083.無風
その色素の薄い髪が揺れる様も、
その空色の瞳が静かに微笑む様も、
その綺麗な形をした指がそっと髪の隙間を流れていく様ですら、
彼の姿は、なにひとつとして変わってはいなかった。
「こんな場所で会うとは……奇遇です。お久しぶりですね、お元気そうでなによりです」
決められていた台本の通りにするかのように、ハルリオは胸に手を当てて前回と同じように会釈する。
まるで不思議とそこだけ現実感が剥ぎ取られてしまったように、夢のように映る。
セルピが呆然と目を瞬いていると――彼は首を傾げてみせた。
「……おや、人違いでしたか?」
彼女は慌てて肩を飛び上がらせる。
「あ、ううんっ、ハルさん久しぶりだねっ!」
なんとか笑顔を作るのに成功したようだ、怪しまれてはいないようだった。
ハルリオは小さく微笑んでみせる。
ただ、セルピの心は依然湧き建ったままだ。
胸の内を様々な想いが去来する。
――奴はクイールのたった一人の相棒だよ
リエナの言葉が脳裏を駆けた。
港町レムゾンジーナを襲った悲劇の夜。
全てが夢のように焼け落ちた夏の夜。
その日に、孤高の銀髪鬼と呼ばれた青年と共にいた剣士が目の前にいるのだ。
もし、彼があの夜のことを目の当たりにしているのなら――事情を話せば力になってくれるのではないか。
彼の剣術はセルピも知っている。きっと素晴らしい戦力になってくれるのだろう。
しかし――、セルピは思う。
果たしてこの男は、共に戦うことに承諾してくれるのだろうか……。
優しい空のような微笑みは、何故だか時折とてつもなく冷たく感じることがある。
物静かで穏やかなはずなのに。それなのに。
なにか――なにかが、欠けている。
あれこれ考えているうちに、またハルリオが口を開いた。
「ところで、スイやピュラさんたちはどうしました?」
心臓が鷲づかみにされたように高鳴る。
どう答えていいのかわからない。
本当の答えを話せば、事情を話すことと同じになるだろう。
だが嘘をついたら――その嘘を突き通すためにまた嘘を重ねて――すぐにこの空色の瞳に見抜かれてしまうようにも思える。
「えっと……」
あるはずもないのに答えを求めて辺りに視線をやる。
しかし次の瞬間、そんな彼女にふっと影が被さった。
……テスタだった。
「はじめまして、テスタ・アルヴです」
セルピの斜め前に立ったテスタが、握手を求めるように右手を差し出す。
「おや、セルピさんの連れの方ですか」
ハルリオは幾分改まった様子でその手を握った。
テスタは、その視線を動かさぬまま続ける。
「ちょっと事情があってね、今スイさんたちのところに彼女を届けるところなんだ」
「ああ、そうでしたか。スイたちも元気にしていますか?」
同性でも見とれるようなやわらかな笑顔。
「うん、みんな元気だよっ」
きっとそれだけは確かなことだと信じて、セルピはそう言った。
弾んだような声に、ハルリオはくすくすと口の中で笑い声を転がす。
「それはなによりです」
「ハルさんは、これからどこに行くの?」
会話を終わらせたくなくて、セルピはなんとか言葉を繋いだ。
このまま別れてしまったら、もう一生会えないような、そんな気がしていた。
「ええ、そうですね。もうじき冬ですし、近くの港町で南への船にでも乗ろうと思っています」
セルピは喉のところまで出掛かった言葉を未だに形に出来ないまま……。
彼の素性はきっとテスタも知っているのだろう。
ハルリオ・イム・クザナンハ、孤高の銀髪鬼クイールから最も近いところにいた人間。
そうして、歴史の影に消えるように去った、名を知る者すら少ない剣士……。
彼を仲間につけたいと思っているのなら、テスタはきっと何か行動にでているだろう。
しかし灰色の瞳は黙ったまま動かずに――、
「この辺りも騒がしくなってきましたしね」
ふっ、と体の中を冷たいものが落ちていくのを感じた。
「え…………?」
聞き返すと、彼はいつもの微笑みを。
「セルピさんも気をつけてくださいね、私もどうも最近何者かに追われているようで――」
否、監視されているというのが正しいですか、とハルリオは加える。
「全く、物騒な世の中です。もっと穏やかな生活は望めませんでしょうかね」
苦笑の表情になって、僅かに首を傾げてみせた。
本来なら彼は、ただ椅子に座って会話をしているだけで良い、そんな人生が送れるというのに。
彼はこうして――旅をしているのだ。
何故だろう。
理由は……、自分と、同じなのだろうか?
それなら、彼も、また。
世界を、こんなによどんでしまった世界を動かしたいと思っているのではないか――。
そして、彼は気付いているのだ、この辺りでなにかが動き始めたということを。
彼を最近になって追うものが何者であるかは別として、もし、彼がその『動き』の正体を認識したのなら……。
同じ、貴族として。
同じ、貴族と道を違えた者として。
戦ってくれるのでは、ないだろうか……。
「それでは、どうぞお元気で良い旅を」
言葉に、はっとして顔をあげた。
やはり彼の顔は変わらない。
このままやりすごしてしまった方がいいのだと、心が叫ぶ。彼を仲間にする為に全てを話してしまうなど、賭けとしては危険すぎる。
しかし、たったひとり、貴族の重荷を背負って戦っているよりは……。
ただ、仲間が欲しかった。
同じ感情を共有できる仲間が、欲しかった。
彼がこちらに背を向ける。足を踏み出す、一歩、二歩――、
風が止む。
息が止まる。
いけない。
黙ってなくてはいけない。
自分の我侭の為に、他人を巻き込むなど。
しかし、それでも少女は……。
「ハルさん!!」
森の木々を抜けて、声は散った。
どこまでも空気を震わせていく音。
体が熱いのだか冷たいのだか分からない。
「ハル、さん……」
もう一度、その名を呼んだ。
空の色がまた、こちらを向く。
喉のつかえを無理にとるように、言っていた。
「ボクたちに、力を貸してください…………」
拳を握り締める。その顔を見上げる。
ただ、穏やかにあるままの顔を。
「……ボクたちは」
ちらっとテスタに視線をやる。しかし何も動じていないのに気付くと、そのまま続けた。
「ボクたちは、レムゾンジーナに行くんだ。そこに、スイも――、ううん、みんながいるよ」
そこで切って、ハルリオの次の言葉を待つ。瞳は片時も逸らさずに……。
ゆっくりと、やはり静かな声が放たれた。
「レムゾンジーナ、ですか…………」
ふっと視線を虚空にやって沈黙する。
その先に見ているのはあの過去の情景か――。
「あのね、そこで」
「この世のシステムを変えようというのですか」
既に察したようだった。
セルピは僅かに伏せていた瞳をもう一度彼に向ける。
しかしハルリオは、同じように穏やかに続けていた。
「それは大それたことですね」
「ハルさんは……、ハルさんは、この世界を変えたくない?」
祈るように問う。
願うように問う。
その小さな体で、出来うる限りの感情を――。
「その答えを――」
ふっと彼がもう一度先ほどと同じ方向に視線を向けたのに、セルピは首をかしげた。
そうだ、先ほど彼は虚空を眺めたのではない。
――彼は。
「その答えをあなたのほかに聞きたいという人がいるでしょう――出てきたらどうですか?」
視線に鋭さが混じった。
不意に垣間見える、どこまでも冷たく冴え渡った彼の顔。くるくると移ろう白と黒……。
「あ……」
セルピの喉の奥から小さな声が漏れる。
――ざっ…………
「やはりあなたでしたか、お久しぶりですリエナさん」
「……相変わらずの鼻の良さだね、つくづく腹が立つよ」
短く雑に切った巻き毛が踊る、すらりとした女性。
「ですが、最初に私の監視についた人は違う方でしたね」
「ああ、私もついさっき交代したばかりだ。貧乏くじを押し付けられてね」
セルピも知っている、ヘイズルの右腕――リエナが、そこに立っていた。
ハルリオは驚きもせずに手を胸にあてていつもの礼をする。
「あ、リエナさん」
ぽそっとテスタが呟くのに、リエナは視線だけを彼によこした。
「テスタ・アルヴ。何故あなたがここにいるのかは知らないけれど、子供のお守りくらいできないのかい? 勝手に色々と喋らせないでほしいのだけれど」
「うーん、でもリエナさんがすぐそばにいるって石が教えてくれてたし」
のん気に首からさげた巾着をもてあそびながら、テスタは首を傾げる。
リエナは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、また視線をハルリオに戻した。
「ハルリオ。なんでこの娘があなたを誘ったのかは知らないけれど、――ヘイズルがあなたを呼んでいる、これは事実だ」
「おや、懐かしい名前ですね。そうですか、ヘイズルも生きていましたか……」
過去の知り合いの姿を思い出しているのか、ハルリオがふっと遠い目をする。
そんな姿をリエナは厳しい表情で見つめていた。声にもどこか棘がある。
「彼が今、私たちを導いている。あなたと違って私たちは目標を持って生きてきた。そして、やっと行動に移せることになったんだ。だが、それには――、」
「私の力が欲しいと」
「ヘイズルがそう言っているだけだ。私はあなたと手を組むなんて、二度と御免こうむりたいのだけどね」
だけれど――、とリエナはその強い瞳を剥く。彼女を形成するすべての感情が隠されることなく現された、その瞳で……。
「それで成功するなら、いとわない。どんなことをしたって構わない、私は――やりとげなければならないんだ」
その華奢な腕が、無駄の一つも見当たらない動きで腰の細剣に伸びた。
横にいるセルピが息を呑む。ハルリオはその瞳に何を映しているのか――、
……風は、止んだままだった。
「ハルリオ、一緒に来てもらう。力ずくでも、だ……!」
肌がびりびりと震えるのをセルピは感じた。リエナの放つ殺気が、辺り一面に飛び散っている。
胸の底に溜まった重たいものが、ただひたすら体中を圧迫しているようにも思えた。
もやもやとした頭の中で、それでも必死に目の前を見ようと、言葉を押し出す。
「――リエナさん」
鋭い瞳がこちらを向いた。圧倒されるような、刺すような視線。
しかしそれでも、セルピは首を振ってみせた。歯を食いしばって、胸のところで両手を握り締めて。
そうして、またハルリオと対峙する。
驚くほど整った、一点の乱れもない容姿。
なのにどうして貴族という道から外れたのだろうか。
聞いてみたかった。
自分と同じ歩くべき道から反れた者へと。
やはり彼も、自分と同じような哀しみを味わったのだろうか。
その明るい空の色をした瞳の奥で、何を考えているのだろうか――。
そして、もしも。
もしも、この世界の変化を彼が望んでいて、共に戦ってくれるというのなら。
そのなんと心強いことだろうか――。
「ボクたちに、力を……、力を、貸してください」
体を振り絞るようにして声を紡いだ。
「ボクたちはまだ、あまりにも小さいから」
違う、まだ幼いのは自分だけだ。
一人で戦うことにひどく不安と恐怖を覚える、しかしそれでも自分の足で立っていようと。
「だからハルさんの力が必要なんだ……」
視点は瞳に絞られる。だから、彼がどんな表情をしているのかさえ、セルピには良く分からなかった。
「お願いします」
唇を噛み締めて、頭を下げた。視界一杯に森の色が広がる。
湿った大地、色とりどりの木の葉。大樹の根、苔、全て、全て――。
「こいつには何を言っても無駄だよ」
はっとして顔をあげると、リエナが冷ややかな視線をこちらに向けていた。
「そうだ、こいつには何を言ったって、どうにもならない……!」
噛み締めるように声にする。
「リエナさん……?」
気がつけば、どこか辺りが薄暗くなってきた気がした。
背中を撫でる、ふんわりとした空気。
「セルピさん、あなたは――」
ぽそりとハルリオは呟く。セルピがまた視線を向ける。
三人、それぞれ対峙したまま。時は重く、残酷なまでに静かに流れ続ける。
そうして。
「はい、ストップ」
三人全員が、同じ方向を向いた。
テスタがひとり、巾着を握り締めたまま僅かに微笑んでいた。
「テスタ、勝手に口を出さないでくれるかい。今は……」
「うーん、難しい会話は後にでも出来るよね? 今やるべきことを先にやろうよ」
灰色の瞳を見たセルピは気付いた。そういえば、先ほどよりずっと明暗が暗に傾いている。
空を仰ぐと、――あの青空は何処へやら、雲に覆われているのが木々の合間から確認できた。
「今日はここからあまり動かない方がいいよ。雨も降りそうだし、なによりもう夕暮れだしね。ハルリオさんも、どうせこの分だと一緒に野宿だよね。なら先に野営の準備してから議論した方がいいと思うな、暗くなると面倒だし」
ふんわり微笑んで首をかしげる。
「……どうかな?」
暫く、沈黙が落ちた。
一番に口を開いたのは、ハルリオだった。
「そうですね、それでは一晩、ご一緒させて頂きましょうか」
「うん、ありがとう」
まるで変わらぬ様子でハルリオは一礼する。
セルピはというと、……リエナの元へと駆け寄っていた。
不機嫌かつ訝しげな顔をしている彼女を見上げて、セルピは小声で言う。
「リエナさん。ヘイズルさんからの命令で来たの?」
「ああ、そうだよ。どうにかして奴を説得して連れ帰れなければいけない」
ふっとセルピの瞳が伏せられた。
そうしてまた開いて、彼女を見上げる。
「ならボクが……ボクが、ハルさんを説得するよ」
リエナは更に不機嫌そうな顔になった。
射るような言葉を容赦なくあびせかける。
「あなたに何の義理があるのか知らないけれど、本当にできると思ってる?」
「思ってるよ」
即答に、さすがのリエナも少々拍子抜けしたようだった。
セルピは続けた。
「だから、今日の夜は静かにしていてね。ボクが話してみるから。それでだめだったら――リエナさんの好きにしていいよ」
セルピの真剣な眼差しに――そうして、リエナは結局折れたのだった。




