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命のかぎり  作者: 深月咲楽
2/7

第1章

(1)


「ほんまにもう、絶対納得でけへんわ」

 私の相方、藤倉深雪ふじくらみゆきが、悪態をつきながら煙草に火を付ける。

「たしかに、本命はナイトさんやって言われてたしねえ」

 私は頷きながら、彼女の隣の椅子に座った。畳が敷かれた10畳の楽屋。

 受賞式の会場となったイワタゴールデンシアターは、私達が所属する岩田事務所が持つ劇場のひとつだ。

 ここには、個人用の楽屋の他、A、B、Cと名付けられた3つの大きな楽屋がある。私達が今いる楽屋Aは女性用、畳敷きの12畳の楽屋Bとタイル張りの18畳の楽屋Cが男性用として使われていた。

「うちらかって、一応、有力候補の1組やってんで」

 深雪は、そう言いながら煙草を灰皿に置くと、化粧台の上に置かれていた今朝のスポーツ紙を手にした。

「ほら、ここ、見てみ」

 彼女が指差した記事には、今日の関西若手芸人大賞の解説が載せられており、有力な候補として3組が紹介されていた。

「ナイトメア、パッションフルーツ、涼之介すずのすけ、ってね。ほら、3番目やけど、私らの名前も載せられてるやろ? 紹介文かって付けてくれてはんねんで」

 彼女はそう言うと、そのスポーツ紙を投げてよこした。

「どれどれ」

 受け取って、記事に目を通す。

『涼之介。平成10年4月結成。岩田事務所所属。元モデルでボケ担当の藤倉深雪と、国立P大学文学部卒業の頭脳派ツッコミ、新田彩香の美人漫才コンビ。幼馴染みという関係が生み出す、息の合った話術が高い評価を得ており、女性にも人気がある』

 私は顔を上げた。

「美人漫才コンビやって。えらいいいこと書いてくれてはるやん」

「せやろ? まあ、美人っていうのは、彩香やなくて私のことやろうけどね」

 若かりし頃、モデルをやっていた深雪は、私の方を見ながら笑った。

「まあ、それはそうやろうね」

 170cm近くある身長に、長い手足。顔は小さく色白で、パッチリした二重の瞳、ぽってりして艶やかな唇。彼女のルックスが、私達コンビの人気の一端を担っていることはたしかだ。

「イヤやなあ、冗談やって。彩香みたいな、こう、ガッチリした体型が好きって人も、中にはいてはるで。その純日本人って感じの、一重の眠たそうな目かって……」

「もうええわ」

 聞いているだけで気が滅入りそうだ。私は片手を上げて、深雪の言葉を止めた。

「そうや。萌絵の話してたんやったわ」

 深雪はスポーツ紙を指差した。

「ほら、その記事のどこにも、萌絵が有力やなんて書かれてへんやんか。ナイトさんかパッションさんやったら、先輩やし、人気もあるし、受賞しはったって納得できるわ。せやけど、萌絵やなんて、ちょっとなあ」

「そう?」

 私は手にしていたスポーツ紙を畳むと、化粧台の上に置いた。足元に置いておいたトートの中から、化粧ポーチを取り出す。

「やっぱり、あの噂、ほんまやったんちゃうかと思って」

 深雪の声が少し低くなった。

「噂って?」

 油取り紙を額に押し付けながら尋ねる。

「ほら、橘先生とのアレや」

「ああ、ホテルから出て来たとかいうやつね」

 私は、使い終わった油取り紙をゴミ箱に捨て、コンパクトを手にした。

 橘リキヤは、関西演芸界でも相当なキャリアを持つ放送作家だ。関西で開催される全ての賞に関わり、彼の一声で受賞者が決まると言われるほど、大きな影響力を持っていた。

「身体で落としたんちゃうかって、先輩らもみんな言うてはったで。萌絵、オッパイ大きいもんなあ」

「そんなわけないやろ? 相方の真尋まひろがあんなことになってから、萌絵、ひとりで必死に頑張ってたやん」

 パフで小鼻の辺りを押さえつつ、私は深雪の方を見た。

 杉下萌絵は、元々、漫才コンビでボケを担当していた。コンビ名はアフロディテ。しかし、1年半ほど前、相方の矢吹真尋やぶきまひろが自殺し、以来、ピン芸人として活動していたのだ。

「たしかに、頑張ってたんは認めるで。せやけど、ピンになってまだ1年半やんか。そら、レポーターみたいなんさせれば上手かったけど、芸の方はそないでもなかったんちゃう?」

 深雪はどうにもおさまらない様子で、乱暴に髪の毛をといている。

「せやけど、この間の単独ライブ、めっちゃおもろかったで。実力でとった賞やわ。身体でなんて、滅多なこと言うんやないの」

 私の言葉に、深雪は鼻の穴を広げて私の方を見た。

「なんや、彩香、知らんのん? 萌絵が産婦人科から出てくるとこ、見た人がいてるねんで」

「どういうこと?」

「赤ちゃん、堕ろしたんちゃうかって話やわ。実際、あの子、撮影の合間にトイレに駆け込んだりしてたらしいし。橘先生の子供、妊娠でもしとったんちゃう? で、それをネタに、賞をもらえるように脅した」

 思わず手が止まる。

「まさか。萌絵に限って、あり得へんわ。体調悪い時なんて誰にでもあることやろ? 産婦人科かって、誰かのお見舞いやったかもしれへんし」

「そらまあ、彩香は、萌絵と寮で一緒やったわけやし、彼女の肩持つのんはわかるけど」

 深雪は不服そうに口を尖らせた。

 うちの事務所には寮がある。地下鉄御堂筋線まで徒歩3分、隣がコンビニという最高の立地条件にもかかわらず、家賃はタダ。必要なのは光熱費のみという、夢のような住まいだ。にもかかわらず、実際にここに住む人間は、ほとんどいなかった。

 築40年、トイレは共同、風呂はなし、おまけに設備の関係でエアコンが付けられないとあっては、その理由もわかるというものだ。

 しかし、私のように、実家からの仕送りが望めない人間にとっては、家賃ゼロほどありがたい条件はなかった。私は、この寮にデビュー以来4年ほど住み続けた。そして、私より2年遅れてデビューした杉下萌絵も、1年ほどこの寮に住んでいた。

 その当時は、よく一緒に銭湯に行き、ご飯を作り合ったりしたものだった。あの頃は、お金はまったくなかったけど、夢があった。なんて、かなりクサイことを思ってしまったりして。

「とにかく、萌絵はそんなことができる子ちゃうから。変な噂、広めんといたってよ」

 そう言ったとき、背後のドアがノックされた。

「お疲れ様です」

 顔を出したのは、その杉下萌絵だった。深雪が、しまったというような顔をして、彼女に背を向ける。楽屋のドアは薄く、中での話はたいてい外に漏れている。声の大きい芸人同士の会話となれば、なおさらだ。

「おめでとう、萌絵。よかったね」

 萌絵の心中を気遣いつつ、私は彼女に微笑みかけた。

「ありがとうございます。ほんま、彩香さんのお陰です」

 萌絵は何も聞いていなかったかのように、いつも通りの笑顔を浮かべて答えた。

 いつの間にこんなに強くなったのだろう。先輩芸人に少し怒られただけで涙ぐんでいたデビュー当時が、嘘のようだ。

「あ、鏡、使うやろ? 私、今終わったし」

 私はそう言って立ち上がった。

 化粧台には2脚しか椅子が置かれていなかった。女性の芸人が少なかった昔は、それで十分間に合ったのだろうが、最近では、順番を譲り合わなければいけない状態になっている。

「いえ、私、すぐ行きますから。花束を置きにきただけなんで」

 萌絵は、花束をテーブルの上に置きながら、私の方を見た。

「彩香さん、今夜のパーティー、出はりますよね?」

「うん、もちろん」

 関西若手芸人大賞の打ち上げパーティーは毎年の恒例行事となっており、ノミネートされた芸人は全員参加させられる。業界の著名人もたくさん訪れるため、呼ばれていない若手芸人が紛れ込んでいることもしばしばあった。いい顔売りになるとでも、思っているのだろう。

「ほんなら、パーティーで」

 萌絵はそう言うと、会釈をして楽屋を出て行った。

「なんやの、あれ。彩香にばっかりお礼言うて。私かって、何やかやと面倒見てやってるやないの」

 深雪が不満気に鼻を鳴らす。

「あんなひどい話しといて、何を言うてんねんな。ひっぱたかれずに済んだだけでも、ありがたいくらいやわ」

 私は、深雪の額を軽く小突いた。


(2)


「あーあ、疲れたなあ」

 マンションに戻り、コートを脱ぐと、私は黒いマッサージチェアに身体を沈めた。何かのクイズ番組に出た時、景品として獲得したものだ。深雪とのジャンケンに勝ち、我が家に置かれることとなった。

 それにしても、世間のいやらしさを、イヤというほど見せつけられたパーティーだった。お開きになるまでの1時間半が、どれだけ長く感じられたことか。

 昨日までは、「おい、お前」とか偉そうに見下していたプロデューサーやディレクター達が、「萌絵ちゃん、萌絵ちゃん」などと、猫なで声を出して彼女の周りに群がっていた。過去、関西若手芸人大賞を受賞した芸人は、例外なく全国区でメジャーになっている。そういう芸人が自分の番組に出ていたとなれば、自分の格が上がるというわけで、獲得に向けみんな必死だ。

「あかんわ、着替えな」

 ブランドもののワンピースが皺になると困る。有力候補として名が上げられていると聞き、奮発して買ったものだ。結局は無駄になってしまったが。

 私は勢いを付けて起き上がった。正面に置かれた姿見が目に入る。

「あーあ」

 そこに映った自分の姿を見て、また溜息がもれた。22歳でデビューして、6年目。そろそろ、何か目に見える結果がほしい。

 無意識のうちに、今回の大賞に期待を抱いていたような気がする。受賞を逃した今になって、ようやく自分の中に秘められていた「野望」に気付くなんて。こんな風だから、いつも2番手3番手に甘んじることになるのだろう。

「身体でとった賞、か」

 パーティー会場のあちこちで、そう囁く声が聞こえてきた。今回、ノミネートされていた芸人達の周りでは、特にその噂が流れていたようだ。萌絵が子供を堕ろしたという話も、既に出回っているらしい。

 このところ、萌絵はよくテレビ番組に出演していた。言われてみれば、そのほとんどが、橘リキヤの関わる番組だった。深雪の前では否定して見せたが、最近の彼女の様子を見ている限り、あるいはその噂も……という気になってしまう。

 同じ女として、いや、同じ芸人として、それは絶対にやってはいけないことだと思う。芸人である以上、実力以外のもので仕事を得ることは、芸への冒涜ぼうとくに他ならない。

 それにしても、萌絵は何をそんなに焦っているのだろうか。18歳でデビューして4年、まだ22歳の若さだというのに。

 今回、最有力候補と目されていたナイトメアは、私や萌絵と同じ岩田事務所に所属している。ボケ役の田川恭博たがわやすひろは30歳、ツッコミ役の井頭修いがしらおさむは31歳。キャリアはもう12年になる。「若手」と名のつくこの賞を得るには、今回がラストチャンスになるかもしれないと言われていた。彼等が怒りをあらわにしていたのも、頷けないことではなかった。

 一方、もう一組の有力候補、パッションフルーツは、岩田事務所のライバルと言われる河合プロに所属している。ボケ役の野本誠也のもとせいやは32歳、ツッコミ役の元田常彦もとだつねひこは31歳。今回ノミネートされた中では、最年長のコンビだ。ただ、彼等の場合、デビューは私達と同じく22歳のため、キャリアはナイトメアより短いことになる。

 岩田事務所と河合プロが、毎年交互に受賞している点を考えると、今年はうちの岩田事務所の番だった。彼等自身、おそらく今年の受賞はないと思っていたのだろう。表面上は、萌絵の受賞を穏やかに受け入れているように見えた。

「にしても、萌絵やったとはねえ。後輩に先を越されてしまった……か」

 私はワンピースのファスナーに手をかけながら、また溜息をついた。


(3)


 翌日、私はイワタ演芸場に向かって走っていた。

「ああ、ドジったわ。1時間の遅刻や」

 息を切らせながら角を曲がると、演芸場が見えてきた。裏口に回り、顔馴染みの警備員、通称「溝口のおっちゃん」に声をかける。

「おっちゃん、おはよう」

「ああ、彩香ちゃん、おはようさん。みんなもう集まってるで」

 溝口のおっちゃんは、廊下の奥に視線を向けて微笑んだ。

「遅刻してもうてん。大寝坊や」

「大寝坊て……おおかた3時やん。おっちゃんなんか、朝8時からここにいてるねんで」

「それ、私が寝た時間やわ」

 私が答えると、彼はその大きな身体を揺すって楽しそうに笑った。私も微笑み返して軽く会釈し、廊下を奥へと進んでいく。

 ここは、うちの事務所が最初に建てた劇場だ。戦後すぐというから、もう築60年ほどになる。10年前にイワタゴールデンシアターが出来てからは、主劇場としての地位を奪われ、現在ではもっぱら若手育成の場として使われていた。

 この週末、私達涼之介は、ナイトメア、杉下萌絵と共に、『ボンバーファイブSHOW』というイベントをやることになっている。今日はその打ち合わせと稽古のため、午後2時に集まる事になっていたのだ。

 大きい楽屋が2つと個人用の楽屋が3つ。今日は、個人用の中で一番大きい楽屋1に集合とのことだった。廊下の一番奥にあるその楽屋に向かっていると、ナイトメアのボケ担当、田川恭博の怒鳴り声が聞こえて来た。

「もういっぺん言ってみろや、このアマ!」

 大急ぎで楽屋1の前に走り、ドアを開ける。

「あ、彩香」

 壁際で不安げに佇んでいた深雪が、私の方に駆け寄って来た。

「どないしたんよ、一体」

 小声で深雪に尋ねる。

「それが、萌絵が田川さんに……」

 深雪が答える前に、萌絵が田川に言い返した。

「せやから、あんたみたいな人とは、一緒に仕事でけへんって言うてんねん。

 あんたやろ? 私が橘先生とホテルから出て来たとか、先生の子供を中絶したとか、わけのわからん噂、流したん」

「俺は見たことを正直に話しただけや。それがどんな噂になっていこうが、俺の知ったこっちゃないわ」

 田川が真っ赤な顔をして言い返すと、萌絵は鼻で笑った。

「私が大賞とったんが、よっぽど気に入らんかったんやね。自分の実力不足を棚に上げて、よう言うわ」

「なんやと、こらあ。お前みたいに、身体で賞とるような汚い女に、そんなこと言われたないわ」

「身体で賞をとった? もういっぺん言うてみいや」

 萌絵が田川に飛びつく。

「ちょっと賞とったくらいで、いい気になっとんなよ、このガキが」

 田川が萌絵の頬を叩いた。高校時代にラグビーをしていたという田川は、ただでさえ力が強い。萌絵はふっ飛び、はずみでテーブルや椅子が倒れた。

「萌絵!」

 急いで彼女の元へ走る。彼女は頬を押さえて座り込んでいた。唇からは血が出ている。

「大丈夫?」

 萌絵に話しかけたが、彼女は何も言わず、田川をにらみ付けていた。

「なんや、その目は」

 こちらに歩み寄る田川を、相方の井頭修が押さえ込む。

「放せや! このアマ、絶対ぶっ殺したる」

「ぶっ殺す? はん、殺せるもんなら、殺してみ」

 萌絵は挑発するように田川に言い放つと、足元に転がっていたバッグを手に取った。

「ふん、やってられへんわ。私、こんなイベント、出えへんから」

「おお、上等じゃ。お前なんか、おらんでもかめへん。今度、俺の前に顔出したら、ほんまにぶっ殺したるからな!」

 叩き付けられる田川の声を無視し、彼女は楽屋から出て行った。


(4)


「ちょっと、萌絵」

 私は彼女の後を追って、楽屋を飛び出した。

「ほら、待ちいや」

 萌絵の肩をつかむと、彼女は立ち止まった。

「一体、何があったん……」

 彼女の前に回り込み、思わず口をつぐむ。彼女の目からは、ポロポロと大粒の涙がこぼれていた。こんなに悲しそうな顔をする萌絵を、私はそれまで見たことがなかった。

「ちょっと、こっちおいで」

 私は、一番近くにあった楽屋3のドアを開けた。元々は個人用の楽屋のひとつだったのだが、現在では女性用の楽屋として使われている。ここには、私物が置けるよう、ロッカーが配備されていた。

「ほらほら、座って」

 私は、手近な椅子に萌絵を座らせると、自分が使っているロッカーに向かった。中からミニ救急箱と新しいマスクを取り出す。

 舞台に立つと、コントやら何やらで小さなケガをすることはしょちゅうある。ちょっとした塗り薬やバンドエイドは必須だ。その上、私は喉が弱いので、ホコリっぽい所や乾燥している所に行く時などは、マスクも手放せないアイテムのひとつになっている。

 ロッカーの扉を閉め、萌絵の元に戻った。彼女の向かい側に椅子を置く。座って、膝の上に救急箱とマスクを載せた。

「彩香さん、すみません」

 萌絵が鼻をすすって、私の方を見る。私は黙って微笑むと、テーブルの上に置かれた箱ティッシュから数枚取り出し、そのティッシュで彼女の目元を拭った。

「ひどい顔になってるで。そんな顔して街を歩いたら、ファンの子達、びっくりするわ」

 私はティッシュを丸めてゴミ箱に放り投げ、救急箱のふたを開けた。中から塗り薬とバンドエイドの箱を取り出す。

 塗り薬のキャップをはずし、右手の小指に少しだけ押し出すと、彼女の口元の傷口にそっと塗った。一番小さいバンドエイドを選び、傷口を隠すように貼る。

「はい、これでよし、と」

「ありがとうございます」

 私の言葉に、彼女はそっと微笑んだ。

「今日、田川さん、荒れはるでしょうね」

「そら、そうやわ。アンタにめちゃめちゃ言われたから」

 萌絵はそっとバンドエイドに触れると、うつむいた。

「彩香さん、今日はヒマですか?」

「うん。打ち合わせが終わったら、もう用事はないけど」

「そうですか」

 彼女は頷いて、顔を上げた。

「今夜はずっと、田川さんに付き合ってあげて下さいね。あの人、絡み酒やから、みんな途中で帰ってしまうでしょ?」

「そんなん、萌絵が謝って、付き合ってあげたらええやんか」

 不思議に思って、彼女の顔を見る。

「私は無理です。謝ろうと思っても、その前に殺されそうやし」

「たしかにね」

 真っ赤になって叫んでいた田川の姿を思い出す。

「私、あんな噂を流されて、カッとなってしまったんです。恥ずかしいことしてしまって」

 萌絵が小さく溜息をついた。

「今日は無理かもしれへんけど、近いうちに謝っておきや。1人で謝り辛かったら、一緒に行ってあげるし」

「ありがとうございます」

 私の言葉に頷くと、萌絵は立ち上がった。

「あ、ちょっと待って。これ」

 急いでマスクを渡す。彼女は不思議そうに私の顔を見た。

「その傷、見られんように、これしてお帰り」

「彩香さん……」

 萌絵は泣き出しそうな顔で無理矢理微笑みを作ると、マスクを受け取った。

「ほんまに……ほんまに、ありがとうございました」

 そう言って、私に向かって深々とお辞儀をする。そして、何かを振り切るように私に背を向け、楽屋から出て行った。

 ――それが、私が見た生きている萌絵の、最後の姿だった。

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