた。
「ええ。わかります。この内容は、たしかにショッキングですよね」
「せやけど、そのままにしておくわけにはいかんやろ?」
井頭が私達の顔を交互に見る。
「そうやな。でも、内容が内容やし、警察に持って行っていらん詮索受けるのんもちょっとなあ」
田川はそう言って井頭から手紙を受け取ると、私に話しかけてきた。
「なあ、彩香。お前の友達に、刑事がおったやろ? まずは、そっちに話をしてみるってわけにはいかんやろか」
思わず井頭の方を見ると、彼は小さく頷いた。
「ほんなら、連絡してみましょうか?」
私は、バッグから携帯電話を取り出した。
(3)
白谷庄吉は、非番ということですぐにつかまった。彼は急いで駆け付けてくれたのだが、相談の内容を他に聞かれたくないという田川の要請をうけ、近くの中華料理屋へと場所を移すことになった。ここは、頼めば個室を用意してくれるため、人に聞かれたくない話をするにはもってこいなのだ。
「で、早速ですけど、その手紙っていうのんを見せていただけますか?」
ウーロン茶が出され、店員が部屋を出て行くと、庄吉は早速、本題を切り出した。
田川が、言われるままに手紙を差し出す。庄吉は険しい顔でその文面を見ていたが、やがて顔を上げた。
「この内容が真実やとしたら、やっぱり橘リキヤさんが犯人やということになりますね」
「ええ。そういうことになると思います」
田川が頷く。
「橘さんは杉下萌絵を殺害した後、証拠の品を求めて部屋中を探し回った。そう考えれば、あの部屋の散らかりようは理解できますね」
そう言うと、庄吉は田川の目を見て尋ねた。
「あなたは、矢吹真尋さんと付き合われていたんですね? この手紙の中に出てくる『証拠の品』というのが、何をさしているのか、心当たりはありますか?」
「いえ、情けないんですが、全くわかりません」
田川が神妙な面持ちで答える。
「そうですか」
庄吉が頷くのを見て、井頭は尋ねた。
「警察の方では、それらしいものは発見していないんですか?」
「この間の捜索の時ですか? そうですねえ、思い当たるもんはなかったですけどねえ」
庄吉が答える。
「あの……」
田川が遠慮がちに庄吉に話しかけた。
「今から、萌絵の部屋を見せていただくことはできませんか?」
「え? 杉下萌絵さんの部屋ですか?」
庄吉が驚いたように聞き返す。
「ええ。警察の方が関係ないと思われたものでも、僕が見たら気付くものもあるんちゃうかと思うんです。とくに、真尋に関するものやったら、多分」
「なるほど。でも、僕の一存ではちょっと……。少しお待ちいただけますか?」
庄吉はそう言うと、携帯電話を持って部屋を出て行った。
(4)
無言のままエレベーターに乗り、萌絵が住んでいた503号室に向かう。
庄吉が交渉してくれたお陰で、私達は萌絵の部屋を見せてもらえることになった。鍵はここに来る途中で、捜査本部に預けられていたものを取って来てくれていた。
到着した彼女の部屋のドアには、黄色いテープが貼られていた。まだ事件が解決していないことを物語っているかのように。
「ん?」
鍵を開けようとした庄吉が手を止めた。ドアの端を指差し、後ろに立っていた私の方を向く。
「このテープ、切られてるで。ドアが開けられた跡やな」
「どこ?」
庄吉の指の先を見ると、たしかにドアの隙間に沿って刃物で切られたような跡があった。思わず顔を見合わせる。
庄吉が、手袋をはめた手でドアノブをそっと回す。
「鍵はかかってるなあ」
彼は独りゴチながら鍵を鍵穴に差し込むと、解錠した。再びノブを回して、ドアを開ける。
庄吉の後に続いて、私達はドアの中へと足を踏み入れた。
「おい、あれ」
驚いたことに、廊下の突き当たりにあるリビングには、明かりがついていた。
「誰かいてるんか?」
庄吉が奥に向かって声をかけたが、何の反応もない。
玄関に視線を落とすと、そこには黒く光る革靴が並べて置いてあった。品のないキンピカの飾りに見覚えがあり、私は田川に話しかけた。
「これ、橘先生の靴ですよね?」
「あ、ほんまやな。俺、この靴見たことあるわ。お前は?」
田川に聞かれ、井頭が答える。
「ああ、橘先生の靴やな。間違いないわ」
「え? 橘先生って、あの橘リキヤか?」
庄吉が振り返る。
「ええ」
田川は頷いた後、部屋の奥の方に向かって、大声を出した。
「橘先生、いてはるんですか?」
やはり応答はない。
「上がってみよか。あ、スリッパ履いてくれ。できる限り端の方を歩いて。いろんなもんにペタペタ触れんように」
庄吉が険しい表情で言った。
「うん、わかった」
靴を脱ぎ、スリッパを出して履くと、おそるおそる中へと足を踏み入れた。田川と井頭が私の後に続く。先を行っていた庄吉が、廊下と部屋を区切るガラス戸をそっと開けた。すると、部屋の隅に置かれた整理ダンスの前に横たわっている、男性の姿が目に入った。
「橘先生?」
目をかっと開き、歪んだ口からヨダレをたらしているその表情を見た途端、胃の中のものが込み上げてくるのを感じた。必死で堪えて気持ちがおさまるのを待つ。田川と井頭は、軽く悲鳴を上げた後、無言のまま私の背後に立ち尽くしていた。
「こんなところで死んどったんか。見つからんはずや」
庄吉は、リビングに入ろうとする私達を制すると、そっと橘に近付き、しゃがみ込んだ。その様子を、息を殺して見守る。
橘は相当もがき苦しんだらしく、床のフローリングには爪の跡が残されていた。右手の下には、花柄の厚手のノートが落ちている。
「ほんまに厄介なこっちゃなあ」
庄吉は悪態をつきながら立ち上がり、スラックスのポケットから携帯電話を取り出した。捜査を要請する彼の声を聞きながら、再びリビングへと視線を移す。
橘の周りには、実に様々なものが落ちていた。色とりどりのハンドタオル、空になった引き出し、一部にヒビが入った薄い木の板、そして真ん中に四角く穴のあいた発砲スチロール。
萌絵の整理ダンスは、一番上の段が3つの部分に仕切られていた。その真ん中の部分がぽっかりと口を開けている。床に落ちている引き出しは、そこから抜き取られたものだろう。そして、ハンドタオルはその中に入っていたもの。ここまではわかるのだが、木の板と発泡スチロールが何者なのか、さっぱり見当が付かない。
「なあ、彩香」
私が振り返ると、田川は橘の遺体の方を見ながら言った。
「あの花柄のノート、真尋のもんや。日記代わりに使ってたもんやと思う。あいつの部屋で見かけた覚えがあるわ」
「真尋の日記?」
これが、萌絵の言う「証拠の品」なのだろうか。表紙にビニールが貼られているそのノートを、私は複雑な思いで見つめていた。
(5)
その後、私達はナンバ東署へと場所を移した。先に事情聴取を終わらせた私と井頭は、田川を待つため、廊下に置かれたベンチに座っている。
私はぼうっと橘のことを考えていた。彼はなぜ亡くなったのか。あの苦悶の表情は、一体何を物語っているのか。
「おう、災難やったな」
声がして顔を上げると、庄吉がこちらに向かって歩いて来ていた。
「私の方こそ、せっかくのお休みにごめんね」
私が立ち上がるのを見て、隣にいた井頭も立ち上がる。
「そんなこと気にせんでええ。どうせゴロゴロしとってんから」
庄吉は微笑みながら、私達に座るよう手で指示すると、私の前に立った。
「で、どうなん? 橘先生、なんで亡くなりはったんかわかった?」
早速、彼に疑問点をぶつけてみる。
「ああ。青酸中毒やな」
「青酸中毒? 青酸カリが何かですか?」
井頭が尋ねる。
「ええ、そうです」
庄吉が頷く。私は首を傾げた。
「せやけど、橘先生の周りには、コップとかそんなもんはなかったで」
私の言葉に、庄吉が答える。
「犯人はあの日記帳や。いや、タンスの引き出しかな?」
「え?」
意味がわからず聞き返す。
「ほら、ひとつだけ床に置かれとった引き出しがあったやろ? あの底に青酸カリがまかれとったんや。そして、その上に日記帳が載せられていた」
「ちょっと待って。あの引き出しには、ハンドタオルが入ってたんちゃうの? あちこちに散乱しとったやろ?」
私が尋ねると、庄吉は頷いた。
「ああ。あのハンドタオルは、たしかにあの引き出しに入っていたもんや」
「タオルをどけたところに、あの日記帳が入っていたってこと?」
「いや」
庄吉は首を横に振って続けた。
「ハンドタオルの下には、底板と同じ模様の薄い木の板がしかれていた。タオルをどけただけでは、ただの底板にしか見えへんかったやろう。日記帳があったんは、その木の板の下や」
そう言えば、引き出しには薄い木の板が立てかけられていた。
「つまり、ダミーの底板の下に隠されていたってことですか?」
井頭が尋ねる。
「ええ。あの日記帳のカバーはビニール製なんです。静電気でかなりの量の青酸カリが付着しとったと思われますね。それが何らかの形で口に入ったんでしょう」
庄吉が頷いた。
「粉末が付着していることくらい、見たらわかるやろ? それを敢えて舐めたっていうの?」
私は不思議に思って尋ねた。
「橘リキヤ、ページをめくる時に指を舐めるクセ、なかったか?」
庄吉に聞かれ、私と井頭は顔を見合わせた。
「たしかに、そうやったな」
井頭に言われて頷く。
彼は、台本などをめくる時、親指と人さし指を念入りに舐める癖があった。名前が書いてなくても、ページの端の濡れた跡で、すぐに橘のものだとわかる、というADの話を聞いたことがある。
「気をつけてても、ついうっかり出てしまうんが癖っちゅうもんや。橘はあの部屋で、見つけた日記帳を読んでいた。その時に、指に付いた青酸カリを舐めてもうたんやろう。事実、数ページから、橘のだ液が検出されている」
「ふうん」
私は首を傾げた。
「でも、そんなカラクリ、誰がいつ作ったの?」
「杉下萌絵の事件の時、あの整理ダンスもかなり荒らされとってな。一通り捜索はしたんやけど、ダミーの底板やったなんて気付かへんかったみたいやな。ひっくり返しても何もなかったらしいし」
「それやったら、その時にはまだ、カラクリは作られてへんかったってこと?」
「いや、それがそうとも言い切られへんねん」
「なんで?」
私はいぶかしく思って尋ねた。
「もし捜索した時点で中に日記帳が入っていたとしたら、音くらいはしたんと違うの?」
「引き出しと同じ大きさの発泡スチロールに日記帳と同じ大きさの穴を開け、そこに日記帳をはめ込んでいたみたいやな」
引き出しの周りには、たしかに発泡スチロールが落ちていた。私が頷くのを見て、庄吉は続けた。
「発泡スチロールは、日記帳の厚さにぴったり合わせられとった。その上にダミーの底板がのせられ、引き出しのヘリにボンドできっちり貼り付けられとったんや。引っくり返しても逆さにしても、音ひとつせえへんかったやろうな。それに、日記帳の厚さなんてせいぜい1cm程度や。少々底板の位置が上がっていたとしても、見た目には何の違和感も持たへんかったやろう。重さかって、いくらも変われへんしな」
「ほんなら、いつ仕掛けられたものか、わかれへんってことですか?」
それまで黙っていた井頭が尋ねる。
「杉下萌絵の事件の後、あの現場はテープが貼られて封鎖されていました。彼女の荷物が引き取られるのは、来週末の予定になってるし、中に入る必要がある人物はいてへんはずですし」
庄吉は続ける。
「昨日の夕方まで、あのテープが剥がされたり切られたりした形跡がなかったことは、この廊下を掃除した管理人から確認が取れています。今日は、勤務が休みやったし、わかれへんかったみたいですけどね。それに、橘のズボンのポケットに入っとったカッターナイフの刃から、テープの小さい断片が検出されました。あのテープを切ったんは、橘に間違いないでしょうね。つまり、前の捜索以来、あの部屋に最初に入ったのは、橘リキヤやったってことになります」
「ほんなら、あのカラクリは……」
「杉下萌絵が生きていた時、萌絵自身が作ったのかもしれませんね」
「何のために? 隠すためやったら、青酸カリを撒く必要はないんと違う?」
私が尋ねると、庄吉は腕を組んだ。
「その通りや。何のためにあんなことをしたのか……」
「あの、その青酸カリって、どこで手に入れたもんやったんですか?」
井頭の言葉に、庄吉は首を横に振った。
「それはまだ……。今、捜査中です」
「そうですか」
私達は黙り込んだ。
「せやけど」
思いつく事があり、ふと顔を上げる。
「なんで橘先生は、萌絵の部屋に入れたん? それに、あの日記帳がそんな所にあるってこと、何でわかったんやろ?」
「橘のズボンのポケットには、あの部屋の合鍵も入っていた。2人が付き合っとったとしたら、不自然なことではないわな。おそらく、その鍵を使って中に入ったんやろう。日記帳がなんであそこにあったかってことに関しては、田川さんから興味深い証言が出てる」
「田川から?」
井頭が尋ねる。
「ええ」
庄吉は頷いた。
「昨夜、橘が若手芸人を連れて飲みに行ったのはご存知ですか? 田川さんも一緒に行きはったそうなんですけど」
「ええ。僕も一緒に行きましたから」
井頭の言葉に、庄吉は微笑んだ。
「ああ、そうですか。それやったら、話が早い。何かの話から、人に見られたくないものをどこに隠すかって話題になったってことやったんですけど」
「ええ。たしかに」
井頭はそう答えながら目を伏せた。庄吉は、井頭を見つめたまま続ける。
「その時、家村宏太さんが、『タンスの引き出しの底に、ダミーの底板を付けるって方法もありますよ』って言うて、細かいことを話し始めたというお話で」
「宏太君が? へえ。あの子、ほんまにいろんなことを知ってるねんねえ」
私と同期のピン芸人、家村宏太は、岩田事務所で一番の博学者だ。本人自身も「俺、芸人やめてクイズ師になった方が、儲かるんちゃうかと思うわ」と言うほど、クイズ番組で賞金を稼ぎまくっている。
庄吉は、私の独り言を聞き流して続けた。
「その家村さんの話を聞いた途端、橘がいきなり席を立ったとか。ちょうど午前2時頃やったそうですけど」
井頭は、何も答えず床を見つめている。
「飲んでいた場所から考えて、現場まではタクシーで20分くらいかかったでしょうね。死亡推定時刻は午前2時から4時頃って話やし、まあ一致しますわ」
「つまり、宏太君の話をヒントに、橘先生はあの場所を探し当てたってこと?」
「ああ。おそらくな」
「ふうん」
私は庄吉の顔を見た。
「封鎖されてるテープを切ってまで、殺人現場に入るやなんて……。そんなに大切なもんやったん? その日記帳」
私の質問に、庄吉は一瞬ためらった後、頷いた。
「ああ。少なくとも、矢吹真尋の死が他殺やった可能性を示唆しとるな。しかも、犯人は橘リキヤやった。そう受け取られてもおかしくない記述はある。ただ、確定するだけのもんはないけどな」
やはり証拠の品というのは、あの日記帳のことだったのか。
萌絵のあの手紙を思い出す。彼女は、その日記の記述を裏付けるために、橘リキヤに近付いたのだ。そして、何かしらの証拠を見つけた。しかし、彼女は殺されてしまった……。
そこまで考えて、私は顔を上げた。
「やっぱり、橘先生が萌絵を殺した犯人やったんと違う?」
「橘は、何が何でもあの日記帳が欲しかったやろう。そして、萌絵の口を塞ごうと考えたとしても、不思議ではない」
庄吉が腕を組んで答える。私は尋ねた。
「で、真尋の件はどうなるの?」
「再捜査することになりそうやな。さっき、そんな話を上から聞いたで」
「そう」
真尋が亡くなってすぐに捜査が行われていれば、萌絵も橘先生も亡くならなくて済んだかもしれない。私は、やりきれない気持ちで目を閉じた。
その時、聴取を終えた田川が戻ってきた。
「ほんなら、またな」
庄吉が軽く手を挙げ、建物の奥へと消えて行く。
「待っててくれたんか? ほんまに、巻き込んでもうてゴメンな」
田川に謝られ、井頭が無言のまま立ち上がった。私も慌てて立ち上がる。
「かまいませんよ。私も気になってたんで」
「そう言ってくれると、気が楽になるわ。――お、すっかり遅くなってもうたな。2人とも、家まで送るわ」
時間を見ると、もう午前12時を回っていた。




